ふと窓を見た。
太陽が丁度オレンジ色になりポツポツと蝉の鳴き声が消えていく。
今日は日曜日。昨日と今日で連日休日出勤だ。普段は特に珍しいことでは無いのだが今回は珍しい。その理由はこの少しだけ広い事務室に私一人しか居ないからだ。もちろん電気が付いているパソコンはこの机の上にある二つだけだ。正真正銘私一人だけの事務室。
そこで私は夏休み、もとい夏合宿の事務作業を行っていた。ちなみにこの仕事は私からやると宣言して奪い取ったのだ。
この私がみんなから仕事を奪い取るのは珍しい。なぜ奪い取ったんだって?
まず前提としてこの夏合宿の事務作業は数少ないサービス残業に当たる。それなら何故?とさらに疑問が増すと思うが、聞けば納得するだろう。
このサービス残業は手順がマニュアル化されている。つまり楽ということだ。
私はコミュニケーションが上手い訳では無い。ファッションも詳しくないし、おいしいご飯の場所も知らない。そもそも一緒にご飯を食べる機会自体ほぼ無い。
だからこそ、私はここで、この夏、この仕事で恩を売っているのだ。
今現在の関係は薄い。だが同じ職場という濃い関係性。こういう時にやっておかないと排除される可能性がある。
まーー普段から静かに端の方で仕事をこなしている。(席は中央にあるけど……)気にされることもなく、仕事内容以外で話しかけられる事もほぼ無い。そして同じ事務員はギャルタイプでは無いッ←ここ大切
心配するだけ無駄だとは思うが、完全に全てが無駄になるということは無いだろう。という考えの元仕事を奪い取っているのだ。そもそも帰ってからやる事が無い。ご飯を食べて、お風呂入って、ニュース見て、寝るぐらいで暇だ。正直に言うと毎日仕事を奪い取っても良いと思っている。
コンッコンッ
「失礼しますよ。」
おっと笑顔が素敵なトレセン学園理事長秘書様の登場だ。
扉を開けて姿を見せたのは、緑の秘書服?に黄色いネクタイ、黒タイツも装着している。頭にはまん丸とした可愛い帽子でツインテール。駿川たづなさん。トレセン学園の理事長秘書、そしてトレーナー、生徒、そして理事長の優しいサポートもこなす完璧人。事務作業や掲示物の管理など、幅広く業務をさばいている天才。門限破りの違反者(ウマ娘)を捕まえる事もできる程の脚力を持つ化け物。
この人を人と思ってはいけない。
「たづなさん、夏合宿については終わりましたので後で確認しておいてください。」
「はい!ありがとうございます。わざわざ残業までして頂いて……」
ほんとうに申し訳なさそうにぺこりと頭を下げる。かわいい
「すみません…早く終わった方が良いかと思ったのですが。」
ぽつぽつと上辺だけ申し訳なさそうに目を伏せ頭を下げる。
「いえいえそんな事ありません!ありがとうございます!」
再度申し訳なさそうにぺこりと頭を下げる。かわいい
「それでは。」
私はそう言ってパソコンに目線を戻す。
「あのーーー……」
だがたづなさんは動かない。だがウズウズとまるで何かを言いたそうに足をモジモジさせる。かわいい
「何か他に仕事がありますか?」
視線をたづなさんに戻す。そして予定調和通りの問いを掛ける……ずいぶんと社畜精神が付いてきてしまったものだな……まっいっか。
「いえ!仕事とは関係ない話なのですがなぜ室内でも帽子を被っているのですか?」
「落ち着くからですかね……もうこれが無いと生きて来れない程には…」
「そうですか…そうだ!」
気まずい。冗談を言えるだけの関係性では無かったのに……本心だけど。
おさらい。私は年中通して青のジーンズに黒のTシャツ。ベレー帽の三点セット。長袖長ズボンに帽子。防御は完璧、むかりなし。
「おかげさまで仕事はもうありません。なので一緒にごはんを食べに行きませんか?」
「誘って頂きありがとうございます。でもまだ仕事が残っているので遠慮しておきます。」
はっ、つい反射的に断ってしまった。これが条件反射なのか?これは事務員に成り立ての時の事だ。同じ事務員から沢山ご飯とか遊びに行こうと誘われた。そのたびに断っていた障害がここに来て出てしまった。あの時はそんな事が出来る精神じゃなかったからなーーーしょうがないしょうがない。
「えっ!?残っているのですか?なら私にもください!ちょうど暇していたので!」
「いえ大丈夫です。」
マッまっ不味い!?たづなさんの息吹に触れてしまった!!
「いえいえそんな事言わずに!」
「……たったいま終わりましたので結構です。」
はぁ…はぁ…区切りが良いところまで終わった……ここ最近一番の動きを見せた。たぶん今の速度を維持出来たらワープロ初段も余裕なぐらいだ。
エンターを音良く鳴らしてマウスでカチカチ操作する。そして二つのパソコンの電源を落とす。
「えっと……ご迷惑でしたか…?」
「……お願いします。」
気まずい……今さら感半端ないです。でもここで断たらどんな未来があるかわからないし…穏便に行く方が…行ってどうしたら良いの?会話なんて出来ないよ?……もしかして断った方が良かった?
「本当に大丈夫ですか?何か無理していませんか?」
「大丈夫です。」
いや待った天才君。お願いします。そこに固有名詞は無い。そして本当に大丈夫ですか?何か無理をしていませんか?そこに固有名詞はない。つまり現状は私が行くとも行かないとも考えられる状況だ!そして仕事は終わったていで話は進んでいる。つまりこのまま一人静かに帰ってしまえば万事OK!待ってください的なことを言われたら諦めて行く。よしそうしようと決めたら本日はただ持ってきただけの私の鞄を背負い、たづなさんが居るのとは逆側の通路を通って事務室を出ようとする。
「ッ!?ちょっと待ってください!まだお話がッ」
……失念していた。たづなさんがどれほどの○○なのか(自主削除)
信念
その優しさは全てを包み込み、その笑顔は全てを浄化する。考えるより行動だ!の主人公思考を持つ女神様が何か問題を抱えていそうな人を逃がさない。
身体能力
ただ早歩きで退社しようとする社員を専務または社長が逃がすわけがないが如く、逃がすという手段はない。
たった3歩でたづなさんは私に追いついて来て腕を掴み取られる。だが対人耐性がない私にはただの腕を握られるという行為に恐怖を感じる。さらにそれがたった3歩で追いつかれたのだ。風圧もすごい。冷や汗も酷い。まるで不審者に襲われたような感覚に陥る。
逃げよと後ずさる。だがその意思とは反対にたづなさんに腕を引っ張られる。体勢を崩した私は体勢を整えようと体の重心を無理矢理動かそうとする。だが周りはデスク地帯。書類やファイルが机の上にある。もし辺りに散乱させようものなら誰が誰の物なんてわかりっこない。そうなったら私は首を切ることになる。精神的にも仕事的にも。
だから覚悟を決めよう。そのまま床へと落下する。あぁ……母よ。目の前に神様が落ちてきます。おっぺいが大きいです。これが女の器の差なのでしょうか?私にそれだけに優しさとコミュニケーション能力と笑顔とかわいさと………うん。無理ですね。
ゲフッ…………息が……息が………ペンッペンッ
まるでプロレス。片方が圧倒的な優位に立つタイプのプロレス。そこに慈悲もスポーツマンシップもない。私に出来ることはただ、たづなさんの背中を優しく二拍子で叩くだけだ。タップアウト……まさかする日が来るなんて……
「アッごめんなさい!大丈夫ですか?」
「プファッ……大丈夫です……」
これが呼吸の素晴らしさ。酸素がおいしいとはこのことか!甘酸っぱくて優しい柑橘系の匂いが私を襲う……ここまで幸せな襲われかたは初めてだ……
「……血のにおい……」
うんうん血のにおいが………マズイ!?
「たづなさん離rッ……ゥッ……」
息がァッ!?息をッ!幸せ空間はもう良いです離れてくださいたづなさん!!せめて一呼吸だけさせて!!シぬゥゥ
たづなさんが今度は自分の意思で私を押さえつける。
「動かないでください!出血してるならちゃんと大人しく安静にして!!それ以前に休んでください!こんな状態で来られても困ります!ちょっと傷口見せて!」
ッ!?帽子が!?私のチャームポイントの帽子がッ!?待ってぇ~~~
私は押さえつけたまま帽子を脱がされる。床に寝転がっているからスムーズに脱がされる。さらにたずなさんのおむねが目の前にある。なので必然的にたづなさんの頭は私の上にある。絶好に傷口を確認出来ちゃうというわけで。
「えっ?……紅助さん…?」
驚き。信じられないものを見るような目。それはただ理解もされず、理解しようともしない。ただ反射的に反応される感情の一つ。
「んッ!」
だがそれだけ隙があるなら充分だ。一瞬だけたづなさんを宙に浮かせる。その間に私はスライドをするように事務室の外へ向かって駆け抜ける。
そのまま逃げるように家へ向かって走り抜ける。
気持ち悪い。久しぶりに走った。いったい数年ぶりだろうか。汗で服がびちゃびちゃ。
私は服も脱がずに風呂場に入る。シャワーを付けて床に座り込む。頭から水の雨が降り下りてくる。その雨によってワックスが洗い流される。
ボーっと目の前の鏡を見る。その鏡には私にうり二つの人が居る。だがいつもの私とは違う点が一つある。
頭だ。頭の、そう……ちょうどウマ耳がある辺りに二つ、歪な傷口を持つ肉の塊がそこにはあった。少しだけ傷口の辺りから毛が生えかけていた。
そこで紅助の意識は無くなった。その後にはついたままのシャワー、眠るように倒れている女性はまるで祈るように頭を抱えていた。
・・・・・
高來 紅助さん
いまから約一年と半年前。彼女はこのトレセン学園に事務員としてやってきました。中卒採用では無く新卒採用。だが問題がある。彼女は孤児院卒で事務教育をこなしていない。それどころかつい最近まで行方不明だった。これほど怪しい人物を採用する理由は無いのだがなぜか理事長が採用を押してしまった。いろいろ不安はあるが、理事長が言うから信じてみようと思っていた。
さすが新卒でありながらここに来れたと言うべきか、さすがの実力だった。だけど彼女は人付き合いが悪い。いえ、苦手と言うべきですね。それはまるで人を怖がっているようでした。
そして時間は過ぎて一年。私はようやくわかってきました。紅助さんは人との関係を怖がっている。仕事上での話し合いは全く問題ありません。それどころかよく上司だと思ってしまうことがあります。それぐらいには優秀です。だけど飲み席には来てくれません。ご飯もなんだかんだ行って来てくれません。それどころか遊びにも来てくれません!
……話がずれてしまった気がします。なので戻します。……なんて言えば良いかわかりませんが紅助さんは一人です。ですが一人を恐れません。むしろ一人で居ることを好きだと思います。ですが誰かに誘われたときの反応が拒絶ではありません。拒否でもないです。怯えているんです。本人は気がついているかはわかりませんが左手が震えているんです。それを顔に出したりしません。いつも無表情か微笑なんです。少しだけ目元を下げて頬を上げます。でも口元が笑っていないんです。だからこそみんなの庇護欲の集中攻撃を受けているんです。最近は話し合いの末、遊んだり飲み席とかご飯に誘わない協定ができました。その代わりに事務室のお菓子が充実してきました。ですが勧めたお菓子以外食べることが無いです。指摘したこともありますがその時だけ食べるんです。そのせいで最近体重が増えてきた気がします!本当にこの事態はどうにかしないといけません!!
……またまた話がずれてしまった気がします。…戻します。…………結局何が言いたいんでしたっけ?……回想はここで終わらせましょう。
今日の出来事です。去年と同じく紅助さんが一人で夏合宿の事務作業をしているので進捗をお伺いに、ではなくだめもとでご飯にお誘いに行きました。
当然の如くお仕事は終わらせていましたので、お誘いしたのですが、まだ残っていると断られてしまいました。お手伝いをと思いましたが、すごい速さでお仕事を終わらせたんです。すごいです。目にもとまらぬ速さでした。
そこから少しだけ後。ちょっとミスをしてしまって”本気”で逃げる紅助さんを捕まえようとしてしまいました。そこで紅助さんを押し倒してしまいました。
問題はここからです。
匂いがしました。血のにおいです。忘れたくても忘れない鼻に残る独特な匂い。それが紅助さんの頭からしました。紅助さんが暴れようとしたのでちょっと固めて動けないようにしました。そして頭を確認しました。濃い匂いではないので今現在出血している訳ではないでしょう。ですが確認する必要があります。部下の健康管理も私の仕事です。
そこで見てしまいました。紅助さんの頭に2カ所傷がありました。ちょうどウマ娘達のようなウマ耳がある辺りに数mmではなく数cm程の大きめの傷口。まるで切れ味の悪い包丁で切ったような肉の傷口。すでにかさぶたが出来ていました。
これはゆゆしき事態です。もし想像通りなら大問題。想像通りでもなくても大問題。想像出来ないことを考えるのは時間の無駄なので放置します。いま考えている通りなら、彼女はウマ娘。経歴から考えると外部の力が働いて怪我をしてしまったと思います。それが誰で、何故なのか、わからないことだらけです。
ですがもっとわからない事があります。彼女はこのトレセン学園に来ました。事務員としてではありますが、わざわざこのトレセン学園へです。なにかしらの無縁があるからかもしれません。考えたくはありませんが彼女は完璧以上の工作員の可能性もでてきます。
なので調べ上げる必要があります。
彼女が何故このトレセン学園へ来たのか。罠なんて砕き通ります。こんな私でも理事長秘書なんです。やってやります。みなさんがより良い学園生活を送れるように、全力でいきます。
紅助さんはいつの間にか消えてしまっていました。私はその場に残されたベルー帽と鞄を手に取ってみます。そのベルー帽に温もりなんて無くて、鞄の中はまるで使われている感がありませんでした。
・・・・・
………ん……」
止ること無く降り続ける雨によって起こされた。水で濡れているのに頭がまだボーッとする。
「……………今…何時?……ハッァ?」
現状確認。服は着たまま。水道代光熱費は問題無い。これでもエリート事務員ですから。だが問題は時間。社会人にとって遅刻は死刑宣告に違いはない。
急いでシャワーを止めて服を脱ぐ。タオルで水を拭き取り、洗面台に出る。
「ハッッッ!?」
一日、いやこの数分でどれだけ驚かせられたら良いのか?
帽子がない。鞄もない。今玄関までの通路を確認した。無いッ!昨日は間違いなく玄関から一直線でお風呂場に行った。間違いない。帽子と鞄は事務室にある。
………問題無いか。
残念ながら私にトレセンを辞めるという手段は存在しない。私は今日を乗り越えていかないといけない。ウップッ…吐きそう…………はっ時計!
急いでリビングへ向かい時計を確認する。四時……問題無かったぁ~~
へなへなと床へ座り込む。安心しすぎて腰が抜けた。トレセン事務室は八時までに出社しておけば問題なし。でも時間がありすぎるというのは困ったな。これだけの時間。いったい何を考える事になるかというと……たった一つしか無いよね……。
問題無かったです。問題があるのはたづなさんとだけなのでそれ以外は大丈夫です。普通に出社して仕事してました。でもベレー帽と鞄がありませんでした。おそらくたずなさんが預かっているのでしょう。
ちなみに、ベレー帽は18個あります。七色(赤、橙、黄、緑、青、藍、紫)に白黒と予備で9×2の18個です。今日は青です。
「紅助さん。この後時間ありますか?」
……いつの間にかたづなさんが机の目の前に居た。その目、その笑顔。いつも通りの女神様だった。
「はい。」
覚悟はしてきたつもりだ。私が生き残るためには必要な事だ。受動的に、対応的に、運が良いことに相手が話の始まりを作ってくれる。…よし、行こう。
私はたづなさんに連れて行かれるがまま人が居ない会議室へ行った。そこでたづなさんは奥へ進みカーテンを開けて日光をこの会議室へと取り入れる。私はドア付近の椅子に座る。日光が届かない静かな場所だ。たづなさんは私の正面にある椅子に座る。
「紅助さん。これから毎日この時間をとります。話せることからで良いんです。少しでも良いんです。でも何か一つだけは話してもらうまで返しませんよ。何か話してくれる事はありませんか?」
「……いったい何が聞きたいの?」
「そうですね。可能であればその頭の傷について話して貰えるとうれしいです。」
「これ……ね……」
私は上を向きながら頭をかく。
「事実は簡単だけど、話すとなるとややこしくなる………いったい何を話したものか……」
そこで言葉は詰まった。そして何も話されることなく一刻、二刻と時間は過ぎていく。だが話す内容すらも決まらない。たづなさんはずっと私を見ている。ただ無駄に時間だけが過ぎていく。申し訳ない……これだけ時間がたってから話を切り出すのも辛いし申し訳ない。
「ごめんなさい。無理です。思いつきません。」
90度きっちり頭を下げる。これは最敬礼と言うもっとも畏まったお辞儀らしい。
「そうですよね。まぁ私も初めから出来るとは思っていませんよ。」
あははと苦笑いするように笑う。でも次の瞬間にはケロッといつもの笑みに戻る。
「では代わりに一緒にランニングしに行きませんか?ランニングウェアは貸し出します。辞めるときまで預かっておいてください。」
「いえランニングは……」
「歩くだけでいいんです。一緒にそこら辺を適当に散歩しませんか?」
「……はい…お願いします。」
再度頭を下げる。本当に頭が上がりそうにない。
「よかったです!ではランニングウェアを取りに行ってきますので待っててください!」
たづなさんはそのまま会議室の外へと出て行ってしまった。まるでスキップをするように足取りが軽く、素早い行動だった。
覚悟……口に出すなら簡単だ。そしてどれだけ簡単に決められたらと思ったことか。変わる。変わるべき。変わる必要性。思うだけも簡単だ。頭の中ではいつも最強で、いつだって最高の気分なんだから。
「お待たせしました!ではここで着替えてください。外で待ってます。」
つむじ風のようなだった。何処かの生徒会長みたいだ。
私は視線を落とす。そこにはランニングウェア。灰色と黒のシンプルなやつ…素早く着替えてしまおう。
「お、お待たせしました。」
私は珍しく緊張していた。数年ぶりのいつもと違う服。何とかはわからないが少し、ほんの少しだけ緊張する。
「はい!それでは行きましょうか。」
「あの……」
「はい!どうしましたか?」
ぐるりと回転してたずなさんは私を見る。こまみたいだ。
「着替えた服はどうしたら…」
「あっ!ごめんなさい。」
たづなさんは早歩きで私を通り越して先ほどいた会議室の扉の目の前に行って鍵を閉める。
「鍵は私が持っておくのでそのままで大丈夫ですよ~」
「……たづなさんもう一つだけ。」
「はい?どうしましたか?」
……たった一つだけ気になることがある。いや一つだけじゃないかもしれないけど今は一つだけ。
「その服で行くんですか?」
緑の秘書服?に黄色いネクタイ、黒タイツ。私と同じく毎日同じ格好だ。
「はい…?あ~はいそうですよ。実はこの服は伸縮性とか通気性も良くて全力で走れるんですよ。」
「へぇ……」
全力……全力……人でありながらウマ娘と肩を並べるもの……理解した。たぶん。
「それでは行きましょうか。」
「はい。」
そこからはあっという間だった。たづなさんに連れて行かれるがままに散歩する。あちらへこちらへと川沿い、商店街、山の麓あたりまで。この街の大体の名所は回ったと思う。あたりはもう薄暗くなっていた。そして今はトレセン学園へと帰ってきた。
「紅助さん。どうでしたか?」
「よかったです。」
語彙力が必要だと、こういう時に常々思っている。語彙力ください。
言葉に戸惑いながら先ほどの会議場へと向かう。その途中練習場やレース場がナイター照明に照らされていた。だが誰も居ない。それもそのはず今日の夜間の使用許可を取っているトレーナーは居なかったからだ。これを知っているのは事務員だから!これぞ事務員特権!…しょうもないね。
「すみませんちょっと。」
私はそう言っててくてくとレース場へ向かう。ここのレース場に来るのは初めてだった。この芝生を踏みしめるこの感覚、虫唾が走る。
「たづなさんすみません。走っても良いですか?」
「…はい。」
少しだけ。ほんの少しだけ。走りたい。未練。そう言われたらそうとしか言えない。でも、久しぶりにやりたくなった。
ゲートがあろう場所に行く。ただゲート付近にいて向かうべき方向に顔を向けるだけ。
ぁあ……幻聴が聞こえる。うるさい歓声がしずかになる空気だ。私は集中していてもそういった声が聞こえてくるタイプだ。たとえレースが始まる瞬間に爆発的にうるさくなる。耳の奥までその声が響いてきてうるさい。
…幻覚まで見えてきた。ゲートが目の前にある。横には誰も居ないのにゲートだけがそこに見える。いったいいつ開くかわからないゲート。正直に言って怖い。
自然と目が細まる。足を構えて前屈みになる。
きた……
ゲートが開く幻覚が見えた。それに合わせて歩き出す。一歩一歩ゆっくりと前に向かって歩を進める。
ふとたづなさんの方を見ようと目だけを動かした。しかしたづなさんは見えなかった。代わりに誰かはわからないウマ娘が前に飛び出していった。一人二人五人と左右から沢山のウマ娘、17人が前に出る。
自然に早歩きになっていた。
そして私がコーナーを曲がりきったときにはウマ娘達が私の眼前から消えていった。
走っていた。本能が感じる。
これ以上は勝てない、と。
大股で早く足を上下させ前屈みになりながら私も前に出る。
風がうっとうしい。声が聞こえない……これがゾーンというやつか。なかなか良い物だな。
二つ目のコーナーを曲がった。それでも誰も見えない。私はさらに加速した。息が切れる。だがそこに息苦しさは無い。
三つ目最後のコーナー、そして最後の直線。だけど誰も居ない……ッ!?
足が止まる。足が震えてとても立っていられなかった。お尻を芝生につける。
人が一人だけいた。私はそれを覚えていた。顔は見えなかった。でも口が全てを語ってくれた。あのうるさい声を上げる人達の中で一人だけくだらないと、馬鹿らしいと、何でと私をうざがる口元だった。私はそれとてもうざくらしいと思った。
そしてその日が私が最後のレースだった。
・・・・・
散歩をして思ったことは紅助さんは優しい人です。話は最後まで聞いてくれて疑問に思ったことは素直に聞いてくれて、道行く人たちにも挨拶をしていました。
散歩を終えてトレセン学園に帰ってきました。そこで今まで進んでいた紅助さんの足が止まりました。何でしょう?と思いましたがその目は練習レース場を見ていました。
「すみませんちょっと。」
そういって紅助さんはレース場へと向かっていきました。途中、突然立ち止まって数秒間ゆっくりと目を閉じて、開きました。
「たづなさんすみません。走っても良いですか?」
紅助さんはそう言いました。やはりウマ娘、ということなのでしょうか。
その疑問は少し後ですがすぐにわかりました。
止めていた足をゆっくりと動き出します。少し歩いたところで紅助さんは左右をキョロキョロと見渡します。そして紅助さんは走り出しました。
最初のコーナーを曲がりきった頃、紅助さんは彼女に変わりました。
速さが違います。綺麗はフォームでした。一歩一歩に力強さを感じました。
二つ目のコーナー。力強さに加えて素早さが加わりました。そして彼女はニヤリと笑っていました。まるで戦闘民族と呼ばれる人たちのように好戦的な目でした。
最後のコーナー。そこで彼女の目は失望に変わりました。もうしょうがないと、もう終わったことだと。まるでこの学園を去って行く彼女達のようでした。
ッ!?
彼女が座り込んでいました。一瞬目を離した瞬間に彼女は涙を出しながら座り込んでいました。私は全力で近寄ります。
・・・・・
声はでなかった。でも涙はでてくる。そこに理性的な何かがあるわけでは無かった。
「紅助さんッ!大丈夫ですか!」
まばたきをした瞬間、そこには女神様がいた。そして次の瞬間にはその女神様が私の覆い隠した。
「紅助さん!深呼吸です。」
「……た……い……」
息切れをしていたので途切れ途切れだけど自然とその言葉が出ていた。なぜそれをたづなさんに言ったのか?少し考えてそれを理解した。たづなさんなら…たづなさんならどうにかしてくれるのではないかと。期待しているのだ。
「何ですか?ゆっくりで大丈夫ですよ。」
今度は深呼吸を何回挟んでその言葉を吐き出した。
「もうッ…走りたくないッッ。」
「ッ……」
たづなさんが息を呑むのがわかった。
「紅助さん。深呼吸です。一度落ち着きましょう。」
まるで子供をあやす母親のように言った。私は素直に深呼吸をする。そしていつしかその場に響いていた呼吸音がなくなる頃にたづなさんが声をあげる。
「紅助さん。もう走りたくないとはどう言う意味ですか…先ほどまで走っていましたし何故ですか?」
「まだ…まだ私は走れます。」
「それなら!」
「でも…だめなんです……」
「……教えてください。貴方に何があったのか?」
私はやっと自分で足に、腰に、背筋に力をいれ、座る。沈めていた顔を上げたづなさんの顔を見る。
そこにはやはり女神様がいた。自分のことのように目を潤わせながらいまにも泣きそうで、他人なのにそこまで……
「私は孤児です。親はいません。」
「はい。」
「訳あって私は一人で海外の闇レースに出ていました。」
「はい!?」
「理由、過程その他諸々は省きます。それは墓まで持って行きます……何か言うことがあるのならその理由は孤児院ではありません。その理由は自分の意思と理由で行きました。そして海外へは自分の力だけで行きました。
英語は出来るので問題無く闇レースに参加できました。そして私は最強で最高のレーサーになりました。そして身元不明でありながら公式レースからオファが来ることできました。そしてそれは一夜かぎりではなく、多くのレースからオファが来るようになりました。断る理由も無かったのでほぼ全てに参加しました。
追従のデスフォレッサ。それが私です。」
追従のデスフォレッサ。有名人だ。海外のG1、2に突如出現し、あるがままに勝利とファンをかすめ取ったウマ娘だ。最初は誰が笑いながら言ったのだろう。追従のデスフォレッサだと。
デスフォレッサの走りはその二つ名の通り。二つ名にウマ娘としての名前とわざわざ追従がついている。それはデスフォレッサの動き方がまさにそうだと、これこそが真の追従だと言われている。デスフォレッサは最初に最下位になる。つまり出遅れる。その時間は不確定。一瞬だったり数秒ほど出遅れる。最初の頃はゲート内で数秒立ち止まることもあった。
そして追い上げる。
統計勝率6割、敗北の過半数は前に出るのを妨害され前に出るのが遅れたことが多かった。デスフォレッサはたとえ邪魔されようともその外側から追い上げていく。それに異例はない。
どのような状況、どれほど名を上げたレーサーであろうと追いつき越す。その姿に憧れない人はいるだろうか?絶対に無理だと思える程距離があって、その間にどれだけウマ娘がいようとも関係ない。追従し遂げる。少なくとも彼女が出場ウマ娘数の半分以下の順位を取った記録はない。
不動の上位。その認識はすでに初めの頃に完成されていた。たとえ7位や9位になろうとその歓声は止まらない。
たった一レースでも彼女の走りを見ようものなら、その人は彼女に憧れ、ファンになるだろう。
「ある日のレースを最後に私は表に出て来なくなりました。そう全く影も姿も見せずに。
私は孤児。何処かに後ろ盾があるわけでも特別に警備員などを雇っている訳でもありませんでした。なので私はいとも簡単に攫われましたね。ウマ娘としての身体能力を持ってしても無理でした。
相手は一人。体も動かせずに、耳と尻尾を失っていました。
そして私は日本に逃げるように帰ってきました。
運が良いことに私は孤児でした。少し問題はありましたがスムーズ進んでくれました。そうして私は新しい道を進んでいったんです。
どうでしょうか?いろいろ無駄話が多かったかもしれませんが話せる事を話したつもりです。」
全てを言い切ってから深呼吸をする。
感情的にならずにちゃんと説明できたかな…
「……聞いていいですか?」
お腹に力を入れて気を強く持ち言った。
「はい。」
「なぜ貴方はこのトレセン学園の事務員になったのですか?」
「今となっては曖昧な理由しか思いつきません。ただ覚えているのは恐怖。私は逃げたかった、守られたかった。私に頼れる人なんていません。なので作る必要がありした。
でも作れませんでした。作れる可能性すらも見えませんでした。
なので私が一番出来そうな所をさが探しました。それで見つけたのがトレセン学園……の事務員です。
トレセン学園の警備は厳重。そして高レベルな環境。
たかが事務員。でもその事務員が突然消えたら、トレセン学園は…理事長は闇に消すのでは無く、探し出すと思いました。
なのでこのトレセン学園に入ろうと思いました。
でもそれは昔のお話です……」
「どういうことですか?」
なんとか大きな声を出してしまいそうな声帯を押しつけて、平常を装うことができた。
「ごめんなさい。いろいろ巻き込んでしまって…」
「ちゃんと話してください。どういうことですか?」
叫ぶような声が出てしまった。自分では制御できていなかった。
「……たづなさん…生きる理由って何ですか?…」
「生きる…理由…」
「やりたいことはもう無い、いえ最初からありませんでした。ただ目の前のことから逃げ続けて、ここまできて、結局私は何がやりたいのですかね。」
「一度落ち着きましょう。その考え方は危ないです。」
声を荒げた。心では少しでも考え直すようにと、少しでも止めることが出来たらと願いながら。
「落ち着いていますよ。それに正常な時に聞く罵声と落ち込んでいるときに聞く罵声の重さの違いもしっかりと理解してますよ。なので行動には起こしません。もし本当に終わりたがっているなら明日も、その明日も、同じ事を考えていると思います。」
「…走ってみませんか?今度はウマ娘として、レースで。」
「……いえ。結構です。」
「なぜですか?難しいかもしれませんが私がちゃんと走れるように環境を整えます。」
「だからですよ。」
「え?」
「貴方方には迷惑をかけたくありません。そして私は走りたくありません。」
「な、なら。なぜ先ほどはあれほど……」
私にはわからなかった。あれほど今を楽しんでいる笑顔をしていた人がこれほど悔やむ顔が出来るのか。
「だからこそです。再び走ってわかりました。あれは麻薬です。」
「……」
「どんだけ考えていても走り出してしまうと全てを忘れます。ただ目の前の事だけ集中してしまいます。どれだけ息苦しくても何も感じられません。ただ興奮して、感情的になって、気がつけば足が前に出ているんです。
私はあれに依存しているんですよ。
それにこんな姿になってまで、走りたくない……」
「………」
「知っていますか?私は定期的に傷口から生え出てくる毛を刈り取っているんです。それも自分の手で。鏡の前で、裸になって、慎重に毛だけをむしり取っているです。
もういやです。もう何もかも、イヤです。目の前で誰かが走っていて私がそれに追いつこうと走りかけるのがもう嫌なんです!」
「…………」
「すみません。帰ります。これ洗って返しますね。」
「いえ!紅助さんが貰ってください!」
なんとか吐き出せた声は、そんなものだった。
「…わかりました。」
今にも消えそうな声でそう呟いた。紅助さんの後ろ姿が彼女達に重なる。私はそれを追いかけれなかった。
誰も居ない薄暗くも月明かりに照らされた川辺で私は小さく吐き出した。
「けっきょく…逃げることも…追いつくことも…できなかったな……」
それは夜に消えて無くなりそうだった。
・・・・・
「彼女は外見的にも精神的にも走りたがらない……生きる理由。どうやれば救えるのか。どうやればその理由を作れるのか。
外見的コンプレックスと精神的拒絶。その両方を対応できる方法は……いったい何でしょうか……」
・・・・・
もし高評価ならこのまま考えている終わりを投稿します。
もし低評価なら頑張って他の終わりを考えますが期待しないでください。