冥王来訪(ハーメルン投稿版) 作:雄渾
彼は外交特権と共に人質となったハイネマンの証言を利用した。
九條邸から逃げた
そこには年下の妻が待っている。
穂積の
日ソ貿易をする穂積を取り込むために、九條は
「誰か、おらんか」
鍵のかかってない玄関を開けると、穂積は
家にいる家政婦は、いつも朝4時に起きて家事を行っているので不審には思わなかった。
穂積は、明日からのソ連への逃避行に夢中で、警戒心は薄れていたのかもしれない。
だが部屋に入ると家政婦はおろか、妻の姿は消えていた。
部屋は荒らされていて、争った形跡がある。
ルイ・ヴィトンの旅行鞄がひっくり返り、持ち出すはずだった有価証券や宝石類が散らばっている。
その時、部屋にある黒電話が鳴った。
聞き覚えのある妙に平板な日本語が受話器から聞こえてきた。
「沙織さんはこちらで預かっている」
KGB大佐の男で、大阪総領事館の警備部長だった。
穂積は、焦りを感じると同時に最悪の事態は免れたことへ、すこしだけ安堵した。
指定された場所は、右京区嵯峨の大覚寺だった。
穂積は受話器を叩きつけて、部屋を飛び出した。
大覚寺は、今より1200年前の
現存する
平安期から残っているのは、敷地の中にある大沢池という人工池であった。
大沢池のほとりにいくと、屈強な二人の男が立っていた。
穂積の妻の沙織は、黒の
「穂積さん、待っていましたよ」
「妻を返してもらおうか」
その瞬間、閃光が走った。
穂積の脇腹に、7.62x25ミリのトカレフ弾が撃ち込まれる。
穂積は悲鳴を上げると、その場にうずくまった。
ソ連人の男は、凄惨な笑みを面に浮かべる。
「あなた方には、
屈原とは、古代支那・春秋戦国時代末期の詩人で、
「
屈原が生きた春秋戦国時代後期、楚の国は西方の
秦の宰相・張儀の危険性を察知した屈原は、張儀の危険性と楚の滅亡の危機を楚王や政治家に進言した。
だが、聞き入れられられず、中央の政界より遠ざけられた。
それから十数年も経ぬうちに楚の首都が秦によって占領されると、先を憂いて、
大男は穂積の妻を抱えると、一気に投げ入れた。
絹を引き裂くような鋭い悲鳴と共に、彼女は大沢池に沈んでいく。
「ソ、ソビエトに連れてってくれるんじゃ……」
この
だが現実は非情だった。
「あなたに生きていられると、この先、困ることになる……」
KGB大佐は
「さようなら、穂積さん」
漆黒の闇の中、2発の轟音と共に赤い線が走った。
穂積の腹部を銃弾が貫く。
穂積は絶叫をとどろかせながら、大沢池の中に消えていった。
KGB大佐は、握っていたマカロフ拳銃を池に放り込む。
そして懐から一通の封筒を取り出すと、脱がせておいた穂積の靴の上に置いた。
それは偽造した穂積の遺書で、将来の日ソ関係を憂いて自殺したという内容のものだった。
大佐は紫煙を燻らせながら、不敵の笑みをたたえる。
日本人の多くは穂積が屈原に
もしもの為に、妻沙織の遺書も偽造しておいた。
不妊症に悩んだ末の自殺という、いかにも人を
ロシア人は時折、暗殺や破壊工作をするとき、ケアレスミスをすることがある。
かつてエカチェリーナ2世が幽閉していたピョートル3世は突如死去した際、暗殺が疑われた。
ロシア政府は噂をかき消す為に、ピョートル3世の死因は痔の悪化と発表する。
世人はロシア政府の見え透いた嘘を聞いて、失笑を送ったことがあった。
またソ連も同様で、KGB機関では雑な自作自演は日常茶飯事であった。
レーニンの暗殺未遂事件を起こしたとされるファニヤ・カプラン。
事件発生の3日後、形ばかりの裁判すらされず、銃殺刑に処された。
この事件を契機に
穂積が深い暗闇に沈んだのを確認すると、男たちは安心したかのように笑みを浮かべる。
口に火のついたタバコを咥えながら、何食わぬ顔をして、男たちはその場を立ち去った。
誘拐されたハイネマンは、大津にある別邸ではなく、
引っ越し業者のトラックに偽装した車で、滋賀から福井に伸びる国道161号線を移動して、連れ去らわれたのだった。
ハイネマンは目隠しと手錠をされたまま、薄暗い地下室に連れてこられた。
部屋に入るなり、目隠しと手錠を外され、床に放り出される。
周囲を見渡すと、白い壁しかない部屋の真ん中に、銀髪の美女が立っていた。
ギリシア彫刻を思い起こさせる様な整った顔に、ポニーテールでまとめられた長い銀髪。
透き通るような雪肌から浮かぶ、
東欧系のスラブ人にしては、胸の発育もよく、くびれた腰も扇情的だった。
すらりとした長い脚も、ハイネマンでは無ければ、目を奪われたであろう。
トルコ人の踊り子が身に着けているようなベリーダンスの衣装も、ハイネマンを困惑させた。
女はハイネマンの目の前で、いきなり腰にあるカフカス風の短剣を取り、
「な、何をする」
驚くハイネマンを後目に、短剣を鞘から抜き出すと、妖しい踊りと共に剣を振り始めた。
ハイネマンは、恐怖のあまり、切っ先を必死に追いかけた。
「あなたはグラナンの技術者、フランク・ハイネマンですね」
女のアメリカ英語の発音は、CNNのニュースキャスターよりうまかった。
「はい」
ハイネマンは、女の振るう剣の煌きに心を奪われていた。
つまり催眠術にかかっていたのだ。
「いいですか。
あなたは人類の平和のために、ソ連へF‐14の最新技術の全てを提供するのです」
ハイネマンはうつろな目をして、女に答えた。
「はい」
女の正体は、赤軍参謀総長の秘書の一人で、GRU工作員である、ソフィア・ペロフスカヤ。
ロシア皇帝アレクサンドル2世暗殺を首謀した、
彼女はESP発現体だが、
その代わりに優れた
F‐14のデータを得るために、GRUが直々に福井に潜入させていたのだ。
敦賀に、ソ連領事館があることに疑問を持つ読者も多いであろう。
ここで簡単に作者から、説明を許されたい。
かつてソ連領事館は、東京、大阪の他に、敦賀、横浜、
帝政時代のロシア領事館を引き継ぐ形で、敦賀のソ連領事館は、大正14年に開館した。
場所は福井県敦賀市本町2丁目で、今は日本原子力発電株式会社 敦賀事業本部の建物が立っている。
なぜ敦賀が選ばれたのか。
敦賀港は、日本海貿易の一大拠点で、古代から国際都市であった。
先史時代より海運が盛んで、朝鮮半島や支那大陸の玄関口でもあった。
江戸時代には
近代以降は、鉄道網が整備され、鉄道と船での物資輸送の拠点として栄えた。
1899年以降は、国から開港場*3の指定を受け、ウラジオストックからの直通便が来るようになった。
そして、人道の港と称される歴史もあった。
1920年代のソ連革命の際のポーランド孤児の上陸地点や、1940年のリトアニアにいたユダヤ人難民の中継地の一つなどである。
日本政府が関わったポーランド孤児の問題や、杉原千畝の命のビザの話は雑多になるので後日改めて話したい。
さて、ソ連が何故、総領事館をここに置いたか。
敦賀が、ウラジオストックやナホトカからほど近いという事情があったからだ。
大量の工作機材や人員を、船で速やかに送り込むことができるためであった。
我々の世界では、昭和19年に対ソ情勢悪化を理由に閉鎖された。
冷戦中、ソ連は日本海側に総領事館の建設を望んでいた。
ソ連崩壊後の1991年に、新潟と函館に総領事館を置いている。
設置理由は、ロシア人の個人輸入業者や湾港労働者が新潟港に出入りする為だった。
多くのロシア人湾港労働者に紛れて、対日有害活動をしている拠点と今日では考えられている。
史実より再び、異界に目を転じてみよう。
領事館の地下にあるガラス張りの電算室を、外から覗く者たちがいた。
ソ連戦術機技術者のスホーニー*4と、GRU工作員の男だった。
「それにしても驚いたな。
天才戦術機設計技師として知られていたフランク・ハイネマン博士……
しかも、こんな形でお目にかかれるとは」
「蛇の道は蛇。
スホーニー博士だって国内では権威じゃないですか」
ハイネマンは一心不乱に図面データを電算機上に書いていた。
当時は三次元CAD・CATIAは存在したが、フランスの航空機メーカー・ダッソーの秘密特許だった。
1977年に実用化するも、市販される1981年まで一般には流通しなかった。
それゆえ、1960年代に出来たSketchpadでの製図が一般的だった。
「私は熟練の設計技師にしかすぎん。
彼の独創性とアイデアには遠く及ばない……」
ソ連では、青焼きの図面が一般的だった。
電子計算機の普及が遅れていたこともあるが、最新機器はロシア人の考えにはそぐわない面もあった。
過酷な環境で暮らすことを余儀なくされたロシア人は、用心深い性格だった。
最新の精密機器の故障は、氷点下20度を下回る環境では死に直結する。
そういう考えの元、開発から15年から20年以上たち問題点が洗い出された技術しか信用しなかったのだ。
「現に3人では1か月はかかろうという設計を1日で完成させようとしている。
凄すぎる」
ソ連のコンピューター開発は、開発者を管理するKGBの極秘体制が
技術的処理をソ連の文献からよりも、西側の科学雑誌から盗作するほうが簡単だという傾向が支配的になっていた。
この傾向は、ソ連のみならず、衛星国の東独、ルーマニアでも一般的で、大々的なスパイ作戦が実施された。
中ソ対立にあった中共も同様で、早い段階からIBMや関連する企業の中に大規模なスパイ団を抱えていた。
それは次第に戦術機開発の面にも影響していた。
戦術機は、最新鋭の電算機技術が使われているからである。
GRU、あるいはソ連にとって、今回の作戦は起死回生の方策の一つであった。
2度目の月面攻略作戦を成功させるには、ESP専用機であるBETA精神探索マシーンが必要であると考えていた。
敵の思考を知ることが出来れば、彼らを超能力者を使って、催眠術で操作できる。
万策尽きかけようとしていたソ連は、その様なオカルト的な考えに走っていたのだ。
自慢の核飽和攻撃も、自走砲やロケットによる砲撃も、細かい粒子の舞う月面では効果を発揮しなかったからだ。
補給線も地球から遠い月面では厳しく、特攻隊を送るメリットも少なかったからだ。
故にハイネマンを誘拐して、F‐14のデータを入手し、新型機を作ることとしたのだ。
その頃、マサキ達は福井県警本部に居た。
マサキ達が逮捕したGRU工作員とKGB工作員の合同チームは福井県警本部に任意同行を求められた。
だが敦賀総領事館からきた男によって、彼らは連れ出そうとする。
男は、ハイネマン博士の営利誘拐目的で逮捕状が出されているアターエフの出頭要請を拒否した。
ウィーン条約に基づく外交特権に当たるとし、彼らの即時解放を求めたのだ。
県警本部前では、ソ連領事館職員とマサキ達によるにらみ合いが起きていた。
10人乗りデラックスタイプのトヨタ・ハイエース3台から、屈強な男たちが下りてくる。
男たちは作業服姿だったが、一目見ただけで、普通の船員や湾港労働者ではないことが鎧衣は判った。
ほぼ全員が拳銃を帯びていたことから、KGBやGRUの工作員であることは明確であった。
「なぜ、日本政府はなにもせんのだ!
俺に一声かければ、目障りなソ連のボロ船など一撃で沈めてやるものを!」
マサキは、白い煙を吐き出しながら言った。
彼は一向に進展しない状況に苛立ちを覚えており、それを抑えるためにタバコを燻らせていた。
「今下手に手を出せば、ソ連にいる我が国の外交官が危ない。
彼等が何もしないはずがないのは、君自身が良く知っているだろう」
前の世界でも、同様の事件があったな……
1970年代にあったソ連軍情報部のGRUが日本の陸上自衛隊に諜報活動を行ったコズロフ事件。
事件発覚時、元
彼等は、GRUより乱数表*8を渡され、ソ連から暗号指令を受けていた。
そして防衛庁内部から持ち差された資料への見返りに、高額の現金を授受していた一大スパイ事件である。
コズロフ陸軍大佐*9は、外務省を通じて警視庁から出頭要請を受けるも、即日帰国し、事件はうやむやの内に終わってしまった。
ソ連は本事件への報復として、グルジア訪問中の
それから時間を置かずして、ソ連駐日大使は福井県庁にある福井県政記者クラブで会見を行った。
そこには誘拐されたはずのハイネマンが、総領事と同席していた。
新聞各社のカメラのフラッシュがたかれる中、総領事が口を開いた。
「ハイネマン博士は、非公式訪日中のスホーイ博士との会見を敦賀の総領事館で行っただけであります」
その新聞社は、戦前からKGBとの関係が噂される会社だった。
「では、事件性はないとの認識ですか」
「はい。
潔白を証明するために、この場を用意しました」
総領事の言葉に、その場に同席した記者ならず、マサキ達でさえあきれ返った。
この期に及んで、潔白を言い張るとは……
「潔白の証明は……」
一ツ橋に移転したばかりの新聞社の記者が聞いた。
極左で知られる新聞社で、最近は経営難で苦しんでいることで有名だった。
「少し心苦しいのですが、今は亡き
「こ、故人?」
「私の古い友人である九條雅也です。
ハイネマン博士、スホーニー博士、双方の知人である九條氏の仲介でソ連領事館で会合が持たれました」
マサキは男の言葉に裏を書かれた気がした。
なぜなら日本政府は五摂家の関与を隠すために、この事件の首謀者を九條の娘婿である穂積に限定しようとしていたのだ。
九條が御剣の手で殺されたことが露見すれば、批判は日本政府に向かうかもしれない。
「ハイネマン博士、貴方の口から説明なさるのがよろしいでしょう」
「は、はい……」
そういうとハイネマンは立ち上がった。
ハイネマンの顔色が悪く、傍目に見て
所々に意識の
マサキは瞬間的に、酒あるいは何かしらの薬剤の影響を受けたかのような印象を覚えた。
おそらくヘロイン系の薬物でも投与されたのではないかと疑うほどだった。
ハイネマンは深く息を吸うと、表情を改めた。
かつての部下であるミラ・ブリッジスと、曙計画を通じて知り合った篁。
そして二人の息子のユウヤ。
彼等を、ソ連の魔の手から救うために覚悟を決めての会見だった。
「スホイ博士との会見をしたのは事実です。
米ソの雪解けの為に、戦術機のあるべき姿を模索しようとしての話し合いを行ったことは否定しません」
(「き、切り札を……
この件の最大のキーマンであるハイネマンを奪われた」)
ハイネマンの記者会見の様子は、マスコミにより、日本全国に報道された。
その様子は、京都にある帝国陸軍参謀本部でも映し出されてた。
3階にある第二部長室では、軍事探偵たちの悲憤が響き渡っていた。
テレビ越しに、何もできないことを悔やんでいたのだ。
「畜生!
それじゃあ、俺たちが今までして来た事は、何だったのですか!
必死で裏付けを取った資料までも、全部無駄だったんですか」
若い背広姿の中尉は、分厚い捜査資料の乗った机をたたく。
「……彼が穂積の仕立てた車に乗ったのは事実だ。
だが、ハイネマン博士の証言が証拠として最優先になる」
「しかし、穂積はソ連の影響下にある人間でしょう。
裏でGRUからどういう指示を受けたか、わかりませんよ」
第二部長は、窓際から振り返って答える。
「その通りだ。
だが立証できなければ、ただの憶測にしかすぎん」
若い部員たちは一様にうなだれる。
「ソ連側が簡単にぼろを出すような工作をすると思うかね。
しかも、駐日大使閣下直々のお出ましだ」
男は
「我々は、ソ連外交のウルトラCに負けたのだよ」
言葉を切ると、第二部長はタバコに火をつけた。
部屋にいる士官たちは
福井県庁から出てくるソ連大使たちは意気揚々としていた。
正門の前に立つ記者たちを後目に公用車に乗り込もうとしたとき、大使の目にマサキの姿が目に入った。
「木原さん、アナタ詰めが甘かったようですね」
大使は、
「その様だな」
「悔しいだろうが、これが国際政治の世界の力の差だよ」
マサキは不敵に笑った。
「九條という
次は貴様らの番だ、楽しみにしておれ」
マサキはそういうと、タバコに火をつける。
そして、小ばかにしたように右手を振って、その場を後にした。
大使の顔から余所行きの上辺の笑みが消える。
深い憎悪に身を震わして、マサキにこう忠告した。
「次はないですよ、木原さん」
マサキは一瞬、驚愕の色を顔に浮かべる。
「今度はこちらから攻めさせてもらいますよ」
不振、不安、怒り。
そうしたものを全て含んだ、
「アナタの秘密が何であるか。
このソ連が全力で調べさせてもらいますよ」
ご意見、ご感想お待ちしております。
ソ連の今後に関して
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