土田御前に連れ出されてから。喜六郎は、漸く人並みに外をうろつけるようになるまで回復した……と、言う訳でもなかった。確かに、外を歩けるようにはなった。が、一人で歩き回れるかとなれば話が変わってくる。
何せ、土田御前の一喝、鶴の一声で漸く引き戻されたのだ。彼女の影響が彼に与えたものは大きく、彼女が居なければ落ち着かない。暴れる事こそなくなっただけで、一人の時は常日頃からびくびくと怯えた様に震え、俯いてばかりいるばかり。
常日頃から、大名の妻たる彼女が喜六郎の傍に居られる訳もなく。しかし乳母が彼女の代わりになるかと言えば、そうもいかなかった。
母がいないときに外に出たいかと言えば、まだまだそうでもない。
結果として、憑き物の噂は消えたというのに全く部屋から出てこない喜六郎が出来上がり。今度は家中の者に、外に全く出てこない、引きこもりの軟弱者の烙印を押されかねないような有様であった。
「喜六郎様、御前様にまた叱られてしまいますよ」
乳母にそう言われ、何とか人として最低限の事をする位で。
彼のそんな状態が改善されたのは……もう一度喜六郎の前に、土田御前が姿を見せた時だった。
「何を怯えているのです?」
彼女は、部屋の中の喜六郎を見てそう言った。
前と同じ言葉を、今度は問いかけとして。こんなに良いお天気で、庭は緑青々と、何も問題ない美しい景色ではないか。何をそんなに怖がることがある、と。
喜六郎は……母の言葉に対して、何とか答えようとしたが、出来なかった。聞かれている事を、どうにも言葉に出来なかった。どんな言葉にしても、何かが違ったのだ。
しかし、それでも必死になって何かを言おうとした喜六郎だったが、それは土田御前の溜息によって遮られてしまった。
怒らせてしまったか。そう思って機嫌を伺うように視線を向けた喜六郎に、もう一度溜息が返って来た。
「そのような卑屈な態度をするものではありません。貴方は私と殿の子なのですよ。もっとしゃんとなさい……とはいえ、そう容易くはいきませんか」
少し考える仕草をした後、御前はこう口にした。
「――紙と筆、それと墨を持って来させなさい」
それは普通では出来ないやり方だった。彼女が大名家として贅沢を知っていたからこそ思いついたやり方だった。
乳母に頼まれた一式を持って来させた後、彼女は先ず紙を喜六郎の前に置いたのである。何気ない事のように。
「描いてみなさい。何を恐れているのか」
取り敢えず。土田御前は、自分の子が何を恐れているのか、知るところから始めた。
それも、当事者に描かせる、という到底普通ではないやり方で。文字が書けないなら絵で描かせればいいと思ったのか。それとも言葉をつらつら言われても分かりにくいから絵で描かせた方が分かりやすいと思ったのか。
兎も角、普通にややこをあやしたり、不安を取り除くやり方では、到底ない。
喜六郎からしてみれば、筆の使い方も何も分からないのに、いきなりそれらを出されても、戸惑うばかりだ。描け、と言われても何をすればいいのか。
「ほら、喜六郎さま、こうやって……墨を、筆に付けて……」
「……」
「紙の上に、筆を、走らせるのですよ」
しかし、それを見かねた乳母が、紙と墨がどういうモノかを、実際に使って見せた。
白い紙の端を、ちょっとだけさっと黒で染めて……その時である。どうやって使うかを理解した時、彼の中で、何かがガキリと噛み合った。
「……!」
「きゃっ……!?」
彼は、目の前の乳母が差し出したその手に飛びつくと、筆をふんだくって目の前に向き直り……そのまま、白い紙に向かって振り下ろした。
筆の力加減など、こんな幼い少年が知っている筈もないというのに、紙が破れる事もなく、彼は物凄い疾さで、その白い紙の上に筆を走らせる。
頭の中に焼き付いた、あの景色を描く為に。
目をつぶっても、開いていても。何時だってあの巨大な怪物を見ていた
血よりもさらに鮮烈な赤、空に走る巨大な傷、無機質で相手を威圧する瞳。
彼に絵の心得は無かった。だが余りにも強烈で、何時でも鮮烈なその景色を。手が、書き上げようと、伝えようと、物凄い力で勝手に動かされている様で。
「まぁ!」
「ほぅ……随分と、上手に描けるものですね」
――終わった時、喜六郎の息は疲れによって、少し荒くなっていた。
そうして出来上がった一枚の絵、墨だけで書かれた白黒の一枚は、天に現れた一文字の裂け目、そしてそこから覗く、二本の角持つ想像を絶する巨躯の異形が、自分を見つめているその様子を、見事に描き上げていた。
気が付けば、その裂け目の向こうに居るソレに飲み込まれてしまいそうな……染みついた記憶をそのままに写し取ったつもりだが。しかしながら、目の前に居る母も、乳母も。その絵に多少驚いてはいるようだが、自分が思って居る感情からは程遠い。
それが分かったから、必死になって、彼は自分が見た物を母親にも伝えようと、それを手に取って大きく広げて見せる。
どれだけアレが『おおきな』物なのか。
どれだけアレが『とんでもない』物なのか。
しばし、土田御前はその絵を眺めて……もう一度、喜六郎に目を向けてきた。
「コレが怖いのですか?」
そう問われ、喜六郎は……再び、少し考えた。
先ほどは、何が怖いのか、と問われ。口に出す事が出来なかったが……絵に描いて、コレが怖いのかと問われて。その時は彼の中で、言葉に出来なかったそれに、一つの形が与えられたのである。
「……コレ、怖い?」
言葉にした時、喜六郎は、ふと自分の体から力が抜ける気がした。強張っていた体が緩んだのを、彼はそうとは知らず、感じ取っていた。
分からない物を見て、分からない感情に振り回されていた。それに、土田御前の言葉で一つの『形』を付けた事で、分からない色々な物は取り敢えず、自分の中で一つの形になった。それ故に、彼は半分ほど、平静を取り戻した。
「大丈夫ですよ。この様な物、何処にもいません」
「で、でも……」
「もしこやつが現れても、私が居ます。怖がることがありますか?」
「……」
そして、もう一つの方は彼女の母としての言葉が、包み込む様にしてくれた。
確かに、自分だけなら、『怖い』のかもしれない。だけど、母が一緒に居てくれるならどうだろう。彼は一度想像して……自分で、首を振った。
「だい、じょうぶ」
少し、震えながら。
怖くない。とは言い切れなかったが……しかし。それでも。大分マシだと思ったから。そして何よりも。子供として、母親が言った言葉には、根拠のない信頼を覚えていたから。我慢できる、と口にしたのだ。怖がっている態度も、隠せもしないで。
そんな様子を見てなのか。震えながら紡がれた言葉を聞いてなのか……それとも。
土田御前は、彼が描き上げたその絵をもう一度だけちらと見つめた後、改めて喜六郎を見つめて口を開いた。
「……もし、私が傍に居ない時。どうしようもないと思ったら……これを、描いてなさい」
「これ?」
彼女はそっと、喜六郎が描き上げた絵を指でなぞる様にして、示した。
「そうです。自分が楽しいと思った事を、好きに描きなさい。怖い事を考えずに、楽しい事を考えるのです。こんなに絵が上手いのですから、描かないのも勿体ない」
――それが。
単なる思い付きから出た言葉だったのか。それとも、本当に我が子を思っての言葉だったのかは定かではない。だが、いずれにせよ。喜六郎と言う男の人生に『絵』という物が組み込まれたのは、この時に間違いない。
ゲッペラー陛下を直で見たら間違いなく虚無る。