冥王来訪(ハーメルン投稿版) 作:雄渾
その報告を聞いたKGBは、工作隊を派遣するのであった。
今回のマサキのポーランド訪問は、最初からイレギュラー続きだった。
未成年の美少女紹介に続き、ポーランドの一般家庭の手料理。
極めつけは、夕方まで主要閣僚と会えなかった事である。
ポーランド政界は混乱の最中にあり、ソ連の実力行使を恐れたのも大きかった。
史実の世界でも、自主労組「連帯」の活動拡大に際して、ソ連の軍事介入を恐れたヤルゼルスキ*1大将が戒厳令を引くという事態になっている。
反ソ的言動を堅持し、なおかつソ連と敵対関係にある日本国民のマサキと会う事は、危険だった。
1956年*2や1968年*3の基準で言えば、『社会主義共同体諸国の団結強化』を理由に軍事侵攻になりえる要件だった。
マサキはそのことを承知しており、外交親書の他に、二通の外国高官の私信を持ってきていた。
まず東独のシュトラハヴィッツ中将から、ヤルゼルスキ大将への紹介状を用意した。
そして、バチカン市国のローマ法王からポーランド国家評議会議長*4あての私信を書いてもらったのだ。
これは当時のローマ法王が、ポーランド人のヨハネ・パウロ2世だったためである。
マサキは、この工作のためにも、イタリアを利用したのであった。
だがそれは、バチカンとイタリアの根深い対立関係を知らなかったゆえの冒険的行為であった。
もし彼がイタリアの政治風土を知っていれば、この様な事にはならなかったろう。
中でも最大の誤算は、戦後イタリアの急速な左傾化という特殊事情を考慮に入れなかったことである。
戦後イタリアでは、敗戦への反動から王制廃止となり、イタリア共産党を主とした強い左派文化が育った。
1968年以降は、共産党以外の極左が社会に進出し、社会の深刻な分断を深めることとなった歴史がある。
なぜイタリアが左傾化したかという事実は、戦前からのソ連との深い関係があったからである。
読者諸賢には少しばかり歴史解説に付き合ってもらいたい。
イタリアとソ連の関係は、第一次大戦後に1921年に結成されたイタリア共産党の創設までさかのぼる。
結成時の主要メンバーは、アントニオ・グラムシ、パルミーロ・トリアッティ、ニコラ・ボムバッチ*5などである。
グラムシは今に続く共産党の思想、構造改革論の始祖であるが、夫人はロシア人だった。
ユーリヤ・アポロニエヴナ・シュヒト*6というユダヤ人で、レーニンとも個人的に親しい人物であった。
なおユリア夫人は貴族の出であり、OGPUの工作員でもあった。
グラムシには、ユリア夫人との間に、デリオ*7とジュリアーノ*8という2人の子息がいたが、彼らは亡くなるまでモスクワに在住していた。
モスクワは、ソ連崩壊後でも居住許可がないと生活できない場所である。
なおスターリン時代でもグラムシの書籍は翻訳出版が許されており、特別な立場であった。
パルミーロ・トリアッティは、グラムシの親友で、亡命したソ連で大粛清を生き残った数少ないイタリア共産党の創設メンバーであった。
スペイン内戦にもソ連側の義勇軍として参加しており、戦時中はイタリア国内に居るパルチザンを使って破壊工作を支援した。
戦後、副首相の座に滑り込み、「サレルノの転換」という名の構造改革を行った。
構造改革とは、グラムシの思想を受けたもので、現状の社会が抱えている問題は表面的な制度や事象のみならず社会そのものの構造にも起因するものであり、その社会構造自体を変えねばならないとする理論である。
従来の暴力革命に代わって、政府や社会の中から過激な変革を実現するという静かな革命論である。
トリアッティの率いた共産党は、選挙を通じて第3党の地位を獲得し、政権に加わると国民投票で王制を廃止した。
急速な改革は、イタリア社会を混乱させるに十分だった。
その為、当時のイタリア人からは「スターリンのイタリア人」と評され、米英から警戒された。
米国の圧力を受けた後、中央政界から共産党は、地方から議席を取るという戦法を用いて党勢を拡大させた。
1964年にソ連のクリミアにある別荘地で
死後まもなく、ソ連はサマラ州の一都市に彼を記念してトリヤッチ市と任命した。
そういった背景もあり、ソ連はイタリア共産党に特別な支援をし、イタリアの政財界に各種の工作を行った。
秘密工作の渦中に居た人物の一人が、レオニード・コロソフ*9である。
彼は、表向きソ連の高級紙「イズベスチヤ」の記者でソ連国内では小説家兼劇作家だった。
ハンサムで愛想がよく、イタリア語とフランス語に堪能な享楽家であり、交友関係は広かった。
後に暗殺されるアルド・モロ*10首相、イタリア国営石油会社ENIの社長エンリコ・マッテイ*11、マフィアの首領ニコラ・ジェンティーレ*12、フィアット社長のヴィットリオ・ヴァレッタなど数百人に及ぶ。
有名女優であったクラウディア・カルディナーレ*13とも交友関係*14にあったことは広く知られている。
ソ連国内のトリヤッチ市にフィアットの技術支援を受けた工場が建設されたのも、コロソフの工作が大きい。
VAZ*15の工場で、フィアット124のライセンスモデルであるVAZ-2101"ジグリ"を生産できたのは、そう言った裏事情があったのだ。
では身近にいた人物から見たコロソフ像とは、どんなものであったか。
少し長くなるが、V・A・アルハンゲリスキー氏の著作から引用してみることにしよう。
同氏は、1989年まで「イズベスチヤ」に在籍し、週刊『ニェージェーリャ』編集長、『イズベスチヤ』副編集長を務めた経験を持つ。
『ある時、テレビでレオニード・コロスコフ(原文ママ)の姿を見た。彼は私が週刊『ニェージェーリャ』誌の編集長だった時期、副編集長をしていた。あいつ、まだ生きていたのか!というのが率直な感想だった。編集部では彼がKGB工作員だと知らぬ者はいなかったが、誰もそのことはおくびに出さなかった。今は何でも言えるようになった。コロスコフ(原文ママ)は別の道を進んだのだ*16』
戦後イタリアは、ソ連の浸透工作を存分に受けた国だった。
そういった理由で、マサキの作戦は最初からKGBの把握するところとなったのだ。
一方、その頃。
ウラジオストックのKGB本部では、すでにマサキの行方を掴んでいた。
イタリア国内に居るKGBの協力者からの情報で、マサキがジアコーサと共にポーランド入りしたことが伝わっていたのだ。
第一総局長から詳細を渡されたKGB長官は、唸るように叫んだ。
「日本野郎の木原が、ワルシャワに飛んだだと!」
「はい。そのようにローマから秘密電文が届いております」
シェバルシン第一総局長は平身低頭する。
「まさか奴め、ポーランドで反ソ運動を支援しようというのか」
当時のポーランドでは、物不足とそれに伴う物価高の為、各地でストライキが続出していた。
のちに自主管理労組「連帯」が起こした様々な運動は、ポーランドの運命のみならず、東欧全体の未来を左右したと言っても過言ではない。
「そうだ。
ギエレクの屑野郎が調子に乗っているから、バカデカい花火を上げてやれ」
長官の指示に、シェバルシン第一総局長は顔を歪ませる。
「こんなこともあろうかと、ポーランド人部隊を密かに編成させておきました。
12名の特別偵察隊が、既にワルシャワに潜入しております」
シェバルシンは外交官上がりだったが、筋金入りのKGBだった。
KGB工作員養成所の東洋学研究所を経て、モスクワ国際関係大学卒業の経歴を持つ立派なスパイだ。
同大学は9割がKGBに入学し、今日でもその多くがFSBに入省する。
日本で言えば、官僚予備校である東大法学部のような場所であった。
「責任者は」
「サンダーク中尉です」
「そいつは何者だ」
「こちらの手のものです」
「腕は確かなのか」
「同志長官、リャザン空挺学校
「上出来だ。明日の夜、報告を持って参れ」
シェバルシンは、かつてマサキに煮え湯を飲まされていたことを恨んでいた。
赤軍参謀総長のインドでの秘密交渉の際、下準備をしたのはインドKGB支部長だったシェバルシンだったからである。
MI6の横やりとゼオライマーの活躍により、インドからソ連本国に戻されることとなったからである。
メンツをつぶされたと感じたシェバルシンは、マサキの事を抹殺する機会を窺っていた。
この機会を利用し、KGBアルファ部隊から名うてのスパイを選んで、特別偵察隊を組織したのであった。
部隊長のサンダーク中尉は、ポーランド系ユダヤ人で、完璧なポーランド語とドイツ語を使えるプロだった。
12名の特別偵察隊は、国境警備隊、特別部、アルファ部隊から選抜された精鋭で構成されていた。
全員が空挺降下訓練を受けており、柔道と空手の有段者であった。
アルファ部隊は、1974年にユーリー・アンドロポフの建議により設置された部隊である。
ハイジャックや人質事件などのソ連内外の凶悪事件に対応するために設置され、アンドロポフ・グループと称された。
のちになるのだが、ヴィンペルという海外での破壊工作や暗殺を任務とする部門も併設されていた。
こちらは戦時下での後方破壊活動や敵国への潜入、中心としており、スダプラートフが戦時中に指揮した
特別自動車部隊は、ウクライナや白ロシアで農民に変装し、パルチザン活動でドイツ軍を混乱させた部隊であった。
KGBの特別偵察隊は、ウクライナ方面からルブリンを経由してワルシャワに入った。
道すがら道路を走っていたFSC Zuk*17の軽バンを止めると、運転手の農夫と助手席に居た妻を引きずり出した。
工作隊は、夫婦を羽交い絞めにすると、身ぐるみを剥いだ。
まず隊長のサンダークが、農夫の胸に銃を押し付ける。
「や、止めろ、撃つな」
消音器付きの拳銃が作動すると、農夫の胸を貫通し、血が飛び散った。
農夫は体を反らしながら、絶叫を上げる。
「アンタ!」
目の前で起こったことが分からず、農夫の妻が叫んだ。
もう一人の工作員が、老婦の口内に拳銃を押し込む。
「へへへへ。
口の中で発射するのを、一度やってみたかったんだ」
鋭い閃光と耳を聾する轟音が響き渡る。
老婆は口から血を吐き出しながら、仰向けに倒れ込んだ。
苦悶の表情を浮かべ、芋虫のように地面に転がる百姓夫婦。
血だまりの中で横たわる彼らの後頭部へ向けて、再度銃弾が送り込まれる。
KGB流の暗殺法で脳に弾丸を送り込んだ彼らは、生暖かい灰色の肉片を全身にかぶる。
そして二人が完全に動かなくなった様を見て、凄惨な笑みを浮かべるのであった。
彼らは、殺害した老夫婦から奪った衣服に着替えると、百姓に変装した。
強奪した車に乗り込むと、マサキとギエレク書記長の暗殺に向かった。
だが、この作戦では一つだけ想定外の事が起きた。
陳情書を忘れた村長夫妻の事を追って、同じ村から助役が追いかけてきたのであった。
30分ほど遅れてワルシャワ郊外についた助役は、村長の車に乗っている見知らぬ若い夫婦に驚いて、近くの
無人になって止めてあった車の荷台を開けると、薄汚れた毛布に包まれた全裸の男女の遺体が出てきたのだ。
遺体は顔面が激しく損傷しており、針金で後ろ手に縛ってあるという凄惨な状態であった。
KGBはなぜこのような拷問を用いるのであろうか。
これはFSBになった今でも堅持されているものであるが、彼らにしか知られていない秘密の拷問手順があり、手際よく準備をし、趣向を凝らした手段で
ジャーナリストの有坂純氏は、一連の行動をこう評している。
『戦争犯罪は、ロシア軍の戦争文化……であり、れっきとした戦術……の手段として彼らは当たり前に行っているに過ぎない。……ロシア軍にとって戦争犯罪は戦闘と同列の戦術行為なので、せめて戦闘で苦戦に陥っているからこそ、戦争犯罪の方は、成功させねばならないのである。
(中略)
拷問や虐殺は、法、人道、あるいは軍人としての倫理に反するといった思考を、ロシア人は最初から持ち合わせていない。それは彼らが邪悪だからなのではなく、善悪を定義づけている世界観が異質なのである*19」
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