冥王来訪(ハーメルン投稿版) 作:雄渾
翌10月14日の早朝。
ホテル・デア・クライネ・プリンツ*1の正面に、一台のメルセデス・ベンツ280SEが静かに横付けされた。
濃紺の280SEセダンから降りた男たちは足早にホテルのロビーに入った。
男たちの正体は、情報省職員である鎧衣左近と、陸軍情報部員の白銀影行であった。
彼らはホテルのロビーからマサキの部屋に電話を掛けた。
部屋に電話を入れると、応対したのはココットだった。
五分もしないうちに、濃紺のローデンコート姿のマサキがロビーへ姿を現した。
「朝から騒がしいな。」
マサキは紫煙を燻らせながら、不愉快そうな顔を鎧衣たちに向ける。
まだ時計は6時を回ったばかりであった。
白銀は何事もないかのように会釈をした。
「先生、おはようございます。
とりあえず車まで」
「そんなのは判っている」
マサキは眼光鋭く威嚇してみせるが、逆に憤りたいのは白銀たちの方であった。
白銀たちが、かような感情を持つのにも致し方のない事情がある。
ハンガリーのブダペストを発って以来、マサキから3日間連絡がなかったからだ。
「時間がありません。
詳しいことは、
白銀は顔色も変えずに告げた。
結局マサキの憤りも立ち消えとなり、部屋からアタッシェケースを二つ持ってくると車に乗り込んだ。
「その様子だと、日本のニュースをご存じないようだね」
後部座席のマサキの隣に座った鎧衣はそういうと、13日付けのインターナショナル・ヘラルド・トリビューン*2をマサキに渡した。
そこにはソ連通商代表部の職員を装い、日本国内を拠点にスパイ活動をしたソ連軍将校の事が書かれていた。
同紙によれば、1973年のBETA侵攻が始まって以降、日本は、西側諸国から追放されたソ連人スパイたちの活動拠点となっており、GRUは精密機器などの軍需物資を日本で買い付け、ソ連に密輸しているというのである。
マサキは、冷戦期によくあるソ連のスパイ事件としてしかとらえなかった。
かねてから、日本はスパイの楽園として、広く
そして、この世界でも日本にはスパイ防止法がなかったからだ。
ただマサキの脳裏には、いくつかの想いが逡巡し始めてた。
間違いなく、ソ連は報復に出る。
だが、今のタイミングでの行動は何だ?
米英の関心が月に向いているとはいえ、こんな大胆な事を……
マサキは気分を落ち着かせるために、ガラス瓶の栓を抜いて、スプライトを流し込んだ。
「今回の事件は、今の俺に関係あるのか」
「実は少し長い話になるのだが……」
鎧衣はダビドフのシガレットに火を点けると、問わず語りを始めた。
事の起こりは、マサキが関与したワシリー・アターエフ事件にさかのぼる。
ワシリー・アターエフ少佐は、1973年のBETA侵攻に前後して、日本国内の財閥である大空寺に近づいた。
その際、大空寺は、自身の子会社『大空寺物産』からダミー会社の穂積交易を通じて、ココム規制に違反する大型工作機械を、第三国のノルウェーを迂回させ、ソ連へ不正輸出をしていたのである。
警察は早い段階から、ナホトカ*3に事務所を持つ穂積をマークしていたが、五摂家・九條の娘婿という事で、容易に手が出せなかった。
事件後、九條が死ぬと警察は捜査に乗り出した。
だがその翌日の早朝、穂積とその妻である沙織が大覚寺にある大沢池のほとりで惨殺死体で見つかると、捜査は暗礁に乗り上げた。
今回のGRUスパイ事件の報道は、米国CIAと連動した物であり、内務省
「大体わかった。
だが警察は、なんで大空寺を捕まえんのだ」
こらえきれなくなったマサキは、タバコに火を点けた。
鎧衣はそんなマサキの様子も関係なしに淡々と続けた。
「大空寺さんの店の番頭さんがひき逃げされた」
「番頭?」
「番頭……つまり大空寺物産の専務さ。
ワンマンな
「今、警視庁では初芝電機のある男を追っている。
国際営業部長の本間一典という人物だ」
マサキは白黒写真の載った資料を見た。
そこには42歳という年齢の他に、妻と小学生の男児二名、両性愛者であることや性的趣味に関する噂まで書かれていた。
「SM?
まさかサド・マゾの……」
鎧衣は不敵の笑みをこぼした。
「
マサキはその話を聞きながら、キム・フィルビーを連想した。
ケンブリッジ5人集は、元をたどれば3名のホモ仲間から発展した国際スパイ団ともいえなくもない組織だった。
この世界のソ連スパイたちは、皆性的な問題を抱えたものだったな。
機能不全の大野、不妊症の穂積、前立せんがんで男性機能を失った椎葉……
たしか前の世界で読んだアンドレイ・イーレシュ*5の著作*6の中に、ソ連が最終的に性機能を操作する薬や研究をしていたという伝聞が書いてあったな。
クローン受精卵や人工子宮に関連する様々な研究や、その成果………
あれは国連が主導していたオルタネイティヴ3という計画を隠れ蓑にして行われたと以前アーベル・ブレーメが言っていたな。
マサキは、ソ連の研究結果からの推論をあれこれ思い浮かべた。
恐らく本間も、両性愛者であることが社会に露見することを恐れて協力者になったのではないか。
奴らは、ただ一つだけ間違いがある。
愛という物の力を甘く見ている。
俺自身は、愛という物を捨てて、愛に頼らず、愛を信ぜず生きて来た。
だが偉大なる愛の力というものを、この世界に来て幾度となく見せられてきた。
マサキは目を閉じて、そう思ううちに、ユルゲンとベアトリクスの事を思い描いていた。
愛には負けはないのだと。
ユルゲン夫妻の姿を思い浮かべると、自然とアイリスディーナの顔も脳裏に浮かんだ。
あの可憐な娘、アイリスディーナもせめて人並みの幸せを掴ませてやりたい。
いつしかマサキは、ユルゲンたちの事を思い浮かべるうちに、今回の事件が他人事には思えなくなってきていた。
「今のままで行けば、ソ連や中国の暴虐を抑えられる国がない。
それは、先の大戦に匹敵するほどの……、いやそれ以上の空前絶後の地獄だ。
そして、それらの国々を止められるのは、天のゼオライマーを駆る、この俺を措いて他にはない」
マサキの言葉に、鎧衣は満足そうに頷いた。
「その通りだ。ここでその言葉が出てくると待っていたのだ。
故に私は、君ならばやり遂げられると信じている」
マサキは今の言葉が皮肉のように感じた。
同時に、賽は投げられたということも。
場面は変わって、在ミュンヘン日本総領事館。
総領事室でまっていたのは内務省警保局長の瀧元だった。
「瀧元、内閣顧問の俺がなんで電機会社の部長の事などを聞かねばならん。
なぜ貴様らが直接手を出せんのだ」
マサキは、
せっかくの休暇が、台無しになったからである。
「分かりました。理由をお話ししましょう」
そういって瀧本は、初芝電機と今回の事件の関係性を語り始めた。
「実は、その初芝電機が、ソ連に対してフライス盤の一種である加工機器を輸出した疑いがあると米国から相談があったのです」
マサキはその話を聞いた瞬間、1980年代末に日米を騒がしたある事件を思い出した。
東京・芝浦に本社を持つ日本の電機メーカーの子会社が、北欧のノルウェーを経由して、工作機械を不正輸出した。
1987年3月に朝日新聞の一報から始まった同事件は日本国内を揺るがし、また米国との関係も悪化させる事件であった。
「奴らの狙いは潜水艦か……」
前の世界の事件の際、工作機械の密輸により、ソ連海軍の攻撃型原子力潜水艦のスクリューの静粛性が著しく向上した事があったからだ。
「何故潜水艦なのですか」
白銀はマサキに敢えて訊ねた。
「簡単に軍事バランスを変え得るものとして、思い浮かぶのは核搭載の原潜だ。
これが米国近海に張り巡らされた探査網を抜けて、ニューヨークやロスアンゼルスの目の前に現れてみろ。
市民は核の恐怖におびえ、また米ソの軍事バランスが簡単に崩れる危険性を内包しているからだ」
瀧元が補足した
「実は潜水艦もそうですが、内調では別な兵器の開発に使われたとみています。
ただ米国としては、この問題を日本独自で解決してほしいと」
鎧衣は、いつもの如く不敵の笑みを湛えながら答えた。
「間もなく始まる月面攻略作戦……
そして水面下で行われているウィーンの第二次戦略兵器制限交渉の進展に影響するから、余計な波風を立たせたくないという訳か」
そうには違いないとマサキも思った。
白銀はいうまでもなく、もっとそれを確信した。
「なるほどな」
深くうめいたままのマサキへ、瀧元もまた言った。
「そういうわけです。
では木原先生、やってくれますね」
ソ連が初芝電機から仕入れた工作機械を用いて新型兵器を完成させ、月面基地を爆破しようとしてる。
瀧元の話を聞いた木原マサキは、一路、ロンドンへ急行してきたのだった。
「部長のアーサー・テンプル・フランクス*7です。
御多忙のところ、お呼び建てして恐縮です」
秘密情報部長官サー・ディック・フランクスは、そう言うなり、マサキに握手を求めて来た。
マサキは握手を受けながら、いつもの通り挨拶をした。
「木原マサキだ。
人呼んで、悪の科学者と言われている」
「実は、元KGBの亡命者に会ってほしいのですが」
「で、誰と」
「元KGB第1総局の諜報員、オレグ・リャーリン*8です」
「リャーリン?」
記憶が確かなら、リャーリンはソ連通商代表部の職員という肩書で潜入しているKGBの破壊工作員だ。
1971年当時、女性問題と飲酒が原因で、英国警察に逮捕された後、自分がKGBと暴露した人間だ。
それが何故、俺を。
マサキは、少しばかり不安を感じていた。
「彼が急に、木原先生にお話があると言って、お呼びだてしたわけです」
そういうと、黒髪のスラブ人男性が部屋に入ってきた。
「貴方は私を知らない。
だが私は貴方の実績を知っている。
果たしてあなたが実績通りの人間か、質問させてもらっていいか」
余裕
マサキは、彼の微笑に気づいた。
「お答えいただけたら、私もKGBの秘密計画についてはなそう」
そう言ったリャーリンの態度が、マサキの方には必然な挑戦の笑みかのように眼に映った。
優者が弱者に、自己の弱点を思わせる表情であった。
そこでマサキは間髪をいれずに、こう言いかぶせた。
「俺は遊びに付き合っているほど、暇ではないんでね」
「待ってくれ!悪かった」
マサキは、リャーリンの話を聞いて、足を止めた。
「確かに木原マサキという男は、反共の戦士として間違いない。
質問に付き合ってくれたお礼に、MI6にも話していない情報を授けよう」
人を吸いこむような柔らかい顔でいながら、リャーリンは言葉を
「1960年代、アンドロポフは、1956年のハンガリー動乱で米国へ亡命した者たちをスカウトし、スパイに仕立て上げた
そのうちの何人かが、ロスアラモス研究所内にスパイ網を築いている」
その声の弾みでも、リャーリンがいおうとする所は、マサキにはすぐ分った。
「私はKGB第1総局第13部の特殊工作員だったから、その辺には詳しい。
証拠なら、私の隠れ家に山ほど保管してある」
だが、リャーリンが英国へ亡命してから、既に8年近くが経過している。
情報が古すぎる。
マサキはそう判断した。
とはいえ、調べる価値がないわけではない。
ただし、これがKGBの仕掛けた罠である可能性も捨てきれなかった。
別行動の鎧衣は、ロンドン郊外にある屋敷を尋ねていた。
マサキにロスアラモス研究所とリバモア研究所*9の双方に知人の多い核技術者を訪ねるよう命じられての行動だった。
「マダム、先程のビリーやチャーリーとは……。
失礼ですが、どのような方々ですか?」
鎧衣は、最悪の質問をしたかもしれないと戸惑いを覚えた。
男爵夫人は事もなげに、言葉を返してきた。
「ええ、そうよ。ミスター鎧衣……
いえ、左近で良いわね?
貴方も聞いた事は無いかしら?
結構な有名人だと思うのですけれど、ロスアラモスの主任研究者達よ」
G元素研究の総責任者、ウィリアム・グレイ博士。
ムアコック・レヒテ機関の共同研究者の一人、カールス・ムアコックことチャールズ・ムアコック博士。
グレイ博士は、核開発史にその名を刻んだ伝説的な大科学者、ロバート・オッペンハイマーと共に働いた最後の世代の科学者である。
あの
「以前、お伺いしたときも聞きましたが、エドワード・テラー博士のことです。
彼の研究の核パルス実験の事です」
鎧衣は飲みかけたティーカップを置きながら、男爵夫人に訊ねた
「マダムは失敗していると言いましたが、どうして、そう言い切れるのでしょうか」
「ロスアラモスにはね、2万人を越す科学者や研究員が居るのよ。
協力している軍の研究所や大学、企業などを含めれば、4万から5万人は居るわ」
マダムは愛用する長さ20センチのシガレットホルダーに、ゴロワーズを刺す。
そして言葉を切ると、タバコに火を点けた。
「テラー博士は本当に天才よ。
ロスアラモスには彼ほどの天才は、多分いないわ。
でもね、逆説的に言えば、リバモアはテラー博士一人に依存しているの」
「……と仰いますと」
マダムは、紫煙を燻らせながら答える。
「ロスアラモスは確かに、核やG元素といった軍事機密研究を行っています。
世界中が承知している通りです。
でもね、それだけでは研究は成り立ちません。
現代の最先端科学の研究開発は、かつての様に1人の天才科学者で解決できる程、単純では無くなってしまっています。
一見無関係に思える分野との、綿密な連携と意見交換、情報の共有と共同研究。
複数の視点から見つめ直しと数多くの議論の繰り返しです。
リバモアは、天才であるテラー博士によるトップダウン型の研究施設です。
80から90の水準にある研究者、数千人が互いに連携する相互ネットワーク型です。
どちらがより広範に、そして大量に、同時並列で多くの研究内容に成果を出す事が出来るか。
お判りでしょう」
マダムは、
あくまでも冷静である。
「風の便りでは、テラー博士は、軍と研究予算の板挟みにあってスランプ気味だと伺っております。
他にも、科学者や研究員は居るそうですが、彼と同格ではない様ね。
それも精々、数十人から百人程度ではお話にはなりませんわ」
「マダム、それとは別に戦略航空機動要塞とやらは、何時完成したのですか?」
鎧衣は愛用するダビドフのシガレットに火を点けながら、訊ねた。
「ロスアラモスの、最新研究のひとつとだけ申しておきましょう。
左近、お話はここまでにしましょう。
私も、少し話が過ぎましたわ」
「いえ、こちらこそ失礼しました。
思わず懐かしさのあまり、マダムのご好意に甘えていた様です」
鎧衣は
「あとマダム、一つお願いがあるのですが」
「なんですか」
「リバモアのテラー博士と知り合いですよね」
「ええ」
「実は私の知人の大学院生がいるのですが、紹介していただけませんか。
実は彼がコロンビア大に出す卒業論文の題材で、核抑止論の事をやりたいそうなので」
場面は変わって、ウラジオ要塞。
分厚いドスキン地のオーバーコートを着た二人の将軍が、要塞にある砲台跡の周辺を散策していた。
「ユーゴスラビアでの勝利に酔うのは、今のうちだけだ。木原」
先日のユーゴスラビアで、木原マサキはチトーとの協力関係を取り付けた。
ソ連が長年にわたって築いてきた東欧での影響力を、たった一人の日本人に揺さぶられたのである。
イワシュチンにとって、それは到底許せるものではなかった。
GRU局長のピョートル・イワシュチンは、吸いつけていた
ヤゾフは、荒れ狂う日本海を見ながら述べた。
「私が授けた新しい作戦の準備。
どうやら完了したと見えるな、イワシュチン」
「勿論だ。
既に特別戦術機大隊の試作兵装も完成、GRUも動き出している」
ヤゾフは、立ち尽くすイワシュチンの周囲を歩き回ってから答えた。
「成功すれば、間違いなく、同志議長も目をかけて下さるだろう。
チェブリコフやマリク、シチョーロコフではなく……イワシュチン。お前にな」
ご意見、ご感想お待ちしております。