「ふん。『人』を作り変える、か。秀隆」
恐怖とは、人間を容易に動けなくしてしまう。
両手、両足の指の先に至るまで。どうしようもない震えに支配されて、動けなくなってしまっていた。それは――怖い、助けて欲しい、殺されてしまう、本能が上げる悲鳴に押しつぶされて、心が負けていたから。
「お前、神のような事を言うではないか。たかが人風情が」
ただ立っていた。
秀隆から押し寄せてくる赤と翠の影、その奔流の中に立って尚。まるで川の中の岩の如く、動かないのだ。
その流れを自らが引き裂くが如く。
背筋を伸ばして、胸を張って。けれど、緊張しているようには見えない。片方の腰に置いた手、だらりと下げた手、まるで散歩の途中、どこか遠くの景色を見つめている時の様で。そよ風の中で、のんびり髪を靡かせていても別に違和感のない姿だった。
自然体。いつも通りに見えて、しかしながら……それでも、金剛の如く不壊、真剣なのはその瞳を見ればわかる。秀隆と視線を合わせて、逸らさない、瞳を見れば。
秀隆がどろりとした清い沼ならば。その目は、燃え盛る灼熱地獄の如く、ギラギラと眩しい程輝いている。
そんな目を見た事は無かった……と言えば噓になる。だが、ここまで燃え盛っていたのは信勝とて、始めて見た。自分の中の何かを燃やしているかのような。
体全身が、ぞわり、粟立った。
それは恐怖からではない。今、彼女の全身から溢れ出している彼女の『存在感』に魅せられたから。今までも、姉は当主に相応しい。圧倒的な才覚を秘めている、と思っていたがしかし。
その全貌を見たのは、コレは初めてかもしれなかった。
あらゆるモノに従わず。逆にあらゆる者の目を灼き、彼女以外の輝きなんて見えない程にさせてしまう。魔性の魅力。狂気に駆り立てる程の。
一つ間違えれば、全てを破滅させてしまう様な。
今、それが――人を『魅せる』信長の姿が秀隆の影の恐怖から、信勝を解き放った。
「人風情とは――思っても居ない事を」
「貴様だけだ。俺が言うのはな」
「おやおや手厳しい。何ともまぁ、手厳しい事で」
姉には。信長には――秀隆の背負うモノが見えているのだろう。赤いあの影が。到底敵わないと思わされた、あの影が。自分に見えて、姉にアレが見えていない訳が無い――それでも、一歩、前に踏み出した。
一歩どころではない。さらに、二歩、三歩と。
睨み返しながら、更なる数歩を踏み出して見せたのだ。
その姿は、あんまりにも揺らがなかった。あんまりにも頼もしかった。そして、あんまりにも偉大だった。
「人に苦しみを残した紳仏と一緒にしてほしくは無いですなぁ。私は、その更に先へと至る。古き支配者の残した『宿題』を、私が片付けるのですよ」
「だとしても」
秀隆は。とんでもないモノを背負ってここに立っている。
信長は。背負ったソレを見つめても尚、まるで怯まない。
「それは『人』が己で成し遂げる事。お前一人で魅せるものではないぞ、秀隆」
一瞬、靡く髪が、赤に染まった気がした。
自分に纏わりつく赤とも違う、しかしながら決して負けない程の赤。
赤い髪がきらりと煌めいたその一瞬。その姿に――ダブる、像が見えた。それは、嘗て秀隆が自分に届けたあの絵のそのままに。
腰よりも伸びた赤い髪。
全身を覆う鎧には織田家の家紋、織田木瓜。
我が身を頂点と疑わず、不敵に笑うその姿。
ただの一大名等と。誰が彼女を見て思うだろうか。
それは、この渾沌とした、戦乱の天下を総べるに足る、大いなる『魔王』の姿だった。
「――くかかかかかっ!!」
秀隆は――より一層、笑った。
「成程、やはり貴女だ! 私が越えねばならぬのは! 人の進化を『敢えて』阻むのは貴女ぐらいしか考えられない! 我が姉、織田信長!」
「やかましい。良いから黙って見ておれ。お前がそんな必死にならずとも、待っておればそれなりにはなるわ。人も」
「それではあまりにも遅すぎると言っているのですよォ、姉上ェ!」
今の姉を見て。いったい誰がそんな『挑戦的』に笑えるのか。それほどの威風を纏う姉に対し。しかし秀隆はまるで退かない。寧ろ、向こうもさらに一歩を踏み出しそうな程に昂っている。
今、この場で。対等に張り合っているのは――二人だけだ。あの間に一体、他の誰が割り込めるだろうか。
歯ぎしりを一つ。
悔しかった。
自分はここで立っているしかない。秀隆の目の前に立ってやることも出来なければ、姉の傍にいる事だって出来ない。たった二人の大切な姉弟が向き合っているというのに。誰よりも自分はあそこにいなければならないのに。
自分は何も出来ず、ただ後ろから見つめる傍観者でいる事しか出来ない。信じられない位に今、信勝は無力で。そんな自分を、今こそ、無能と何度も何度も罵りたかった。
だけど。
「そんな事をしている暇なんて……ないだろ」
自分は確かに無能だ。だけど……せめて、少しは真面な無能でありたかった。ここで何もせずただ嘆いているなら、自分は呪う程に嫌いなあの本物の無能共と同じ、生きている事も許されない糞に成り下がる。それだけは、それだけは、御免だった。
せめて姉の迷惑にならない様に。足を引っ張る無能と共に沈むことを考えた。弟が苦しくない様に、彼が苦しむ原因を全て、取り除いてやろうと思った。大切な二人を思って行動した分、自分はあいつらよりもほんの少しだけ、真面だ。
そうありたかった。信勝にとってそうできた事は、せめてもの『誇り』だった。だからここで……それに泥を塗る様な真似だけはしたくなかった。
「っ!!」
渦のように、様々な感情が一つへと集約されていく。
そしてその思いが、遂に信勝の足を動かした。一歩踏み出して……後ろへと走る。今の弟と真正面から向き合えるのが姉だけならば、その邪魔をさせない事が、自分のやるべき事だろう、と。
咄嗟だった。
自分と同じように、全く動けていなかった勝家の元へと駆け寄った。
「――権六っ!!」
「あ……ぁ、のぶ、かつさま」
「しっかりしろ! 兵の指揮は僕がする! お前は、お前は姉上を守れ!!」
声にもならない、絶叫になりそうな思いを、必死に言葉に変えた。
あの間に踏み込めない事が余りにも無念で。それでも、何もしない事だけは出来なかったから。自分で出来ないなら。彼は、最後の可能性に賭けた。
今、この場で、最も強い者を、最も『強い』者の護衛につけるのは、自分の考えうる限りの最適解だと思ったから。
だから、非力なこの腕で、兜の上からでも、勝家の頬を張った。
「――行け!」
「……ははぁっ!」
一瞬の事だった。
呆けていたのか、吞まれていたのか。何れにしても、動きを止めていた勝家は、その 咤に応えて、地面を蹴った。岩肌がその一蹴りでひび割れる程の踏み込み。そしてそれが生む轟音と震えが、他の兵士たちの目を覚ます。
しかし、彼らが慌てて槍を構えるその前に、既に勝家は信長と秀隆の間に入り込み、己を盾にしながら、引き抜いた大太刀を正眼にて構える。
「秀隆様……!」
「様は要らん。私は敵だぞ、柴田勝家殿」
「……いえ、敢えて、秀隆様、と!」
「全く真面目な事。良いだろう。好きに呼べ!」
鬼柴田。最早こうして覚悟を決めた彼が目の前に立ったのだから、そう容易くは突破もされまい。取り敢えず、一息。
その背を見て――信勝は、一瞬、信長が笑ったように見えた。
だが、それも一瞬の事。
「勘十郎め、余計な真似を――良い……良いぞ、信勝!」
「は、はいっ!」
「この『戦』より目を逸らすな! そこに居ろ! どうせ死ぬつもりなのなら、死ぬ気で目に焼き付けてから冥府に行け!」
びりびりと、肌に挿す様な大声は、信勝の下っ腹にまで響いてくる。
姉が大きく笑ったりする声は聞いた事がある。だけど……ここまで、大きな声を出されたのは初めての事で。思わず、体が硬直してしまう。
けれど。まだやれる事があるなら。
「は、はいっ!」
応えた。
決して目を逸らさぬと決めた。姉がそこまで言うのだから。
目を逸らすつもりも元から無いけれど。だってこれは、もう元から勝ち戦だ。確かに秀隆も、あの後ろに立つ影も、きっと普通ではない。
だけど。
『姉上なら、何とかしてくれる』
そんな根拠も何もないような思い。
秀隆も。あの後ろの影もきっと何とかしてくれて――きっと、何もかもが上手くいく幸福な結末に導いてくれる、という信頼がある。
だって、姉上が本気なのだから。
あの日、僕に柿を取ってくれたように。
失敗なんてありえない。するすると上って、勝ちをもぎ取って投げてくれる。姉上は凄いのだから――
「――姉上、何を申すのです。戦う等と。やめませぬか?」
そう、思っていた。
「何?」
「私は戦うつもり等ございません。ただ、分かって欲しいだけだというのに」
姉上がこれ以上無きまで気炎を上げている。
勝家が真剣に自らの敵を見据えている。
明確に、今、秀隆は、二つの『敵』を目の前にしている。そして彼自身も、昂っているのは分かりやすい。だというのに。
秀隆に、未だ……敵意というものは見えない。
「……今更喧嘩したくない、等と言っている訳ではないだろうな」
「当然。今更も何も、ずっと申しているではありませんか。『ご招待』したい、と」
「戦いたい相手にする言葉ではないな、確かに」
「当然です。私は、姉上達と『協力』する為に、こうしてここに居るのですから」
秀隆は両手を広げ。
突きつけられた大太刀も、勝家も、信長も、受け入れてやる、とでも言いたげにしている。その姿勢に、姉は初めて、その眉をひそめた。
「……何?」
「我が力は誠に世界を変えるだけの力があり……そして、姉上にご協力いただくのに十分値するものだと。それを示すために招待したのです。だって、姉弟仲良く、世界を変えられたら、それが一番宜しいでしょうに」
「理想ばかり語りおって、そんなもの」
「その理想を押し通すための、この力ですよ……!!」
信勝には、信じられなかった。目の前の光景が。
赤い影が、更に肥大化する。
そして、翠の光が更に溢れる。否、押し寄せてくる。
赤い影は最早、山の如く。洞窟にいっぱいに、とかそういう話ではない。もはやこの洞窟からはみ出す勢いで。
翠の光は、既に大河の如き勢いでこちらに押し寄せて、飲み込まれそうだ。
そして――漸く分かった。翠の光はあの赤い影だけから来ている訳ではない。その更に後ろから。秀隆の後ろに、何かが。その源が、ある。
ぼう、と浮かび上がる。それは――
「……曼荼羅、図だと?」
「ご明察。しかし姉上、コレはただの曼荼羅図にあらず!」
異形、異形、異形、何処をとっても異形――!
「これこそ外世界の法則。宇宙を満たすゲッター線! その業を我が筆にて顕した『
「ゲッター曼荼羅だと……!?」
御仏の姿は一切なし。
中心に座すのは、目の前の赤い影にも似た鬼の如き異形が一つ。そしてそれを取り囲むのも、赤、白、黄色の異形ばかり。中心から伸びた翠に彩られ。黄金の六角に縁どられたそれは――確かに、仏教の世界を表す『曼荼羅図』に相違なく。
しかし奇抜、奇異なのは見た目だけではなく。人一人の背丈を容易に越す程の大きさもそうだろう。越す、どころか、人二人、否三人は肩車をしないと、上まで届くまい。
その大きさで、しかしながら雑な仕事をしている部分は何処にも見えない。この距離でも異形の目から、指先、あふれ出す緑の光や、それぞれの『界』までが、緻密に描かれているのが分かる。
これだけの大きさで、これだけの細かい書き込みを行うとなれば、一体何年かかるというのか。
「……これ、お前が描いたのか」
「おや良くお分かりで。流石兄上。私の『最高傑作』です。故に……少しばかり、元気過ぎるのが難点ですが」
この巨大な一枚絵が、秀隆の作品だとすぐさま分かったのは。幾度となく彼の作品を見ていた信勝だからこそか。
しかし。あまりの巨大さ。そしてその絵全体から発せられる圧力。
美しいと思えるほどの色鮮やかな絵だというのに。これを『凄い』とは素直に思えなかった。恐怖とも、悍ましさとも取れる『畏怖』。今、信勝の胸の中で渦巻く感情はまさにそれだ。
凄まじい圧力の絵画。細かく、装飾の一つ一つまで描き切られた何体もの異形が皆、此方を見ている気がした。たかが絵だというのに、此方が睨まれているような気がした。
そして、巨大な絵画から溢れだす、翠の光の濃さたるや。
洞窟内に満ちていた光は、全てアレが由来だったのか。それほどに、あふれ出す光は強く、多く、そして何処までも伸びていく。
まるで、あの絵そのものが門の様だ。
あの翠の光を導くための、巨大な門のようにも見える。
「言ったでしょう。準備は整ったと。この『ゲッター曼荼羅図』こそ我が最高傑作にして世界を変える楔――我がゲッター線は今までにない高まりを見せております」
「それがお前の可笑しな力の源のようだな。であればそれを焼くなり割くなりすれば、俺の勝ちか」
「出来れば、ですがね……お見せしましょう。ゲッター線の力。そして、その力が本当に『人を作り変える』に相応しい事を。我が身は、外なる機怪からの力を受けた『
その目の前で笑う秀隆に。
底というモノは、まるで見えない。
あの日姉がのぼった柿の木……今それは、深い深い大峡谷の底に、生えているとでもいうのだろうか。
曼荼羅図
赤い影。
そして秀隆。
三つの輝きが一つへと渦を巻き、更に大きな光へと変わる。更に肥大化する。更に濃さを増していく。ぐにゃりと、景色が歪んでいく。
翡翠の輝きに満ちた異界より更に変わりゆく、異様な光景の中、秀隆は高らかに告げた。
「さぁ存分に! お試しください! ゲッターの力というモノを!」
けっこうノリノリで書き上げた分『コイツ何言ってんだ……?』という部分が多くて虚無る。でも楽しかった。
という事でまた書き溜めます。それでは。また何れ。