冥王来訪(ハーメルン投稿版) 作:雄渾
一方、ゲルツィンは、一人、白皙の美男子と過ごした日々を、心に思い描いていた。
ユルゲンは、昼間のいざこざの後、自宅に戻った。
早朝のKGB工作員の急襲は、彼にとっては、骨髄に徹するほどの、衝撃だった。
政治将校と揉め、上官たちに諭されたのもあろうが、よく眠れなかった。
やっと眠りについたころ、ふいに暗闇の中から声を掛けられる。
目の覚めたユルゲンは、抱いていたベアトリクスから離れ、
毛布を蹴とばし、ベットより起き上がるや、深緑の寝間着姿で、周囲を見回す。
気が付けば、タバコを口に咥え、野戦服姿で佇んでいるヤウクと顔があった。
「シュタージの送迎で来た。可愛い奥様の、あられもない姿を、奴等に見せたくはあるまい」
と、右の親指を、戸外に向ける。
ヤウクの親切心を、ユルゲンはかえっていやな顔をした。
「随分と、荒々しい起こし方だな」と、ついに叱って。
電気を付けたヤウクは、ベットの端に座る、ユルゲンの新妻に、目を向ける。
ベアトリクスは、濃紺の
鳩尾まで
詳しい事情を知らない、彼女は、
「何時だと思ってるの。深夜2時よ」と、声を震わせ、
「デリカシーの無い人ね」と、目にうっすら涙を浮かべた。
乱れた髪を手櫛で
「申し訳ないです」と、深々と頭を下げ、平あやまりに詫び入った。
ベアトリクスの、どこか蠱惑的な姿に、ひどく惹かれてしまったという事実は、深くかくして。
困惑したユルゲンは、哀感を滲ませた表情をするベアトリクスを、抱きすくめ、
「軍務と思って、許せ。詳しい話は、明日にしよう」と、肩を震わせる、新妻を諭した。
クローゼットの観音開きの扉を開け、中にあるレイン・ドロップ模様の迷彩服の一式を取り出す。
脱いだパジャマを投げ捨てて、夏季野戦服に着替え、官帽を鏡を見ながら両手で直し、
「良し、準備万端……」と言うや、ユルゲンは、ベットの端へ振り返り、
「じゃあ、ベア……行ってくるよ」と、腰を屈めて、彼女の薄い桃色の唇に口付けをした。
さてユルゲンが、玄関先に来てみると、国家保安省の服に身を包んだ小柄で金髪な男が、
「同志ベルンハルト、久しぶりだな。ゾーネだ」と、右手で挙手の礼を取り、彼を見据えた。
「お前さんはアスクマン少佐の……」
「これでも自分は少尉だ……。将校らしく扱って欲しい」
キュッと長靴の踵を鳴らし、官帽を目深に被った頭の向きを変え、
「あと自分の事は、同志大佐の色男でも何とでも呼べばいい……」
何気ない一言であったが、ユルゲンの心には響いた。
ゾーネは、今し方アスクマン少佐の事を、大佐と呼んだ。
ああ……、あの『褐色の野獣』は黄泉の国に旅立ったのだな……
何時も不敵の笑みを浮かべてた、あの俳優顔の男はもうこの世に居ない。
ヤウクやカッツェと棺を蓋う、その時に立ち会ったのに……
ユルゲンは半年近く経って、改めてアスクマンの死を実感した。
ゾーネ少尉は、咳ばらいをすると、ユルゲンの顔を覘く。
「単刀直入に言おう。
駐留ソ連軍が軍使を参謀本部に寄越した。先方からの御指名で君を迎えに来た」
妖しい目で、ユルゲンの事を舐めまわすように見るや、一頻り哄笑し、
「ふふ……、同志大佐が君の事を焦がれたのも、分かる気がするよ」と、頬に右手を当てた。
戯れる彼等の真後ろに立つ、明るい緑色の人民警察を制服を着た男が口を開き、
「宜しいでしょうか」と、ゾーネ少尉に呼び掛け、
「同志少尉、お時間の方は……」とゾーネは、腕に嵌めた時計を見る。
グランドセイコーの腕時計は、鎧衣からアスクマン少佐に送られた物である。
今は数少ない形見として、肌身離さず、ゾーネが持ち歩いていた。
ゾーネは顔を上げ、ユルゲンたちに、
「さあ、詳しい話は車に乗ってからだ」と指示を出す。
彼等は頷くと、人民警察の緑色のパトカーの後部座席に、乗り込む。
警察使用のGAZ*1-24"ヴォルガ"は青色の警告灯を回転させながら、走り抜ける。
深夜のパンコウ区を勢い良く進む車内で、密議を凝らしていた。
ユルゲンは思い出したかのように、ふと漏らした。
「野獣の腰巾着が、俺に用って何かい……新手の
彼は、先程の戯れに拒否感を示すも、ゾーネは気にすることなく、
「気が立っている所を済まないが……同志ベルンハルト。
エフゲニー・ゲルツィンという男を知っているかね」
と、淡々と返し、そっと懐中より、電報の写しを、ユルゲンに手渡す。
それを一瞥した彼は、ふと告げた。
「ゲルツィン教官が生きて居られたとは……」
ユルゲンは電報を握りしめながら、過去の記憶に深く沈潜した。
忘れもしない……、4年前のソ連留学。
モスクワ近郊のクビンカ基地で受けた、半年間の地獄のような特訓。
ゲルツィン教官は、空軍パイロット出身で数少ないカシュガル帰りの衛士。
ソ連改修型のF-4Rで光線級に肉薄。ナイフを振るい、単機生還という噂も聞いた。
超音速のジェット戦闘機乗りから転身して生き残っただけでも驚異的なのに……
並のドイツ人以上にロシア人に詳しいヤウクは、嘗ての教官に不信感を抱いた。
ヴォルガ・ドイツ人の祖父母や両親からロシアの習慣を聞いていた故に、ふと疑問に思う。
ロシア人の姓でゲルツィンという姓は庶子であったアレクサンドル・イワノヴッチ・ゲルツェンの為に、父イワン・アレクセイヴッチ・ヤコブレフが特別に作った姓。
しかも子息や孫は欧州に移住し、其処で最期を迎えたはず。
モスクワで1947年に亡くなった孫・ピア・ヘルツェンの子孫が居るという話も、寡聞にして知らない。
テロ組織『人民の意志』の系統をひくロシアの党組織は秘密主義。
議会を通じて、社会主義を広めようとしたドイツやフランスのと違い、暗殺や強盗もいとわなかった。
暗殺者を兄に持つレーニンや銀行強盗で数度の脱獄を繰り返したスターリン……。
彼等が偽名なのは、つとに有名……
今もソ連共産党の幹部の少なからぬ人間は偽名で活動している。
アルメニア人やカザフ人、ユダヤ人なのにロシア風の姓を名乗り、公職に就く。
伝説的なNKVD工作員、エイチンゴン*2。あのトロツキーを暗殺した彼も、また偽名であった。
本名は、レイバ・ラザレヴッチ・フェリドビンというユダヤ人であった。
その様な事を勘案すると、教官が出自を隠ぺいするために、偽名で名乗る。
わざとらしく、
矢張り件の男は、KGBかGRUの工作員だったのではないか。
スターリン時代、モスクワで
東ドイツからの36名の生徒を、KGB或いはGRUが付きっ切りで教える。
今回もその線ではないのか……、決してあり得ない話では無いのだ。
ソ連の策に乗るシュタージも愚かだが、理解して付いて行くユルゲンも考え物だ。
もっとも彼を叩き起した自分もそれ以上に愚かではあるが……
一人思い悩んだヤウクは、紫煙を燻らせ、助手席のゾーネ少尉に、
「君達が動いたと言う事は誰の指示だい。政治局絡みだろ……」と問うた。
ゾーネは後ろに振り返ると、彼の顔をちらと見て、悪戯っぽい笑みを浮かべ、
「
それまで黙っていたユルゲンが、
「俺は、あの人がやりたい事は、荒唐無稽だが、理解できる」
と、口を開き、刺すような目つきで、窓より振り返るとゾーネの事を見つめ、
「あの人の夢は……俺の夢でもあるのさ。一緒に命賭けて戦う仲間だよ」
そう告げると、再び車窓に視線を移した。
思わぬユルゲンの一言に、ゾーネ少尉は目を見開いて、
「議長と君との関係は、噂通りだったのか……」
ユルゲンは、右の助手席から身を乗り出しているゾーネに顔を向け、
「どんな綺麗事でも力がなくては駄目だ……」と、不敵の笑みを浮かべながら、
「俺はこの4年間、戦術機を駆ってBETA共と戦う合間、政治の世界に
彼は鋭い眼光で、ゾーネの眼を射抜く様に見つめ、
「政治は力や数の論理で動く。
この祖国や愛する家族を前にして、詰まらぬ良心は要らない……。
俺一人で、すべて抱え込むのも限界がある。そう考えて、あの人を頼ったのさ」
再び静寂を取り戻した車内。
ユルゲンは嘗ての恩師からの電文を握りしめながら、一人家に置いて来た妻を想う。
漫然と車窓より、新月で薄暗い市中を眺めていた。
さて、その頃、ゲルツィン大佐は、黒塗りの大型セダンの中で、物思いに
車窓を眺めながら、
「あれから4年か……時は早いな」と、独り
ギリシア彫刻を思わせる、美貌の青年、ユルゲン・ベルンハルトに想いを寄せていた。
それは、どこか恋に似た感情であった。
優秀な学識と技量を持つ、美丈夫の事を心から欲していたのだ。
ジル114型の後部座席に、寄り掛かられながら、在りし日の追憶に旅立った。
1974年夏。暑い日差しが照り注ぐクビンカ基地。
首都モスクワより24キロの場所にあるこの基地には航空基地の他に建設途中の博物館があった。
BETA戦争前に計画されたが情勢の悪化で中止。
急遽、その敷地は戦術機の臨時訓練場になった。
深緑のM69野戦服姿の男が、地面に倒れ込む東独軍兵士に声を掛け、
「貴様等がモスクワまで来たのは
鼻血を流しながら、仰向けに倒れるレインドロップ迷彩服姿の青年士官。
教官役の軍曹は軍靴を響かせながら、彼の脇まで近寄った。
「い、いえ同志軍曹。自分は……」
「聞こえんな……」
軍曹は青年将校の事を軍靴で蹴りつけようとした瞬間、誰かに肩を掴まれる。
「離せ」
彼を掴んだのは、ユルゲンだった。
「同志軍曹。同志ヘンぺルの事は許してやってください。彼の失態は俺が取りましょう」
ユルゲンは、赤軍兵の過剰なまでの鉄拳制裁に見かねて止めに入った。
一発殴って、罵倒する位なら、東独軍でも、仏軍外人部隊でも良くある話。
だが、既に倒れて抵抗の意思のない人間を、足蹴にしようとしたことに、耐えかねたのだ。
ブリヤート人軍曹の周囲を、ドイツ留学生組がぐるりと囲む。
何時もの『4人組』の他に、ユルゲンたちと一緒に留学した陸軍航空隊の青年将校の姿もあった。
「な、舐めるんじゃねえぞ!東欧のガキどもが」
男は、ユルゲンの手を振りほどくと、右手で腰に差したNR-40と呼ばれる短剣の柄を掴む。
鯉口を切ると、白刃をチラつかせながら東独からの留学生を恫喝した。
ユルゲンは、腰のベルトから素早く短剣を抜き出す。
右手にはソ連製の6kh3銃剣を模倣した、黒い柄の東独軍銃剣が握りしめられていた。
「どうか、刀をお納めください。出来ぬというのであらば、差し違える覚悟です」
彼は、ブリヤート人軍曹が同輩に
遠くで事態の推移を見ていたゲルツィンは、拳銃嚢に右手を伸ばす。
マカロフ拳銃を取り出し、弾倉を即座に装填すると空中に向かって威嚇射撃をした。
数発の弾が発射され、雷鳴の様な音が演習場に響き渡る。
「静かにしろ」
立ち尽くす留学生たちを無視して、その場にへたり込み、短剣を地面に落とした赤軍の教官の方に向かう。
ブリヤート人軍曹の目の前にまで来ると、拳銃を、面前に突きつけ、
「お前らは舐められて当然だ。ろくに指導も出来ぬのだからな」
と、開いた左手で左肩を叩き、こう言い放った。
「ま、精々今のうちに頭を冷やしておくんだな」
ゲルツィンは、拳銃を仕舞って振り返る。
立ち去ろうとしていたドイツ留学生組の中から、ユルゲンの事を呼び止め、
「同志ベルンハルト、二人だけで話がしたい」
赤く日焼けしているも青白く美しい肌。サファイヤを思わせる瞳でじっと彼の事を睨んでいた。
演習場の端に移動したゲルツィンは、目の前の好男子に問うた。
「先程の言葉……、留学生部隊長としての言かね」
そう言ってユルゲンは両手を差し出した。
「落とし前を付けましょう」
重営倉に放り込まれる覚悟であることを、ゲルツィンに示したのだ。
男は、手を差し出して来るユルゲンの事を笑い飛ばし、
「ほう、頭でっかちな男と思っていたが中々情熱的なんだな」
そう告げると、立ち尽くすユルゲンに背を向ける。
「今の事は見なかったことにしてやる。
同志ベルンハルト、代わりに腕立て伏せ100回とグランド3周を命ずる」
その言葉を聞いたユルゲンは、安堵したような表情を見せ、
「了解しました。同志教官」と、挙手の礼で答える。
笑顔で返礼をすると、演習場へ
『どこに居るのだよ。ベルンハルト候補生よ……』
あの輝かしいばかりの笑顔を浮かべる男が、酷く懐かしく感じられた。
「同志大佐、ハバロフスクは何と言ってたのですか」
その一言で、再び現実に意識を戻した彼は、
「どうもこうもあるか。向こうも混乱状態なのだよ」
象牙製のシガレットホルダーを取り出すと、両切りタバコを差し込む。
米国製のオイルライターが鈍い音を響かせ、蓋が開く。
ジッポライターで火を点ると、紫煙を燻らせ、
「東欧に舐められ、
と、軍帽の鍔を押し上げ、
「如何に立派な船でも船頭が愚かならば嵐に遭わずとも沈むのは避けられまい」
と、一人沈みゆく祖国・ソビエトを想いながら、瞼を閉じた。
暁の投稿で、余りにも会話が冗長とのご意見をいただいたので、だいぶ手を加えました。
気になる方は暁の原文をご参照ください。
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拙作18禁外伝のURLについて
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