冥王来訪(ハーメルン投稿版)   作:雄渾

201 / 210
 木原マサキ、ポーランドに入る。
その報告を聞いたKGBは、工作隊を派遣するのであった。


ワルシャワ 後編(旧題:バルト海遥かなり)

 今回のマサキのポーランド訪問は、最初からイレギュラー続きだった。

 未成年の美少女紹介に続き、ポーランドの一般家庭の手料理。

極めつけは、夕方まで主要閣僚と会えなかった事である。

 ポーランド政界は混乱の最中にあり、ソ連の実力行使を恐れたのも大きかった。

史実の世界でも、自主労組「連帯」の活動拡大に際して、ソ連の軍事介入を恐れたヤルゼルスキ*1大将が戒厳令を引くという事態になっている。

 反ソ的言動を堅持し、なおかつソ連と敵対関係にある日本国民のマサキと会う事は、危険だった。

1956年*2や1968年*3の基準で言えば、『社会主義共同体諸国の団結強化』を理由に軍事侵攻になりえる要件だった。

 マサキはそのことを承知しており、外交親書の他に、二通の外国高官の私信を持ってきていた。

 まず東独のシュトラハヴィッツ中将から、ヤルゼルスキ大将への紹介状を用意した。

そして、バチカン市国のローマ法王からポーランド国家評議会議長*4あての私信を書いてもらったのだ。

 これは当時のローマ法王が、ポーランド人のヨハネ・パウロ2世だったためである。

マサキは、この工作のためにも、イタリアを利用したのであった。

 

 だがそれは、バチカンとイタリアの根深い対立関係を知らなかったゆえの冒険的行為であった。

もし彼がイタリアの政治風土を知っていれば、この様な事にはならなかったろう。

 中でも最大の誤算は、戦後イタリアの急速な左傾化という特殊事情を考慮に入れなかったことである。

 戦後イタリアでは、敗戦への反動から王制廃止となり、イタリア共産党を主とした強い左派文化が育った。

1968年以降は、共産党以外の極左が社会に進出し、社会の深刻な分断を深めることとなった歴史がある。

 なぜイタリアが左傾化したかという事実は、戦前からのソ連との深い関係があったからである。

読者諸賢には少しばかり歴史解説に付き合ってもらいたい。

 イタリアとソ連の関係は、第一次大戦後に1921年に結成されたイタリア共産党の創設までさかのぼる。

結成時の主要メンバーは、アントニオ・グラムシ、パルミーロ・トリアッティ、ニコラ・ボムバッチ*5などである。

 グラムシは今に続く共産党の思想、構造改革論の始祖であるが、夫人はロシア人だった。

ユーリヤ・アポロニエヴナ・シュヒト*6というユダヤ人で、レーニンとも個人的に親しい人物であった。

なおユリア夫人は貴族の出であり、OGPUの工作員でもあった。

 グラムシには、ユリア夫人との間に、デリオ*7とジュリアーノ*8という2人の子息がいたが、彼らは亡くなるまでモスクワに在住していた。

 モスクワは、ソ連崩壊後でも居住許可がないと生活できない場所である。

なおスターリン時代でもグラムシの書籍は翻訳出版が許されており、特別な立場であった。

 

 パルミーロ・トリアッティは、グラムシの親友で、亡命したソ連で大粛清を生き残った数少ないイタリア共産党の創設メンバーであった。

スペイン内戦にもソ連側の義勇軍として参加しており、戦時中はイタリア国内に居るパルチザンを使って破壊工作を支援した。

 戦後、副首相の座に滑り込み、「サレルノの転換」という名の構造改革を行った。

 構造改革とは、グラムシの思想を受けたもので、現状の社会が抱えている問題は表面的な制度や事象のみならず社会そのものの構造にも起因するものであり、その社会構造自体を変えねばならないとする理論である。

従来の暴力革命に代わって、政府や社会の中から過激な変革を実現するという静かな革命論である。

 トリアッティの率いた共産党は、選挙を通じて第3党の地位を獲得し、政権に加わると国民投票で王制を廃止した。

 急速な改革は、イタリア社会を混乱させるに十分だった。

その為、当時のイタリア人からは「スターリンのイタリア人」と評され、米英から警戒された。

 米国の圧力を受けた後、中央政界から共産党は、地方から議席を取るという戦法を用いて党勢を拡大させた。

1964年にソ連のクリミアにある別荘地で客死(かくし)するまで、影響力を持たせていた人物である。

死後まもなく、ソ連はサマラ州の一都市に彼を記念してトリヤッチ市と任命した。

 

 そういった背景もあり、ソ連はイタリア共産党に特別な支援をし、イタリアの政財界に各種の工作を行った。

秘密工作の渦中に居た人物の一人が、レオニード・コロソフ*9である。

 彼は、表向きソ連の高級紙「イズベスチヤ」の記者でソ連国内では小説家兼劇作家だった。

ハンサムで愛想がよく、イタリア語とフランス語に堪能な享楽家であり、交友関係は広かった。

 後に暗殺されるアルド・モロ*10首相、イタリア国営石油会社ENIの社長エンリコ・マッテイ*11、マフィアの首領ニコラ・ジェンティーレ*12、フィアット社長のヴィットリオ・ヴァレッタなど数百人に及ぶ。

有名女優であったクラウディア・カルディナーレ*13とも交友関係*14にあったことは広く知られている。

 ソ連国内のトリヤッチ市にフィアットの技術支援を受けた工場が建設されたのも、コロソフの工作が大きい。

VAZ*15の工場で、フィアット124のライセンスモデルであるVAZ-2101"ジグリ"を生産できたのは、そう言った裏事情があったのだ。 

 

 では身近にいた人物から見たコロソフ像とは、どんなものであったか。

少し長くなるが、V・A・アルハンゲリスキー氏の著作から引用してみることにしよう。 

同氏は、1989年まで「イズベスチヤ」に在籍し、週刊『ニェージェーリャ』編集長、『イズベスチヤ』副編集長を務めた経験を持つ。

ある時、テレビでレオニード・コロスコフ(原文ママ)の姿を見た。彼は私が週刊『ニェージェーリャ』誌の編集長だった時期、副編集長をしていた。あいつ、まだ生きていたのか!というのが率直な感想だった。編集部では彼がKGB工作員だと知らぬ者はいなかったが、誰もそのことはおくびに出さなかった。今は何でも言えるようになった。コロスコフ(原文ママ)は別の道を進んだのだ*16

 戦後イタリアは、ソ連の浸透工作を存分に受けた国だった。

そういった理由で、マサキの作戦は最初からKGBの把握するところとなったのだ。

 


 

 一方、その頃。

ウラジオストックのKGB本部では、すでにマサキの行方を掴んでいた。

イタリア国内に居るKGBの協力者からの情報で、マサキがジアコーサと共にポーランド入りしたことが伝わっていたのだ。

 第一総局長から詳細を渡されたKGB長官は、唸るように叫んだ。

「日本野郎の木原が、ワルシャワに飛んだだと!」

「はい。そのようにローマから秘密電文が届いております」

 シェバルシン第一総局長は平身低頭する。

「まさか奴め、ポーランドで反ソ運動を支援しようというのか」

 当時のポーランドでは、物不足とそれに伴う物価高の為、各地でストライキが続出していた。

のちに自主管理労組「連帯」が起こした様々な運動は、ポーランドの運命のみならず、東欧全体の未来を左右したと言っても過言ではない。

「そうだ。

ギエレクの屑野郎が調子に乗っているから、バカデカい花火を上げてやれ」

 長官の指示に、シェバルシン第一総局長は顔を歪ませる。

「こんなこともあろうかと、ポーランド人部隊を密かに編成させておきました。

12名の特別偵察隊が、既にワルシャワに潜入しております」

 シェバルシンは外交官上がりだったが、筋金入りのKGBだった。

 KGB工作員養成所の東洋学研究所を経て、モスクワ国際関係大学卒業の経歴を持つ立派なスパイだ。

 同大学は9割がKGBに入学し、今日でもその多くがFSBに入省する。

日本で言えば、官僚予備校である東大法学部のような場所であった。

「責任者は」

「サンダーク中尉です」

「そいつは何者だ」

「こちらの手のものです」

「腕は確かなのか」

「同志長官、リャザン空挺学校()の強者で、尚且つ黄色猿(マカーキ)が大嫌いです」

「上出来だ。明日の夜、報告を持って参れ」

 シェバルシンは、かつてマサキに煮え湯を飲まされていたことを恨んでいた。

赤軍参謀総長のインドでの秘密交渉の際、下準備をしたのはインドKGB支部長だったシェバルシンだったからである。

MI6の横やりとゼオライマーの活躍により、インドからソ連本国に戻されることとなったからである。

 メンツをつぶされたと感じたシェバルシンは、マサキの事を抹殺する機会を窺っていた。

この機会を利用し、KGBアルファ部隊から名うてのスパイを選んで、特別偵察隊を組織したのであった。

 

 部隊長のサンダーク中尉は、ポーランド系ユダヤ人で、完璧なポーランド語とドイツ語を使えるプロだった。

12名の特別偵察隊は、国境警備隊、特別部、アルファ部隊から選抜された精鋭で構成されていた。

全員が空挺降下訓練を受けており、柔道と空手の有段者であった。

 アルファ部隊は、1974年にユーリー・アンドロポフの建議により設置された部隊である。

ハイジャックや人質事件などのソ連内外の凶悪事件に対応するために設置され、アンドロポフ・グループと称された。

 のちになるのだが、ヴィンペルという海外での破壊工作や暗殺を任務とする部門も併設されていた。

こちらは戦時下での後方破壊活動や敵国への潜入、中心としており、スダプラートフが戦時中に指揮した特別自動車部隊(OMSBON)に似た組織である。

特別自動車部隊は、ウクライナや白ロシアで農民に変装し、パルチザン活動でドイツ軍を混乱させた部隊であった。

 

 KGBの特別偵察隊は、ウクライナ方面からルブリンを経由してワルシャワに入った。

道すがら道路を走っていたFSC Zuk*17の軽バンを止めると、運転手の農夫と助手席に居た妻を引きずり出した。

 工作隊は、夫婦を羽交い絞めにすると、身ぐるみを剥いだ。

まず隊長のサンダークが、農夫の胸に銃を押し付ける。

「や、止めろ、撃つな」

 消音器付きの拳銃が作動すると、農夫の胸を貫通し、血が飛び散った。

農夫は体を反らしながら、絶叫を上げる。

「アンタ!」

 目の前で起こったことが分からず、農夫の妻が叫んだ。 

もう一人の工作員が、老婦の口内に拳銃を押し込む。

「へへへへ。

口の中で発射するのを、一度やってみたかったんだ」

 鋭い閃光と耳を聾する轟音が響き渡る。

老婆は口から血を吐き出しながら、仰向けに倒れ込んだ。 

 苦悶の表情を浮かべ、芋虫のように地面に転がる百姓夫婦。

血だまりの中で横たわる彼らの後頭部へ向けて、再度銃弾が送り込まれる。

 KGB流の暗殺法で脳に弾丸を送り込んだ彼らは、生暖かい灰色の肉片を全身にかぶる。

そして二人が完全に動かなくなった様を見て、凄惨な笑みを浮かべるのであった。 

 彼らは、殺害した老夫婦から奪った衣服に着替えると、百姓に変装した。

強奪した車に乗り込むと、マサキとギエレク書記長の暗殺に向かった。

 

 だが、この作戦では一つだけ想定外の事が起きた。

陳情書を忘れた村長夫妻の事を追って、同じ村から助役が追いかけてきたのであった。

 30分ほど遅れてワルシャワ郊外についた助役は、村長の車に乗っている見知らぬ若い夫婦に驚いて、近くの民警(ミリツィア)*18に相談しに行ったのだ。

 無人になって止めてあった車の荷台を開けると、薄汚れた毛布に包まれた全裸の男女の遺体が出てきたのだ。

遺体は顔面が激しく損傷しており、針金で後ろ手に縛ってあるという凄惨な状態であった。

 KGBはなぜこのような拷問を用いるのであろうか。

これはFSBになった今でも堅持されているものであるが、彼らにしか知られていない秘密の拷問手順があり、手際よく準備をし、趣向を凝らした手段で陵虐(りょうぎゃく)を加え、後頭部から銃弾を送り込む伝統がある。

 ジャーナリストの有坂純氏は、一連の行動をこう評している。

戦争犯罪は、ロシア軍の戦争文化……であり、れっきとした戦術……の手段として彼らは当たり前に行っているに過ぎない。……ロシア軍にとって戦争犯罪は戦闘と同列の戦術行為なので、せめて戦闘で苦戦に陥っているからこそ、戦争犯罪の方は、成功させねばならないのである。

(中略)

拷問や虐殺は、法、人道、あるいは軍人としての倫理に反するといった思考を、ロシア人は最初から持ち合わせていない。それは彼らが邪悪だからなのではなく、善悪を定義づけている世界観が異質なのである*19

*1
ヴォイチェフ・ヴィトルト・ヤルゼルスキ。(1923年7月6日 - 2014年5月25日)。ポーランドの軍人、政治家。現在のポーランドにおいては毀誉褒貶の多い人物である。邦訳に、『ポーランドを生きる: ヤルゼルスキ回想録』河出書房新社.1994年.がある

*2
ハンガリー動乱

*3
チェコスロバキアの『プラハの春』

*4
共産主義時代のポーランドで、1952年から1989年まで設置された国家元首の役職。今日でいえば大統領職に相当する

*5
Nicola Bombacci.(1879年10月24日 - 1945年4月28日)イタリアの政治家、活動家。1903年から1921年までイタリア社会党、1921年から1927年までイタリア共産党、1927年から無所属になるも政権党の国家ファシスト党に近い立場を取った。その後1943年に共和ファシスト党に参加し、1945年ムッソリーニと共に一方的に処刑された

*6
Юлия Аполловна Шухт(1896年9月19日—1980年6月21日)アントニオ・グラムシ夫人。五か国語を話し、第二回コミンテルン大会ではレーニンの秘書の一人を務める。最晩年までモスクワでの居住を許されていた

*7
Delio.(1924年–1981年)アントニオ・グラムシの長男。S.M.キーロフ名称カスピ海高等海軍赤旗学校(Kaspiyskoye vyssheye voyenno-morskoye Krasnoznamyonnoye uchilishche imeni S. M. Kirova.現:アゼルバイジャン高等海軍学校。2015年閉校)卒業。タンカー船「アントニオ・グラムシ」の艦長を務めた

*8
Giuliano.或いはYulian。(1926年8月31日 - 2007年)アントニオ・グラムシの次男。1962年12月からモスクワ音楽院外国語学部でイタリア語教師。父には生涯あう事が出来なった

*9
Леони́д Серге́евич Ко́лосов(1926年8月25日 - 2008年1月5日).ソ連のジャーナリスト、作家。KGB将校

*10
アルド・ロメオ・ルイージ・モーロ(1916年9月23日 - 1978年5月9日)イタリアの政治家。極左集団『赤い旅団』に誘拐され、殺害された

*11
Enrico Mattei.(1906年4月29日 - 1962年10月27日)イタリアの実業家。暗殺説あり

*12
Nicola Gentile.(1885年6月12日 - 1966年11月6日)。1920年代から1930年代にかけてニューヨーク市で活躍したシチリア・マフィアのボスで組織犯罪の首謀者のひとり。1937年に米国からシチリアに戻る。1964年の反共クーデター「ピアノ・ソロ」計画をコロソフに密告した人物

*13
Claudia Cardinale.(1938年4月15日 - 2025年9月23日)本名クロード・ジョゼフィーヌ・ローズ・カルディナーレ(Claude Joséphine Rose Cardinale)。イタリアの女優。晩年は婦人の権利保護拡大の運動を進めていた

*14
スラヴァ・カタミーゼ著,伊藤綺訳,『ソ連のスパイたち ――KGBと情報機関1917-1991年』原書房 ,2009年,p.308.

*15
ヴォルガ自動車工場.今日のアフトワズ

*16
V・A・アルハンゲリスキー著,瀧澤一郎訳『プリンス近衞殺人事件』,新潮社,2000年,p.145.

*17
ポーランド製の小型貨物自動車

*18
Milicja Obywatelska.共産主義時代のポーランドにおける通常警察の名称。現在は、自由主義国での警察機構を指す言葉であるポリツィア(Policja)になっている

*19
有坂純著,『ウクライナ戦争の正体』ワン・パブリッシング.2023年.p125-126




 ご感想いただけたら、励みになります。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。