「ほーん、絵を、なぁ」
「はい。先ほどはちょっと興奮し過ぎて……すみません、姉上」
「あの、兄上は一体どうなされたんでしょう」
「あやつがなんか興奮しとるのは何時もの事だ。まあいい、そこまで言うのであれば、一つ見せてみろ」
「あの、ですから紙も筆も無いんです。姉上……様」
「……そうだったな」
河原の大きな石の上に、どっしりと腰を下ろして此方を見据える吉法師。そしてその傍らに立ってはしゃぐ勘十郎。それは喜六郎からみても、とってもしっくりくるというか。収まりが非常に良かった、と言う風に見える。
このまま二人も普通に描きたい、と思うが。けど勘十郎には『姉上の絵を描け』と言われているのでそのままやらないと怒られるかもしれない、とか考えたりである……それは兎も角として。
「仕方ないな……勘十郎!」
「は、はい?」
「お前が紙と筆とってこい」
「えっ、あ、はいっ! 行ってまいります!」
結局、自分の失態は、自分で拭う事になった勘十郎が駆けていくのを見送ってから……改めて、吉法師に向けて、喜六郎は向き直った。
「えっと……姉上、様」
「様は要らん。姉上で良い」
「分かりました。姉上」
「そっちは、喜六郎、だったか。はっ、姉弟此処まで母上に似ているとは、愉快よな」
改めてみる吉法師は、不思議な少女だった。
喜六郎からしてみても、女子にも見え……そして同時に、男子にも見える。今まで見た事の無い人物。恐らく、勘十郎が彼を『兄上』と呼んでいたならば、喜六郎がそれを決して疑う事は無かっただろうと思われる。
そして、今。吉法師は、此方を見て一つニヤリと笑っていた。
「しかし、そうか。お前がそうか」
「……?」
「くくっ、なに。平手の爺から一応は聞いていたのよ。奇怪な何かに取り憑かれた弟が居たとな。見舞いの一つに行かぬのかと言われたが……すまんな、行かんかった」
カラカラと笑う吉法師に、喜六郎は少し頭を傾げた。謝られている意味が分からなかったのであるが……そんな喜六郎に、今度は笑っていた吉法師がその笑みを潜め、代わって怪訝な顔を浮かべた。
「あー。なんだ、もしや小さいから分からんかったか? よーするに、お前に割と酷い事をしたんだよ」
「酷い……いや、そんなことは」
喜六郎は、改めてもう一度首を傾げる。
母に助けられるまでの自分が『悪い子』であったのは、喜六郎とて分かる事である。それを恐れて皆来なくなった。それが自分のあの時の願いで、外敵を排除する為に必死だった。もし吉法師が来ていようと何をしようと追い出そうと必死になっていた筈である。
そうなれば困っていたのは吉法師の方だ。だから寧ろ、来なくて良かった。というのは喜六郎だって分かっていた。
「そもそも姉上を蹴ったりもしてたかもしれませんし。それに、姉上が来た、来ないは……多分、あの時、どうでも良かったので」
「はっきりと言うなぁオイ」
「嘘言ってもしかたないので」
「まぁそりゃあそうか」
故に、酷い事なんてしてない、とだけ言ったつもりだったが。しかしそれに対し、吉法師は面白い、と笑ってから。お前の話を聞かせてみろ、とも吉法師は言った。
喜六郎は……取り合えず自分の言葉で、話した。取り敢えず、空の傷の事は、きっと誰も信じてくれないであろう、と伏せはしたが。それ以外は凡そ、今こうして吉法師の前に立つまでの出来事を。話した。それを聞いて、吉法師はまた笑った。
「はっはっはっ、なんだそりゃあ。母上も、とんだ事を言う。しかもそれを真に受けて、お前も絵を阿呆な程描いたと来た。冗談だとしても質が悪い! 愉快ではないか!」
しかし、それは馬鹿にしている笑い方では無い。
喜六郎も釣られて笑いそうになる。そんな屈託のない笑顔だった。
「だが良いな。そのタガの外れ方は、嫌いではない。褒めてやろう」
「ありがとう、ございます?」
「うむうむ、俺が褒めるなんぞそう無いからなぁ。ありがたがれ、大層!」
勘十郎は、吉法師と言う人物を兎も角褒めて、良し人物と持ち上げていた。凄い人だと言っていた。それが本当かどうかは、喜六郎には分からなかった。
今も凄いかどうかは分からないが……少なくとも、勘十郎があんなに嬉しそうに姉の事を語る理由は分かった気がした。
きっとこの人は、
「ふむ。ここまで来るとお前の絵にも興味が湧いて来た。勘十郎の奴が戻ってくるのが待ち遠しいなぁ――」
「姉上ぇえええええっ!!!!」
「……馬鹿みたいな大声張り上げるんじゃねぇ!?」
少なくとも、兄には心底好かれて居るなぁ、とも思った。
「紙、筆、それと墨と硯……板! これだけあれば大丈夫だろ!」
「この板どこから持ってきた」
「適当な所です!」
「おおそうか」
河原の荒れた地面では描きにくいだろう、という細やかな気遣いによってもってきた結構な大きさの板の上。喜六郎は履物を脱いで……何時も通り、墨に筆を付けて、紙に向き直った。
何時もは、気に入らなければ丸めて捨てる、と言う贅沢をしている喜六郎だが……今回は不思議と、そんな事にはならない気がした。
改めて、吉法師を見る。
此方を興味深そうに見つめる彼女の真っ赤な瞳を改めて見つめ直し。先ほどの事を思い出す。その中に宿る紅を。なんだか、こうして見たままを描くだけではつまらない気がしていた。故に。
喜六郎は、初めて、絵を描く前に。目を閉じて描きたい物を思い浮かべたのだ。
焔と吉法師。意志の強い瞳。不敵な笑み。自らの肌を舐める焔すら、なにするものぞと堂々と、寧ろ戯れる様に……
「――!」
筆を入れる。
先ず、吉法師から。
前提として、喜六郎は服など描かなかった。わざわざその下を見ずとも、裸身は勝手に頭に思い浮かんだ。堂々と立つ、だけではなく。踊るが如くに両の手をくねらせ、そのしなやかな指先まで。
後ろに括った髪を解き、そのいと長い黒糸が、何処までもさらりとなびく様に。流すように。外に出て感じた風を想い、そこに乗るが如く。波打ちもすれば、真っすぐに伸びもする。
髪を揺らすはしかし、ただの風じゃない。それは、焔の熱を纏った烈風。天まで立ち上らんと燃え上がる焔を、吉法師の体を舐めるが如く、這わせ、付かせ、纏わせて……
自らの体より生じた熱を、吉法師は愛でているのだ。
――奇しくも上下に広げられた手、片足で立つ恰好は、まるで天に舞う如来像の如く。
「――ほう?」
「ちょっ!? まって!? おまえっ、なんて、なんてものを……うわ、す、すごっ」
完成したそれは……一種の裸婦画、と呼ばれる類のものに仕上がっていた。喜六郎は意識して描いたつもりもなかったが……
しかし、そこに艶やかさは無く。寧ろ、巻き上がる焔の中で、不敵に笑いながらその熱を愛でる姿には、一種迫力すら感じられた。
描き上げた時……喜六郎は、久しぶりに少しふらっと、頭が揺れた気がした。それ程までに集中して描いていたのだろう。そして、手が、ちょっと汗ばんでいても居た。
それ程までに集中して描いていた。
それ故に、喜六郎にとって……今まで描いてきた絵のどれよりも、会心の出来だった。物凄い頑張って『良い物が描けた』と喜六郎自身、頷けるような出来の絵だった。
「俺を、こう描くか。くくく、随分と傾いたものよなぁ! なんだこりゃあ、素っ裸ではないか!」
「あ、あの姉上、その、えっと……」
「――どう、でしょう」
一体どうすればいいのか、と右往左往する勘十郎を取り敢えず置いておいて。喜六郎は真っすぐ、吉法師に向けて問うた。
「気に入ったわ!」
面と向かってそう言われた時。
喜六郎は、ほんの微かに、拳を握りしめた。それは……腹の底から湧いてきた、達成感によって。
「喜六郎、この絵は俺が貰う。構わんな?」
「あ、はい……えっと、でも、それは兄上に、描いてくれ、と言われた物なので……兄上に訊いて下されば」
「あー、そう言えばそんな話だったな。勘十郎、これ俺が貰って良いか?」
「へ? あ、はい……」
「良し、良いんだな! うははははっ! いい拾い物をした!」
しかし……それ故に気になってしまうのが、勘十郎の態度だ。先ほど褒めてくれた時とは違ってどうにも煮え切らない様子だ。喜六郎は、兄も諸手を上げて褒めてくれる、とばかり喜六郎は思っていた。
「……あの」
「なんだよ、今、姉上と話してるんだから」
「その……気に入りませんでしたか。コレ」
故に少しばかり、気分落ち込んでしまって。ついそう問いかけてしまう。
だが。気に入らないか、という問いに対し。勘十郎は、ゔ、というなんとも言えない唸り声を上げてピタリと止まってしまった。
吉法師は一瞬怪訝な顔を浮かべた後、何か思いついたような顔になって、明らかに邪悪と呼べるような笑顔を浮かべて勘十郎を見ている。
「可愛い弟が困っているぞ? 答えてやったらどうだ?」
「会ったばかりで可愛いも何も無いですよ! いや、でも……その」
何をやっているんだろう、と喜六郎が思っていると。しばし吉法師と此方で視線を行ったり来たりとさせた後、勘十郎は獣かと聞き間違う様な唸り声をもう一度上げて……大きくため息を吐いて……
「……出来自体に不満は無いよ! 上手いと思う! 本当に!」
「!」
――そう、勘十郎が口にした時。思わず、少しぴょんと跳ねてしまった。
気に入らなかったのだろうか、と不安に思っていたのは間違いない。褒めてもらった後のあの不審な態度だ。その不安も、より大きなものだ。それが一転。上手いとしっかりと言って貰えたのだ。
文字通り見た通り、子供の如く喜んでしまう。我慢なんてしない。全力で喜びを体で表現していた。
「……」
「別に俺の真っ裸くらいどうってこともねぇだろうに」
「どうって事無い事無いですよ!?」
良い日だ。
とても良い日だ。
絵を褒めて貰った。兄と姉を得た。
幼き日の喜六郎は、ただ無邪気に、この良き日に喜んでいるばかりだった。
そもそも姉上が『聞かない』モードだと話が展開できないのでその辺りをどうするか悩んで虚無る。