冥王来訪(ハーメルン投稿版)   作:雄渾

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 にわかに起こったベオグラードでの西ドイツと東欧の講和会議。
慌てふためく米ソの裏には木原マサキの影が。
マサキの狙いとは……


焦燥(しょうそう)

 ベオグラードでの西ドイツ主催の東欧5カ国の会談が行われた晩。

一本の電話がチトーの所有する別荘にかかってきた。

 その夜、チトーは政治局員たちと今後の展望について話し合っている最中であった。

会議の座中、秘書官が駆け込んできて、木原マサキからの電話が入ったことを告げる。

チトーは机の上にある防諜対策の施された外線電話の受話器を持ち上げた。

「木原先生、上手く逃げ切れましたか」

「ああ。お前たちには、いらぬ心配を掛けさせたな」

 マサキはクロアチアまでNKダイナモというサッカークラブが所有する車で移動した後、ハンガリー行きの列車でブダペストに移っていた。

ユーゴスラビアの秘密警察は、表向き手助けをしなかったが、マサキがハンガリー行きの列車に乗るまでその動きを見守っていた。

 チトーはしばし考え込んだ後、こう尋ねた。

「それで先生、ソビエトとはどこで手打ちをなさるおつもりですか」

「徹底的にやるつもりさ」

 ソ連との対決を極力避けたいという考えについて、チトーは沈黙を守るつもりだった。

だが彼は、別なところで饒舌を発揮してみせたのだ。

「では世界を二分するソ連が崩壊するまでですか」

 チトーはマサキが思う以上に現実主義者のはずだ。

これは、阿諛追従の言葉ではない。

 恐らくチトーなりの勝算があっての事だ。

マサキは声をあげて笑い始めた。

「とことん追い詰めるつもりだ。奴らが他国への侵略を考える力さえ持てないほどにな」 

 ただチトーは思うのだった。

人間は絶望に浸って、現実を直視できるほど強い存在ではない。 

あの30有余年前の遊撃戦の際も理想や夢を抱いて、ドイツと戦ったではないか。

 これから多くの若者を戦士として育てなくてはならない。

かつて自分がそうであったように。

「くれぐれもお礼参りにはお気を付けください」

 深刻な声で告げた言葉に、マサキは平然と答えた。

「返り討ちにしてやるまでよ」

 チトーは思った。

寿命がある限り、この男の理想とやらを最後まで見届けてみたい。

木原の描く世界とはどんなもので、どこまで行くのかと。

 

 一方その頃、東京では。

すでにマサキがポーランドから東欧に入って10日間が過ぎていた。 

 一向に現地からの連絡がないことに、日本政府も焦りの色を見せ始めているところだった。

だがウィーンの日本大使館から、外交秘電を通じて連絡があった。

 マサキはスロベニアのリュブリャナからブダペストを経由して、ウィーンに来たのだ。

その話を聞いて、彩峰と榊は半ば不安と半ば安ど感を覚えた。

 彼らはベオグラードでの西独の平和条約交渉の裏側にマサキがいると思ってた。

そして、電話を受け、彩峰たちの推理は確信へと変わったのであった。

 


 

 1979年10月12日、世界を震撼させる事件が起きた。

それは西独と東欧5カ国による相互友好条約に向けた共同宣言である。

 このベオグラードで行われたチトー主催の首脳会談を受け、緊急会合がウラジオストクで開始された。

 ウラジオストク地方自治庁舎*1を接収して設けられた政治局会議本部には険しい表情ばかりがあった。

ため息を押し殺すうめき声も、そこかしこから漏れてくる。

「ベオグラードからの報告は、確認しましたか」

 ソ連共産党中央委員会書記長ミハイル・ゴルバチョフは、壁に掛けられた東欧及びバルカン半島の地図を見た。

「はい、同志議長」

 外相のヤコブ・マリクは、やや憔悴した面持ちでこたえる。

「共同宣言には、東ドイツ、ポーランド、チェコスロバキア、ハンガリー、ルーマニアが参加しております」

 マリクは、国防相のドミトリー・ヤゾフ大将を一瞥した。

既にワルシャワ条約機構軍は当てにならんと、いう眼差しだった。

「東ドイツ、ポーランドにつづいて、今度はチェコスロバキア、ハンガリーもか」

 そのヤゾフ将軍が口を開いた。

「量や数の面ではともかく、質の面では到底NATOにはかないません。

彼等の軍事ドクトリンは、刻々と変わる国際情勢に合わせて、常に変わっていますから」

「感心している場合ではなかろう!」

 マリクは大声でたしなめた。

「だから国際主義的義務一辺倒では駄目だと言っていたんだ!」

 もっと西側に歩み寄っていればよかったとのマリクの物言いだったが、外交チャンネルはないわけではない。

日米やNATOに軟化を促す、東欧とソ連の関係を良好に保つというの外務省の役割である。

 マリクは、自分やグロムイコの不徳を、完全に棚に上げていた。

それに冷ややかな視線を返しつつ、ヤゾフが答えた。

「これまで赤い星の代紋(だいもん)*2に楯突く国など少なかったのに、同時に5か国が……」

 KGB長官を含め、会議の参加者はルーマニアの事はおよそ見当がついたのだ。

脱走した秘密警察長官パチェバの件を含め、ソ連とルーマニア関係は荒れていたからだ。

 ヤゾフは指示棒でブルガリアの位置を指し示した。

「ジフコフ*3からは至急援助を送ってほしいと泣きつかれました。

ユーゴスラビアに対抗するために、武器供与と増援部隊を……」

 周囲の視線がゴルバチョフに向けられる。

「どうします、議長」

 ヤゾフは改めて尋ねたが、ゴルバチョフの表情は硬いままだった。

「送らねばなりませんでしょう。

バルカン半島の地は、同志スターリンの時代に大祖国戦争の勝利によって築き上げた勢力圏です。

我々の代でバルカン半島から社会主義の勢力を撤退させたとなれば、草葉の陰にいる先人たちに申し訳が立ちません」

 

「では、共同宣言の内容は、どのようなものですか」

ゴルバチョフの問いに、マリクが手元の資料をめくった。

「表向きは相互不可侵と経済協力です。

しかし実質は違います。

ドイツを中心とした、東欧独自の新たな安全保障体制の構築。

――つまり、我々ソ連を排除した新秩序の建設です」

「……ブルッセルの反応は?」

 マリクに代わって外務次官のニコライ・ロジオノフが答えた。

「NATOとしての公式声明はまだ出ておりません。

しかしBBCをはじめとする西側メディアの報道は概ね好意的です。

何より、ベオグラードの会談の席には、米国のブレジンスキー補佐官とブラウン国防長官が同席していました」

「ホワイトハウスも傍観者ではないというわけか!」

 マリクが忌々しげに吐き捨てた。

事前情報を掴めなかったKGBへの当てつけでもある。

 

「最も重要なのはポーランドとチェコスロバキアです」

 ワシーリー・クズネツォフ最高会議幹部会第一副議長が怒りで顔を紅潮させる。

「フサークのおいぼれめ、やりおったな。

東欧の独立主義者の煽りに乗せられたのみならず、よりによって西ドイツと手を組むとは」

 ニコライ・フィリュービンが苦虫を嚙み潰したよう顔でつぶやいた。

「核を見せれば、白旗を掲げて、元の鞘に収まると思ったが……。

年寄りが意地を張って、ドイツにくっ付いて徹底抗戦の構えで居やがる」

 1978年3月、ソ連は一度バルト海上空で核実験という名の恫喝を行った。

戦略核戦力の優位を背景に再び影響下に戻ると考えていたが、チェコの態度はより強硬策へと変わった。

国際社会の批判と国内世論を受け、グスターフ・フサークは事実上の西側開放政策へ舵を切ったのだ。

ポーランド野郎(プシェク)の奴等が公然と西ドイツとの協調を選んだ意味は大きい」

「苦節三十有余年……、我々が築いた社会主義体制への挑戦だ」

 ゴルバチョフが手を挙げて怒号を制した。

「同志諸君、落ち着き給え」

 議長の一言で、騒然としていた会議室に静寂が戻る。

しかし、マリクの表情はまだ晴れない。

「同志議長、この動きは偶発的なものではありません。

明らかに周到に準備されております」

「首謀者は誰だ」

 フィリュービンが身を乗り出した。

「まさかチトーが描いた画か……」

「ユーゴスラビアは表向き、宣言への支持を表明しておりません」

 ロジオノフ次官が否定する。

「現時点では断定できませんが……

しかし、全ての情報を総合すると、あの日本野郎(ヤポーシキ)、木原マサキの存在を無視することはできません」

 

 木原マサキ。

その名前が出た瞬間、室内の空気が一段と冷え込んだ。

 ゴルバチョフは今回の動きを不審に思った。

 今度の5カ国の共同宣言と、月面攻略作戦。

偶然重なったにしてはあまりにもタイミングが合いすぎている。

何かの意図が動いた気がする、という不安が拭えなかった。

「これは策略だ。

ついに木原が表立って動きおったか」

「木原という黄色い日本猿(マカーキ)一匹で出来る芸当ではない」

 クズネツォフが吐き捨てる。

「背後に誰がいる。西独のブラントか、それとも支那の鄧小平か……」

 フィリュービンが唸った。

「ポーランドの連中は片づけられんのかね!」

「片づけられるか! そう簡単にできるならとっくにやっておるわ!」

 ヤゾフが怒鳴り返した。

「しかし今、我々が手を出せば、奴らに正当性を与え、我が方の負けと思われる」

「では」

 ゴルバチョフが決断を下した。

「明日にでもベオグラードへ特使を送る手配をしてください」

 

「ベオグラードどころじゃありません!」

 そこへ、チェブリコフKGB長官が、青ざめた顔で報告書を手に割り込んだ。

「ルーマニアの部隊が、プルト川沿いに続々と集結しつつあります!」

「何、ルーマニア軍が!?」

「原因は、我が軍が誤って発射したミサイルが国境沿いの集落に着弾し、被害を受けたという理由です」

「誤爆事故というちんけな理由で、ワルシャワ条約機構を二分する戦いをやろうというのか! チャウシェスクめ、何を考えている!」

 マリクが激昂する。

「という事は、チャウシェスクからの宣戦布告ということか」

 ヤゾフの問いに、マリクが答えた。

「奴なら考えられるな。

頭が足りない割には、激情家で好戦的な性格だからな」

 おもわず外相は、チャウシェスクが靴職人上がりの無学文盲と言いそびれた。

議事録に載らないところであれば、内心の怒りに任せ、チャウシェスクの吃音をあげつらったであろう。

 

「いくら小心者とはいえ、チャウシェスクは誤爆程度で軍を動かす男ではありません」

 チェブリコフが冷徹に指摘した。

「背後で誰かが絵を描いている。

それにチャウシェスクは、そもそも我々のやり方が気に入らなかったのだ」

 フィリュービンの言葉に重ねるように、チェブリコフが続ける。

「今、同志議長がウラジオストクを離れたら、事態は収拾できません」

「チャウシェスクめ、木原に恩を売り、我々をここで足止めさせるとは……

日本に取り入ろうという魂胆か!」

「まさか、ベッサラビアを奪い返す気か!?」

「火事場泥棒で領土を取ろうというのか。

薄汚い民族主義者どもがやりそうなことだ!」

 

「同志議長!」

全員の視線が集中するなか、ゴルバチョフは厳しい口調で告げた。

「ベオグラードは捨てます。一旦後回しという形にしましょう」

 ゴルバチョフは地図を睨みつける。

「これまで東欧の火種は、ドイツが最大のものだと思ってボンをマークしていたが……

これからは、東欧中の国が戦争の発火点になるということだな」

 視線を落とすゴルバチョフに、マリクが自虐的に答えた。

ゴルバチョフは顔を上げると、チェブリコフに向き直った。

「全世界のKGB支部に、これまで以上の取り締まりと警戒を強めるよう通達しなさい。

それと、日本の木原の動きはどうなっているのですか」

「ここ半月ほど、姿を見せていないそうです」

「自宅にも、官邸にもですか」

「はい」

 チェブリコフは深く警戒した。

木原が姿を消したときは、何かを企んで動き回っている時だ。

 そしてその後に、必ず世界を揺るがす大事件が起きる。

 どこだ、木原は……。

そして今度は、一体何を起こそうというのだ。

 

 ホワイトハウスにあるシチュエーションルームでは、一昨日行われたベオグラードでの首脳会談が取り上げられていた。

 議場にある大型スクリーンには会談後に行われた記者会見の映像が流れる。

 机の上に腰かけた大統領は、TV画面から振り返り、会議の参加者たちを一瞥した

「このブラント首相の記者会見をどう見るかね」

 サイラス・ヴァンス国務長官が答える。

「これだけ、ドイツの戦後補償に関してはっきり言及した首相は初めてでしょう」

 一斉に閣僚たちの顔がヴァンスの方に向く。

「やはりドイツは、真剣に欧州の中のドイツを選択し始めたのでしょう」

 ウォーレン・クリストファー国務副長官が口を開く。

「明らかに新時代のドイツの在り方……四大国を離れた独立への布石とも考えられます」

 大統領は、クリストファーの意見に驚きの色を浮かべる。

「独立!」

 ズビグネフ・ブレジンスキー国家安全保障問題担当補佐官が答えた。

ブレジンスキーはしばしばヴァンス長官とソ連問題で対立し、閣内での意見不一致の一つであった。 

「しかし我が合衆国側から見れば、好都合では?」

 ブレジンスキーは、ソ連を世界の覇権を争うライバルとみなし、中東やアジアを含むユーラシア大陸全体でのソ連の勢力拡大を阻止する大戦略(グランド・ストラテジー)を建てた。

「もし西ドイツが提案する東欧のNATO加盟が実現されるなら、それはソ連を刺激することになる。

我が国としては、ソ連への交渉の働きかけが円滑(えんかつ)に進められるという効果が……」

 ブレジンスキーはアメリカがとるべき大戦略として、まず東欧諸国の民族主義と自由化を促進し、ソ連の支配力を弱体化させるべきと考えた。

ポーランド、ハンガリー、ルーマニアが独自路線を強めれば、ソ連は西方に軍事力を割かざるを得なくなる。

ブレジンスキーは、一貫してソ連の弱体化を目指した。

 大統領オラックリンは、ブレジンスキーの意見を一笑に付した。

「そう計ったように事が進むのならば、政治家などいらぬものだ」

 椅子から立ち上がると、ドミニカ製の葉巻を取り出す。

シガーカッターで端を切ると、ダビドフのクラシック No.2に火を点けた。

「スラブ人は難解だ。

特にソ連という超大国は……」

 

 各省の長官たちが退室した後、大統領補佐官のブレジンスキーは、CIA作戦本部長のフランク・チャールズ・カールッチ3世副長官を執務室に呼んだ。

会議前にCIAの秘密報告書で回ってきた情報について、部下に真偽を質した。

「木原マサキのベオグラード極秘訪問。

この田舎学者も頭の痛い事だが……付き添いの一人は情報省の外事2課の職員だと? 

どう言う人物かね、カールッチ君」

 カールッチは書類を一瞥する。

「今回のベオグラード極秘訪問に関しては、詳細は確認中です。

情報省内の資産(アセット)からは、未だ詳しい事は……。

 ただ、チトー大統領と接触したのは、確実なようです。 

いずれも作戦本部欧州部が確認しております」

 CIAの作戦本部とは、主に秘密情報源である人的情報(ヒューミント)を中心とした対外情報の収集と諜報活動を担当した部署である。

 この人的情報の責任者は、CIA発足以来副長官職と兼務され、大統領の指名により任命される。

「木原の足取りを追え。

報告は逐一だ」

 カールッチCIA副長官はブレジンスキー補佐官に一礼をすると、執務室を退室した。


 その頃、マサキはウィーン空港からミュンヘン空港を経由し、すでに西ドイツの地を踏んでいた。

 車でバーデンバーデンに着いたとき、すでに夕闇が迫っていた。

ミュンヘン空港近くに預けてあった白のBMW2002ターボに乗り換え、アウトバーンを全速力で飛ばしてきたため、目的のホテルに着いたときは既に疲労困憊の状態だった 

「まずお礼が欲しいな」

 そういってココットは、紅唇(こうしん)を指さした。

 マサキは少し、そして驚いたようにココットを見返す。

「会うなり、キスを求めてくるというのは、お前も変わったな」 

 マサキは、A3判の封筒を持ったココットを抱き寄せた。

 マサキがキスをすると、ココットは持っていた封筒を下に落とした。

 体が燃え上がるように熱くなり、たまらず彼にしがみつく。

マサキに抱き寄せられて、ココットは彼もまたいつもの様に拳銃を帯びていないことを知った。

 ほとんど唇が痺れて感覚を失いかけた時、ようやくマサキはキスを解いた。

ココットは乱れた襟元を直した後、床に落ちた資料を拾い上げる。 

「はい、資料」 

「すまんな」

 ココットの渡した資料は、BNDがまとめたアフリカ大陸でのソ連の軍事行動の要約であった。

本年9月の南アおよび南ローデシアとモザンビークの武力衝突をうけて、マサキはアフリカのソ連の動きを注視していたのだ。 

「風呂に入ってきたら、もう一回キスをしてやるよ」

 それに対するココットの返事は、酷く子供じみたものだった。

右手の食指で右の下瞼の裏側をめくり、赤い舌を白い歯の間から見せつける――あかんべぃそのもの――のであった。

 

 フリードリヒ浴場から上がったマサキは、ココットとの会食をするためにホテルに向かった。

自室のドアを開けると、そこにあるテーブルの上には高級なブランデーと軽食の数々が並んでいた。

 先に席に着いたココットは、すでに煙草をつけて喫っている。

 二人は乾杯の後、他愛もない話を続けていた。

不意にココットが話題を変えた。

「ソ連は、まだテロ支援を続けるつもりかしら。明らかな失敗をしても」  

「KGBにとって、テロはあくまで目的を達成する手段にしか過ぎない。

成否は別としてな」

 マサキは言葉を切ると、タバコに火を点けた。

「テロは成功しなくてもよい。

例え未遂であっても、そのような暴力に基づいた政治的意図が表に出ただけで十分に効果がある」

 マサキが、ソ連のこれまでの国際テロを列挙すると、ココットの若い瞳には、ありありと不快な色が燃えた。  

「呆れたわ。滅茶苦茶な話じゃない」

「他人から見ればな」 

「貴方の狙いは」

「世界征服という、荒唐無稽な夢をな。

その為には、ソ連という存在は障害になる」

 マサキの説明に、ココットはなんの感激もない。

「もっとも、ソ連は広大な国土と100を超える民族という危うい風船の上にある。

そこで東欧諸国の大量離反という事実が起きた時、ソ連は自国内にある民族問題に向き合わねばならなくなる。

はたしてソ連への憎悪があるバルト三国やカフカスの諸民族が、民族自決という誘惑に耐えきれるかな」

 ココットは、水と氷で限りなく薄まったヘネシーを呷った。

「どうせ、あなたが仕掛けるんでしょう」

 ココットの、マサキへの冷笑の調子は、まるで彼女の性格そのものかと思えた。

「必要かどうかじゃなくて、種火のある所に油をまくのが好きね。

もしかしてルーマニアの軍事演習も、あなたの仕組んだことじゃなくて」

 マサキは含み笑いを浮かべて答えた。

「俺を高く買うのは結構だが、あれは偶然の産物だ。

方々に火を放てば、場合によっては焼け死ぬ危険がある。

だが、ひとたび起こした火だ。

有効活用させてもらうよ」

 

 

 マサキは情緒を欠く声で言った。

「ところで、ココット。

どうだ、落ち着いたら、ここはひとつ、俺の子でも育ってみぬか」

 一瞬の沈黙の後、ココットの凛とした顔立ちの中にある瞳から情念の光を揺蕩わせたかに見えた。

「貴方の野望の道具とするため?

それなら、御免こうむるわ」

 言葉を発した直後、席を立とうとしたココットの右腕を、マサキは反射的に掴んだ。

その力は、自分でも驚くほど強かった。

「そうではない、ココット。

俺自身を超越する人間が欲しいのだ」

 マサキは過去の経験から、男の焦りが一番愚劣だとわきまえている。

 だがマサキは、鉄人ではなかった。 

その一言が、短剣の様にマサキの胸を切り裂いたとしても、表情に出さないほどの器用さは持ち合わせていなかったのだ。

「それにはココット、お前の優れた知性がいる」 

 ココットは、空のロックグラスにブランデーを注ぐと、氷も入れず、水でさえも割らないで、口の中に入れた。

アスバッハ*4の味やフルティーな薫りより熱い刺激を楽しむかのようにである。

胃と食道が38パーセントのアルコールで燃え上がる実感があった。

「……そして、最後にはその者に俺を殺させたい」 

 その一言に、ココットはふと恐怖した。

木原は野望を達成した後、自ら姿を消すつもりなのかもしれない。

その時の孤独を思うと、ココットは耐えきれなかった。

*1
Здание Городской управы

*2
ソ連赤軍のシンボル

*3
Todor Hristov Zhivkov,(1911年9月7日 - 1998年8月5日)ブルガリアの政治家。35年の長きにわたりブルガリアの最高指導者を務めた

*4
西独の有名ブランデー




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