少年、
彼は学校から帰ってきたばかりだった。
本の詰まった鞄を提げ、ドアノブに掛けた手を外すことすらしなかった。
「ぐぅうう゛」
足元から犬の唸り声が聞こえて、彼は
声も出せないほどに驚いた倫太郎は、飛ぶように後退り、ドアに背中を強かに打ち付けながらその場に座り込んだ。
「ワンッ!」
犬が鳴くと、口からは腕がボトリと落ちた。若い女と思しき其には見覚えのある黒子があった。倫太郎の姉も、丁度同じところに黒子があった。
犬は生腕を飛び越えて倫太郎に擦寄ってきた。そして、赤茶けた口から舌を
その時には、最早、愛犬の存在だけが彼の気を保つ唯一だった。倫太郎は震え強張る手を何とか持ち上げ、平時のように犬を撫でた。
彼の手は濡れていた。座り込んで手を突いた先の絨毯が、趣向の凝らされた柄を一様に染めるほどの血に侵されていたからだ。
「人を…………イヤ、警察を……呼ばないと」
人を呼ぶ為に立上がろうにも、妙な緊張で上手く力を入れることが出来ない。仕方が無いので、惨めッたらしく四つん這いで這って電話に向かった。途中、テーブルの下に転がった父の頭と目が合いそうになって、必死に見ないよう努めた。
『申し上げます、申し上げます』
「警察を……警察を、呼んでください」
お願い申上げます、と縋付くように言う倫太郎の声は、今にも枯れてしまいそうなほどにか細かった。
***
「イヤア、倫太郎君。災難だったね」
倫太郎の向かいに座った青年が言った。言葉とは裏腹に、顔には軽薄な笑みが張付いていた。彼は藍色の質の良い着物を纏って、扇子でハラハラとその身を扇いでいる。
倫太郎は十五ほど年の離れた彼に引取られた。
彼の気を損ねるわけにはいかない、と倫太郎は思った。倫太郎は、散々目を掛けてもらった先生よりも、大事に育ててもらった家族よりも、誰を相手にするよりも、彼には丁重に接しなければならないと本能的に理解していた。
慣れない畳の上で正座を改め、ややもすれば額がつくほどに頭を下げて、倫太郎は言った。
「御心遣い感謝致します。種々の手配も
倫太郎が
鳥の鳴く声、風が木々を
そして、暫く、口を開いたのは青年だった。彼はフッと笑いを含んだ息を吐いてから朗々と喋り出した。
「君は賢い子だねエ。ウン、ウン。調子に乗ったボンボンじゃないようで安心したよ。
改めまして、俺は
「イヤネ、あれは気分の良いものではないだろう?」等と中身の無いことをつらつらと話していく十流の声を頭上で受止めながら、倫太郎は決して頭を上げなかった。許可無く低頭を止めるのは悪手であるとの予感がしていたからだ。
十流は、何の仕事をしているのか、倫太郎の住んでいた洋館よりも広い日本家屋に、女中が三、四と、彼一人で暮している。彼の口から聞いた自己紹介では到底
というのも彼は、一貫して脳みその中身が見当のつかない表情をし通していた。
倫太郎は、短い人生で出会ってきた誰よりも相手しづらい十流を前に、ジッとして、気に障らないようにする以外の良い方法を身に付けていなかった。十流がする中身の無い話を聞きながら、倫太郎は身体じゅうの汗腺から冷汗が滲んでくるのを感じていた。
彼が並一通りの人間でないのは既に理解していた。こうと断言することは出来ないが、普通の人間ではない何かを、それも、とびっきりの恐ろしい何かを、倫太郎は彼相手に
そのことを知ってか知らずか、十流はカラカラと態とらしく笑って、詮無い内容から少し話の方向性を変えた。
「しかし、マア、賢い子だと誉めておいて何だがね。
甘言の真意を汲む必要がある。そうは思っても、倫太郎の少ない人生経験とちっぽけな頭一つでは、当意即妙の返答など出来ようはずもなかった。
倫太郎は十流の重く鋭い視線を感じていた。無論、彼に特殊な感覚があるのではない。しかし、
又も続くかと思われた沈黙は、十流が扇子をタンと閉じる音とともに呆気無く終わった。何も答えず頭を下げ続ける倫太郎を見て、彼は満足したようだった。
「君は本当に賢い子のようだ。頭、上げていいぜ」
「失礼いたします」
倫太郎はゆっくりと上体を起こし、
瞬間、ゾッとした。
何がと示すにはあまりに恐ろしくて、尋常の範囲を超えていて、深いふかい暗闇の底のようなソレを、倫太郎は十流の目の奥に捉えてしまった。
「怯えなくていい。何も『取って食ってしまおう』だなんて、思っていないンだから」
十流は変わらずカラカラと笑っている。再び開かれた扇子がその口元を隠したせいで、なおのこと、倫太郎は其目を見つめてしまう。
倫太郎は気付いた。ソレは果ての無い悪意だった。そしてまた、気付いてしまった。あの事件の、有得そうにもない可能性に。
嫌でも思出される家族の死体。脳裏にこびりつく、家族だった物の断片。主を失った柔い腕。恐怖に見開かれた瞳。絶叫のうちに固った唇の形。ジットリ濡れた絨毯と、掌で乾いた血の引攣る感触。肺を侵していく鉄の臭い。
誰の仕業か、死体の他の部位は何処に行ってしまったのか。恐れ半分、面白半分に銘銘が憶測を
其中の誰が言ったのだったか。取るに足らない噂話のはずだった。しかし、あの言葉。妙に確信した言い方。まるで、事情を知る者が
『鬼が食っちまったのサ』
「…………鬼……で、御座いましょうか」
「ふふ、ふふふ。イヤア、君。想像以上に優秀だなア!」
其は明確な肯定だった。倫太郎は、己の家族が鬼に食われたことを理解した。人を食らう鬼が、この大正の世に存在すると知ってしまった。
冗談ならば如何ほど良かっただろうか。しかし、十流の目は真実だと言っている。
「そうと来れば話が早い。気付いているだろうが、俺は君を純然たる善意で拾ってやったわけではないよ。マア、もちろん、
倫太郎は死地に立った気分だった。彼の生殺与奪の権は十流にあった。
何故、十流は鬼などという異形の存在を知り得たのか。何故、知りながらそうも楽しそうなのか。何故、残された倫太郎を拾ったのか。
十流は扇子をパンッとたたんだ。そして、トン、トン、と一定の拍で畳を叩き、話を続ける。
「少し、考えていることがあるのサ」
「…………其は、一体?」
倫太郎は、震える声を必死の思いで取繕った。十流は其を歯牙にも掛けず、射通すような目で何処か遠くを見つめ
「他人様の子供を鬼に食わせては、選別された者に命を賭けさせる……そんな、良い性格をした奴がいてなア」
トン、トン、トン。
扇子の音が響く。
「其奴に、意趣返しをして
ふふふ、と笑う。其目が笑っていないのだとわかる。
十流の視線がユラユラと倫太郎に戻ってきて、倫太郎は蛇に
「与して
これは、脅しだ。答えは、十流に用意された一つしかない。
「承知致しました」
「ウン、ウン。倫太郎君は良い子だねエ」
十流はふふふと笑った。
これが、倫太郎が未だ九つだった時の話である。