読者がいなくともとりあえず完結させたい
なお、資料や調査が足りないので色々足りない部分があると思うので、その辺は平にご容赦を
日本には幾度か不安定な時期が存在する
特に思い浮かべるのは安土桃山時代、所謂戦国時代と呼ばれる時代と
江戸時代末期、新撰組や維新志士などで有名な所謂幕末。それに現代日本への転換期となった大正から昭和にかけての激動の時代ではないだろうか?
勿論、それ以外にも存在するし、何なら日本が本当に安定していた時期があったのか?
と首を傾げたくなるかも知れない
武士と呼ばれる身分がある
江戸時代においては士農工商と最も高い身分とされた武家も元は武士であり、豊臣時代の終焉となった大坂の陣の後に徳川家康が東国江戸に徳川幕府を開いた
この際、親藩、譜代、外様と全国にある諸藩を区別し、その藩に使える武士が家を持つ事で武家となったのだろうか?
まぁその辺りの考察は割とどうでも良いだろう
問題は目が覚めたら、山の中で山から見下ろす景色に見慣れた筈のコンクリート造りの建物やアスファルトで舗装した道路などが欠片も見えない事である
うん、異常事態ですね
分かるとも!
現実逃避する私を誰が責められましょうか?
あ、責めても良いので代わって下さると助かりますが
無理ですね
わかってました
山で野宿するのはまあやった事がないわけではないので良いとしても、持っている道具が殆ど玩具となったのはいただけない
最悪草を食べる他ないかも知れない
最終手段だろうが
とりあえず山に篭っても大した事は出来ないので、とにかく山を降りる
少なくとも自分の地元近辺ではないはずだ
この感じ明らかに昭和時代よりも前だろうからな
俺の地元は干拓地であり、全国でも稀となる個人が主導して埋め立て地を作り上げたそうな
その為、入植当時の人が今でも大きな影響力を持っているというかなり奇妙なところだった
その干拓事業が行われたのが確か昭和だった様な気がする
昔の資料によると、自宅から南にある山に砦があったそうだが安土桃山時代に宇喜多直家が手がけたとか何とか
んで、それは海に面していたらしいからその頃はまだ地元は海だったんだろう
ついでに言うと某歴史ゲームでは地元でそれなりに有名な城は海に面していたとされているし、郷土の資料にも現在の県庁くらいまでは海だったとも確か書いていた様な?
今見渡した限りでは海のうの字も出てこないところを見ると、県北っぽいような気もしなくはない
やーまーをおーりたらーさーくらーのきー
という訳で特徴的な大きな桜の樹と思われる大樹を発見しました
とにかくデカい
その一言に尽きるだろう
で、近くの村人さんに聞いたところ、此処は落合村だそうです
ふむ、落合ねぇ
待てよ?
大きな桜の樹に落合?
これ
醍醐桜
その名の由来は争いに敗れた当時の後醍醐天皇が隠岐に流される際、見事な大きい桜の樹を見つけてそれに感動した事とされる
もしかしたら、春に咲く桜にこれから隠岐に流される自分がやがて京に戻れる様願をかけたのかも知れない
ちなみに話を聞いた近所の人達は一度として醍醐桜とも天皇が通ったとも言っていない
確かに罪人として
現代であれば京都から島根はそこまで遠くないが、当時の区分としては畿内と備前辺りまでが近国であり、それ以西は全て遠国だった様な気がする
例え事情がどうあれ、皇族が来訪したとなれば村にも箔が着くからそれは強調しそうなものだし、少なくとも何も桜にしてないのも奇妙な事に見える
村人はそこまで気にしなくとも、この辺を治める領主的な存在は天皇であった後醍醐天皇が気にしてるというだけでも桜を保護するに十分な名目な気がするのだが
となると、これは後醍醐天皇がまだ元弘の乱に敗れて隠岐へと流されていないと言う事だけは確かなのだろう
そもそもこの時代が鎌倉時代であると決まったわけではないんですけどね!
鎌倉時代
かの有名な源頼朝公が鎌倉に開いた幕府による武家政権の成立した時代である
平家にあらずんば人にあらず
と栄華を誇った平氏一門
源氏一門を倒し、嫡男である頼朝を坂東に送る事により平家に繁栄を齎した平清盛
その縁者や一門は清盛公亡き後もその絶大とも言える影響力を有していた
中でも安徳天皇は平氏一門の血を引く天皇であり、日の本の頂点ともいえる天皇家にすら確固たる影響を持つ平氏の勢力は安泰といえた
だが、その傲慢な振る舞い。特に皇統にまで武士であった平家の血を入れた上にその皇子を天皇とせんとする平氏のやり方に不満を持つ者が畿内にも存在していた
更に清盛公らにより地方へと追いやられていた源氏もまた再興の機会を伺っていた
木曽の源義仲が動き、畿内にて最早武士としてではなく、公家としての立場に酔いつつあった平氏を京より駆逐
ところが、その義仲は京において乱暴、狼藉を繰り返した
更に皇統問題にも口を出すに及び、時の有力者であった後白河院は義仲に不快感を示した
その後義仲は京より播磨國福原へと逃れた平氏と戦をするも膠着状態となり、義仲に対して隔意を抱いていた後白河院らは義仲よりは比較的京に理解のある鎌倉の頼朝軍を利用して義仲を排除する事とした
義仲もあらゆる手を尽くすも、最終的には衆寡敵せず寡兵となった義仲は粟津(現在の滋賀県大津付近)にて頼朝の命を受けた義経軍により討ち取られる
それを見た後白河院は義経に対して、平氏追討の命を下すように鎌倉へと要請
頼朝もそれに応じた
後白河院達にとって、天皇の血統にまで己の血を入れた平氏は許せざる相手となっていたのだろうか?
その後、西国にて合戦を繰り広げ周防国壇ノ浦にて、遂に栄華を誇っていた平氏一門を滅亡させる
だが、源氏にとってもその後試練が待ち受けていた
平氏一門を滅亡させるという大功を挙げた義経であったが、彼は頼朝の弟であるが一家臣に過ぎない
であれば、任が終われば鎌倉への帰るのが道理であったが後白河院により官位を授けられ、平氏追討において軍監や九州、東国の武士達の面子を潰したりとしていた為にその報告が送られていた頼朝からもあまり良く思われていなかったとされる
特に官位を受けるというのは、その官位を授けた人物の下にいる事と同義であり、また当時の頼朝に官位を授ける立場になかった事などから頼朝の不興を買い、鎌倉への立ち入りを許される事はなかった
義経は度重なる仕打ちに耐えかね、遂に頼朝追討の命を後白河院に求めた
武力をもって脅したのである
だが、そのような事をすれば後白河院も黙ってはおらず、義経の支配が及ばなくなるとすぐさま頼朝側に義経追討の命を出す
義経は九州の豪族を頼るべく京を脱出し、播磨國より九州へと船で向かう
しかし、嵐に見舞われた義経一行は再び播磨國へと戻されてしまい、結果畿内に潜伏する事で機会を伺う事となった
ところが後白河院の命を受けた頼朝はあまり大きく動かなかったが、義経に反感を持つ畿内の豪族達を動かす事で義経の協力者を次々と潰していく
この状況での戦は不可能と感じたのか、義経はかつて頼朝の元に行くまで自身を保護してくれた
頼朝は義経を見つけるという名目で後白河院に全国各地に守護、地頭を置く事を認めさせ、自身の影響力を増やしていった
義経の必死な思いが通じたのか、無事義経一党は奥州までたどり着く事が出来た
だが、此処で遂に義経の運も尽き果てる事となる
義経を保護していた秀衡が高齢の為に亡くなり、息子である
泰衡は父秀衡程に義経を認めても信用してもおらず、寧ろ奥州に頼朝が攻めてくるのではないか?と懸念していた
そして、その日は訪れた
再三に渡る頼朝からの義経引き渡しの圧力に泰衡は屈し、義経の居館を大軍で攻めたのだ
既に畿内にて頼朝側についた豪族たちや奥州への道中でも郎党を失っていた義経達に最早抗えるだけの戦力は残されていなかった
此処に平氏討伐を成し得た源義経はその生を終えることになる
義経を討った泰衡は一門の中にいた義経派をも処断
鎌倉側へと従う体制を作ろうとするも、時既に遅く頼朝軍により奥州藤原氏は滅亡する事となった
そして頼朝は鎌倉に幕府を開いた
但し、京には
鎌倉幕府を続かせんが為の措置だったのだろう
だが、頼朝の思いとは裏腹に鎌倉幕府こそ長く続いたものの、源氏による武家政権は僅か三代で終焉を迎えた
三代将軍
無論、実権は母親である北条政子の実家北条氏に握られており、実朝が権を振るうまでには相当の時間を要した
しかし、実朝が将軍職に就いた時には先代である頼家はまだ存命であり、これは北条氏が朝廷に偽りの死を伝えたから行なえた人事であったとされる
もっとも、翌年には北条氏の刺客により頼家は命を落とすことになるのだが
頼家には息子がおり、如何に頼朝が幼い実朝を御家人達に「しっかり支えてやってほしい」と言われていたとしても、序列で言えば頼家の息子の方が実朝より継承の順位は高いはず
だが、頼家は失策の結果として将軍職を追われていたからの措置であったのだろうか?
であれば、頼家の息子も誅さねばならないはずなのだが
結論から言うと、実朝は他ならぬ自身の一族であるはずの頼家が息子
その後、鎌倉幕府は長らく執権である北条氏が支配する事となる
元寇や長く続いた弊害により、緩みを見せ始めた鎌倉幕府
更に朝廷すら蔑ろにする態度を見せる彼等に公家や皇統に連なる者、仕える者は不満を溜めていく
そして起きたのが朝廷主導の倒幕運動
朝廷が幕府に不満を持っていたのと同じか下手すればそれ以上に幕府に不満を持っていた者達がいたのです
他ならぬ御家人でした
彼等は戦をして勝った時に恩賞として土地や金などをもらう事が当たり前でした
御恩と奉公
封建型社会における基本ともいえるものです
ところが、元寇において大陸の軍勢を討ち払った彼等御家人には何一つもたらされませんでした
何せ、手に入れた土地や目立った財産がなかったのですから
ですが、その戦いのために借金をしてまで武器などを揃えた御家人達に何も褒美をあたえない訳にはいきませんでした
そこで幕府が行なったのは
徳政令という政策でした
これは借りたお金を全て帳消しにするという御家人達からすればありがたいものではありました
土地などを担保にお金を借りていれば、その土地が返ってくるのですから
土地や褒美が貰えないのは不満ですが、それでも何とかなる為にある程度納得したでしょう
御家人たちは、ですが
では徳政令により損害を受けた商人や金貸し達の損害は?
そのままです
当たり前ではありますが、そんな財源はなかったのですから
しかし、それにより商人や金貸し達は御家人達に金を貸す事を躊躇し始めます
それはそうでしょう
金を貸していても、また徳政令ではたまりませんから
結果、せっかくの貨幣経済に対する信頼や幕府に対する信頼を大きく損ねる事となりましたとさ
そうなれば先に徳政令で助けられたはずの御家人達も困った事になります
確かに土地は返ってきました
ですが、今度は商人や金貸しが土地を担保にしてもお金を貸さなくなったのです
つまり困窮した時、御家人達はどうやってお金を獲ればいいのか?その唯一ともいえる方法を失ったのです
そして幕府は一切自分達が恩賞を出さなくても良い徳政令を乱発します
全てがおかしくなります
それでも執権である北条氏やそれに近しい者達は不自由なく生活出来たことでしょう
そこに打倒幕府との旗印を掲げる朝廷が現れれば?
その流れこそが元弘の乱です
後醍醐天皇が倒幕を企図し、それに各地の『悪党』と呼ばれる者達が後に決起するきっかけともなった
しかし、後醍醐天皇は近臣に六波羅探題の手が及んでいた者がいた為にこの企みは露見、先に述べた通り隠岐へと流されます
この一連のながらを元弘の変と呼ぶ事もありますが、本作においてはその後の倒幕戦も含めて元弘の乱としたく思います
一時的に撤退した河内の
それに皇族であり後醍醐天皇の息子でもある
この流れを受けてか後醍醐天皇は流刑先の隠岐を脱出し、同じく流刑の身であった土佐に流されていた
後醍醐天皇と合流して、二人は全国の御家人に対して、
前者は天皇による命令書、後者は皇族による命令書と思っていただければわかりやすいでしょう
河内にて鎌倉側の軍を楠党が上赤坂城や千早城に籠城する事により長期戦の様相を呈してきます
すると、御家人達の中には自身の苦しい生活を何とも思ってない様に見えてしまう(容易く戦を引き起こす)鎌倉幕府、正確にはそれを差配する北条を始めとした一部の御家人に対しての不満を高めます
彼等御家人にとって、長期戦など得るものがほとんど無いのですから
そこに後醍醐天皇と尊良親王による命令書
そもそも鎌倉幕府初期における大乱である承久の乱において、頼朝の妻である北条政子は坂東の武士達に『頼朝公の御恩に報いるべし』と檄を発したとも言われており、いわば鎌倉幕府の支配体制の根幹を成していたのは
御恩と奉公
でした
それが機能していないのであれば、御家人達も態々朝廷に弓を引く理由はなかったのです
一応鎌倉幕府がたてていた
それでも葛藤する御家人達が驚くべき事が起こる
北条得宗家と近しいはずの足利当主高氏が幕府に見切りをつけ、後醍醐天皇方についたのである
更に続けて坂東の
足利離反により、流れが変わり次々と御家人達が後醍醐天皇方につくこととなり、鎌倉より派遣された幕府軍と六波羅探題の軍が相次いで壊滅
続けて新田義貞率いる関東の御家人達が鎌倉における
更に頑迷に抵抗していた九州の
武時は亡くなっており、武時が倒幕の説得をした少弐氏と大友氏が中核となったとされる
こうして鎌倉幕府を滅亡させた後醍醐天皇は天皇親政を良しとする建武の新政を始める事になる訳である
つまり、このままでは色々とまずい事になる訳ですよ!
正直、どんな状況かイマイチどころかさっぱりわからんけども!
とりあえず
播磨といえば赤松
赤松の誰やっけ?
確か反幕府方だったと思うけど
というかさぁ、もし此処らへんに来るならもう少し後なら良かったんだけどなぁ(ため息)
この男、後北条氏や浦上氏がかなり好きであり
関東管領上杉氏?知らんわ、んなもん
宇喜多直家?ええなぁ
小早川秀秋?ノーセンキュー
羽柴秀吉?サルは
備中高松城水攻めは許さざるよ(激怒)
という割とニッチな考えを持っている
寧ろ、伊勢新九郎盛時が居たら関州までついて行きたいと思っている趣味人である
なお、大の今川スキーであり、過激な徳川アンチでもある
なお好きな武将は
朝比奈泰朝
岡部元信
笹部勘次郎
である
別枠としては
最上義光
蘆名盛氏
宇喜多直家
松永久秀
となっている
あとは
は歴史ゲームでいつも使ってる
といった人物であり、趣味が山籠りだったり、ウォーキングというかなりの現代では不審者待ったなしな経歴を持っていた
しかし、である
令和の御代では様々な交通インフラが整備されており、道路も歩きやすく舗装されていたりするのだが、当然中世日本にそんなものがある筈もなかった
なので
歩きづらいんですけどー!
と愚痴るのは当然である
彼の所持品は
ハンドバッグにスマートフォン(充電器あり)、携帯ゲーム機(充電器付き)ゲームソフト数本、100均で買ったメモ帳二冊に100均の鉛筆(6本)、ボールペン2本にカ〇〇ー〇〇ト(チョコ味)が数箱、ペットボトル飲料(2ℓ)2本といったものである
殆どが役立たずといえよう
勿論、充電があるうちは動くだろうが、ひとたび充電が無くなったが最後スマートフォンとゲーム機はただの置物にしかならない
仮に鉛筆を商人や物好きに売るにしても、主要街道である山陽道に出ない事には大きな町はない
中世の岡山において大きな町といえば、刀剣産業の盛んな
彼も死にたくはないので、知識を総動員して命を繋ぐべく南下を続ける
なお、格好については道中に死体などがあった為に、それの衣服を頂戴している
流石に令和の格好などしていれば、不審者待ったなしなのだから
とはいえ、追い剥ぎなどは中世においてありきたりであり、それに引っ掛からなかったのだから、ところどころ破れたお粗末極まりない格好であったのだが
何はともあれ何とか大きな道に出る事が出来た
もっとも、おそらくは1週間以上かかっていると彼も理解しているが
時代考証だけで文字数を稼ぐ小説ってマ?
ま、まあそう言うこともあるさね
ではご一読いただきありがとうございました