――さて。
ここで連れられていた喜六郎が、ふと気が付く。勘十郎に引っ張られるままに動いていたのだが、しかしながら描いて欲しいと言われても、一体誰を描けというのだろう。
連れていかれてば分かる事……的な事など一切考えず、取り敢えず疑問に思ってしまったのだから口に出した。
「えっと、兄上……その、誰を描けばいいのでしょうか」
「姉上だ!」
「……あねうえ?」
姉上、と言われ。喜六郎は首を傾げた。
兄が居るのは、聞いた事があった。だが……姉が居る、と言うのは一切まるで聞いた事が無かった。少なくとも喜六郎の記憶内では、だが。
知っていて当然、と言わんばかりの勘十郎に対し、正直首を傾げざるを得ない喜六郎。そんな喜六郎を見て、今度は勘十郎が首をかしげて来た。
「そうだよ。姉上だよ」
「えっと、その」
「なんだよ……もしかして知らないのか。姉上の事を」
「は、はい。姉上、って?」
「ホントに……嘘だろ? 姉上だぞ?」
次に飛んで来たのは信じられない、という声色の返事だった。しかしそう言われても全く知らないし分からないし想像出来ない。勘十郎が知っていて当然、寧ろなぜ知らない、そんな風に言われても。
喜六郎としては全くもって、本当にその『姉上』というのが誰なのか、いやとんと分からないのである。
「あの、あの、本当にごめんなさい……でも、本当に知らなくて……」
「全く、お前は僕の弟なんだろ? なんで姉上の事を知らないんだよ……よーし、良く分かった。なら姉上の所に行く前に、姉上の事を教えてやる」
ちょっと不機嫌そうになった兄に対し、喜六郎は縮こまるしかない。こういう時はどうすれば良いんだろう、と思ったその直後。
「――良いか、姉上はな、凄い人なんだ」
……たった一言。そう言われた。
喜六郎は、次の言葉を待った。流石に子供ながらにそれだけでは終わらないだろう、という想像が働いた。だが……一向に次は飛んでこない。
今度は喜六郎が首を傾げる。喜六郎がその人の事を知るための、具体的な情報が一切ないのである。まさかの感想そのものを、とんでもない剛速球で叩きつけられた形だ。そりゃあ困惑も極限に至るだろう。
「……えっと?」
「だから! 姉上は僕よりも凄い人なんだ! 恰好良くて! お綺麗で。それでいてだな」
「あ、あの……名前とかは」
そこで差し込まれた一言に、勘十郎の動きが止まる。
一拍。二拍。三拍……勘十郎は、視線を改めて、此方に向けて来た。
「……き、吉法師だ。姉上のお名前は、吉法師というんだ」
「吉法師、さん。ですか」
流石に勘十郎も、些か以上にすっ飛んだ言い方をしてしまったのを理解したのだろう。誰かを紹介するのに、先ずは名前を言わない、というのは子供ですらやらない。
と言うか喜六郎も、その人の性格や何やら言われても、どうしようもない。先ずは名前を聞かせて欲しいと思うのは至極当然の事で。寧ろ、先ず名前ぐらいからじゃないと、子供の脳では整理も利かない。
と言う事で、先ずはその名前を脳と口で反芻する。吉法師、吉法師と。しかしそうしてみてもやはり、喜六郎にとっては全く聞いた事が無い名前である事に変わりはない。
「やっぱり、聞いた事がない、です」
「誰からもか?」
「は、はい」
少し首を捻り……一つ、勘十郎はため息を吐いた。
「嘘ついてないよな」
「ないです」
「んー、可笑しいな。僕の事は聞かせてある、って言ってたのに母上……」
そうして首を捻る勘十郎を前に、喜六郎は少し、その吉法師という存在に思考を傾けた。
勘十郎は、凄い人なんだ。と言っていた。喜六郎はあまり人と会った事はない。凄い人というか、自分が憧れている人……そういった類の人。喜六郎に想像出来たのは、たった一人だけだ。
母。土田御前。彼女の様な人なのだろうか、と考えてみる。
自分に対して甘やかす姿を見せない土田御前。凛とした表情がきれいな母。そして自分を救う事に何の労苦すらかけなかった凄い人。
女の人であるのは、姉上、と言う言葉でわかる。土田御前の子。自分の事を褒めてくれた兄が自分よりももっと凄いという人。やはり母の如く、完璧な人なのだろうか。
そう想像してみると。
「……凄い人なんですね」
「――そうだぞ! 姉上は凄い人なんだ!」
結論として、勘十郎と全く同じ結論に至ったのは……何と最早、一種の落語のオチのようですらあるのだが。
――梢が音を立てて、そこにぱたぱたと足音が混ざる。
既に二人は家を出て、喜六郎は物珍しそうに周りを見渡している。
それもその筈で、彼は外に出た事が無かった。箱入り、と言うよりは本来外に出ても不思議じゃない時期に、アレに遭遇したからか……兎も角、初めての経験だ。
「(きれいだ)」
そんな彼にとって、家の外に連れ出された事、と言うのは正に青天の霹靂であった。
彼の世界は、あくまで母と一緒に過ごした、あの大名屋敷の中だけだ。しかしその限られた範囲の中でも、今までの彼にとってはなに不自由ない『広い』世界であった。
だが、一度外に出てみたらどうだろう。
屋敷のように壁も無く。風は自由に行きかい、頬を撫でて。遠くから聞いた事の無い音が聞こえてくる。外の世界は実に、実に分かりやすく『広大』。目を丸くするばかり。
木々から洩れる日の光が、斑に道を照らす光と影の連続がそれだけで絵の様で。少し遠くに見える川の煌めきの反射が、一瞬自分の目を焼く程に強く、そして美しい。
今まで、絵に没頭していたのは、母から言われた言葉に従って、というのが当然ある。だがしかし、題材を選んでいなかったかと言えばそうではない。自分が描きたい、と思ったものを描いてきた。
こうして外に出て見るものは、どれも『描きたい』と喜六郎に想わせるものばかりだ。
「……きれい」
「そらそら、この先だ! 姉上は今日、河原で遊ぶって言ってた!」
こうして連れ出された事が、結果として喜六郎には大きな贈り物であり。いつの間にか彼が本来連れてこられた意味、理由と言うのを忘れてしまう程で……それを思い出すきっかけとなったのは、勘十郎が、足を止めた事だった。
「ついた!」
「ついた、って」
「ほら、あそこにいるだろ! 姉上~!」
そこは、先程迄見ていた小川の傍だった。
照り返す光と共に、耳に届く涼やかなせせらぎが、喜六郎の耳に届き……そこに、混ざる可笑しな音が聞こえた。
――……ごごぉぉおお……ぐぅぅう……
「……姉上?」
「?」
「ね、寝てる……」
喜六郎も、ちょっと度肝を抜かれたような勘十郎の見ていた先を見つめる。そこに……確かに一人、その人物は寝っ転がっていた。
喜六郎は、先ず目を丸くした。地面に寝っ転がる、なんて発想そのものが無かった。寝る時は布団で、少なくとも家の中で……と言うのが、今までの喜六郎の中の常識だったのだがしかし。その人物は……地面の上で、寝っ転がっているだけではなく、普通に眠っていた。
「ちょっと待ってろ……姉上、姉上、起きてくださいよ」
「……んん、なんじゃ爺……もうちょっとくらい良いではないか……」
「平手じゃありません。姉上、勘十郎です」
「んあー……」
近寄った勘十郎にゆすられる少女は、どうにも少女には見えない恰好をしている。なんだったら、家中でも全く見た事の無い恰好をしている。喜六郎は『軽そうな恰好』だと思った。物理的に。
……アレが姉上か。
先ず喜六郎としては『凄い人だ』と言う感想を抱かざるを得なかった。ああして地面に寝っ転がる、と言う事が発想の外、全く未知の行為と言う事で。
それの是非ではなく『当然の如く地面に寝っ転がっている』と言うその姿、自分との発想の違いに『凄さ』を感じていた。
「……なんだ、勘十郎か」
「姉上、おはようございます。良くお眠りでしたね」
「ったくぅ……無理に起こしてナ~お前……」
暫し揺すられてから、少女は体を起こす。そして……ちらと此方に視線を流した。
――その眼に、喜六郎は熱を見た。
母や兄とよく似た顔。そして、同じような紅い、紅い瞳だった。だが……既視感を覚える事は無かった。
その二つとは明確に違う何かを喜六郎は見たからだ。その瞳の奥に。
目に映る川の輝きすら軽く突き抜ける程に……揺らぎ、逆巻き、立ち上っていた。燃え上がるのは、焔。誰かが触れてしまえば、きっとあっと言う間に燃えてなくなってしまうだろうと、思った。
では、今こうして見ている喜六郎は、どうなのだろうか。その焔を、恐れるのか。それとも。その答えは……
「……なんだソイツ」
「弟です! 僕が連れて来ました! 姉上の御尊顔を絵にしようかと!!! さぁ喜六郎! お前の腕を姉上にお披露目するんだ!」
――見惚れる。それに尽きた。
その焔は、あの空に見た輝きとは明らかに違う。しかし、しかしながら。それと同じくらいに喜六郎を惹きつけて止まない。
ああではその瞳の焔も、あの天上の奥に潜む紅い巨人の如く。人を圧し、そして心を狂わせるものであろうか。それとも。
「――おいってば!」
「……あ。えっと、は、はい」
……引き戻されたのは、兄の声によってだった。気が付けば、目の前で勘十郎が此方を軽く睨んでいるのに気が付いた。そして、自分が見ていた彼女……吉法師も、怪訝な顔で此方を見ている。
「なにボーっとしてるんだよ。姉上を描くんだろ」
早く描け、と言わんばかりの勘十郎にそう言われ、漸く自分が大分ぼーっとしていた事に気が付いて、ハッとした。
兄の言葉に、自分がどうしてここに連れてこられたのかを思い出した。しかしながら……思い出しても喜六郎は、その言葉に首を振らざるを得なかった。
「……ごめんなさい兄上」
「なんだよ! 描くって言ったじゃないか!」
「あの……紙も、筆も、ないです」
自分が何を描くにしても。急に連れ出された所為で描く道具も、何もない状態である。
一体それで何を、どうやって描けというのか。それを問われた勘十郎は……一度、二度と目をぱちくりとさせた後、それを早く言え、と天に向けて吠えた。
喜六郎は、そんな事を言う暇もない程に、自分は色々と、いっぱいいっぱいだったのだ。と思った。
「……なんだこれ」
ノッブの『聞こえていない』表現するのが難しすぎて虚無る。