冥王来訪(ハーメルン投稿版)   作:雄渾

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 マサキは、ユング事件を追うべく、西ドイツに飛ぶ。
BND本部に乗り込んだ後、ある屋敷に案内される。
そこで待っていた意外な人物とは…… 



飽経(ほうけい)風霜(ふうそう) 前編(旧題:忌まわしき老チェーカー)

 場面は変わって、西ドイツ・バイエルン州。

同州の南部に位置するオーバーバイエルン行政管区ミュンヘン郡。

 この近郊にあるシュタルンベルク湖畔の田舎町、プラッハ・イム・イーザルタール。

深い森の中にひっそりとある建物は、周囲を2メートル以上ある高い壁に覆われていた。

 緑の多い駐車場に、一台のメルセデス・ベンツのW116*1が入ってきた。

渋いブルーグレーの280SEセダンから出てきたのは、一人の紳士。

ボルサリーノ*2の濃紺のソフト帽に、ゼニア*3の濃紺のシングルブレストスーツ姿。

「これか。連邦情報局(BND)の秘密本部とは」

 

 東洋人の男の目的は、BNDではなかった。

この秘密機関の創設者である老人をおびき出すべく、BND本部を訪れていたのだ。

 男は、トランクからジュラルミン製のアタッシェケースを取ると、BND本部の中に入っていく。

駐車場の近くにある一般来訪者専用の入り口から、訪問窓口の受付に直行する。

「もう閉館ですよ」

 まだ14時にならない時間である。

さっとアタッシェケースを受付嬢の目の前に見せつける。

「このカバンが、なんですか」

 さりげなく受付嬢に鋭い視線を投げかけた。

その時だけ男の目は鋭くなるも、直ぐに柔和な表情に戻った。

「私の名刺代わりに、クラウス・キンケル*4さんに。

お会いしたいのでね。ぜひ」

「オホホホ、誰に会いたいですって」

「ここの責任者のクラウス・キンケル長官に」

 BNDの第3代長官のクラウス・キンケルは、弁護士出身で、当時43歳。

西ドイツ政界で権勢を誇ったゲンシャー外相*5秘蔵(ひぞ)()として有名であった。

 史実において、ゲンシャーは、1974年から1992年までの18年間外相の地位にあった。

彼は、作家トーマス・マン*6が、1952年に語ったとされる言葉を座右の銘にしていた。

『我等が求めるのは、欧州あってのドイツ国家であり、ドイツ国家あっての欧州ではない』

 このような人物であったので、西ドイツは無論、東ドイツでも彼の人気は高かった。

史実での統一直後後、彼が率いた自由民主党(FDP)への東ドイツ国民の入党が相次ぐほどであった。

 無論、ゲンシャーの対東欧、対ソ融和姿勢は、ワシントンから早い時期に警戒された。

そして彼のその様な態度は、東ドイツに付け入るスキを与えるのに十分なものであった。

 ここで、ゲンシャーという人物の過去を振り返ってみよう。

彼自身は、ハレ出身で、青年期に国家社会主義労働者党(NSDAP)の正式党員となり、国防軍に志願した。

 東ドイツ建国後は、ドイツ自由民主党(LDPD)に参加していったが、1952年に西ドイツへ亡命。

 自由民主党(FDP)に入党し、1954年に青年部副部長になったのを皮切りに、1965年に政界入り。

4年後には、1969年には内相の地位を得るほどの頭角(とうかく)(あらわ)していた。

 

 受付嬢の態度は終始、東洋人の男を馬鹿にしたままだった。

冷めた一瞥を男にくれたまま、顔をゆがめ、笑いを浮かべる。

「気は確かですか、旦那(ヘル)

紹介状もなしに()おうだなんて……

まあ一年ぐらい待ったら、お断り(ナイン)という返事ぐらいはいただけるかしら」

 Nein(ナイン)とは、英語でのNO(ノー)である。

彼は、言外(げんがい)に帰れと言われたも同じであった。

「この資料を見たら、会って下さると思うんですがね」

「ちなみに、何の資料?」

「ゼオライマーに関する資料です」

「オホホホ、あなた、新聞記者かしら。オホホホ」

「私は、鎧衣(よろい)左近(さこん)

ただのしがないサラリーマンです」

「どこかで、聞いた名前ね」

 受付嬢が困惑する間に、鎧衣は一人でエレベーターホールまで直行しようとする。

女は、人を小馬鹿にしたような態度から一転し、顔を朱色に染める。

「ちょ、ちょっと、お待ちなさいよ。あんた」

 受付嬢は、興奮のあまり、引き出しから黒の自動拳銃を取り出す。

それは、ザウエル・アンド・ゾーン*7社の、最新式のP220であった。

 しかし鎧衣は、不敵の笑みを浮かべるだけで、堂々とエントランスホールの中に入っていった。

その後を、受付嬢は、すごい剣幕で追いかける。

 まもなく、鎧衣の目の前に現れた黒のスーツ姿の若い女性。

彼女は、後ろで拳銃を構える受付嬢に、こう忠告をした。

「そんなもの、おしまいなさい」

受付嬢が、自動拳銃をしまったのを見届けた後、件の女性は会釈(えしゃく)をして来た。

「私は、クリステル・ココットと申します。

ここの相談窓口の担当官をしております」

 若い女の顔を見た瞬間、鎧衣にはピンとくるものがあった。

目の前の娘は、ただの女子職員ではない。

恐らく、BNDお抱えの女スパイであろうと……。

 年のころは、18から20歳前後か。

ココットという名前は、ドイツ人の姓ではまずない名前だ。

 おそらく、フランス語のCocotte(ココット)に由来する偽名であろう。

cocotteの意味としては、小ぶりの(ふた)つきの両手鍋の事を言う。

そこから派生して、両手鍋を使った煮込み料理一般をさす言葉であった。

 特殊な事例としては、第二帝政期*8からベル・エポック*9の高級娼婦の代名詞である。

今日では、かわいこちゃんという言葉の意味に変化した。

 ココットとは、なかなか、しゃれた偽名を付けたものではないか。

鎧衣が不敵に笑うと、若い女は、妖艶(ようえん)な笑みを浮かべながら、彼の方を向いて。

「今、クラウス・キンケルは留守にしております。

お部屋を用意しますので、そちらでごゆっくりお待ちください」

 

 別室に連れていかれた鎧衣は、そこでキンケル長官を待つことにした。

もっとも、彼は、女の言葉を信じていなかった。

 事前に把握していたキンケル長官の日程では、連邦議会でへの出席をしている最中(さいちゅう)

しかも、連邦議会の場所は、ノルトライン=ヴェストファーレン州の南端にあるボン。

ここバイエルン州ミュンヘン郡にある、プラッハ・イム・イーザルタールから450キロ先だ。

 おそらく女は、この監視カメラ付きの部屋に、閉じ込めておくのが目的。

もう少ししたら、西ドイツ軍の警備兵を大勢連れてきて、尋問でもするつもりだろう。

胸ポケットから取り出したダビドフ*10の葉巻に火をつけて、暫しの時間を過ごすこととした。

 (あん)(じょう)、女は一人で来なかった。

後ろから黒い覆面を付け、深緑色の西ドイツ軍の野戦服を着た一群を引き連れてきた。

 彼らの手には、ヘッケラー・アンド・コック*11社の最新鋭の短機関銃、MP5が握られていた。

この機関拳銃(マシーネン・ピストーレ)は、1960年代にはすでに完成していたが、売り上げは決して芳しくはなかった。

 短機関銃としては自動小銃並みの値段で、対抗するトンプソンやイングラムM10、スエーデン製のカールグスタフm/45と比すると、高価格帯であった。

 事態を変えるのは、1977年のルフトハンザ航空181便ハイジャック事件である。

同事件において、西ドイツ警察精鋭である連邦国境警備隊のGSG-9が、人質救出作戦にこのMP5を用いた。

 パレスチナ解放人民戦線(PFLP)に所属する4名のハイジャック犯を、5分の間に無力化した。

正確な射撃を行うMP5は、捕らえられていた90名の乗員・乗客を傷つけることなく、3名のテロリストを射殺し、1名を捕縛することに成功した。

 この事は、MP5の国際販売戦略に裨益(ひえき)した。

今日(こんにち)では西側の法執行機関において、短機関銃といえば、MP5という不動の地位を得たのだ。

 

 

「何が目的なの、貴方の目的は何なの……

お金なの……」

 丸腰の鎧衣に向け、女はP9S拳銃*12を向ける。

その途端、ピューンという音とともに、銃弾が拳銃をかすめた。

 女はマグナム弾の衝撃で、持っていた黒の自動拳銃を取り落とした。

周囲の人間は、一瞬の出来事に理解が追いついていないようだった。

 まもなくすると、その場に、拍手が鳴り響く。

応援として来ていた西ドイツ軍の兵士たちが振り向くと、一人の男が立っていた。

「やはり、欧州随一のスパイ組織、ゲーレン機関となると……

その辺の、やくざ者顔負けの、興味深い見世物(ショー)を披露してくれる」

 スミスアンドウェッソン社の回転拳銃(リボルバー)を手にした、若い東洋人。

薄い灰色の長袖の開襟シャツに黒のスラックスの姿は、一見すると大学生風である。

「誰だ……、お前は!」

「俺は、木原マサキ。

人は、悪魔の科学者と呼んでいるぜ……」

 マサキは周囲を見回し、M29を懐中にしまう。

8.375インチ*13の銃身を誇る拳銃は、隠蔽性に欠けるが、彼の気分を楽にしてくれた。

「木原……、アッ!!」

 木原マサキという名を聞いた女は、途端に驚愕の色を示す。

それは紛れもなく、天のゼオライマーのパイロットの名前だったからだ。  

「撃たないでッ!」

 マサキは、周囲の喧騒をよそに不敵に笑った。

その声を聞いたココットは、居ても立ってもいられない焦燥にかられる。

「やるわね。

でもあなたは生き延びて、ここを再び出られない……」

 ココットの言葉はかえって逆効果だった。

マサキの感情を刺激し、興奮させ、鼓舞させた。

 もう抵抗しないという確信を、マサキに(いだ)かせたのか。

マサキのやり方を変えさせることとなった。

「お前より、俺の方が優位になっていることを忘れないでほしい」

 これは、自分の立場を逆手に取った、マサキの誘いの言葉であった。

果たせるかな、ココットは去られては困ると思ったか、マサキの方に歩み寄った。

「何ですって」

 ココット自身の驚きと焦りが、体の動きにも声にも、顕著に表れていた。

こんなはずではない……という思いは、マサキへの畏怖へと変わっていった。

焦りに焦らされ、知らない内にマサキの術中(じゅっちゅう)にはまって、感情的な驚きの声を上げてしまう。

「今撃てば、永久にゼオライマーの秘密は手に入らない。

それでもいいのか!」

 マサキは、この異界において、西ドイツにとって、かけがえのない情報源の一つであった。

長年シュタージの対外諜報部門・中央偵察管理局(HVA)の機関長を務めた、マックス・ヴォルフの顔写真をもたらした等である。

 マックス・ヴォルフは、1951年からシュタージ少将として、ソ連の意向のままに動き、KGBを支援した。

その際、米軍は彼の存在を察知していたが、人相までは把握できなかった。

 それ故に、「顔のない男」と称され、4000人の間者を操る怪人*14として恐れられていた。

マサキがシュタージ本部から盗んだ、膨大な顔写真と職員名簿の一部は、BNDの活動に陰ながら裨益(ひえき)したのだ。

 そんな人物を、もし一発の銃弾で失うようなことがあれば……

ついにココットは、仕方がないとあきらめた。

「ま、負けたわ」

 護衛たちは短機関銃から弾倉を取り除くと、静かに地面に置く。

そして、ココットは、彼等に下がるように命じた。

「みんな引き上げて。今すぐに!」

 彼女の一言で、ドイツ軍のコマンド部隊は、片手で奉げ銃の姿勢をとる。

そして軍靴の音を響かせながら、即座に部屋を後にした。

「これで、邪魔者はいなくなったわ」

 マサキは大きな不安をいだきながら、交渉のチャンスを狙っていた。

もっとココットが焦ってからと、何度も言い聞かせていた。

 その点ではマサキの方が辛抱強かった。

むしろココットの方が、焦燥感(しょうそうかん)を抱くほどであった。

「さあ、早く!貴方の条件を言って」

 言葉を切ると、ココットはタバコに火をつけた。

銘柄はアール・ジェイ・レイノルズ社のセーラム。

1956年に発売された世界初のフィルター付きの薄荷(ハッカ)タバコで、婦人層に人気の商品であった。

「ゲーレン機関創設以来の、過去30年の外国人スパイ名簿が欲しい」

「ホホホホ、そんなものがある訳ないじゃない。

スパイは過去を抹消しているのよ」

 教えることはココットの立場上、出来なかった。

BND本部の資料室に手を引いて導けば簡単なのに、あくまでも非協力の姿勢を崩さなかった。

「給与明細書ぐらい残っているだろう。

BNDはいかにCIAのドイツ出張所とは言えども、出納帳(すいとうちょう)ぐらい残っているだろう。

どのスパイにどれだけの金額を払ったか」

 ココットの吸うセーラムのハッカ特有の強烈な匂いが、部屋中に広まる。

その香りに酔いながら、しかし鎧衣は、話がまだ終わりではないという確信を抱いた。

 かつて同じような経験があったからだ。

特別な情報に接触した、実務経験の少ない若いスパイは、興奮のあまり相手の術中にはまる。

その様なことが、彼の経験上、多々(たた)あったからだ。

「ゲーレン機関の創設メンバーに会わせてくれ。

あんただったら、それくらいの事は簡単に出来るだろう」

 

 夕刻、プラッハ・イム・イーザルタールから程近い、ベルクに来ていた。

シュタルンベルク湖畔(こはん)東岸にあるこの村は、バイエルン候の為に作られた離宮があった。

そして、第四代バイエルン王のルートヴィヒ2世終焉(しゅうえん)の地でもあった。

 近くから遊覧船は出ているが、湖畔にある多くの城は、いまだ個人所有で、観光地にも程遠い。

人口5200人*15ほどの寒村で、本当に何もない、辺鄙(へんぴ)な場所であった。

 マサキが、このような場所に来たのは、訳があった。

ここはバイエルン州有数の高級住宅地であり、連邦政府関係者の隠居(いんきょ)所の一つでもあったからだ。

 閑静(かんせい)な住宅街の中にある、一軒の住宅。

それはBND創設メンバーの一人で、ゲーレン機関の長の邸宅であった。

 屋敷に着いて、20分ほどすると、一人の老紳士が杖を突いて現れた。

年のころは70歳過ぎであろうか。

「ラインハルト・ゲーレン*16じゃ。

BNDの創設者でもある」

 老人は言うなり、マサキ達が座るテーブルに腰掛けた。

メシャムのパイプを取り出すと、タバコを詰め、火をつける。

「そりゃ、無理という物だ。

スパイが顔と本籍地を知られたら、どうなる」

紫煙を燻らせている老人やココットに合わせるように、マサキもタバコに火をつけた。

「しかも、金銭授受(じゅじゅ)の資料まであったら、それは死刑宣告を出されたも同じだ……

教えるわけにはいかんね」

 老人は改めて、マサキの方を向いた。

不敵の笑みを浮かべているマサキが、何とも不思議だった。

「だが、わしらはゼオライマーの秘密が欲しい。

ある人物に届けなければ、我らの様な闇の住人は、それこそ闇の中に沈んでしまう」

「貴様らを消せるような存在があるとは思えないが……」 

「それがあるんじゃよ」

 ゲーレンは、どこか楽しげに言った。

マサキには、理解に苦しむ笑みだった。

*1
メルセデスが1972年から1980年に販売した5人乗りの高級自動車。全世界で47万台が販売された

*2
イタリアに本社を置く帽子製造会社。1875年創業

*3
1910年創業。エルメネジルド・ゼニアによって創立されたイタリアの高級服地メーカー

*4
Klaus Kinkel, 1936年12月17日 - 2019年3月4日、ドイツの政治家、弁護士。BND長官、外相、副首相を歴任した

*5
ハンス=ディートリヒ・ゲンシャー、Hans-Dietrich Genscher、1927年3月21日 - 2016年3月31日、ドイツの政治家

*6
パウル・トーマス・マン。1875年6月6日 - 1955年8月12日。ドイツ出身の小説家、評論家。1933年から1953年までドイツ国外に亡命生活をしていた

*7
1791年創業のドイツの銃器メーカー。1980年にスイスのSIG社が筆頭株主になったため、以降はSIGザウエルと社名を変更した

*8
Second Empire,ナポレオン三世の治世の事。1852年から1870年までの22年間を指す

*9
Belle Époque,仏語で素晴らしき時代の意味。1871年から1914年までのパリが繁栄した時代を指す

*10
Davidoff,スイスの葉巻・たばこメーカー。2006年以降は英国のインペリアル・タバコに買収された

*11
1949年創業のドイツの銃器メーカー。ドイツ軍向けの他に各国の治安機関などにも銃器を収めている

*12
ヘッケラー・アンド・コック社が1970年に開発したダブルアクション式の自動拳銃。9x19mmパラベラム弾を使用する。1970年から1995年まで販売されていた

*13
1インチは2.54センチメートルなので、8.375インチは、21.2725センチメートルとなる

*14
正体のわからない、不思議な人物。怪人物の事

*15
1970年当時。2018年現在の人口は、8296人

*16
1902年4月3日 - 1979年6月8日。ドイツの軍人、官僚




 桶の桃ジュース様、昼月2022様、ご評価ありがとうございました。
忌憚なき、ご意見、ご感想お待ちしております。


簡単な諜報機関の組織図に関して

  • KGBやシュタージの組織図が欲しい
  • 挿絵や図表は不要
  • 著者に一任する
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