冥王来訪(ハーメルン投稿版) 作:雄渾
彼女は、現場での様々な出来事に遭遇し、軍隊の中で自分の存在意義を問うていた。
あくる日。
第一防空師団に配属された幹部候補生たちは、将校初級課程の訓練を受けていた。
訓練場所は、戦術機のコックピットを模した
その脇には配属された幹部候補生たちを補佐する古参の下士官が静かにたたずんでいた。
機材の使い方の説明を受けたアイリスディーナは、ヘッドフォン付きのゴーグルを手渡される。
ゴーグルは、網膜投射を通じて眼球越しに映像が脳に反映される装置であった。
アイリスディーナは自慢の長い髪をかき分けると、静かにゴーグルをつけた。
そこには、対人戦闘用のコンピュータグラフィックスが視界に飛び込んでくる。
右手で握る操縦桿で、迫りくるミサイルを次々と撃破していた時である。
その瞬間、一機の戦術機が面前に現れた。
右肩に赤い星に、灰色の塗装をしたMIG-21バラライカ。
突撃砲を2門構えた、ソ連赤軍機であった。
彼女は、右の食指の先にいる突撃砲の射撃ボタンに触れるのをためらってしまう。
人が乗った機体を、20ミリの突撃砲で撃ち抜くしかない。
生きて帰るためには、相手に勝つしかない。
しかし、瞳に映る
驚く間もなく、 敵機の構えた20ミリ砲は、アイリスのバラライカの胸部を打ち抜いた。
撃墜の瞬間、座席が震え、警報音が鳴り響く。
シミュレーション映像の演習とはいえ、あるいはだからこそ。
この
呆然とするアイリスディーナに、彼女の世話役を務めるヴァルター・クリュガーが声をかけた。
先ごろまで曹長だった彼は、少尉に昇進していた。
軍功の為ではなく、地上におけるBETA戦争終戦の結果によるものだった。
それは、退官手当や恩給がなるべく多くもらえるようにするために行った措置である。
ちょうど我が国が終戦の詔勅が発せられた後、行われたポツダム進級に似たものであった。
「同志少尉、どうしました。
目標を撃って下さい」
「ええ、判ってはいるんですが。
あの戦術機を見ると、どうしても中に乗っている人間が思えて……」
灰色の髪をしたヴァルターは、190センチ越えの偉丈夫。
兄ユルゲンや昔なじみで上司のカッツェより、立派な体格だった。
化繊の中綿が入ったレインドロップ迷彩の冬季野戦服が、筋肉質な体をより強調し、様になっている。
「奴らが何を考えているか……」
「えっ!」
驚愕の声をして振り返ると、そこには、いつになく真剣な表情のヴァルターがいた。
「そんな事はわかりません」
しゃがんでぐっと顔を近づけてきた彼は、
「名誉と尊厳のある死を迎えさせてやるのです」
と言ったので、アイリスディーナは右手に握った射撃ボタンに食指をかける。
「よく狙って……」
そういって、ヴァルターはアイリスディーナの背後に回り、彼女の右手を包む。
食指で、操縦桿にある射撃スイッチをゆっくりと押した。
「確実に打ち抜く」
兄さんや、木原さん以外でも、男の人の手って、こんなに温かったんだ。
アイリスディーナが、そんな事を思ってると、ヴァルターは感慨深げに語った。
「彼等も、また国のために剣を振るう戦士なのです。
そんな彼らに必殺の一撃を、
敬意と
ヴァルターの言ったとおりにやったら、成功した。
気持ちの弾んだアイリスディーナは、右わきに立つヴァルターの横顔を見つめた。
訓練を終えて、士官食堂に向かう途中である。
一人の将校が、アイリスディーナに声をかけた。
「同志ベルンハルト少尉!」
それは、灰色の空軍勤務服姿をした、隊付けの政治将校であった。
「ハンニバル大尉がお呼びです。執務室まで」
立ち止まるアイリスディーナを横に、ヴァルターは食堂の方に消えていった。
戦闘団とは、ソ連式の軍制を取る東独軍の軍事編成である。
NATO基準で言えば、およそ中隊から大隊の中間に位置する規模であった。
隊付けの政治将校に連れられて、基地の奥の方にある司令執務室にまで来ていた。
第一防空師団長室とは違い、戦闘団司令の執務室は殺風景だった。
執務机の他に、戦闘団の軍旗と応接用の簡単な机とパイプ椅子。
壁にかかるのは
「うむ」
団長のハンニバル大尉は、今時珍しい
40半ばのこの大尉は、今600名の将兵と100名の軍属を管理する仕事をしている。
「アイリスディーナ・ベルンハルト少尉であります」
彼は、既に中年に差し掛かっているのに、筋肉質で逞しい偉丈夫であった。
「同志ベルンハルト少尉、君は射撃の成績に問題があるそうだな」
灰色の上着の襟を開けて勤務服を着崩したハンニバル大尉は椅子から立ち上がる。
「技術不足に関しては、
「中々、真摯な心掛けだ」
拳銃こそ帯びていなかったものの、国家徽章のついた士官用ベルトを締めていた。
灰色の折襟の上着に、乗馬ズボンに、膝までの革長靴。
実に、東ドイツ軍の将校らしい恰好であった。
「君は、士官学校で優秀な成績で卒業したのは、聞いている。
だが、軍人としての覚悟が足りない。
……私にはそう思える」
ハンニバル大尉の感情の突き詰めた目が、アイリスディーナの顔に向けられる。
「は!」
「軍人に許された返答は、はいか、いいえだ」
「はい」
直立不動の姿勢を取るアイリスディーナの周りを、ハンニバル大尉は歩き回りながら、
「中々飲み込みが早い。うわさどおりの
本革製の長靴の音だけが、静かな室内に響き渡る。
「軍人とは、いかなる時にも命令に忠実であらねばならない。
たとえ見知った相手が乗った戦闘機であっても、撃墜せねばならぬときがあるのだよ」
ハンニバル大尉の低く鋭い声に、アイリスディーナは気圧された。
「同志少尉。人を見て、射撃ができない。迷いがあるではダメなのだよ。
守るべき人を守ることが出来なくなってしまう。
まあ、士官学校上位卒業生の君ならば戦闘職種にこだわる必要もなかろう。
軍隊の中で別の道を探すのも悪くない。
その辺のことを考慮してくれると、私はうれしい」
さて、翌週。
アイリスディーナは、急遽ベルリンに呼び出されていた。
ベルリン最古の歴史を誇る、フリードリヒスハイン人民公園。
そこで開催されていた米独親善産業展示会に参加していたのだ。
この行事は、1959年の夏にモスクワのソコルニキ公園で行われた米国産業展示会の
後に台所論争として名高いこの展示会。
そこでは、副大統領のリチャード・ニクソンが、フルシチョフ首相にペプシコーラをふるまったことが夙に有名であろう。
朝鮮戦争やスエズ動乱以来、緊張状態が続いた米ソ関係。
その雪解けを図るべく、両国で展示会を企画したのが事の発端である。
1959年1月にニューヨークで、ソ連側が最新鋭のミサイル兵器を展示した。
対して米国側は、最新の電化製品や耐久消費財、食料品などを展示した。
米国の消費文化の粋を集めた展示物に、フルシチョフは衝撃を受け、憤慨するほどであった。
それに対してニクソンは、理路整然とした語り口で、自由経済と国民生活の充実を明らかにしたという故事である。
ニクソンは若かりし頃、ペプシの弁護士をした経験があり、フルシチョフにペプシコーラの味を覚えさせれば、勝ちと考えている節があった。
そして、企みは、1972年にソ連国内にペプシコーラの生産工場の建設という形で成功した。
こうしてペプシ*1は、ソ連圏における営業を許された数少ない米国企業となったのだ。
米国から来た産業展示会のメンバーは様々だった。
チェース・マンハッタン銀行を始めとして、モービル石油。
モービル石油は、スタンダード石油を起源に持ち、チェース銀行と共に石油財閥*2の影響下にある企業だった。
参考までに言えば、チェース・マンハッタン銀行*3は冷戦下のモスクワで営業を許された数少ない米国の金融機関であった。
大手食品メーカー・ペプシコ、コンピューター関連企業IBM。
航空機メーカーに関しては、ロックウィード*4に、ゼネラルダイノミクス*5、ボーニング*6と多種多様であった。
展示会の昼食は、東ドイツの人々を驚かせるものであった。
1972年にソ連で販売されて以降、東欧圏になじみの深いペプシコーラは元より、様々な品目がテーブルに並べられた。
ペプシの系列企業が作ったフライドチキン、牛肉の入ったタコス、チーズ入りのブリトー。
ポテトチップス「レイズ」やトウモロコシを引き延ばし作ったトルティーヤ・チップス「ドリトス」。
幼い頃、外交官の父ヨーゼフに付いて行って、東欧や文革前の支那で暮らしたアイリスディーナ。
彼女にとっても、このようなアメリカのファーストフードや駄菓子は初めて見るものだった。
一応、西ベルリンに買い出しに行ったボルツ老人や党幹部の購入ルートを持っているアーベル・ブレーメ。
彼等によって、アイリスディーナは、コカ・コーラや西側の食べ物は知ってるつもりだった。
だが、壮年を過ぎた二人にとって、菓子といえば西ドイツの菓子であり、欧州の菓子だった。
熊のグミキャンデーや、ベルギーのチョコレート、オランダの焼きワッフルだった。
初めて食べる米国のフライドチキンの味は、形容しがたいものであった。
カリカリに焼きあがった衣と、肉汁が出てジューシーなチキン。
子供のころからパーティ慣れしているアイリスディーナは、あまり食べない方だった。
こういう場で食べ過ぎると女性として粗野にみられると、教育されたためである。
だがチキンやタコスの味に魅了され、我を忘れ、ついつい料理に手が伸びた。
冷えたペプシを脇に置いて、取り皿に盛った料理を食べている時である。
「見た目とは違い、随分と
そう声をかけてきたのは、ゼネラルダイノミクスのビジネスマンだった。
彼の話によれば、新型のYF-16戦術機をゼネラルダイノミクスは開発中だという。
「ミス・ベルンハルト。
よろしければ、一度試験機のYF-16を試乗してみませんか。
合衆国では女性パイロットはいまだ認められていませんので、飛行データの参考が欲しいのです」
この時代、西側の士官学校は婦人の入校を認めていなかった。
史実を参考までに言えば、米軍は1980年、仏軍1983年、自衛隊1992年である。
婦人兵は、後方支援や医療部隊にのみ認められていたのだ。
そして仏軍に至っては、1951年の規定によって既婚者は一切軍務に付けないとされていた。
この規則*7は、1980年代に仏軍からはなくなったが、イスラエルなどでは部分的に存続している。
軍隊は、現代社会に残された男の砦の一つであったのだ。
さて、アイリスディーナの話に戻そう。
彼女はビジネスマンの誘いに即座に返事が出来なかった。
それは階級が少尉という下級将校であったばかりではない。
申し出た相手が、西側の米国人だったためである。
軍上層部や政治局、議会の承認なしに自由に動けない案件だった。
「申し出はありがたく承ります。ですが、上司の許可を頂かねば……」
それが彼女にできる、精一杯の答えであった。
遠くの席から議長は心配そうにアイリスディーナを見つめていた。
そんな議長をよそに、彼の隣に座るアーベル・ブレーメに熱心に語りかける男がいた。
「ソ連を武装解除するには貿易が一番です。
実はわが社ではコーラ原液の代金の代わりとして、ウォッカを受け取っていたのですが……
去年のベルリンであったソ連の軍事介入未遂で、ボイコット運動が起きましてね。
その代わりと入っては何ですが、ソ連海軍の潜水艦や駆逐艦を購入する計画を立てているのです。
その資金からソ連向けのタンカーを買って、ソ連の石油を全世界に安く販売するつもりなのです」
そう語るペプシコーラの営業マンの脇にいた議長は、静かだった。
冷ややかな視線を送りながら、紫煙を燻らしながら聞いていた。
なるほど、今回の東ベルリンでのアメリカ産業博覧会の真の目的は東側の市場参入。
チェース・マンハッタン銀行会長を頂点にいただく石油財閥にとって、東ドイツは有益な市場。
いや、資本主義経済から取り残された東欧、アラブ、アフリカ。
彼らにとって、まさに未開の
清純な乙女を口説き落として、我が物にする。
まさに、ドン・ファン*9そのものではないか。
だが、石油も出ず、わずかに出る
何も売るもののない東ドイツにとって、今回の話は、まさに天祐。
貧すれば鈍する。
八方ふさがりの末の身売りともいえる。
だが、金満家の老人の妾になると考えれば、納得がいく。
立ちんぼ*10の娼婦より、
東独議長を務める男はそう考え、ドイツ人としてのわずかばかりの
1600万人の国民を食わせていくためには、泥を被ろう。
俺が悪人になって、大勢の国民が救われるのなら……。
散々悪いことをしてきたのだ、今更わずかばかりの良心など持っていて、どうになろう。
いま目の前にいる
彼女でさえ、国のためにゼオライマーのパイロット、木原マサキに嫁がせたのだから……
そう思って飲むペプシコーラの味は、ひどく苦く思えた。
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