冥王来訪(ハーメルン投稿版) 作:雄渾
妊娠したベアトリクスの様子を見に来た彼女は、ある人物を連れてきていた。
ユルゲンを待っていた意外な人物とは、だれか。
マサキ達を送り返した一週間もした日、ユルゲンは副官のヤウクを伴って家路へ向かっていた。
夕暮れのベルリン市内を歩く途中、国営商店の「ハーオー」の店の前に差し掛かる。
そこで、行列に出くわすと、
「なあヤウク。あそこに居るのはアイリスじゃないか」と訊ねた。
丁度、向こうから両手いっぱいに紙袋を下げたアイリスディーナが来るなり、
「もう帰ってたのか。別にハーオーで安物買わなくても良いだろ。
デリカートで上手いもの買ってきて、ベアに食べさせた方が良い」と
ここで、読者諸賢には、すでに歴史の中に消えてしまった、東ドイツの住民の暮らしが、どんなものであったか。
その一端を説明する為に、筆者から、解説を許してもらいたい。
社会主義による平等を標榜する、東ドイツには、基本的にスーパーマーケットは国営商店であったが、おかしなことに、金額によってランクがあった。
一般的に、低価格スーパー「
1950年代後半になると、戦後復興から安定し、「富裕層」が出現したので、高級店が公に設置された。
高級品店「エクス・クヴィジット」*4と高級食材店「エクス・デリカート」*5が、ウルブリヒト*6の経済政策で、用意されたのである。
「デリカート」には、高品質のものが並び、「ハーオー」には、安価で粗悪な品が供給された。
庶民は「ハーオー」に昼間の早い時間から並び、数時間の行列の後、店内で粗悪な品物を購入した。
「ハーオー」に限らず、国営商店では、政府価格より安く売る事が禁じられていた。
政府の指示による値上げはあっても、値下げは無かった。
どんなに粗悪な製品でも、政府の決めた設定価格でしか、買えなかった。
入荷時期などが流通の関係で不明瞭だったので、一度の買い物により、しばしば不必要な買い占めが行われた。
買い占めた品物は、自宅に貯められ、親族や近隣の住民と物々交換や僅かばかりの西ドイツマルクと交換された。
東ドイツ国民は、法律によって西ドイツマルクの所有は禁止されていたが、外貨不足の為、当局に黙認されていたのだ。
無論、党指導部やその家族は例外とされ、秘密裏に海外に口座などを設けていた。
さて、ユルゲンたちの所に再び視点を戻そう。
ユルゲンから叱られた、アイリスディーナは、一瞬ためらったような表情を見せた後、
「流石に、将校服を着て、デリカートに入るのは……
ベアトリクスの事を気になさるのはわかりますが、何処で、だれが、見てるか分かりませんし。
それに……」
「なんだよ」と、笑みを浮かべながら、答えた。
「兄さんは、色々なやっかみを買っているのをご存じないと思いますが……」
その声に気が付いて、ヤウクはずけずけと割り込んできた。
そして顔を見合うと、
「なんだ、そんな事か」と、おたがいにまた、笑った。
「大体、そんなことに気付く人物だったら、懲罰委員会に数度かけられるかね。
ソ連留学の時、カザフスタンで、僕と一緒になって基地司令と喧嘩する男だよ。ハハハハハ」
と声を上げて笑った。
アイリスディーナは、
「おふたりは、そんな事まで……」と、たずねた。
「そうだよ」と、ユルゲンは誇るように肯定して、かつ紹介した。
「こいつは、あの時、司令官に直言を呈し、あまり強く、核使用反対を表明した。
『君はドイツ人*8だ、この国の人間ではない』と言われた上、GRUの監視までつけられたのだよ。
フハハハハ」
「ワハハハハ」と、ヤウクも一緒になって、他人事みたいに笑って見せた。
するとほどなく、スカーフを被った、年のころは40前後の、細面の女性が、駆け寄って来た。
「坊や」と、声を上げ、とるものを取らずに、近づいて来た様に、驚いた顔をしたヤウクは、
「ママ」といって、駆け寄るなり、抱き着いた。
ロシア人の既婚者と一目で見て、判る、首の周りに巻き付けるスカーフの被り方。
目の前に立つ婦人が、ヤウクの
「ヤウク、君の
「ああ。僕の母親さ……戦争になると思って会いに行ってなかった」
と、ヤウクの母は、息子から紹介されて、ユルゲンの人物を見、よろこびを現して、
「隊長さんですね。
とグレーの瞳を輝かせ、心からの礼を言った。
ユルゲンは、ヤウクの母に一礼を
「御母堂、いつも世話になっているのは、私の方です。
小官が、今こうしてあるのも、同志ヤウク少尉の助けがあっての事。
士官学校で席を並べて以来、御子息の存在なくば、職務を全うすることも叶いませんでした」
と慇懃に謝辞を述べた。
一頻り話した後、照れた表情をするヤウクは、
「では、僕は失礼させてもらうよ」と言い残し、母と共にその場を去っていった。
さてまた。ヤウク達と別れたユルゲンは、アイリスと共に帰宅した。
しんと静まり返った家の中を見回し、
「おい、帰ったぞ。誰もいないのか」と、大声で呼びかけた。
すると奥より、ウエーブの掛かった黒髪が、特徴的な婦人を認めるや、ユルゲンは、
「あ、お
件の婦人は、アベール・ブレーメ夫人で、ベアトリクスの母、ザビーネ。
まさかの人物の来客に、驚いたアイリスディーナは、
「ザビーネさん、お仕事は」と、問い質すと、
「ベアトリクスの様子が不安になり、休みを頂いてきましたの。
あの子の
ホホホ」と微笑を浮かべて、
「わたくしのほうでも、アイリスちゃんにも聞きたいことがありましてね」
「どうか致しましたか」
「例の木原博士と称する、東洋人が来ましてね」と、驚くようなことを言う。
その場に、衝撃が走った。
ブレーメ夫人の、ザビーネがいうには、
昨夕、ふらりと一人の東洋人が、音もなく屋敷を訊ねてきて、
「自分はアイリスディーナの事を見初めた男だが、この際、親族の者たちに近づきの印を持ってきた」
と、腕時計や真珠の首飾り、絹と羊毛を5
「俺は、木原マサキ、天のゼオライマーのパイロットだ」と、啖呵を切った。
色を失って
ブレーメ夫人は、その時の興奮が、冷めやらぬように、
「うちの人は、経済企画委員会に名を連ねる、すこしは名の知れた官吏。
ですから、ソ連やチェコなどより、ふいの来客など、決して珍しい事では御座いません。
でも、海の彼方の、日本より、壁を越えて来られるなど、今まで有ったことがありましょうか。
木原博士は、世には明かしていない、私たちの
この事をお知らせしようかと思いましてね」という相談であった。
興奮して話す
「さあ、お茶でも
茶の準備を急がせ、玄関より応接間に向かった。
応接間より、女の話声が聞こえるのを不思議に思ったユルゲンは、
「お義母さま、誰か客人でもお呼びになられたのですか」
「貴方がたにも縁のない人では、ございませんのよ。ホホホホ」と微笑を湛え、ドアを開けた。
部屋に入るなり、ユルゲンの表情は凍り付いた。
この数年来、絶縁状態になっていた、母、メルツィーデスの姿があったからだ。
「貴方が、どうして。ここに居られるのですか」と他人行儀な対応を取った。
表情を曇らせたメルツィーデスを見た、ベアトリクスは不快感を露わにし、
「わざわざ訪ねてきた人に、それはないんじゃない」と、
メルツィーデスの後ろへ来て、立っていたブレーメ夫人は、
「わたくしが呼びましたのよ」
と、説いたので、ユルゲンは、
「ですが……」と言って口をつぐんでしまった。
「貴方が、母君の不義を、父君に密告したが原因で、ご両親が離婚された。
そのことを、今でも
なにも、それならそれで、よろしいではありませんか」
と、ブレーメ夫人は、うららかに胸を伸ばして、
「木原博士は、わざわざメルツィーデスさんの所までも、あいさつに出向いたというのですよ。
聞けば、今の夫であるダウム氏に会って、博士は、深くお話をされたそうです」
面目なさげに立つユルゲンとアイリスディーナに、なおも、
「それに、まだあなた方はベアトリクスの祝言も、懐妊の話もなさっていないそうじゃないですか。
わたくしも、同じように娘を持つ身です。
それにユルゲン君。自分の子が孫を
わたくしの方で、デュルクに手配してお招きいたしましたのよ。ホホホホ」
ブレーメ夫人のザビーネは、こういって、ユルゲンの小心を笑った。
ブレーメ夫人の、その男まさりな
それに元より、妹の事を考えて暮らしてきたので、その義母の頼みを、すげなく
「ハハハハハ」と、天を仰いで、乾いた笑いを浮かべた。
『この女丈夫には、なんともかなわん』という思いは、深くかくして。
ご意見、ご感想お待ちしております。
時代考証、軍事考証で、あやしい点があれば、ご指摘いただけると幸いです。
増やしてほしい話の内容や描写に関して
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戦闘描写
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1970年代の政経関係
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原作から変わった部分の説明
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