冥王来訪(ハーメルン投稿版)   作:雄渾

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 いよいよ始まる月面攻略作戦。
その舞台の裏にある物とは……


月面(げつめん)攻略(こうりゃく)
宿願(しゅくがん)


「おい、野郎ども!」

 号令台から声が響く。

裂帛たる声を上げたのは、ヨアヒム・バルク大尉。

 黒く染めた米軍熱帯野戦服を着ているが、腰にはワルサー拳銃が下げている。 

左袖のドイツ国旗の刺繍と、背後に立つ西独軍の将校がいなかったら、米軍と見まがうような格好だ。

「今度の作戦は、米軍の皆さんと共に月の静かの海に乗り込むことになっている。

その際、貸し出される戦術機は、約8000万マルク相当の品物だ。

高い道具故に、何とか無傷で返さねばならん!

お前たちの棺桶代の何千倍、線香代の何万倍という事を忘れるなよ!」

 整列する一個大隊30名のパイロットと600名の地上勤務員の顔が、演台に向けられる。

新たに号令台に昇ったのは、西独軍戦術機部隊大隊長のクラウス・ハルトウィック上級大尉だ。

「5年前、中共のカシュガルに飛来した着陸ユニットは、月面から送り出されたのは、諸君らも記憶

にあるだろう。

月が奴らの本拠地か、根拠地かは不明だ。

我が第51戦術機甲大隊は、米軍に先行してそこに乗り込み、敵を殲滅する大任を命ぜられた」

 

 

 

【挿絵表示】

 

 米国アリゾナ州ルーク空軍基地。

州都フェニックスから30キロほど離れた場所にあるこの場所は、戦後長らく西ドイツ空軍の訓練場の一つであった。

 700機以上のロッキードF-104スターファイターを導入した西独空軍は、安定した天候を持つ米国中西部の飛行場で訓練を積んだ後、本国に戻る制度が導入されていた。

それは、ドイツの天候が不順で曇り空が多いという飛行訓練には不向きな環境だったからである。

 だが1979年10月に実施される月面攻略作戦に向けて、同基地は往時をはるかにしのぐ規模の改修を受け、

巨大な飛行場へと変貌したのであった。

 

 西独軍派遣将校は、表向きは参加していない扱いになっていた。

時の国防相ハンス・アーペルが、ドイツ基本法の理念に反する戦争には参加できないと国会答弁した為である。

 その為、義勇軍という形になり、部隊長はヴァルター・クルピンスキー退役中将が務めることとなった。

彼は、第二次大戦時のドイツ空軍の指揮官であり、戦後再建されたドイツ空軍に参加した小生の一人である。

だが、1976年11月8日のルーデルスキャンダルにより、政治的に退役に追い込まれた。

 月面攻略に際し、西独軍の参加を要請されると、世界大戦での経験のある彼は軍に呼び戻され、非公式の部隊の設立を命ぜられたのだ。

 その多くは政治的に問題がある人物が集められ、1961年の西ドイツ空軍F-84機による領空侵犯事件に関与したマルティン・ハルリンクハウゼン中将やジークフリート・バルト大佐などが参加した。  

 なかでもハルリンクハウゼン中将は柏葉付騎士鉄十字章の受勲者の中の一人ではあるが、政府から危険視されていた。

戦前コンドル軍団に関与し、戦時中はゲーリングに、戦後はシュトラウス国防相に食って掛かった経歴のある持ち主だったからだ。

 

 場面は変わって、カリフォルニア州エドワーズ空軍基地。

ここにある空軍試験センター(AFTC)では、月面攻略作戦に参加する同盟国軍の特殊訓練が行われていた。

 個別に訓練を行う西独軍を除く先進6カ国の将兵は、これから行われる訓練部隊の解散式に臨んでいた。

「今回の作戦について述べる前に、貴様たちに言っておくことがある」

 訓練部隊の指導教官の一人であるニース・アームストロング海軍中佐*1が切り出した。

「本日未明、ソ連赤軍総参謀部より、極東ソ連軍に対し、月面ハイヴ攻略作戦が発令された」

 部隊の全員に緊張が走る。

「機会があるごとに触れてきたが、本作戦は、合衆国とその同盟国にとり、起死回生の作戦である。

情報によれば、既にソ連軍は、スヴォボードヌイ宇宙基地に部隊を集結中だ。

つまり、今出撃せねば、ソ連に先を越される可能性があるということを念頭に置いてほしい」

 作戦部隊に参加していた東独軍のヨーク・ヤウク中尉は、伝達台の上にいる中佐を見つめる。 

ヤウクが、英国軍の義勇兵部隊に参加して以降、この様な具体的な説明は初めてだった。

「エドワーズ空軍基地からは、諸君らの他に、我が合衆国軍の精鋭部隊が参加することとなっている」

 ヤウクの脳裏に、これまでの5か月間の記憶がよみがえる。

月面を模したモハーベ砂漠での過酷な訓練の日々が、走馬灯のように思い出された。

 強化装備を着た状態での2日間の飢餓訓練、実弾演習、核及び放射能訓練等々。

彼の知る範囲の中で、2名が死亡し、13名ほどが怪我や病気で離脱した。

「本作戦における諸君らの任務は、試験導入される新型の決選兵器の護衛と支援だ。

では、これより、NASAのハリソン・ストームズ技師から、新型兵器について、ご説明を頂くことになっている」

 ハリソン・ストームズは、うんざりという表情で、演台に昇った。

「ノースアメリカンのハリソン・ストームズです。

諸君らの護衛する兵器は、XB-70、通称”ヴァルキリー”」

 その時、上空から大型の航空機が飛来する。

着陸に入った瞬間、その機体の異様な大きさに、ヤウクは腰を抜かした。

 全長80メートル強。 

ざっと見て戦術機4個分の大きさだ。

「合衆国軍の戦略航空要塞計画が生み出した試作機だ。

単独で敵地奥深くに侵入し、短時間で敵根拠地を殲滅可能な決選兵器だ。

摘んでいるムアコック・レヒテ機関は……」

 あまり詳細を話されては困る。

アームストロングは、話を遮った。

「ストームズ主任、話はもう結構です」

 ストームズが着席した後、アームストロングが続ける。

「要するにだ。

このマシンは、我らの勝利のために必要だという事だ。

活躍次第によっては、我々は再び月と火星からBETAを駆逐し、世界に安寧をもたらす近道を得る」

 アルトン・D・スレイ基地司令が続ける。

「すでに本作戦は実施している。

明日の出撃を前に、万全の準備を整えたまえ。

以上だ」

 

 一同が解散した後、アームストロング中佐は、基地司令の後を追いかけた。

作戦遂行の障害となる人物に関して、話すためである。

 一足先に執務室に戻っていたスレイ基地司令を見つけると、彼を連れ出した。

人のいないところで、込み入った話を行うためである。

「ブッシュ中尉を外してほしいだと……」 

 アームストロング中佐は、単刀直入に切り出した。

「彼は議員経験者ですし、CIAの職員でもあります。

本作戦に従事させるのには……」

 ジョージ・ハーバート・ウォーカー・ブッシュ海軍中尉は、異色の経歴の持ち主だった。

 1942年に海軍にはいると、翌年には最年少の海軍航空隊のパイロットになった人物だ。

戦後、海軍を退役した後、イェール大学を経て、石油商などの職を転々とした後、共和党に入った。

 政界入りした後、ニクソン政権下で国連大使を、フォード政権下ではCIA長官を歴任した。

CIAとの関係はフォード政権以後と嘯いていたが、作戦に参加する将兵の殆どは彼が戦後すぐからCIA工作員と知っていた。

 だが、そんな事は、アームストロング中佐を除いて、誰もおくびにも出さなかった。   

「その提案は受け入れられんな」

 スレイに素気無く断られても、アームストロングは食い下がった。

「なぜです。

彼が石油関係の人間だからですか」

 ブッシュ中尉は、議員を辞した後、外交問題評議会と三極委員会に参加した。

いずれもニューヨークに本拠を置く、石油財閥系の団体だ。

 現政権のブレーンであるブレジンスキー教授、対中接近を推し進めたキッシンジャー博士との関係も深い組織である。

「捨て置けばよい」

「閣下!」

「今回の作戦には、正規軍の他に、仏外人部隊や英連邦の兵士も参加させている。

聞いた話だと、ドイツ人はおろか、東洋人もいるそうではないか。

どこにスパイがいるか、分かったものではない」

 アームストロングは眉をひそめた。

「閣下、滅多なことを仰いますな。

無益な誤解を招くことになりますぞ……どうかご自省(じせい)下さい」

 スレイ基地司令は不敵に笑った。

「この期に及んで、讒言(ざんげん)などと密告されてもたまらんからな。

少し口を慎もう」

 

 今回の作戦に置いて、米軍は相当の損害を覚悟のうえで、大規模な落下傘降下をする部隊の派遣を決定していた。

 だが徴兵制を停止した今、優秀な人材を失うのは惜しい。

そこで注目したのは、ベトナム戦争で活用した新基準兵の再任用である。

 後に判明するのだが、組織された軌道降下兵団の志願兵の多くが、黒人やスペイン系で、いわば「米国内の外人部隊」であった。

 志願制に移行したばかりの米軍では、深刻な人材不足が起きており、1980年の時点で、その57パーセントがカテゴリー4――軽度知的障害に相当――の分類を受けたものだった。

 この「国内の外人部隊」の設立に反対したのは、国防総省で副長官補佐官を務めていたコリン・パウエルだった。

パウエルは、自身も黒人という立場から。一部隊における過剰な黒人割合の増加は、米国の民主制にとって悪い結果を残すと上院の公聴会で述べたのであった。

 だがその言葉が、マスメディアによって曲解した形で報道されると、国防総省から軌道降下兵団へ移動となった。

 この発表がなされたとき、国防総省は、パウエルの異動は、准将への昇進で、懲罰人事ではないと述べた。

だが、ケネディ時代の公民権運動の再来を恐れた軍上層部の判断により、中央から追放されたというのが実情だ。 

 コリン・パウエル事件以来、米軍内部では外人出身者、有色人種やアメリカインディアンへの言及は、一種のタブーだった。

駐留先で白昼堂々と現地人を暴行陵虐したとか、機密書類を公然と盗むという様な明らかな違反行為以外で、問題のある人物を告訴するのが難しくなっていた。

 黒人兵の不当な扱いを諫言をしたパウエル――彼自身も黒人である――へ、懲罰人事を行ったように、むやみな事を言えば首が飛ぶという事態のために、軍の統制自体が崩れてきていた。

マスメディアの攻撃を恐れるあまり、彼等と癒着したり、媚びを売る指揮官が一気に増えてしまったのだ。

 朝鮮戦争当時の軍を知っているスレイにとって、今の米軍の堕落ぶりは認めがたいものである。

だが、BETAを一刻も早く月面から排除するために、涙を呑んで、この惨状を受け入れたというのが本音だった。 

 

 ヤウクが格納庫で最終チェックをしていた時、滑走路上を行進していく異様な集団を目撃した。

 様々な制服を着た1000人以上の米軍の兵士が、着陸したばかりのC-130輸送機から降り立った。

規模で言えば連隊相当の兵員の半数以上が有色人種で、東独出身のヤウクにとって、それはあまりにも奇異に感じられた。

 所属する軍種はおろか、軍服や袖についた部隊章もバラバラで、仮装行列かと見紛(みまが)うばかり。

酷い例になると半裸の上にM1955 ボディアーマーを着て、階級の書かれたヘルメットをかぶった者もいる有様だった。

 彼等を指揮する将校でさえ、服装の統制が採れておらず、選り取り見取りだった。

例えるならば、パリコレクションで紹介されるように、奇抜な制服の着方をしたものが多く、海軍の白い詰襟の上からN-3bを羽織っている物などは、可愛い方だった。

 軌道降下兵団は、滑走路に置かれた質の悪いプレハブ小屋に似た80フィートコンテナに乗り込まされていく。

 超大型クレーンで吊り下げられたコンテナは、再突入駆逐艦の名称で知られる大型スぺースシャトルの上に積載にされていく。 

 全長72メートルの機体に、外付けされている再突入殻は、コンテナを上に乗せたような姿に見える。

 与圧装置もなく、窓もない四角い箱は、まるで棺桶のようにヤウクには思えた。

カザフで見たソ連の囚人部隊でも、ここまでの扱いはなかった。

 確かに人権も自由もなかったが、ソ連の囚人兵は最低限の名誉は守られていた。

椅子はおろか、窓も便所もない貨物用の貨車で移送されいたが、空気は十分にあった。

 あんな感じでは、食事もひどかろう。

ソ連で体験した据えた匂いのする黒パンに、塩とジャガイモの冷めたスープという贅沢な代物ではあるまい。

 恐らく、歯磨きのチューブに似た容器に入った離乳食に似た物や、一口サイズの固形食だろう。

栄養価は高いが味気ないもので、訓練を受けてない兵士にとって、負担にはなるだろう。

   

 2000人の軌道降下兵が大型スぺースシャトルに乗り込んだ直後、外から無機質な音が響く。

「機密閉鎖完了」

 コンテナの中は、がらんどうのプレハブ小屋そのもので、ベンチもテーブルもない。

一応コンテナ内を含め、シャトルは全て地上と同じ1重量ポンド毎平方インチ(psia)に保たれている。

 だが万が一のことを考え、シャトルの操縦要員は全員がオレンジの与圧服を着用している。

これは、ソ連のソユーズ11号での事故を受けて、帰還時に窒息死しない措置であった。

 米国の場合、与圧服(PAG)は船内用と船外活動用、月面用の3種があり、ソ連製に比べて作業性に優れ、サイズも豊富だった。

ただ船外活動ユニット(EMU)は、ソ連の海鷲(オーラン)作業服と違い、一人では着用できず、重量もそれなりにあった。

 兵員に貸与された与圧服は、A8Lといい、アポロ計画で使われた月面活動服の改良版で、船内服と活動服を兼ねたものである。

船外活動ユニットと違い、再利用が出来ず、作戦ごとの使い捨てだったが、途中で下着以外着替える必要がなく、費用対効果に優れていた。

 


      

 

「発射、5秒前、4、3,2,1,点火」

 轟音と共に5機のシャトルが、順次発射される。

 格納庫にいた戦術機部隊の兵士たちは、不安な面持ちでその様子を見守っている。

間もなく、シャトルは耳を聾する轟音(ごうおん)を響かせ、白煙を残しながら上昇していった。

 射場から離れた屋外喫煙所で感慨深く様子を見ていた、ヤウクの内心は平穏ではなかった。

それまでに感じた事のない、昂ぶりとも緊張とも取れぬ感情に支配され始めていたのだ。

 間もなく開かれた晩餐会を兼ねた壮行式に臨んでも、その気持ちは変わらなかった。

 フレンチ、中華、トルコ料理に、ロシア式フルコース、そして日本食等々。

様々な山海珍味から、アメリカ人が好きそうなファーストフードまでがずらりとならんでいる。

 緊張からか、食欲のなかったヤウクは、ペプシ・コーラとハーシーズのミルクチョコレートしか口にしなかった。

 彼は、ボルガ系ドイツ人という出自と東独での厳しい生活での為、好き嫌いはなかった。

だが、どうも食指(しょくし)が動かなかったのだ。

 一緒に来ている英連邦の兵士たちや仏軍外人部隊の隊員は、すでに半酣(はんかん)という具合なのに。 

 呆然としていると、そのうちに会場内に設置されたステージに有名歌手たちが現れた。

 ザ・ビーチボーイズ、元ビートルズのジョン・レノン、ソロ歌手でカントリーミュージックのグレン・キャンベル。

B.B.キングといったブルース界の大御所もいるかと思えば、流行りのカレン・カーペンターまで来てる。

 アメリカ人の好きそうな歌手を集めたような感じだ。

せめてパンクロックやエルヴィス・プレスリーでも……

「どうしたロシア人、落ち込んでるのかい」

 ヤウクが重い顔を上げると、そこには西独軍のバルク大尉がいた。

アルコールの匂いからして相当飲んでいる感じだが、顔色は一切変わっていない。

「マリリン・モンローでも呼んでほしかったって顔だな」

「僕は……」

「商売人は嫌いか」

「好みじゃないだけさ」

 ヤウクは言葉を切るとタバコに火を点けた。

ラム酒を混ぜた、日本産の質の高い黄色種(バージニア)の贅沢な匂いが一面に広がる。

 銘柄はハイライトで、以前木原マサキに送ってもらったものである。

2カートンをビニールに入れて保管し、今明けたのは最後の一箱だった

「まあ人妻にも、いろいろ種類があるってことかな」

 バルクが独り言のようにつぶやいた時、ヤウクは煙草をもみ消した。

2人の視線がぶつかった。

「どういうことだい」 

 ヤウクは思わずなれなれしい口をきいた。

バルクには、それがロシア人特有のふてぶてしさを表しているかのように感じさせた。

「どうなんだろうな」 

 バルクは、BNDからの事前情報で、ヤウクの交友関係を知っていた。

彼がユルゲン・ベルンハルト大尉の妻に特別な感情を持っていると一方的に類推していたのだ。

 バルクは、もしこの状況で、彼が言わんとしていることをヤウクが探り当てたなら素直に降参するつもりだった。

だが、それでは面白くない。

 ユングとの接触記録をヤウクに送り付けて、ユルゲンがBNDとの交友関係があることを分かった方が、ショックが大きいと思ったのだ。

 親友への驚き、怒り、そしてどう対処するのか、興味があった。

上昇機運にあるSED書記長の養子の裏切り行為を、ヤウクがどう受け止めるか知りたかった。

SED党幹部を父に持つ若い妻にどう対処するか、知りたかった。  

 彼の目指すもの。

それは、東独現議長のSEDでの失脚だった。

ヘルムート・シュミットの無念の失脚と、西独政界の悲惨な再編に値する物は、それ以外に考えられなかった。

 バルクはヘルムート・シュミットに個人的恩義を感じていた。

バルクの父は、戦時中アルデンヌ攻勢に参加しており、その部隊の上官がシュミットだった。

 シュミットが機転を利かせて部隊を下げてなければ、バルクはこの世にいなかっただろう。

息子に早世されたシュミットから、息子の様に可愛がられたバルクに取り、一種の恩返しの面があったのだ。

 復讐がかなわなくてもいい。

今後ユルゲンが、自らの心に自責の念を常に心に背負っていくようになるだろうと。

 バルクは、シュタージ中央偵察総局や外務省の方針を見誤っていた。

東独の在外勤務者は、西側の人物との接触を禁じていなかった。

交友関係を通じて、東独側に抱き込むこと良しとしており、ユルゲンの行動はその範囲内と解釈されていたのだ。

 実際、マルクス・ヴォルフの行ったロメオ工作やヴェーヌス工作では、西側の交友関係が重視されたし、美丈夫ユルゲンの価値は想像以上のものだった。

 東独の色仕掛け工作は、それぞれ男性の場合がロメオ工作員、女性の場合がヴェーヌス工作員である。

 シュタージの場合、烏や燕といったKGBの用語を使う訳ではなく、専門の学校はおかれなかった。

脅迫による採用もあったが、そのほとんどが忠誠心の高い人間をリクルートする場合が多かった。

 アクスマンが手掛けた様に、市井の女性を拉致或いは偽計で工作員にする場合もあった。

だが、寝返りをうながすロメオ工作やヴェーヌス工作では、裏切られる可能性があるので用いられなかった。

 

(きみ)……」

 ヤウクの声がつまった。 

 時折、白いメス・ジャケットと黒いカマーバンドを着た給仕役の黒人兵が通り過ぎる。

もちろんテーブルごとの会話に気を配る物などいない。

作戦前の壮行会で、喧嘩が跋扈するなどと想像もしないのだろう。

 バルクの指先が、テーブルの上にあるハイライトのソフトパックに伸びる。 

重苦しい沈黙から逃れるべく、バルクはタバコに火を点けた。

「フッ、歌手だか何だか知らねえが、所詮は女さ。

一度抱けば、それで終わりだろうと、言いたいんだろう」

 バルクが軽口を叩いた直後、予想もしないところから返事があった。

「なるほど、その手があったか……」

「アッ?」

 見つめているヤウクとバルクの声を、ハルトウィックの鼓膜は心地よくとらえた。

「ちょっと借りてくるわ」

 封を切られていない1950年のシャンペンを取ると、ハルトウィックは揚々とその場を後にするのだった。

*1
史実でのニール・アームストロングの最終階級は海軍中尉




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