狂ったように、とは一切の比喩でもなく。その日から、土田御前のいない日は何枚もの紙を贅沢に使い、喜六郎は墨を紙に走らせ続けた。描くものは実に他愛の無いものが多い。
例えば、庭で青々と茂る木や、乳母が仕事をする姿。本当に自分の日常のそれを、彼は取り敢えず描き続けた。
母が言った通り。怖い時は絵に只管に打ち込んだ。別に、絵で売れようとかそう言う事ではなく。子供が口寂しい時に指をしゃぶる様に。一種、自分の心の平穏を保つための行動であった。
実際、絵に打ち込んでいれば、怖い想像をする事もない。理由が些かと歪んでいたのは間違いないが、しかし彼は母に勧められた『絵』という物に、急速にのめり込んでいった。
「お上手ですねぇ」
「そうでしょう? こんなにもお上手なのですから、高名な絵師様にも弟子入りできるんじゃないかと思うの」
「芸事の道に進まれるのかしら……」
そうして描いた数は、腕に比例する。描いて描いて描いて、その腕は既に家中ではちょっとした噂になる程にまで成長していたのである。
――災厄の如き出来事から、彼は何とか持ち直しつつあった。
が、喜六郎はそれだけを素直に喜んでもらえるような立場ではない。彼は大名の子であるのだ。絵を描く事を通して、漸く自分自身を立て直したとしても、しかしながらそれ以上の事……お家を盛り立てる、血族としての役割を求められる。
三男とはいえ、それは変わらない。
「……」
「き、喜六郎様! いい加減、集中を」
「ごめんなさい、後で」
しかしながら。逆に言えば彼は絵に没頭し過ぎた。漸く守り役を付けられたというのにその教育にも全く我関せずで、ずっと絵画ばかりに没頭するばかり。守り役が青い顔をしているのにもお構いなく。
ある意味、当然と言えば当然だ。心の安寧を保つために必死になって取り組んだ。上手くなりたい、等も思わず。脇目もふらずに。
守り役が口を閉じてしまったのは、きっとその姿を見たからであろうか。コレが下手な絵を描いているばかりであるならば、直ぐにでも辞めさせたかもしれないが。人の間で噂になる程の物を、簡単に潰して良いのか、とも思ったのか。
いずれにせよ、喜六郎の絵を誰も阻む事は出来ず。そうして暫しの時が過ぎたころ。
そんなある日の事であった。
「喜六郎様、今日は少し、お話がございます」
守り役がそう言った時も、彼はずっと絵に打ち込んでいた。
べたりと地面に座って描いていたのが、最近は両膝を揃え、前のめりになる様な姿勢で描いている。そうした方が集中できると気が付いてからは、自分からそうするようになっていた。こうなってしまえば、全く彼は誰かに対して反応する事も無かった。
「……あの」
「……」
「御前様からの、お達し、なのですけれども……」
「――母上から?」
しかし、その名前が出たなら話は別だった。
喜六郎にとって母は何よりも優先する存在である。誰がその名前を出しても、直ぐに反応する程には、彼にとって土田御前は大きな存在である。
自然と言えば自然な事だった。彼が立ち直ったのは、母の言葉が切っ掛けであり、絵という物を教えたのも、母であった
幼い少年にとって、普通以上に、母と言う存在は大きかった。
「どんな?」
「お引き合わせたい方が、いる、との事で……」
「会わせたい……うん。分かった」
そんな母から、誰かに会わせたい、等と言われるのは初めての事だった。とはいえ、彼には母の言葉に逆らう、と言う発想は存在しない。母上が言うのであれば、と何も考えずに頷いた。
「どこに行けばいいの」
「私がご案内しますので、ついて来ていただければ」
「分かった。お願い」
――何時もは、進んで部屋から出たりもしない。
否、正確に言えば何処か、部屋以外を目的地にした事は無い。どんなものを絵に描くかを考えて歩き回るくらいで。最後には部屋に戻ってくる事が殆どだ。
でも、母からの呼び出しと言うだけで、その繰り返しを容易く破る位には、そしてまるで興味も持っていない相手についていく事だって普通にした。
寧ろ、足取りは軽い位だった。自分の部屋から離れて、行った事も無い様な場所にまで案内されても、全く何も怖かったり、警戒したりもしない。
そうして辿り着いた戸の前。
守り役が膝をついて、頭を下げて。
「御前様。喜六郎様をお連れしました」
『ご苦労でした。では下がりなさい。後は私達だけで話をします』
「承知しました……」
そして去っていくのを眺めながら、彼は一体誰が中にいるのだろう、と想像していた。彼は、中にいる人物に興味がある訳ではない。ただ、中に居る人物を絵に描いたら、どんな感じになるだろう。それくらいの事は考えて。
取り敢えず、入りなさいと声をかけられて……そっと障子に手をかけて、横に引いた。
先ず、目に入ったのは部屋の奥に座して、自分を待っていたであろう母の姿。凛とした表情も何時ものままだ、と駆け寄ろうとして。その傍らにいるもう一人の姿に、足を止めた。
「喜六郎、先ずは其処に座りなさい」
そう言われ、自分の少し前の辺りを指さされて。彼は足を畳んで、膝をついて座った。
その間も、彼は母親の傍らにいる一人の少年を見つめていた。
自らと同じ。紅い瞳をしていると思った。自分とよく似た顔立ちをしているとも思った。だがそれ以上に……なんだか、より母と似ている気がした。
「……あの、母上。その、人は」
「勘十郎」
喜六郎の問いかけにも答えず、彼女は遮るように、その少年の名を呼んだ
「この子は喜六郎。貴方の弟です。これから兄弟として、当主となる貴方を良く支える事でしょう……喜六郎、挨拶をなさい」
弟。兄弟。そう言われ、その相手が何者かを喜六郎は漸く理解した。彼は……自分の血縁なのだ。兄なのだ、と。
自分に兄がいる、と言う事は、乳母から聞かされていた。しかしながらこうして実際に顔を合わせるのは、初めての事だった。自分と似ているのもそうだが、何よりも母とここ迄似ているというのに驚いた。
「き、喜六郎、です」
どのような顔をすればいいのかも分からなくて。取り敢えず、言われるがままに頭を下げて挨拶をした。やり方もまともに知らず、それでも乳母や、守り役がやっていたのを必死に思い出しながら。必然、自信なんて無いその仕草に比例するように、吐き出す声も小さくなってしまう。
何だか、とても居心地が悪い。彼自身、上手に挨拶が出来たとは思わなかったからか。それとも、初めて会った兄に、気後れしていたのか。
「あ……えっと……よ、宜しく、頼む」
そんな兄から帰って来たのは……意外にも、自分と似たような。いや、もしやすれば自分よりもちょっとだけ小さいかも知れない、そんな声だった。
え、と思って顔を上げたのは、兄の顔を伺おうとしたからだが、しかしそれより先に割り込んで来たのは、やはり母の言葉であった。
「――兄弟とはいえ、顔を合わせるのは初めて。やはり気後れもしますね。喜六郎」
「は、はいっ!」
「暫しここを空けます。二人で話しなさい」
え、と。二度も同じような感想を抱き、そんな子供からすればとんでもない暴挙に出た母に待ったという間もなく……なんと、本当に勘十郎と、喜六郎を置いて、土田御前はその部屋を後にしたのである。
喜六郎としては困った所の騒ぎではない。全く知らない、初めて会った兄の前に放置だ。しかも二人で話せ、と言い残されている。彼としては、母の言いつけを破ろうという気持ちには土台なれず、結果として。
「……」
どうすればいいのか。途方に暮れるしかない。
そもそも、喜六郎は物心ついてからというもの、他人と自ら話した経験などロクにない。強いて言うなら乳母との会話がそれに当たるだろうか、しかしそんなもの何の参考にもならないのは、流石に幼い喜六郎でも分かる。
彼は、ゆっくりと後ろを振り向いた。そこに居る兄の顔が、なんだか険しいものに見えてしまって……どうしても、顔をそむけざるを得なかった。
趣味に熱中した後、その成果が台無しになった時の虚無感は異常