冥王来訪(ハーメルン投稿版)   作:雄渾

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 ウイーン滞在中のマサキに迫る様々な魔の手。
過激な諜報戦の行方とマサキの運命は……


スパイの遊び場

 ウィーンにある、駐オーストリー・ソ連大使館。

そこでは、複数の男たちによる密議が凝らされていた。

「ソ連の中央政界は、チェルネンコ元議長が引退をされて、混乱しているそうですね」

 西独バイエルン州知事のフランツ・ヨーゼフ・シュトラウスが、問いかけた。

「それは、西側のブルジョア新聞や世間がそう騒いでいるだけで、我々KGBには、皆好都合だったのですよ」

 答えたのは、ソ連商工会議所会頭のエフゲニー・ピトヴラーノフだ。

「と申しますと」

「今、世間を騒がしているのは、ここに同席しているシュトラウス知事とロックウィード社の癒着問題でしょう」 

 その場に招かれていたもう一人の男が答える。

彼はBMWの社長であった。

 BMWは航空機エンジンの世界に再び加わろうと企んでおり、戦術機開発にも顔を出していた。  

「政財界の癒着は、表面にこそ出ないが、マスコミも暗黙の了解のはず……

それが表に出たというのは、意図的にやったという事だ」

 シュトラウスが応じる。

「やったのは、西独政界から飛び出したヴィリー・ブラントと、ラインハルト・ゲーレン」

 ピトヴラーノフは、シュトラウスに訊ねる。

「しかしブラントといえば、東方外交でソ連に融和的な政治家ではないですか」

「ブラントもあせったんですよ。

SPDの長老閥があまりにも権力が強いので、首相に復帰できないと。

奴らは、蘭王室を軸としたビルダーバーグ会議が政財界を牛耳っている。

この事が、欧州最大の問題だと判断した」

 

「ブラントは、ロックウィード社の汚職問題が起き始めると、党幹部の一部しか知らない王配殿下の突撃隊の過去をマスコミにリークし、すかさずSPDを離党して、新党を立ち上げた」

 そう答えたのはBMWの社長だった。

 男は東プロイセンの出身で、ソ連赤軍に故郷を追われ、母をNKVDの手で殺されており、大のソ連嫌いであった。

だがシュトラウスの手引きで、ブラントを倒すために、ピトヴラーノフ率いるソ連商工会議所と手を結ぶことにしたのだ。   

「この政変劇の後ろには、財界の大物メッサーシュミットがいると見るのが確実でしょう」

 BMWの社長は、メッサーシュミットに恨みを持っていた。

1942年に開発したBMW003型エンジンをメッサーシュミット Me262に搭載しようとした際、拒否され、会社として大恥をかいた苦い経験があったからだ。

その為、どうしてもメッサーシュミットを悪者にして、復讐を果たしたかったのだ。

「しかもメッサーシュミットは、G7諸国の若手経済人に、ビルダーバーグ会議から自身の立ち上げた経済団体への乗り換えを進めている」

 男は、メッサーシュミットへの復讐心故に、背後にいる人物を見誤った。

背後にいたのは、木原マサキであった。

「これは明らかにメッサーシュミット対ロックウィードの戦いが、政界にまで及んだという事だ」

 ピトヴラーノフは、BMWの社長に侮蔑の笑みを浮かべた後、シュトラウスに視線を移した。

「そこで、シュトラウス知事は、ソ連を後ろ盾にして、米独の財界と戦おうとウィーンにまでいらしたのですか」

 シュトラウスは、机の上にあるキューバ製のコイーバの箱から、葉巻を取り出した。

「そんなところだ」

 シュトラウスは、シガーカッターで端を切り落とすと、葉巻に火を点けた。

「それでどうですか。例の黄色い猿め退治に私も参加させてもらえませんか。

木原マサキと天のゼオライマーの存在が鬱陶しく思っていたところなので」

 ピトヴラーノフは、満足げに応じる。

「なるほど、そういう事ですか。

よろしければ、ご協力のほどを……」

 

 なぜアクスマンが、堂々と盗品を闇市場に流すことが出来たのであろうか。

その理由の一つに、旧ソ連圏では表の経済とは別に、活発な闇市が存在したという事実があるからだ。

 闇市(やみいち)とは、配給制の食料や物資が極端に不足する中、統制を外れた商品を高値で売買した非合法な市場のことである。

我が日本などでも、戦時中から戦後数年の一時期に存在したものである。

 だが、社会主義を取るソ連や東欧圏では慢性的に存在した。

闇市と言っても、見た目は農産品や日用品が多く並び、普通の露天商の(いち)という感じである。

 無論ソ連などでは、闇市そのものは非合法であり、時折警察やKGBの手入れを受けいた。

実際問題として、闇市が立たねば、庶民の生活が困窮する為、当局者は(そで)の下*1を取って、なあなあで済ませていた面がある。

 闇市を立てた組織に対抗する為、対立組織が愚連隊を差し向けたりしたが、自衛のためにチンピラを雇ったり、当局に協力を仰いで、闇市そのものの半公認化を進めていた。

 KGBは個人の買春を取り締まりながら、政府高官のためのパーティーを組織し、KGBの特殊教育を受けた女性を利用して彼らを誘惑し、その映像で脅迫するに関与していたという疑惑がある。

またKGBではハニートラップ等の恋愛感情を利用した作戦を重視しており、烏と呼ばれる男性工作員や燕と呼ばれる女性工作員を買っていた。

モスクワにある性工作訓練校で専門訓練を行い、スパイ工作を行っていたという風聞が漏れ伝わっている。

実際に、1958年夏、駐ソ連フランス大使のモーリス・デジャン*2が、ラリサ・ソボレフスカヤこと、ラリサ・イワノヴナ・クロンベルク*3という女優との情事を行っている際に、KGBに踏み込まれ、KGBスパイになったという事例があった。

なおクロンベルク女史は、KGBのフリーランスの契約をしており、第二総局お抱えの工作員だった。

 このように、KGBは社会の暗部さえも、体制維持に利用していた。

つまり闇市は、KGBの協力なしには存在しえなかったのだ。

 

 ソ連の計画経済は、住民の需要を無視したもので、計画から生産まですべての工程で国家が独占した。

たとえばレインコートの一つをとっても、色とサイズは一種類しかなく、必要な時期と必要な場所に在庫がなかった。

そして、モスクワの国営商店にはなく、中央アジアの都市に納入されるという事さえあった。

 その為、ひとたび商品入荷のうわさが起きれば、町中の人々が店の前に列を作って、数時間から十数時間並ぶことも珍しくなかった。

だがそれだけのことをしても、商品が手に入るわけでもなかった。

確実に商品を手に入れるには、国営商店の店員とコネクションを持つか、闇屋しかなかったのである。

 

 これは耐久消費財に関してであるが、電子機器や高分子素材分野でも、ソ連・東欧圏は西側に比して10年以上の技術的な差があった。

特にサイバネティクス分野は、「ブルジョワの似非学問」とされ、ソ連は致命的な遅れを得ることとなった。

 電子工学を似非学問と決めたセルゲイ・パヴロヴィチ・トラペズニコフ*4党中央委員科学部長は、スターリン主義者で、ブレジネフの古くからの友人というだけでソ連の科学技術の頂点に立った人物であった。

 複数の証言によれば、彼は文章どころか、文字さえもろくに書けない人物であったとされる。

この様な人物により、国家の科学技術方針を決定されたのは、ソ連にとって不幸な出来事ではあるが、当然の結末であった。

 1939年のゲオルギー・マレンコフの報告によれば、州知事に相当する地方書記の7割、郡長に相当する地区党書記の8割が、小学校2~4年の教育しか受けていなかった。

 1930年代の党大会では、出席者の7割が3年から5年の入獄経験があることが演説され、大喝采で迎えられていたという。

ろくに読み書きのできない人間の集まりが、国家の中枢を動かし、ソ連という国家を形作ったのであった。

 

 さて、話をマサキの所に戻そう。

 夕方、マサキが引き合わされたのは、二人の英国紳士だった。

1人はダークグレーのフランネル生地のスーツに、水色のターンバックカフスのシャツ、ロレックスのサブマリナーを身に着けた180センチ強の偉丈夫。

 マサキは、この男に見覚えがあった。

以前東京で、鎧衣に引き合わされた英国秘密情報部の職員で、マサキがジェームズ・ボンドと呼んでいた男だ。

男の話では、1960年代に極東にいた時に、鎧衣と知り合ったという。

 もう一人の方は、ハリー・ブラントと名乗り、英国の高級紙「デイリー・テレグラフ」の記者であると自己紹介をした。

ジェームズ・ボンドよりも年上で、10センチ以上背が低く、甚だ風采の上がらない格好をしていた。

草臥れたソフト帽、着古した綿ギャバジンのバルマカンコート。

恐らく生地の風合いからして、英国のアクアスキュータムの製品であろうが、定番のモデルより身幅・袖幅共に大きく仕上げられている。

開いたコートの前合わせから見える、下に着ているスーツも胸周りがゆったりしており、丈が長めであった。

履いているズボンも、深い股上で、やや太めのストレートのスラックスで、ノータックの細身が主流の1970年代の現代にはそぐわないものであった。

 マサキは、男が来ているスーツを、1940年代後半から1950年代に流行ったボールド・ルックであると結論付けた。

 そして、ハリー・ブラントというわざとらしい名前も気になった。

これはフランスの大作家、ジュール・ベルヌが1876年に出版した『皇帝の密使』*5の中に出てくるロシア駐在の英国人記者の名前だからだ。

 恐らく秘密情報部員なのだろう。

 マサキは、ため息をついた。

アクスマンという男を調べている内に、さぞかし厄介な男と知り合いになってしまうとは……

聞き出せるだけ聞いては見るが、アイリスディーナのために必ず秘密を暴いてやるとは約束は出来なさそうだな。

マサキは、自身なさげにする英国人記者の事を見つめるだけであった。

 

  

 

 会談場所となったホテル・ザッハー・ウィーンは、1876年創業の老舗ホテルである。

ミシュランガイドに掲載されている確かな品質を持つ高級ホテルレストランを併設し、その中にはカフェもある。

 マサキ達は、バーではなく、カフェ・ザッハーに入った。

カフェに入って驚いたのは、客の半分は日本人という事だった!

恐らく観光旅行に来た大学生やウィーン駐在の政府関係者の家族であろうが、雰囲気を台無しにされた気分だった。

 気を取り直して、マサキは頼んでおいたケーキに食指を伸ばした。  

オリジナルザッハートルテ・メランジェという分厚いチョコがコーティングされたケーキが、この店の看板メニューである。

 マサキは日本でも評判だったザッハートルテをいざ食べてみると、ショックだった。

チョコのコーティングは、かなりぶ厚くシャリシャリとした風合いだった。

中身のケーキは、ぼそぼそのパサパサで、日本のそれとは違っていたからだ。

 日本のザッハートルテは、やや水分があるのか、しっとりとしており、甘さも店によって幅があった。

だがウィーンのザッハートルテはものすごく甘く、それに付け合わせの味のしない生クリームと一緒に食べるという仕様だった。

本場ウィーンのそれは、日本のザッハートルテに比して、正直上手いというより、期待倒れの方が強かったと思うほどの味だった。

 セットで出たウィンナーコーヒーは恐ろしいほど甘く、冷めないと甘すぎて飲めるものではなかった。

追加注文で頼んだコーヒーでなんとか流し込んだあと、マサキはアクスマンについての情報を英人たちに問いただした。

 ジェームズ・ボンドはフィリップモリス社のラークを取り出すと、火を点けながら、問わず語りが始まった。

 アクスマンとMI6との接点は、1950年代後半のベルリンであること。

そしてBNDの二重スパイ、ハインツ・フェルフェの調査の過程で彼が二重スパイの候補として浮かび上がったという点である。 

 ジェームズ・ボンドは続けた。

「1962年の夏。

彼と初めて出会ったのは、ちょうど、キム・フィルビーがスパイとして露見する前でした」

 キム・フィルビーとは、本名をハロルド・エイドリアン・ラッセル・フィルビーといい、英国とソ連の二重スパイである。

素封家の出で、父は外交官という出自の持ち主だったが、ケンブリッジ大在学中の1930年代にソ連のスパイにスカウトされた。

 ケンブリッジファイヴのメンバーであるガイ・バージェス、ドナルド・マクリーンらとは在学中に知り合い、ウィーン留学中に知り合ったアルノルト・ドイッチュの手により、スパイ団が結成された。

父のコネを生かして、タイムズ紙記者を経た後、MI6に入省した。

戦前からソ連のスパイとして暗躍し、亡命者からの密告など数々の危機に見舞われたが、1962年までフィルビーはスパイと露見しなかった。

「その頃の彼は、既にシュタージ将校としての情熱はなく、私の目にはひどく享楽的な人物に見えました」

 それまで黙っていた、ハリー・ブラントが口を開いた。

「いや、彼の貢献はキム・フィルビー事件だけではない。

ルドルフ・アベル*6大佐の秘密暴露に一役を買った」

 年代物の四角い眼鏡をはずして、布で拭きながら、続けた。

「彼はセーロフが書いた直筆のアベル大佐への指示書を我々に見せたことがある。

当時は、余りによくできた偽物ではないかと疑い、信じませんでした。

ですが事件後、CIAとの情報のすり合わせの結果、真物と判明しました。

出所は、ピョートル・ポポフ*7GRU中佐でした」

 ピョートル・ポポフ中佐は、現在確認できる範囲で最古のCIAとGRUの二重スパイとされる人物である。

1950年代にウィーンで活動した後、東独で勤務していた工作員だ。

一説によれば、ペンコフスキ―*8大佐同様に、MI6とCIAの伝令を務めたとされる。

 アクスマンとピョートル・ポポフの接点は、スターリンの死の前後に起こったMGB内の大粛清が元だった。

大臣アバクーモフを始め、次官・局長級の人間が次々に逮捕され、処刑される事態にソ連の対外スパイは恐れおののいた。

日本にいたユーリ・ラストボロフ*9が亡命事件を起こしたのも、べリヤ処刑が遠因とされる。

「アクスマンとポポフに関しては、想像がつくことがあります。

両者ともに、自国の諜報機関とビジネスライクな関係であったという事です」

 ポポフ自身が寝返ったのは、ソ連の体制への幻滅だった。

一度ソ連に帰国した後、東独のシュヴェリーンに出張し、1958年まで東独に滞在していた。

 当時、ポポフはKGBにスパイとして露見しており、背後関係を調べるために泳がされている状態だった。

「もっと言うと、アクスマンはシュタージ内部での出世のために、知り合いになったポポフを売った可能性があるという事です」

「そんな事はあるのか」

「かつてソ連では、大粛清時代にOGPUの権力肥大を抑える為に、GRUを使って海外の諜報員を国内に呼び寄せて、粛清したことがあります。

そしてOGPUから組織改編したNKVDが、GRUの工作員たちを世界各地から引き揚げて、処刑した事実があります。

ソ連のような一党独裁国家を運営するには、仕方のなかったことでしょう。

私は、あまり関心はしませんけどね」

 ただし、アクスマンの場合は、MI6の連絡員という立場を守るためにモスクワ本部(センター)の指示を受けずに一人で告発したのであろうと、ハリー・ブラントは推測するのであった。

 マサキは、後味の悪さを感じるのであった。

しかし、よく考えてみれば、それほどの事をしなければ、KGBにスパイであることが露見しないはずがない。

「だからこんな木っ端役人が生き残れたという事か」

「すまんね。

君の彼女を貶めようとした人物が、つまらない男という事を暴露してしまって」

 ハリー・ブラントは、遠回しにアイリスディーナの事を口に出した。

彼女を通して、東独との関係を続けるマサキに、それとなくくぎを刺そうとしたのだ。

だが、マサキはお構いなしという風だった。

「とんでもない、助かった。

これで俺は迷いが吹っ切れた。

俺はお前のような優秀な男に会えてうれしいよ」 

 こうなったら何が何でも、アクスマンの悪行を暴いてやろう。

アイリスディーナを付け回すゾーネ少尉という雑魚は、鎧衣にでもくれてやろう。

「なんなら、カンパニー*10の古い友人を1人紹介できるが……」

「本当か!そいつはすごいな」

「60ぐらいのご婦人だけど、聡明な方で、木原博士も気に入ると思います。

ああ、勘違いいしないでくださいね。

彼女は私たちの様にまどろっこしい話し方を嫌いますから」

 その言葉を聞いてマサキは安心した。

英国紳士特有のユーモアを交えた話し方に疲れていたのだ。

 

 二日後、ハリー・ブラントは約束通りにカンパニー出身の老婦人を紹介してくれた。

 白銀が用意してくれたロールスロイスの77年型シルバーシャドウに乗って、レオポルトシュタット地区に向かった。

 レオポルトシュタット地区に立つホテル・ステファニーは、ウィーンで最も古いホテルだ。

歴史のあるホテルだけあって、朝食のビュッフェの種類は豊富で、スタッフは親切だった。

 件のカンパニー出身の老婦人は、約束したレストランに夫同伴で現れた。

 上品そうな夫人であったが、話している間に情報関係者であることが分かった。

 鎧衣がこっそり渡した資料によれば、件の老婦人は、アリス・ブラッドリー・シェルドン*11夫人で、覆面作家との事だった。

よく見れば、売れっ子作家のジェイムズ・ティプトリー・ジュニアであり、今は大学に勤務しているという。

 そして彼女の夫君は、ハンティントン・D・シェルドン*12大佐。

陸軍航空隊を経た後、トルーマン、アイゼンハワー、ケネディの三代の大統領の下で現用情報局(OCI)*13長として勤務した経験の持ち主だった。

 

「アクスマンをスカウトして、CIA上層部に紹介したのは、私とディックよ」

 ディックとは、対ソ通信傍受で成果を上げたリチャード・レーマン*14だ。

 レーマンは、シェルドン大佐の部下で、ケネディのために秘密日報を作成した経歴の持ち主だった。

ケネディのベルリン訪問に先立ち、現地協力者の精査をしていたところ、アクスマンを見つけたのであった。

 レーマンはその功を買われて、新設された国家情報会議(NIC)初代議長に任命されている。

「き、貴様か、アクスマンを拾った人物というのは!」

「そうよ。

詳しい話を聞きたかったら、私の話を聞きなさい」

 シェルドン夫人は、言葉を切るとタバコに火を点けた。

マサキはまどろっこしい話を抜きに、単刀直入に聞いた。

「どうやって、東独に手を回したんだ」

 シェルドン夫人は、愛用するセーラムを燻らせながら答えた。

「1950年代当時、ボンからポーランドに行くとなると、上手く乗り継いでも1日がかり、下手をすれば一両日かかるわ。

ところがベルリンからは距離にして僅かに60キロ。2時間もあればポズナンに行ける……

西ベルリンは、西独領かもしれないけど、ボンよりははるかに東側に近いのよ」

 マサキはシェルドン夫人の顔を凝視しながら、ラッキーストライクの箱を振り、タバコを咥える。

BICの使い捨てライターを取り出すと、煙草に火を点けた。

「そして東ベルリンは、ソ連軍の駐留基地もあり、東独だけではなくポーランドからの情報も多く入ってくる場所。

軍人だけではなく、情報関係者も多く行き来するのよ。

東ベルリンには、我々カンパニーとつながっているBNDのスリーパーが大勢いる。

BNDのスリーパーは、非公式協力者(IM)を通じて、シュタージとつながっている」

「CIAのコネクションは、そんなに広くて深いのか」

「そうよ。

だから、私たちと手を結びなさい。

木原マサキは、世界を股に掛けるCIAネットワークをものにすれば、もっと大きなことのできる人間よ。

日本の政府顧問はおろか、米国の影の総裁にだってなることができるわ」

 その言葉に、マサキは心の中で恐怖感が首をもたげた。

一方、CIAの女工作員の悲哀という物を垣間見させられた気がしていた。

 マサキは、再び机の片隅にある日本語の資料に目を通す。

 流産とその処置の際の医療事故によって、永遠に子供を持てない体になったアリス・ブラッドリー・シェルドン。

その事で最初の夫と離婚し、一時は自殺を考えたという。

 普通の女性としての幸せを得られないと悟った彼女は、世界大戦が起こると軍に入隊し、死に場所を探していたという。

 もし今の夫であるシェルドン大佐に会わねば……、CIA工作員にならねば、SF作家にならねば、どうだったろうか。

強面で人を脅かす女の事を見ながら、マサキはシェルドン夫人の事を気の毒に思うのであった。

 マサキにとって、シェルドン大佐と夫人の話は興味深いものであった。

だが、1979年当時のベルリンは、既に過去の存在だった。

 東西ベルリンの間に、壁が出来た為、工作員の浸透が難しく、ドイツ人協力者に頼るしかなかった。

そしてBNDの工作員の殆どがシュタージの二重スパイであり、事前に作戦が漏れている状態であった。

KGBの動向や考えが、はっきりつかめない東ベルリンの価値は急速に下がっていった。

 以上の経緯から、CIAは、ベルリンを「ブランデンブルク小学校」と呼び、*15スパイの実地訓練を行う場所とした。

以上の歴史的経緯から、ベルリンは、ドイツ人が自負するのを別として、もはや価値のない存在となっていたのだ。

 

 昼前、マサキの部屋に鎧衣と白銀が入ってきた。 

開口一番、白銀が尋ねて来た。

「シェルドンは帰ったんですか」

 マサキは椅子から立ち上がると、彼らの方を振り向いた。

「ああ、家族の待つインターコンチネンタルにな。

明後日にはバージニアに帰ると」 

 いつも着ている愛用の黒詰襟の服ではなく、ダークグレーのダブル姿に、鎧衣は思わず凝視した。

思いのほか均整の取れた体に、ウェストを絞った若干細身のスーツがよく似合う。

「シェルドン大佐夫妻は、木原君に会う為だけに危険を承知でウィーンにまで来たという事か」

「それだけ、さっきの話は本気だったのですね」

 マサキはタバコに火を点けながら、頷いた。

「それで、申し出は受け入れるのかね?」

「CIAと組むんですか」

 まくしたてるように言う鎧衣と白銀の方を振り向いた後、マサキは静かに答えた。  

「CIAと組んだ場合のメリットは、シェルドンの妻が言った通り、世界中に広がっているCIAの諜報網を利用できることだ。

南米ニカラグアの反政府組織(コントラ)*16に与えた様に、最新兵器の武器売却の権利や資金も簡単に手に入れられるだろう。

それだけじゃなく、CIAの息のかかった経済人と手を組んで、表の経済活動も可能だ」

 マサキは灰皿の置かれたテーブルに近づくと、吸っていたタバコをもみ消した。

「CIAと組んだ場合のデメリットは、(ひさし)を貸して母屋(おもや)を取られる可能性があるという事だ。

いくら天のゼオライマーがあるとはいえ、一筋縄ではいかない米国人が相手だからな」

 鎧衣は眉を寄せた。

確かにマサキの言う通りだ。

 たとえ向こうが勝手に情報を送ってきても、見返りを求めないはずがないからだ。

情報の世界とは、常にギブアドテイクだからである。

 最悪の場合、政府関係の情報は米国にすべて筒抜けになるだろうし、運が良くても協力関係にある軍や捜査機関は、CIAやFBIの影響下に置かれるだろう。

「貴様らは、どう考える」

 鎧衣は、俯きながら答える。

「私は、正直どういっていいか、わからないというのが本音だ。

情けない話だが、私はサラリーマンとして上司の意見に従っていたからな。

今度の事も政府の上層部の指示に従うことになるだろう」

「僕も旦那と同じ意見です。

木原先生が決めたら、それに従うだけです」

 マサキは、一瞬言葉を詰まらせた。

なぜなら彼らの問いに、満足な答えがなかったからである。

「しばらく考えさせてくれ」 

 鎧衣は愛用するダビドフの葉巻を取り出すと、口に銜えた。

「じゃあ、私たちは大使館の方に戻るよ。

ボンの玉瀬君から連絡があるかもしれんから、長い事留守にするわけにはいかんからな」

「木原先生は今日一日、自由に為さって、長旅の疲れをいやしてください」

 マサキはソファーに腰を下ろした。

「そうさせてもらうよ」

 

 部屋に一人残ったマサキは、シェルドン大佐夫妻から渡された資料を精査していた。

そこには米国の新型爆弾であるG弾にかんする戦略が記されていた。

「こいつらは、核爆弾をナパーム弾の延長にしか考えていないのだな」

それが資料を見たマサキの率直な感想だった。

 前の世界で、戦後日本で生活したマサキにとって、核とはある種のタブーであった。

タブーであるからこそ、最初の八卦ロボである山のバーストンに、18発の核弾頭を装備させた。

世界征服のため、各国政府を恫喝する方便としてである。

 核兵器は、その強力過ぎる威力から簡単に使える兵器ではなく、政治的な意味合いの強い兵器である。

冷戦時代、米ソ両国がそれぞれ数千発の核を保有したことによって大国間の戦争が回避できたという事実がある。

 以上の話は我々の世界の話であるが、マサキが辿り着いた世界では違った。

地球に侵攻したBETAを防ぐ為に、中近東と中ソで相次いで戦術核が使用され、しかも作戦遂行に有効に寄与してしまったのである。

 核を単なる大型爆弾とする1950年代の考えに回帰する雰囲気となり、核爆弾投下の敷居が下がってしまったのだ。

 こうした状況で畏怖したのは、この世界の被爆国である東西ドイツである。

 唯一の被爆国であるという神話は崩れ去り、その影響は決して軽いものではなかった。

非核という原則を神聖視するあまり、核保有はおろか、同盟国間での核共有さえ悪とする考えが浸透し、東西ドイツには、表向き米ソの核は持ち込まれなかった。

 だからこそ、KGBスパイであるエーリッヒ・シュミット少将や、アクスマン少佐のような悪漢の付け入る隙が出てきたのだ。

核共有のための親ソクーデターや、ゼオライマーの次元連結システムの獲得に一層拍車がかかったのである。

 核を忌避するドイツが生き残るためには、核を超える超兵器を獲得するしかない。

 アクスマンの発想自体は、彼自身にあった僅かばかりの愛国心から起こったものであったのか。

それとも、アクスマンの利己的な精神から出たものなのか。

 木原マサキは、ドイツ人の考えを認めつつも、自分の計画の妨げになるので、排除する道を選んだ。

 


 

 場面は変わって、

 ウィーン市内を走る外交官ナンバーのBMW。 

その車中では密議が凝らされていた。

 後部座席に座るソ連商工会議所会頭のピトヴラーノフが、問いかけた。

「日本の大空寺さんから連絡があったそうですね」

 ピトヴラーノフからの問いかけに、隣の西独バイエルン州知事のシュトラウスが答える。

「近いうちにウィーンに来られるそうで……」

「そういう事情なので、知事、私は帰らさせてもらいますよ。

後の事はうちのスタッフにお任せください」

 その瞬間、車が急停止した。

「ウォ!」

「どうした!なぜ急停止した」

 運転手はピトヴラーノフの方を振り返った。

「同志ピトヴラーノフ、あの女を見てください」

 歩道に視線を送ると、膝下まであるトレンチコートを着た東洋人の女が認められた。

腰まである長い茶色の髪と、東洋人にしては背が高く、スタイルのいい女。

 ピトヴラーノフは確信した。

あれは、木原の情婦(おんな)

どうしてウィーンに……

「ひ、氷室美久!」

「氷室がいるという事は、木原がいるという事だ!

氷室を拉致して、何故ウィーンに来たか吐かせるんだ」

 助手席と運転席から、男たちが飛び出す。

彼等は、ウィーンの雑踏をかき分けて、美久の方に向けて駆け寄っていった。

 美久に近づこうとしたマサキは、周囲の喧騒に気が付いた。

「木原はあそこだ!」

「どけ、どけい!」 

 逃げ出そうとしたマサキの前に、数名の男が立ちふさがった。

「止まれ、木原」 

 マサキが取り囲まれようとした瞬間、美久が飛び込んできた。

アンドロイドである美久のタックルを受けて、通せんぼをしていた大男は弾き飛ばされる。

「美久!」

 美久は、慌てるマサキの手を引いた。

「脱出するのが、先でしょう!」

 ソフト帽に背広姿の男たちは、ピストルを取り出すといきなりぶっ放した。

「木原を逃がすな!」 

 周囲の人を気にせず、射撃をする連中を後目にマサキたちは、近づいて来たタクシーに乗り込んだ。

「日本大使館まで出してくれ!」

 車はもうスピードで、その場を離れる。

ソ連の工作員たちは一斉にタクシーめがけて斉射した。

 まもなくマガジンの弾を打ち切ると、近くを走っている車を止めた。

運転手を座席から引き下ろすと、車を奪取し、マサキ達を追いかける。

 タクシーを追いかけてきた車は、窓から箱乗りになった男たちが銃撃してきた。

弾はほとんどが逸れたが、それでもなお射撃は止まらなかった。

 タクシーの運転手は青くなりながら叫んだ!

「ゴッドファーザー*17じゃねえんだぞ。

街中でぶっぱなしやがって!」 

 その内、相手は携帯式の対戦車砲を持ち出してきた。

RPG-18、または「Муха(ムハ)」TKB-076と呼ばれるもので、米軍のM72 LAWを参考に開発された武器である。

 マサキと美久は、その時、運悪く自動小銃を持っていなかった。

外交官特権で武器の所有は認められていたが、嵩張ったので、乗ってきたロールスロイスの中に置いてきていたのだ。

 街中で、ソ連側が発砲することはないだろう。

そんな甘い考えのもとに、万が一のことまでは想定していなかったのだ。

「だけど、どうすりゃいいんです、旦那!」

 車夫の問いに、マサキは答えた。 

「とりあえず、後ろの車をまくんだ」

 車はウィーン市街から離れて、郊外の方に向かった。

郊外に向かう最中、敵はロケット弾を発射してきた。

 一発目はマサキたちの乗るタクシーの真後ろで爆発した。

発射したランチャーを捨てて、二発目を発射しようとしたとき、マサキは窓から身を乗り出して拳銃を撃った。

 射撃しようとした男の額に当たると、男はランチャーの引き金を指を添えたまま倒れた。

直後、成形炸薬弾が車中で発射され、ソ連側の乗る車は爆散した。

*1
公的機関や攻勢である立場の人に渡される不正な金品や情報のこと。着物の袂や袖の下に入れ、秘密裏に取引されたことからこの様な慣用句になった。賄賂や買収のこと

*2
Maurice Ernest Napoléon Dejean (1899年9月30日~1982年1月14日)フランスの外交官。1945年から1949年にチェコスロバキア大使、その後、1952年から1953年まで駐日大使、1953年にインドシナ高等弁務官、1955年から1964年までソ連大使を経験した

*3
Лари́са Ива́новна Кро́нберг(1929年5月23日 - 2017年4月24日) ソ連の女優。離婚歴があり、子供もいたが、最後は孤独死であったという

*4
Сергей Павлович Трапезников(1912年2月19日- 1984年3月12日)ソ連の政治家、学者

*5
原題:"Michel Strogoff"。1876年刊行のジュール・ヴェルヌの小説。過去数度映画化されている

*6
Rudolf Ivanovich Abel(1903年7月11日 - 1971年11月15日)本名、ウイリアム・フィッシャー。KGB工作員。1957年にスパイと露見するまで、ゲーレンやMI6を手玉に取り、浸透工作や積極工作を進めた伝説的スパイ

*7
Пётр Семёнович Попов(1923年7月 – 1960年1月)。ソ連の軍人および諜報員。最終的に銃殺刑に処された

*8
Оле́г Влади́мирович Пенько́вский( 1919年4月23日 - 1963年5月16日)ソ連軍人、諜報員。遺著に”The Penkovsky Papers: The Russian Who Spied for the West.”(邦題、『ペンコフスキー機密文書』)

*9
Юрий Александрович Растворов(1921年7月11日 - 2004年1月19日)ソ連の諜報員

*10
CIAの別名

*11
Alice Hastings Bradley Sheldon。(1915年8月24日 - 1987年5月19日)米国の作家。史実では夫のシェルドン大佐と無理心中をした

*12
Huntington Denton Sheldon.(1903年2月14日 - 1987年5月19日)。米国軍人。米陸軍航空隊、空軍を経た後、CIAに入省した。史実では妻のアリス・シェルドンと無理心中をした

*13
現在のCIA分析総局

*14
Richard Lehman (1923年6月12日 – 2007年2月17日)CIA工作員。対ソ向けの情報分析で名を挙げ、国家情報会議(NIC)初代議長を歴任

*15
ミルト・ベアデン、ジェームス・ライゼン著、安原和見、花田 知恵訳、『ザ・メイン・エネミー〈下〉 -CIA対KGB最後の死闘』ランダムハウス講談社、2003年,P.198.

*16
Contras.本来はスペイン語で反抗者の意味。そこから転じて、1979年以降は中米ニカラグアの親米反政府民兵を指す言葉になった

*17
原題、"The Godfather"。1972年公開のハリウッド映画




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