冥王来訪(ハーメルン投稿版) 作:雄渾
そこで義妹リィズ・ホーエンシュタインに対する己の激しい情念を知る。
西ドイツ・バーデン=ヴュルテンベルク州に属する都市、バーデンバーデン。
同地は欧州最大の温泉で、国際的な高級保養地として世界から多くの保養観光客を迎える美しい街である。
およそ2000年前の古代ローマ時代に発見され、重宝されたが、中世以降は衰退した。
18世紀以降、
19世紀には保養所が作られ、カジノなどの遊興設備が盛んになり、大規模な温泉施設が整備された。
今も当時の面影を残す施設としては、フリードリヒ
夏休みの家族旅行で、バーデンバーデンに来ていたテオドール・エーベルバッハの気持ちは、ドキドキだった。
昨年の春先に東ドイツから亡命してきたテオドールにとって、温泉という物を見るのは初めて。
一応、養父であるトマス・ホーエンシュタインは、東独出身でありながら、温泉という物を知っていた。
彼は、左翼作家のベルトット・ブレヒト*1の最晩年の内弟子の一人であったので、東欧の保養地を知っていた。
ブレヒトに連れて行ってもらった作家同盟の旅行で、隣国ハンガリーの温泉地にも出かけたことがあるし、チェコのカルロヴイ・ヴァリで飲泉をしたこともある。
だが娘のリィズと義理の息子テオドールは、東独以外の暮らしや文化を知らなかったので、本当に驚くばかりであった。
本当の温泉を教えたいトマスは、全裸で入浴ができるフリードリヒ浴場へ案内してくれた。
もう一つの浴場であるカラカラ・テルメは、大規模なプールや屋内外にサウナを兼ね備えたレジャー施設。
水着着用が義務で、基本的に日帰りの温泉だった。
フリードリヒ浴場は、バーデンバーデンを代表する大浴場である。
19世紀に建造され、ルネサンス様式の建物を有し、カジノ場やレストランが充実していた。
ナポレオン三世やブラームス、ドストエフスキーなどが滞在した由緒ある場所でもあった。
ドイツの入浴施設は基本的に混浴である。
一応男女別の日も設定されてはいるが、夕方以降は基本的に混浴だった。
更衣室も、男女別の日以外は、男女共用で、全裸の婦人がいても男の
事前に準備していたトマスは、家族旅行を男女別の日にし、予約を取ることにしたのだ。
理由は、息子のテオドールと娘のリィズが思春期だったからだ。
いくら兄弟として分け隔てなく育てたとはいえ、思春期であれば、羞恥を感じるだろう。
何よりも恐れたのは、男女の間違いに発展する事であった。
いずれは義理の息子であるテオドールに、本当の家族になってほしいという願いはあった。
だが親心としては、あと4年ほどは彼らに自制してほしいという気持ちもあったのだ。
広大なフリードリヒ浴場は、15の施設に分かれていてた。
これは、1877年の開園当時からの伝統で、およそ2時間ほどかけて移動するように設定されていた。
まず冷水のシャワーを5分間浴びた後、摂氏54度と68度の熱気で満たされた温室でそれぞれ5分間休憩する。
温水のシャワーを1分間浴びた後、8分間の石鹸とブラシによる洗浄を受ける。
ブラシの洗浄は、
その後、45度と48度のサウナをそれぞれ5分ずつ経た後、36度の温泉に10分間浸かった。
36度の温泉は、東洋人の我々からすると非常にぬるく感じる温度ではある。
だが欧州では、28度から36度の低い水温の温泉が一般的だった。
一説には寒さに強い白人種は、汗腺の数が黄色人種に比して少なく、暑さに弱いことが原因とされている。
基礎体温が高く、筋肉量の多い彼等からしてみれば、日本の温泉は熱く入っていられないという。
この温泉の水温の違いは、文化的な背景や人種の差異が大きかった。
36度の温泉の後は、34度の
そして、その後はフリードリヒ浴場の目玉である28度の湧水浴場に移るのであった。
テオドールは、更衣室で分かれたリィズと遊水浴場で会うことになっていた。
遊水浴場は、建物の中央にあり、数百畳ほど。
照明は、天蓋の隙間のガラスから入ってくる天然光のおかげで、はっきり周りが見えるほど明るかった。
奥の方に、大理石で作られた古代ギリシア風の浴槽がある。
数十人は入れそうな大きさで、既に湯が満ち、薄っすらと湯気が立っている。
今自分は、古代ローマの大浴場にいる……
ふっと、現実世界から浮遊したような奇妙な感覚に、テオドールは陥った。
「思ったより、早かったね」
気づくと、そこにはリィズがいた。
一糸まとわぬ姿は、まるでモデルに細くて、均整の取れた抜群のプロポーション。
長年一緒に暮らしてきたテオドールでさえ、どきりとしてしまうような、素晴らしい体だ。
義妹は湯船に腰かけて、こちらを見ている。
赤裸のテオドールを前にして、相変わらず、全裸の肢体を隠そうともしない。
それはまるで、アキダリウスの泉に佇む、愛の女神ヴェーヌス*3を思い浮かべさせる。
時間帯のせいだろうか、義妹の他に誰もいない。
偶然とはいえ、貸し切りの状態だった。
「早く入ろうよ」
そういって、テオドールとリィズが湯船に身を浸した。
リィズと向き合う形となったテオドールは、頬の赤みが増してゆく。
湯の温度は28度と、それほど熱くない。
体が温まったという、言い訳が付かない赤面だった。
リィズは、背泳ぎする形で、テオドールの傍に近寄ってくる。
津々とわく温泉を泳ぐリィズの裸身が、湯の中から透けて見える。
隣に座ったリィズは、テオドールの姿を見ると、唇をほころばせる。
まだ少女のあどけなさを残した顔に、蠱惑的な笑みが広がった。
義妹に芽生えてきた大人の色香を感じ取ったテオドールは俯き、湯の中に浸った半身に目をやった。
美しく盛り上がった乳房となだらかなにくびれた腰。
本当に奇麗だ。
こんなに奇麗な義妹を
狂おしいほどの感情が、テオドールの中にのた打ち回った。
それは今までに感じた事のない激情だった。
切ないという感情にも似ているような、嵐のような激情だった。
あえて言うのなら嫉妬だ。
誰に対しての嫉妬だろうか。
でも、今の自分はリィズにふさわしい人間だろうか。
語学の才能があるリィズのように推薦を受け、ギムナジウムに入り、
西ドイツの制度は、
精々なれるのは自動車整備工の資格を取るか、板金や塗装工の道だろう……
自分で、自分が嫌になる。
どうして、マイナスの面にばかり考えるのであろうか……
14歳になるテオドールの進路は厳しいものであった。
画一的な義務教育制度のある東独と違い、西独は戦前からの段階的な教育制度だったからだ。
義務教育は15歳までで、10歳になる段階で進路を決定し、上級学校を選択するしかない。
大学進学を選ぶ場合はギムナジウムしかなく、ここに入らねば職人や
そして男の場合は、18歳から45歳までの兵役義務が課されていた。
1956年に制定された兵士法と兵役義務法によって、18か月の兵役が課された。
一応、良心に基づく兵役忌避も可能であったが、厳しい審査と精神鑑定が要求された。
審査委員会での査問を受けるのだが、その際に多少弁の立つものが有利になる仕組みが出来ていた。
その様なシステムなので、口がうまく
デア・シュピーゲル紙の報道によれば。
1977年の段階で15万人の兵役免除が認められたが、その多くは良家の子弟や大学生だった。
田舎の百姓より、フランクフルトやハンブルクの出身者が優遇される傾向があった、という。
西ドイツでも兵役忌避者の扱いは、よくなかった。
兵役忌避の場合は、20か月以上の代替服務を要求され、大概が土木工事や医療介護などの筋肉労働であった。
後に
有力子弟の間で兵役忌避の方法として好まれたのが、西ベルリンへの移住である。
西ベルリンは西独の勢力圏ではなく、米英仏の支配地だったからだ。
兵役忌避者で、大学入学資格を持つものは、西ベルリンのベルリン自由大学への入学を希望するのが一般的だった。
西独では大学入学資格を持っていれば、入試なしに、他の大学に自由に移籍できる制度があった。
その為、大学入学資格を持つものは、空いているほかの国公立大にはいた後、ベルリン自由大学に移ることが続発した。
そこで上級生からヒッピー思想や環境問題を刷り込まれ、反戦反核運動に身を投じる者も少なくなかった。
1968年の学生運動以降、そういった卒業生たちは、自分たちが忌み嫌った官界に大挙して入るのが時流だった。
その問題に関しては、後日改めて話をしたい。
さて、テオドールを取り巻く環境は厳しかった。
実科学校や職業訓練校に行けば、兵役の際に有無を言わさず、兵卒に回される。
雑誌プレイボーイやビルトなどの記事を見れば、西側の軍隊でも厳しいしごきやいじめはある様だ。
米国では、ベトナム戦争に従軍した兵士が、今でも、前線でのPTSDによる後遺症で苦しんでいるという。
軍が運営する孤児院にいたテオドールは、東独軍内部の不条理を実体験として知っていた。
慢性化したソ連の
西ベルリンに移住するにしても、移民の子だから、審査は厳しい。
それに壁の向こうは東独なのだ。
シュタージや国家人民軍の影がちらついて、落ち着く暇もなかろう……
テオドールの思考は、ここで途切れた。
誰かが、東ドイツに関して話しているのを耳にしたからだ。
思わずそちらの方を向き、耳を澄ます。
東独での習慣で、噂話という物に敏感になっていたからだ。
声の主は、50歳ぐらいの太った紳士と、中年婦人だった。
裸で、浴槽の
「なんでも、今度の事件では、議員や官僚だけじゃなく、情報機関まで捜査されたそうね……
どこにスパイがいるかなんて考えると、本当に怖い話だわ」
「奥さん、今はこのドイツにも東側の間者が沢山いますからね。
知り合いだと思って、うっかりして、色んな事を話せない時代になりましたよ」
丸坊主の壮年の男が、相槌を打つ。
彼は見た感じ、ユダヤ人であることが分かった。
「いや、恐ろしい話ですな。
ソ連を調査する
「全くですな。
こう言う時世だから、気を付けねばいけませんよ」
ローマン・アイリッシュ浴場の天蓋の中に、笑い声が響き渡る。
西ドイツも、東と同じようにある種の監視社会なのだな……
再び回想に入り始めた時、テオドールは自分の名前が呼び止められて、ハッとなった。
天蓋の奥から、養父母のトマスとマレーネが姿を現したのだ。
「何をぼんやりしてる」
全裸の二人は、テオドールの姿を見つけ、こっちに近づき、声をかけたのだ。
脇にいたリィズは、いつの間にかローマン・アイリッシュ浴場を離れ、休養室の方に進んでいた。
温泉から出たテオドールたちは、その後、湯治客向けのカジノなどを視察し、レストランに足を運んでいた。
バーデンバーデンは温泉地でありながら、観光客向けの設備は充実していた。
郷土料理や地酒を出すレストランに、宿泊施設を併設したプール。
一部の高級ホテルには、湯治客向けの医療施設等が付随している。
別料金を払えばフィットネスセンターやエステもできるスパーもあった。
だが保養観光客は、街中にある種々の施設を自由に利用するのが一般的だった。
また近郊に行けば、酒蔵があり、そこで好みのワインなどを買い求めることも出来た。
バーデン州には火山性土壌が広がっており、そこで作られる葡萄酒にはミネラル豊な味わいの物が多かった。
「では、家族の健康を祝い、乾杯」
トマスの音頭で始まった夕食は、普段食べられないような豪華なものだった。
郷土料理のケーゼ・シュペッツレを始めとして、豚肉やパスタをふんだんに使ったものが所狭しと並ぶ。
初めて口にする赤ワインも、テオドールの暗い気持ちを緩和させた。
西ドイツは法律によって、両親の同席の元ならば14歳から低度数のワインの飲酒が許可された。
同様に低度数のビールは、16歳になれば、飲酒が許可され、購入も可能だった。
ウオッカやスピリッツなどの蒸留酒は、18歳以上から飲酒と購入が許可された。
タバコは、20歳以下に販売した店は、罰金刑の対象になったが、購入者を罰する法律はなかった。
その為、14歳から15歳で喫煙をする児童も少なくなかった。
統制国家の東ドイツも同様で、未成年の喫煙にはそれなりに苦慮していた。
「テオドール、君はどうしたいんだい」
ほろ酔い気味のテオドールは、義父の声に耳を傾けた。
自分は、ただ唯一の家族であるホーエンシュタイン家の人間と暮らしたいだけだ。
リィズが
これからも一緒に暮らせばいいではないか。
テオドールは、おどおどしながらも答えた。
「俺は、リィズと一緒にいたいだけです。
リィズが嫌じゃなければ、一生一緒にいてもいいと思っています」
テオドールは、おずおずと顔を上げた。
対面のリィズは、夢を見ているかのような表情を浮かべ、長い金髪をかき上げる。
白い雪の様な肌が、薄っすらと朱に染まり、汗を浮かべている。
何か、大変な事を言ってしまったのだろうか……
テオドールは、背筋を駆け巡る羞恥の電撃を感じながら、下唇を嚙んで俯いた。
リィズの父、トマス・ホーエンシュタインが、なぜシュタージから危険視されたのであろうか。
彼が、シュタージやKGB関係者の言うところの『反体制派のブルジョアジー作家』だったからであろうか?
いや、そんなのを関係なしに、シュタージは文化人やマスコミ関係者を監視していた。
元々、東独はソ連の衛星国として成立した歴史からして、自由な報道などはあり得なかった。
作家や音楽家、映画監督などは作家協会に参加したうえで、人民警察の審査を受け、自由業の許可をえた。
つまり、特別に選ばれた人間の集まりだった。
ベルトルト・ブレヒトのように、対外宣伝のために自由な振る舞いを許される少数の例もあった。
だが、大部分はシュタージの監視付きだった。
シュタージの首領・ミルケの事を悩ませたのは、1968年のプラハの春事件だった。
シュタージの予想に反し、軍内部からの非難と知識人による署名活動が自然発生的に起こった。
その事に恐怖を感じたミルケは、次のように述べたという。
「敵は、特にマスコミや文化人の中に存在している。
古いブルジョア思考や生活習慣の残滓、彼ら特有の能力や感心、理想を敵対的行動に乱用しようと試みている」
ミルケは、プラハ事件の国民や
自由業とは、東独当局の許しを得た5業種17職種の事である。
5業種は、芸術家、作家、医師及び
17職種は主に作家や芸人、
その他に、医師、歯科医師、獣医師、産婆の医療関係者。
公的機関に属さない教師や科学研究者の学術研究者。
設計業、国営輸出入会社所属の輸出業者、インストラクター、建築家及び発明家など多岐にわたる。
営業許可は県及び県警から出され、問題があれば即座に営業禁止が言い渡された。
東独の自由業は、一種の特権階級であった。
記録によれば、1989年時点で東独全土で15722人。
これは東独の全労働人口の0.2パーセントであるが、社会的な影響は強かった。
そして何よりも、彼らは優遇税制の対象となり、税負担は年収の2割で済んだ。
例外として、助産婦は1割の負担で、エンジニアと建築家は1970年から優遇対象から除外された。
自由業者の支持政党は、東独を支配するSEDの衛星政党である
彼等の権益は、LDPD支部からSEDに通達され、SEDの権益を損じない範囲なら許可される形だった。
つまり自由業とはいえ、SEDの怒りを買えば、SEDの認めた範囲内での自由は奪われた。
即座に許可が取り消され、職業活動が禁止された。
東西ドイツに知名度があり、西ドイツで出版活動のできる作家や海外公演の出来る監督や俳優は何とかなった。
だが、医師や教師は診察や研究そのものを禁止されたので、文字通り死活問題だった。
ちなみに、1979年当時の作家同盟の会長はヘルマン・カント*7という男で、彼はシュタージの秘密工作員だった。
9人の作家による選集「ベルリン物語」が作成されそうになると、彼らをシュタージに密告し、除名処分にした。
カントは東独文学界を指導する立場であり続け、あらゆる栄誉に包まれた。
統一後の1990年代に、シュタージ工作員が露見すると、田舎に隠居し、悠々自適の暮らしを行った。
そして、時折マスメディアに平然と顔を出しながら、過去を反省することなく90歳の大往生を遂げた。
トマスの一人娘であるリィズは、ホーエンシュタイン家がシュタージに目を付けられたのは党幹部子弟との喧嘩が原因だと考えていた。
実はリィズ自身も何度も、総合技術学校*8の上級生の男子から声を掛けられ、遊ぶように誘われることがあった。
だが上級生の卑しいうわさを知っていたリィズは、演劇活動を理由に交際を断り、上級生をがっかりさせたことがあった。
リィズに声をかけた上級生の父は、国家人民軍の露語通訳で、将校待遇の軍属だった。
公共・公安関係の職種に就く人間は反体制的な言動ばかりか、西独に親族が多いだけでも警戒した。
シュトラハヴィッツ少将のように戦前からの友人がいて、交際している程度なら黙認されることもあった。
だが、あまりに露骨な場合は強制的な辞職に追い込まれた。
辞職しても、再就職先は経験を生かせない炊事婦やウェイター、炭鉱労働者などの肉体労働者になるしかなかった。
自由業者の営業の自由はなかったが、闇屋は別だった。
堂々と新聞に中古車譲渡の広告を載せて中古車を販売したり、国営企業から盗品を使って家のリフォーム*9などをするのが横行するほどだった。
国営企業からの盗品は、広く共産圏にみられる光景である。
給与の遅配が一般的だったソ連などでは、工場の終業のチャイムが鳴ると、備品を持ち出すのが当たり前だった。
1990年にある大学教授が、ソ連をバイクで冒険旅行した際には、そのような事例を目撃したという。
モスクワ近郊のトリヤッチ市の自動車工場を訪問した時である。
終業のチャイムと同時に、従業員の殆どは、自動車のフロントガラスやドアを抱え、正門から帰宅を急いでいた。
気になった教授が彼らに確認したところ、堂々とエンジンやワイパーまで持ち出す最中だったという。
宗主国、ソ連でそうなのであるから、東独内部の規律弛緩や汚職もひどかった。
同様な事例は、東欧やソ連関係者の回顧録や見聞録に枚挙にいとまがない。
共産主義の言うところの、「生産手段・生産物などすべての財産を共有」なのであろうか?
ゴルバチョフは、生前この事を、「俺の物は俺の物、
東独の国家貿易の殆どを担ったのは、対外貿易省の商業調整局である。
これは、以前のマサキのドレスデン訪問回でお話ししたココ機関の別称である。
正式には国家保安省通商調整担当局と言い、ゴロトコフスキ*10の直轄組織だった。
ゴロトコフスキ―自身は貿易省次官だったが、同時にシュタージ特務大佐でもあった。
ココ機関は、税関で押収した違法品や奢侈品を幹部の求めに応じて上納するのが一般的だった。
中には、脱税を理由に自由業者から美術品を没収し、それをそのまま幹部に転売することもままあった。
そして、西独からココ経由で日用品や奢侈品を輸入し、時には国禁のポルノグラフィティすら収めたりもした。
つまり、ゴルトコフスキ―は、国営の闇屋のボスだったわけである
そしてそれらを監督したルディ・ミッティヒ*11は、1963年から後方支援総局長だった。
この経済担当の局長は、シュタージ次官を兼務し、後に中央委員会に選出される重役だった。
このようにシュタージは、自分たちが西側の自由社会の享楽を知りながら、東独市民を弾圧する腐敗した機関であった。
スパイ活動を通じて、西側の
なので、シュタージは諜報活動や偽情報工作と共に、最新技術の窃盗にも力を入れていたのだ。
トマス・ホーエンシュタイン自体は、特に反体制活動とは無縁だった。
だが、世界的な左翼作家ベルトルト・ブレヒトの薫陶を受け、その作風は暗に体制を批判する様なものだった。
ブレヒト自身は、1930年代まで放蕩と作家活動を続けた後、NSDAPの政権奪取と共に国外に亡命した。
その後、北欧を転々とした後、モスクワ経由でニューヨークに渡って、カリフォルニアに移住した。
映画『死刑執行人もまた死す』*12の脚本を執筆するなどして糊口をしのいだ。
やがてトーマス・マンとも対立し、亡命ドイツ社会でも浮いた存在になった。
そんな人物が東独に帰国することになったのは、1947年に始まった非米調査委員会が原因である。
1947年10月30日の尋問の翌日、即座にスイスに逃亡し、オーストリア国籍を取った後、東独に帰国した。
当時の西独では、戦前にブレヒトが共産党やSPDに近かったことから、共産主義者とみなしていた。
その為、入国が拒否され、東独に帰国するしかなかったのだ。
東ベルリンに入ったブレヒトは、ソ連と東独政権から歓迎され、即座にベルリナー・アンサンブルと自分の劇団を持つことを許された。
体制批判を得意とする作家は、即座に党幹部から敵視されるも、国際世論を気にし、彼は死ぬまで自由にふるまえた。
だが彼の死後、関係者は逮捕され、その一部が炭鉱での重労働刑に処されるなど、厳しい対応を受けた。
そういう経緯があったので、ブレヒト最晩年の弟子であるトマスは、なにかと敵視される傾向があった。
つまり、トマスは自由業申請をした日より、シュタージの捜査対象であったのである。
東独は、ソ連型の非情で冷酷な監視国家である以上、避けられないことであった。
自由な環境で創作活動をするには、シュタージのスパイになるか、亡命しかなかったのだ。
この一作家の家族の運命は、天のゼオライマーによる東独への武力介入が起きなければ、どうなった事であったろうか。
あの時、KGBの手によって、木原マサキが誘拐され、東ベルリンのソ連大使館に連れ込まれなかったら……
シュミットの反乱未遂事件は、起きえなかったことであった。
ソ連大使館前でのソ連警備兵と、シュタージのフェリックス・ジェルジンスキー連隊の銃撃戦が起きなかったのならば……
シュタージファイルの複写をしていたアクスマン少佐はソ連兵に撃たれなかったであろう。
アクスマンの銃撃事件によって、それまで隠していた悪行の数々が議長の目に止まり、彼は解雇されなかったであろう。
密かに
もし、アクスマンが生きていたら、追放刑を受けた関係者はどうなっていたか。
シュタージに監視されていた、トマスやマレーネ、娘のリィズや息子のテオドールはどうなったかであろうか。
それは、神のみぞ知る運命であった。
久しぶりに原作主人公であるテオドールの動向を書いてみました。
1年半ぶりの登場となってしまいましたが、よくよく考えれば、彼は物語に参加しない方が幸せなのかなと思って、何ともない話を書きました。
ご意見、ご感想お待ちしております。
アンケートもお答えいただければ、幸いです。
作者に書いてほしい話に関して その2(暁の連載にも影響します)
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