成長
「――ふっ!」
裂帛の気合と共に振られた木刀は、その勢いでは信じられぬ程にピタリと静止した。
綺麗な弧を描く木刀の軌道は、良く言えば基本に忠実、悪く言えば型通りである。遊びと言う物が感じられないその動きは、普通であれば見向きもされないただの武芸の練習風景なのだが。
それが元服も迎えていない、少年の動きとなれば、話は違ってくる。
「ふぅ……」
手拭いで汗をぬぐう少年……喜六郎は、幼き日の少年らしい体格から、その歳にしてはしっかりとしていると言われる程度のそれへと移り変わっていた。もう若武者と表現しても何も問題無い程に。
「……全く、今日もまぁ、びかびかと……はぁ」
天を見上げ、苦々しい表情を浮かべるその仕草も、可愛らしい、と言うよりは凛々しいという評価をする方がしっくりとくる位だ。
それは、彼が剣をこうして振るう理由でもあった。少年ながら、普通よりも早く体がしっかりと出来て来た彼に対し、守り役からの『武』の修練が仕込まれるのも早かった。
では、彼がそれに良く取り組んだか……それは、今現状が示している。
与えられた木刀を、型通りに振れるくらいには、彼は剣の腕を上げている。守り役の言う事を素直に聞いて。
幼き日の彼の所業からは、考えられぬことだったが……それは、喜六郎が自ら心を入れ替えた、と言う訳でもなかった。
「精が出るな喜六郎」
「――兄上。おはようございます」
「調子良さそうだな」
「えぇ。最近は特に。修練にも身が入るという物です」
――きっかけは、彼の目の前を通りかかった彼よりも些かと細い少年……兄、勘十郎である。
喜六郎にとって、兄と姉は尊敬し、そして言葉を聞くに値する相手だ。幼い頃の出会いより、母、兄、姉の三人の言葉を彼は真っ先に良く聞くようになったのだが……
『なにっ!? 今日は姉上の絵が描けない!?』
『は、はい……ごめんなさい……どうしても、今日は勉強に集中してもらう、って……』
絵ばかり描いていたのが災いしたとある一件が、勘十郎を動かしたのである。喜六郎がきちんと学びに手を出す様に心を入れ替えさせる為に。
勘十郎は、単純明快にそのままでは満足に絵も描けなくなる、と先ずは喜六郎を諭した。理屈も何も説明されなくても、絵が描けなくなるというのは、喜六郎にとっては大変に辛い事だ。
そこから、漸く喜六郎は自ら学ぶきっかけを得た……しかしそれだけではなく。ここで、乳母がもう一つ、手を打った。
『多くの学びを得て、将来勘十郎様をお支え出来れば、きっと勘十郎様、御前様もお喜びになりますよ』
――それからの喜六郎の真面目ぶりは凄まじいものだった。
幼い少年は守り役と初めて真っ向から向き合い、とんでもない貪欲さで知識を吸収していった。当然、兄や姉と会う時の為に、絵をしたためるのも決して辞めない。
その内、絵の腕が家中でも噂になり。正式に絵の師が付けられる程になった頃。彼は、いつの間にか自ら進んで学びを得る様になっていた。
元から、怠惰な性格と言う訳でもない。切欠さえ只管にそれに取り組む様な男だ。描く喜びと同じように、学ぶ喜びを得てからは、早いものだった。
「姉上は?」
「ん、なんか父上と話してる。もう元服も迎えたしって。そんなに時間もかからなそうだから、終わるまでお前と話してようと思ったんだ」
「左様ですか……」
「それよりも。依頼していた絵は出来たんだろうな?」
「あ、はい。それは滞りなく。今、お渡ししましょうか?」
「……いや、良い。また姉上に持っていかれると、ちょっと……寂しいから」
「ふふ、そうですか。そう言って頂けると、腕の振るい甲斐があります」
単純に、学ぶのが楽しい、知識が増えるのが楽しい……と言うだけではなく。絵だけではない、様々な事で兄や姉と話せる。そんな小さな事で、彼は学びへの意欲を育てて、こうして一人の武家の子として、育っていった。
仲を深めながら、絵を見てもらったり、時には共に外ではしゃいだりと、満ち溢れた生活を送っていた。
あの頃から既に幾年か、姉も元服を迎える程に月日は流れた。その間多くを学べば成長しない方が可笑しいという話だ。
「しかし、もう姉上も元服ですか……早いものですね」
「うん。姉上が当主になるのも、きっと直ぐだ」
「そ、それは些か話が早いのでは。父上もまだまだ現役でしょうし」
「いーやいずれ父上も姉上の才覚を理解されて当主の座を譲る。うん、僕には見える」
「流石に元服したばかりの姉上に家督を譲るのは、家中の者に対し説明も利かぬと思うのですが」
……流石に成長して尚、兄の姉好き具合三千世界突破ぶりや、姉の自由人ぶりに関しては全て良しと思えた訳でもなかったが。それでも、そんな部分も含めて二人を愛せるぐらいに仲良くなれたと喜六郎は、勝手に思っている。
そんな兄と、姉の傍に居ながら、その時見た物を気分次第でつらつら描くのが最近の喜六郎の絵の常であった。
兄と姉の傍にいると、色んな所へと連れて行ってもらえる。描きたいと思う物がたくさん見れる……そして描きたいと思えば何枚でも描く。そしてその上で、兄と姉に見て貰えるのである。
「それよりも、だ……仕上がりの方はどうだ?」
「はぁ、兄上の無茶な要求に応えて諸々付け加えましたので……大変でしたよ、お眼鏡に敵う仕上がりに持って行くのは」
「そこは『ちょっと無理でした』って言う所だろー」
「兄上は私に何を望んでるんですか」
「可愛げだ。ったく、弟のくせに生意気だぞ」
「全く……困った兄上をもって幸せ者ですよ、私は」
……些かと兄からの要求が無茶な事もあったが。姉も割とそうではあったが。
兎も角、環境が良かった、と言うのは間違いなく。故に、絵の腕も上達するばかり。一切何も気にせず、順風満帆――
「――ところで」
「はい?」
「母上は、どうだ?」
「……」
――と言うばかりではなく。
姉と兄と共にあるが故、どうにも逃れ得ぬことはある。
姉の人を振り回す性格は、決して万人から好かれる類のものではない。
しかし、特に折り合いが良くないのは……恐らく、哀しき事ではあるのだが。彼等、三姉弟の生みの親であり、喜六郎にとって大恩ある母。
「……大丈夫です。何時か、和をもって成すと思います」
「そうか――うん、分かった」
土田御前である。
こうして、母に呼ばれて自室に向かう度。
己の心のままに動く自由な吉法師と、何方かと言えば武家の倣いを重視する母。その折り合いが悪い方向に流れたのは、一体何時頃からの話だろうか、と喜六郎は回顧する。
幾度回顧しようとも現状が変わる訳でもないが。しかしながら。それでも、と。この事に思考を巡らせず、頭を停止させるよりは全然良いと考えている故に……。
そもそもの話。母から紹介されたのが兄だけであった、という所も可笑しな話ではあったが。その頃は、まだ『幼い勘十郎を贔屓している』程度で。此処まで決定的な不和を生んではいなかったと言える。
「――母上、喜六郎です。入ります」
しかし、ここ最近においては、その限りではない。
「お呼びでしょうか」
「えぇ。最近の調子はどうですか? 武に政、最近は良く学んでいるようですが」
「はい。お二人を支えられるよう、只管に精進する毎日でございます」
先ずもって、今の二人、と言う言葉に少し眉を顰める。喜六郎の言う二人、と言うのを分かっているからこそ、今の発言が気に入らないのだろう。
「……そうですね。勘十郎を良く支える為のその努力、武の家の子として大変誉れ高い」
「兄上は家中の者に慕われておりますから。姉上との仲も良好でございますれば、もしお二人を私が支える事が叶えば、我ら三姉弟に並ぶ者等居ないでしょう」
姉上、と口にしだした途端。その表情が僅かに固くなったのを、喜六郎は見逃さない。これでも母とは、子として長い間接して来た積りだった。無表情に見えるが、良く見て居れば分かる。
母が、激情家である事も。
「喜六郎。お前が支えるべきは、将来の当主である勘十郎です。吉法師の事は」
「我らは姉弟。立場が如何に変わろうとも弟は。兄を、姉を、生涯の間、支える義理がございます。母上」
こういう時、喜六郎は気を使った言い方をする。と言うより、母との会話で気を使う事を覚えざるを得なかった、と言うべきか。あくまで『姉弟』の立場を強調しているのは、母が自分の口から姉の事が出てくるのを、相当に警戒しているため。
母は、姉から離れるのと同時に、兄である勘十郎を篤く愛するようになった。元々から勘十郎が当主になる筈だったのが、父の鶴の一声で方針が曲がったのがそれに拍車をかけたのは間違いない。
その一部始終を、喜六郎は母の傍で見ていたから、良く知っていた。彼女にとって、喜六郎や、織田家臣が跪くべき、次の当主は勘十郎だ。故に喜六郎が吉法師になびく素振りを見せるのは、あまり良くない。
故に、彼はあくまで『姉
「……姉弟として、支える。ですか」
「はい。兄上が当主となり、姉上が兄上の下に付いても、それは変わりませぬ」
「――あぁ、そういうのであれば。安心しました」
最近、喜六郎を土田御前が呼び出す事が多い。その何れも、姉に対する否定的な感情を隠しもしなかった。
そして、今日ここに来てのこの露骨な態度。吉法師が元服を迎えた事が原因ではないのかというのは、喜六郎も武家の子故に、何となくではあるが分かっていた。
「であれば、喜六郎。その心持ち、忘れぬように」
「……はい」
繰り返すようではあるが。喜六郎は、母に大恩がある。
その母に、無茶な真似をして欲しくは無かった。故に……当主の座に何れかが座り、落ち着くまでは。彼はあくまで母の側に付いている様に振舞う積りだった。
例え、当主としての争いなど、喜六郎にとっては
何方が当主に付くのか。凡そ、彼の中でも『
嘘は、吐いていない。喜六郎は嘘を吐かず、しかして全てを見せない事で賢しく立ち回る方法を、こうして学んで。
せめて母が穏やかに過ごせるようにと、立ち回っている、積りだった。
姉、兄、母を上手く軟着陸させようとしているけど大変で虚無る。