冥王来訪(ハーメルン投稿版) 作:雄渾
深刻な食糧不足に陥っているとの話を聞いたマサキは、単身ワルシャワに乗り込む。
ポーランドで待ち構えている者とは……
ワルシャワ 前編(旧題:バルト海遥かなり)
1979年10月。
クーデター軍を打倒し、日本政府の実権を握ったマサキたちは、新政権樹立の準備を急いでいた。
藤堂を首班とする臨時内閣の組閣作業をしているところ、一通の外交秘文が持ち込まれた。
内容は、ポーランド政府が逼迫する食糧事情を鑑み、援助を願い出るものであった。
それらは、特別顧問を務めるマサキの元にも届けられた。
文書を読んだマサキは、不快感を隠さなかった。
「何、食料を買う為の資金援助を受けたいだと」
マサキの問いに、
「今のペースで行けば、1年足らずで国庫の中にある金が完全になくなると言っています」
なぜポーランド政府が、そのような文書を各国政府に送ったのか。
それは、当時のポーランド情勢が非常な混乱化にあった為である。
既に40年以上前の事であるので、読者諸賢とともに過去を振り返ってみることにしよう。
1979年当時のポーランドは、長年にわたる経済政策の失敗に天候不順による農業不振等が加わり、マイナス成長に陥るなど経済的混乱が続いていた。
ポーランドの戦後経済体制は、ソ連を模範としたもので、自給自足を旨とする
独立独歩と聞こえが良いが、スターリン式の旧態依然とした鍬と鎌で切り開こうとする手法である。
こうした方法は戦後の混乱期にある程度の効果を発揮したが、1960年代以降は各面で行き詰りが明らかとなってきた。
1970年の段階で食肉値上げの全国ストが発生し、グダニスク暴動の責任を取る形でウワディスワフ・ゴムウカ*1が退陣*2した後、エドワルド・ギエレク*3が首相になった。
ギエレク政権は、1971年から75年にかけての第4次5か年計画において、対外依存を高める政策転換を打ち出した。
しかし余りにも急激な方向転換は、その後の政策運営の失敗や環境条件の悪化も加わって、ポーランドの国内情勢を混乱させる遠因となっていた。
遅れた工業化を実態以上に近代化しようとし、生産増大に結びつかなかった。
また西側から導入した最新の生産設備や先進技術は、その生産に必要な西側の原材料や部品を必要とし、輸入依存度を高めたことも問題だった。
たとえば国営工場でフィアット125Pを作るにも、イタリア製の部品がないとできないといった状態だった。
これは今までのソ連やコメコンを中心としたモデルが破綻したことを意味するものだった。
農業も同様に、集団化と個人農場の拡大を巡る問題で混乱していた。
だが、それ以上に大きかったのが、1974年以降の天候不順とそれに伴う農産品の輸入増であった。
このような政策面での失敗に対して、中央からの指令は遅れがちであった。
とくに需要の変化に対応して,きめ細く機動的弾力的に対応することが必要である。
だが、共産党一党独裁という意思決定の分権化が欠除した体制ではそれは困難であった。
こうした面に対処するため、ポーランドでは中央の直接統制が強化された。
その結果、経済は縮小への道をたどることになったのである。
以上が史実での1979年のポーランド情勢である。
マサキがいた異界では、加えてBETAという問題が横たわっていた。
1976年前後から起こっていたソ連ウクライナ方面での戦争は、ポーランド東部の流通網を壊滅的に破壊させるのには十分だった。
1945年以降ポーランドの領土に編入された旧ドイツ領の西部地域と違い、東部地域は移動の自由を制限したロシア帝国の政策より鉄道網や道路網の整備が遅れていた。
その為、ウクライナ方面からの100万単位の避難者への対応は、この国のインフラを破壊し、社会的混乱を増大させるには十分だった。
この様なBETA戦争でのポーランドの混乱は、政治面でも東西間の緊張を高める一因となっていた。
「本当の話なのか?」
マサキの問いに、どこからか現れた鎧衣が応じる。
「本当か、うそか、調べもせずに、我が国が援助する理由はないだろう」
「それもそうだな」
「余計なことに首を突っ込むより、無視した方がいいのでは」
マサキは、椅子から立ち上がると、煙草に火を点けた。
ポーランド政府の声明に応じないより、応じた方がいいかもしれない。
この提案を足掛かりにして、ポーランドから東欧諸国での反ソ工作を活発化させるのも悪くはない。
「恐らく、他のG7諸国もキャッチしているはずだ」
「つまり、各国の出方を観ろと」
鎧衣は不敵の笑みを浮かべる。
「呑み込みが早いな。上手くやれ」
ポーランド政府との個人的連絡先がなかったマサキは、イタリアの技術者ダンテ・ジアコーサ*4を通じて、ポーランドでの工作を開始することにした。
彼個人の考えとしては、東独に引き続いて、ポーランドを説得し、東欧諸国を中心とした反ソ連合を結成させることが目的だった。
ジアコーサを通じて連絡を取ったのには理由があった。
ジアコーサが、フィアット社の顧問だからである。
イタリアの自動車メーカーフィアットは、中興の祖ともいえるヴィットリオ・ヴァレッタ*5が社長である時代、進んで共産圏に投資を行っていた。
米国からの圧力が加わるも、ジュゼッペ・サーラガト*6などの知人を通じて政界を動かし圧力を交わして、東欧諸国やソ連での事業を拡大した経緯があった。
特に戦前から関係の深かったポーランドでは、フィアットからライセンス認証を受けた国営工場でフィアット・125、フィアット・126を生産していた。
フィアット・126は、126pの名称で、FMSで1973年から2000年まで生産された長寿車種であった。
以上の経緯からマサキは、ジアコーザ博士*7からの紹介状を元に、ポーランド政界の実力者と見られている人物に逢うことにしたのだ。
マサキは、ジアコーサが手配した党幹部と接触する前に、ワルシャワにある
125pの生産ラインに案内され、そこの総務部長であるマリノフスキーの説明を聞きながら、今から起こるであろうことを考えていた。
アイリスディーナとの出会いもそうであったが、大体奇麗所が連れてこられ、美人通訳や美人ガイドなどがぴったりくっついて来る。
十中八九、治安当局の手の物であろうが、怖いのは未成年者だ。
婚姻年齢に達していない娘などを仕立てられる可能性は高い。
幸い、アイリスディーナの時は、婚姻に際して保護者の許可がいるとはいえ、18歳だったから良かったものの、それより下の場合は困ったものだ。
好きな男がいるか、聞いて断ることにしよう。
マサキは、色仕掛け作戦が前提であることを予想しながら動いていた。
果たせるかな。
事態は、マサキの懸念通りになった。
工場見学の後、ワルシャワ郊外にある集合住宅の中にあるマリノフスキー総務部長の自宅に招かれていた。
そしてマリノフスキーの娘とその友人を紹介されたのであった。
まず娘のイレーナから紹介を受ける。
年齢は、1963年生まれの16歳。
腰まであるブリュネットの髪を分け、網下げにしている。
髪型のせいか、マサキには、イレーナの事が年齢の割にはいささか幼く見える気がした。
次に紹介されたのは、カーヤ・ザヨンツ。
イレーナと同じ1963年生まれで、長い黒髪をストレートのまま伸ばしている。
背丈はイレーナと同じ160センチ前後で、胸はやや小さい。
何か言いたげな表情をしているのが気になったが、マサキはとりあえず無視することにした。
マサキが黙っていたのは理由があった。
東欧諸国共通の外国語であるロシア語とドイツ語は一通り話せたが、ポーランド語が全く話せない為であった。
それ故に、マリノフスキーとの会話は、通訳を介したもので、すべて英語だった。
一応ロシア語は、1956年以降簡略化されたものがコメコン諸国で使われていたが、ポーランドの国民感情として忌避されることがままあった。
マサキは英語と、時にはドイツ語で話すことにしたのだ。
最後に紹介されたのは、シルヴィア・クシャシンスカという娘だった。
年齢は1964年12月26日生まれの、14歳。
髪は白銀に近いプラチナブロンドで、幾分かウェーブのある髪を青いリボンでポニーテールに結っている。
マサキはシルヴィアの髪の色に感動した。
白に近いプラチナブロンドは人口の2パーセント程度で、二次性徴以降でこの色を保ているのが珍しい為である。
大概が幼少期の内に変色し、くすんだ金髪や茶髪になるからだ。
それにシルヴィアの胸の大きさは、14歳の少女とはいえ、感服すべきものがある。
いずれベアトリクスやアイリスディーナの双丘よりも大きくなるのは、間違いないと確信させるだけのものがあった。
ただ気弱そうな少女なのか、マサキが視線を向けるとずっと俯いたままだったのが気にはなっていた。
しかし……14歳の娘まで仕立ててくるとは、ポーランドの連中は何を考えているのだろう。
俺も、よほどの色きちがいに見られたものだ。
マサキは、ホープの箱を取り出してタバコを咥える。
火を点けながら、どうやって彼女らの事を断ろうかと考えるのであった。
マサキは東独での自身の経験と、鎧衣たちの忠告から会う人間がスパイであるという前提で行動をしていた。
ユルゲンやヤウクのような、反共思想を持っている人物であるとわかるまで。
いや、完全に白と判明するまで、必要最低限の事しか発言しないと決めていた。
反露・反ソ的なポーランド人とはいえ、今のポーランドは一党独裁の社会主義国。
どこにKGBのスパイや協力者がいてもおかしくはないと疑ってかかっていた。
それ故に、イレーナやカーヤとは会話らしい会話をしなかった。
政治的関心が強く、議論好きなドイツ人と違い、性格は優しく穏やかな人が多いのも大きかった。
社会主義政権の慢性的なモノ不足から、待たされることに慣れており、1時間ほど待たされても文句を言わない人々だった。
マサキは、まず不愛想さにひどく驚いた。
だが、東欧圏の人間は西側の人間と違ってスレてなく、シャイな人々であることを思い出し、娘たちの誰かが話しかけてくるまで、黙っていることにしたのだった。
それから。
マサキは、遅めの昼食をマリノフスキー宅で馳走された。
ポーランドでは一日4回以上の食事が一般的である。
7時前後の朝食に、10時過ぎの間食、14時過ぎの昼食――場合によっては16時以降に軽い間食――、20時過ぎの夜食といった具合だ。
今日でもその習慣が色濃く残っており、夕餉より昼餐をメインとし、時間をかけて楽しむのが習慣で食文化圏である。
都市部では一日3回に代わってきているが、依然として一日の重要な食事は昼餐である。
これはドイツ・東欧圏の文化的習慣で、厳しい冬場に夜間の暖房や光熱費を抑える為の対策であった。
その為、夜は冷えたハムに、チーズ、固いパンなどの軽食がメインで、晩餐を中心とするのが一般的だ。
これは中世以来、夕食をメインとするに日本人にとっては奇異に感じられる習慣かもしれない。
だが、ドイツ語圏、東欧やロシア文化圏では今日も優勢である。
マリノフスキーの家で供された食事は、その材料も味付けも単調かつ粗末であった。
トウモロコシの牛乳粥、酸っぱいキャベツの漬物、茹でたジャガイモが一斉にテーブルに並んだ。
特に感じたのは、東独に比して食肉の類が少ない事であった。
ザピエカンカと呼ばれるお好み焼きは、炒めた玉ねぎとキノコをチーズと一緒に生地に乗せて焼いてあったが、肉はなくトマトケチャップが駆けてあるのみ。
バルシチ*9に至っては、薄い赤い色をした汁の中に、水餃子が浮かんでいるだけで、肉の類は一切入ってなかった。
しかもピロエギと呼ばれる東欧風餃子は、肉ではなく干ししいたけだった。
日本のホテルで食べたボルシチと違い、ビーツ*10は、たっぷりで具はあまりなく、味が薄くて水っぽいものだった。
マサキは、その味の素朴さに
ライ麦を使った酸っぱいパンは、硬くて、中身はスカスカ……。
柔らかい方の白パンは、白砂糖が降ってあり、とんでもなく甘かった。
聞くところによれば、近所の夫人たちが総出で作ったもので、特に料理好きのシルヴィアの母が指導したという。
社会主義政権とはいえ、ポーランドでの女性の社会進出は遅れていた。
宇宙飛行士や航空機パイロット、工学博士に広く門戸を広げていたソ連。
1970年代末で、成人女性の8割が就業していた東ドイツ。
働き口の多いチェコスロバキアやハンガリー等々。
それらと違ってポーランド女性は、就職先が単純になかった。
政府統計や数字の上では女性の社会参加は増加していることになっていたが、実態は違った。
工場での求人は多くが男性で、女性が就職するには少ない募集から順番を待つか、有力者とのコネが必要だった。
その為、地方、特に東部地域では、私有地で農作物を育てるぐらいしかなく、女性の多くは家事や育児に時間を割いていた。
食料品は流通の関係から思うように手に入らず、既製服の多くは品質が粗悪で、また東独の様に家事代行サービスも未発達だった。
既婚女性の多くは、自分で布地や毛糸を買い求め、服を自作したり、家事労働にかなりの時間を割くしかなかった。
一応社会主義国特有の低価格の食堂は存在したが、少ない食材から作る料理は品目が少なく、野菜や果物の欠乏からビタミン不足になりがちだった。
故に、ポーランドの主婦は専業・兼業を問わず、夏場に野菜や果物を買い求め、漬物やジャムを準備するしかなかった。
そして一番の問題は、ポーランド政府自身の方針である。
共産国は、婦人就業率を引き上げるのに、制度や法律、歴史的価値観の改変によって、いわゆる婦人の社会的地位向上を行った。
婦人を1人でも多く家庭から出して、女性が働いたほうが良い生活を送れるという宣伝煽動を行った。
このような政策の為に、多額の資金を費やし、現物給付を段階的に増やし、女性就業率を増大させた。
だがポーランド政府は1960年代まで保育所などの整備をして以降、家族関連の政府支出を増やさなかった。
理由は、ポーランドの国体を守るうえで、カトリック教会と家族制度が重要な役割を果たしたので、無下に歴史的価値観の改変が出来なかったのである。
ポーランドは1918年の独立回復まで1世紀以上にわたり、亡国の状態であった。
民族の伝統や歴史のよりどころとなったのは、カトリック教会であり、個々の家庭であった。
家庭教育を通じての民族感情と歴史の維持は、ポーランド社会の根底であり、共産政権もそのことをむげには出来なかった。
それは丁度、1968年以降、「ナチスの否定」という形で過去を否定し、戦争の清算に走った西ドイツと正比例する物であった。
西ドイツでは、あえて「子どもを持たない」という選択をした女性が増加し、高学歴者ほど割合が高くなっている。
これは、戦後日本も同様で、生涯一度も子供を産んだことのない女性の割合は急増している。
昭和25年*11生まれで、10.6%であったが、昭和35年*12生まれで17.5%、昭和45年*13で28.4%、昭和55年*14生まれでは29.9%と、年を追うごとにその割合は高まっている。
これらは、男女雇用機会均等法が成立した1980年代以降、フルタイム就業をする女性が、家庭と仕事の両立の困難さから子どもを持つことを諦めて就業していることがの一要因となっていると考えられるが、そればかりではないだろう。
敗戦国という事で、過剰なまでの自虐史観教育により、日本人としての誇りを失っていることも影響しているであろう。
人は、犬猫のように環境を整えて、十分に食料があるからと言って増えるものではない。
おのれの属する集団に誇りを持ち、確固たる信念を持ってこそ、初めて成り立つものである。
金や物を配る、保育所や育児休業を増やすなどのインセンティブばかりではダメなのだ。
日本もドイツも、民族そのものを否定するサドマゾ的な自虐史観にどっぷりつかった国である。
これを直さない限りは、子供も増えて行かないだろう。
貧しい国のポーランドの国民が丹精込めて作った郷土料理なのだろうが、マサキには合わなかったのだ。
こういう食の楽しみもない生活をしていれば、心のよりどころとしてローマーカトリックにのめり込むのも仕方なかろう。
ドイツの時もそうだったが、電気を消して薄暗い中で蝋燭の灯りだけで、冷えたパンやサラダだけを喰う生活。
気に入った娘がいたと言って、こういう欠乏社会から暖衣飽食の日本社会に連れ出すのは、ある意味自己満足にしかすぎぬのではないか。
「あなた、何かしゃべったらどうなの?」
カーヤ・ザヨンツは、訝しんだ顔をしながら、紅茶を差し出してきた。
マサキは、カップに鼻を寄せて、匂いを嗅いだ。
酒の匂いがする!
カップを顔から遠ざけたマサキは、たまらずドイツ語で尋ねた。
「酒を入れただろう」
一瞬間をおいてから答えが返ってきた。
「それは電流紅茶*15と呼ばれる滋養強壮の飲み物です」
マサキは声のする方に振り返った。
ドイツ語で答えたのは、最年少のシルヴィアだった。
「ポーランドでは、寒い冬を乗り切るためにお酒を少し加えた紅茶を飲む習慣があるんです。
風邪をひいて元気がない時、それを飲んで体を温めて、健康を回復するんです」
「昼間から酒を出すのか」
マサキは
だが欧州人は今日でも昼間から少量の酒を飲む文化圏であることを忘れてはいなかった。
マサキは、知らない土地で
「東洋人はお酒に弱いと聞いていますが、カーヤは親切心から出したのでしょう。
どうか、彼女の行為を無碍にするようなことは……」
マサキは、はっきりとものをいうシルヴィアに驚いていた。
思わず背広の内ポケットに手を伸ばして、ホープの箱を取った。
それまで我慢していたタバコに火を点けると、再び思考の海に潜った。
ゼオライマーの力がある俺は、望めばここに居る娘の一人を連れ出すのは容易である。
だが彼女たちの心まで変えることは、そう易々と出来まい。
アイリスディーナ以上に信心深い娘などからすべてを奪ったとしたら、後が大変だ。
マサキは目の前で食事を囲んでいる少女たちを見ながら、難しい顔色をするのであった。
ポーランドは、現代日本人が思うより信心深い地域で、幾度かの外国支配や、共産時代を通じても堅持された。
似たような境遇である東独以上に、教会が力を持った地域でもあった。
新たな寺社の建設は禁じられたが、旧跡の破却は免れ、また私立の宗教大学も堅持された。
それは各地にある
衛星国の中では、アルバニア、ルーマニアなどは徹底した無神論の政策を進めるのにあたり聖職者や知識人を強制収容所に送り、惨殺した例もある。
またチェコスロバキアやハンガリーのように元々宗教的な関心が薄い所に、共産主義の抑圧が入って、衰退した例もある。
ではなぜ、ポーランドではカトリック教会が存続したのか。
それはこの国の悲劇の歴史と関係するものであったからだ。
ポーランドは17世紀以降、ロシア、オーストリア、プロイセン*16の間でその立場を行き来し、1795年のポーランド分割で独立を喪失した。
1918年の独立回復まで、ポーランド人はその存在証明として、カトリック教会に頼った面があった。
それは以前インド編で話したセイロン*17のシンハラ人*18が、ポルトガルや英国などの対外侵略に際して
その為、1945年以降ポーランドが共産化しても、カトリック教会の地位や影響力は低下させることが出来なかった。
ポーランドの共産政権は、他の国の例に劣らず自民族中心主義を掲げ、大規模なドイツ人追放やユダヤ人の国外退去を実施し、民族主義的傾向の強い政策を推し進めた。
ソ連の影響力を抑えるためであったが、その一方で多種多様な民族をまとめ、ポーランド人化するためには仕方のない政策でもあった。
ポーランドは国土がその国名が示す通り大平原の国で、有史以前から様々な民族が雑居し、定住した歴史がある。
そういう背景の為、共産政権もむやみに教会を排除できなかったのだ。
今回のマサキとの接見は、ポーランド指導部のある思惑によって引き起こされたものであった。
ポーランド女性を仕立てて、マサキの気を引き、愛人にさせるという
その作戦は、19世紀初頭のマリア・ヴァレフスカ侯爵夫人の
当時、この地を解放軍として訪れたナポレオン大帝は新年の祝賀会で夫と招かれたマリア・ヴァレフスカに引き合わされた。
その際、
後に一子アレクサンドル・ヴァレフスキを設け、流刑に遭ったナポレオン大帝のことを思慕しながら、1817年12月11日に31歳で短い生涯を閉じた人物である。
MBPは、1945年にNKVDの指導の元に作られた
その手法や人員は、NKVDを模倣し、無学文盲な労働者や政治犯を中心に編成され、誘拐や拷問、場合によっては殺人もいとわない荒っぽい手法を用いる組織だった。
スターリン死後の1956年、
荒っぽい捜査手法は時間とともに鳴りを潜めたが、内通者による監視制度は残された。
TW*23と呼ばれる密告者を全国にくまなく配置し、ポーランド国内を支配下に置いたのだ。
マサキを自宅に招いたマリノフスキーはTWではなかったが、実は彼の傍に居た。
もし、その場に
通訳は
マリノフスキー氏とその一家、娘の幼馴染であるシルヴィア・クシャシンスカ嬢と母親以外は、すべてMBPの間者であった。
ザヨンツ嬢が、
イレーナは成績優秀で品行方正。
非党員でありながら、上の覚えもよく、いずれは大学の推薦も受け、優秀な幹部教育を受けると見られている人物だった。
同窓のザヨンツは、そんなイレーナを内心疎ましく思っていた。
そこに公安省職員の職員が近づいてきて、ザヨンツの婚約者の犯した罪に対しての司法取引という提案してきたのだ。
彼女の婚約者は、
盗難の罪を告発されたくなければ、協力者になれという一種の司法取引に、彼女は応じたのだ。
ソ連および東欧圏では給与の遅配や不払いにより、備品の略奪、資材の横領が慢性化していた。
一例をあげれば、ソ連の文化相エカテリーナ・フルツェワ*25は、ボリショイ劇場の改装用の資材を横領して、別荘地を建設する
なおフルツェワは、フルシチョフの愛人とする噂が生前から流れていた。
汚職の捜査中、自宅の浴室で不審死しているところを発見された。
死因は急性アルコール中毒、心不全ともされるが、暗殺説もある。
公安省の真の狙いは、ザヨンツではなく、マリノフスキーとその一家であった。
そして娘のイレーナは、この作戦の生贄にもってこいの人材であった。
作戦が成功すれば、それを理由に、マリノフスキーを自分たちの支配下に置く。
作戦が失敗すれば、外国と通じるスパイという事で職を解き、ワルシャワから所払いにするという計画である。
一つ下のシルヴィアは、イレーナに興味を示さなかった時の保険であり、完全な被害者だった。
MBPが東独での作戦を鑑みて、用意した当て馬の一人にしか過ぎなかったのだ。
ソ連の秘密警察では、「標的を取り込み、心理的に逃げ場を失わせる」という特殊技法が揺るぎなく据えられている。
人間の持つ弱点や欠点、欲望を巧みに利用するといった物は、KGBが
戦後日本で起きたラストボロフ事件、コズロフ事件、レフチェンコ事件などは、標的の経済的困窮、政治的信条、あるいは不満やエゴを巧みに突き、秘密を握って引き入れる古典的な戦術が用いられた。
KGBはそういう作戦が抱えた裏マニュアルがあり、そこには外人との接触を行うには人為的にトラブルを作るよう書かれていた。
トラブルに遭った相手を恐喝し、或いは救済して、そこから継続的な協力へとスムーズに誘導するのが最上の手法とされていた。
具体的には、勧誘する人物の性格や背景、家族関係まで徹底的に調べ上げ、そのうえで、資金提供や進学の便宜をちらつかせた。
KGBは状況に応じて手頃な救済を提示しながら、相手を少しずつ組織に取り込んでいく機関であった。
それはいくつもの神話や古典に出てくる悪魔そのものである。
悪魔は、甘い言葉で人々を誘い、堕落へと導いていく。
脅迫をちらつかせ、或いは甘言を弄し、或いは不道徳な関係から、仲間に引き入れる。
その様な手法を取るKGBやGRU、シュタージなどの秘密警察は、悪魔的な組織と評しても問題はないだろう。
色々考えた末、マサキを、ポーランドに行かせることにしました。
という事で、読者希望の多かったシルヴィア・クシャシンスカ出すことにしました。
日向@様、誤字報告ありがとうございました。
週間連載なので、見落としが多く、この様な報告は助かっております。
ご指摘等ありましたら、遠慮せずにお書きいただければ、幸いです。
ご意見、ご感想お待ちしております。