冥王来訪(ハーメルン投稿版)   作:雄渾

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 東ドイツの諜報を一手に引き受けるシュタージ。
妖しく光る眼を見せる男・アクスマン少佐。
シュタージ本部で男達が密議を凝らしていた……。
憂国の青年将校・ベルンハルト中尉は、まだその事を知らない。


策謀(さくぼう) 前編

 一人の男が、国家保安省(シュタージ)本部に呼ばれた。

ベルリン市内のリヒテンベルク区に(そび)える、伏魔殿(ふくまでん)の一室。

 少佐の階級章を付け、俳優のような顔と、そやされるほどの眉目秀麗(びもくしゅうれい)

通り名を『褐色(かっしょく)野獣(やじゅう)』と呼ばれる、中央偵察管理局の精鋭工作員。

その名はハインツ・アクスマン。

 彼は、直属上司のエーリッヒ・シュミットの下に来ていた。

その際、衝撃的な出来事に遭遇していた。

色眼鏡を掛けた禿髪(とくはつ)の上司の下に、見慣れぬ男が居た。

 男は非武装で、白い襟布が縫い付けられたソ連軍服を着ている。

勲章もつけていなければ、階級章や識別章もなかった……

国家章のついた草臥(くたび)れた軍帽を(もてあそ)んで、上司と話している。

 その態度からただならぬ人物である事が判った。

彼等の話し言葉からすると、ドイツ語ではなく、ロシア語*1であったことがおおよそ分かった。

男は、アクスマンがいるのに気が付かぬほど興奮しており、激しい口調で罵っていたのだ。

「あの冷酷そうな男が怯えるほどの人物とは、どれ程の者なのか」

 好奇心が湧いては来たが、その様な間違いをするほど、青くない。

静かにドアの方に戻ると、静かになるまで待った。

 

 ドアの近くで待つアクスマンに、不意に声を掛けられる。

「入れ、若造」

 (くだん)の男が、流暢なドイツ語で話しかけてきた。

「失礼致します」

 敬礼をすると、軍帽を脱ぎ、アクスマンはその人物に改めて挨拶した。

「私は、中央偵察管理局の……」

 その男は、顔を引きつらせながら答えた。

「君が男狩り(スカウト)をやっている、『褐色の野獣』かね。兼ねがね話は聞いている。

国家人民軍(NVA)*2への工作を任されているそうだが……」

 アクスマンは驚いた。

目の前のソ連人は、ただの軍人ではないのは分かっていたが、同業者(スパイ)であったことに……

「しかし、情けないとは思わんのかね。

国家人民軍へ対抗手段を作ると息巻いたものの……

あれから2か月近く()つのに、何も青写真一つ描けていないとは。

大方、色事*3にでも、(うつつ)()かしていたのかね。

聞くところによると、詰まらぬ覗き見*4や……

美男美女を選んで御飯事(おままごと)*5の真似事をして居るそうではないか。

その様な児戯(じぎ)*6で、少佐の地位を得られるとは……」

 アクスマンは、男に尋ねた。

「貴様、何がしたいんだ」

 男は不敵に笑いながら室内を歩いて、こう続けた。

「さあ、何がしたいと思う」

 男はニヤニヤ笑うのみで、無遠慮に相手の顔を眺め入っている。

アクスマンは、上着の内側から小型拳銃を取り出す。

素早い動きで、男の胸元へ向ける。

「ピストルなんか出して、何のつもりだ」

 身動(みじろ)ぎ一つせず、男はアクスマンに語り続けた。

「俺を恐喝しにでも来たか。小僧」

 拳銃を突き付けられながらも、焦る様子はない。

アクスマンは不安に駆られる。

男は、挑発するように詰め寄って来た。

「貴様のような部外者が何を騒ごうが構わないが、ここをどこだと思っているんだ」

 引き金に指を掛けようとした瞬間、彼は気が付いた。

自分が、複数に囲まれていることを……

ヘルメットを被り、野戦服を着た完全武装の兵士が、銃を向ける。

「お前たち、何のつもりだ」

 両目で、自動小銃を構える同僚たちの顔色を(うかが)う。

明らかに焦っている。

どうやら自分が考える以上の存在らしい……

 アクスマンは左手で弾倉を抜き取って、高く掲げる。

右手に持った拳銃と左手で握った弾倉を、ゆっくりと床に置く。

直後、後ろに居る兵士達に羽交(はが)()めにされた。

 

「やっと話を聞く気になったのだな」

 そういうと男は、机の上にあるものを床に散らかし、そこに腰かける。

そして語りだした。

「国家人民軍の高級将校を逮捕して、軍内部の粛清を進めよ」

 ホチキス止めしてある資料を手で掴み上げると、彼の面前に向かって放り投げた。

「これが名簿だ。罪状は、反乱未遂とでも作って、逮捕しろ。

そうすれば、KGB(俺たち)引き上げた(居なくなった)後も、東ドイツ(この国)を、貴様等は、支配(操縦)出来る」

 そう言うと胸から、タバコの箱を取り出す。

口つきタバコを一本抜き取り、丁寧に吸い口を手で潰す。

タバコを口に咥えると、使い捨てライターで火を点けると、どこからか持ち出した花瓶を灰皿の代わりに使った。

「走り出した馬車は、もう止められない。止めれば、大事故になる」

 机から立ち上がり、アクスマンに近づく。彼の顔に紫煙を吹きかけた。

「貴様等が、西ドイツでの工作が成功したのは、ルビヤンカ*7でも話題の種になっている。

その興奮が()めやらぬ内に来てみれば、この様な姿だとは思わなんだ……」

 顔を(そむ)けたアクスマンは後ろから顔を押さえられ、再度紫煙を吹きかけられた。

思わず(むせ)るアクスマンを見ながら、男はこう言い放った。

「用件は以上だ。即刻()せろ」

 アクスマンを締め上げていた手が、緩む。

飛び掛かろうとした瞬間、後ろから複数の男に押さえつけられ、床に伏す。

「出ていけ、小僧」

 再び羽交い絞めにされた彼は、腹部に強烈な鉄拳を喰らい、(うずくま)った。

ドアが開け放たれると、兵士達が彼の体を持ち上げる。

持ち物と同時に投げ出すようにして、アクスマンを廊下に打ち捨てた。

 

 兵達が出て行った後、静かにドアを閉める。

男は無言のまま、室内を歩く。椅子の前まで来ると、後ろに居た禿髪の男の方を向いた。

太い額縁の眼鏡をかけた男は、無言で立ち尽くしている。

薄く色の付いたレンズは光が反射しており、目から表情が窺い知ることが出来ないほどであった。

「同志シュミット……否、同志グレゴリー・アンドロポフ少尉よ……」

 ソ連人がひじ掛けが付いた椅子に腰かける。

顔を上げると、禿髪に声を掛けた。

「今日から暴れろ!」

禿髪の男は絶句している。

「本日より、ソ連人として、ドイツ人にどういう立場か、教育してやれ」

目に力を入れて、彼の方を睨む。

「KGBとして何をすべきか……。KGBであるから何が行えるか。

堂々と振舞え。そして、貴様の野望とやらを見せてみるが良い」

男は、勢いよく返事をすると同時に敬礼する

「了解しました。同志大佐」


 来る《パレオロゴス作戦》に向けて、第一戦車軍団の訓練が始まった。

戦術機部隊と砲兵、機甲部隊による連携訓練。

ウクライナ戦線での経験により発案された光線級吶喊(レーザーヤークト)の他に、新たな科目が加わった。

 光線級吶喊(レーザーヤークト)とは、BETA戦争最大の脅威である、光線級を近接戦闘で殲滅する攻撃方法である。

東ドイツ軍のユルゲン・ベルンハルト中尉が発案し実行した物で、浸透突破作戦の言い換えとして広まった造語である。

 光線(レーザー)級は、その双眼鏡のように並んだ目から繰り出す光線によって、あらゆる飛翔体を撃ち落とすという特性がある。

これにより、この世界では、BETAの襲来以来、航空戦力が無力化された。

戦術機衛士(パイロット)たちが匍匐(ほふく)飛行と呼ばれる超低空飛行をするのは、地平線を盾にして光線から身を守るためである。

 また光線(レーザー)級は、コンピューターで識別したかの如く、絶対に同士討ちや誤射をしない。

故に、危険を冒してでもBETA群の中を進めば、BETA自体が盾になり、撃たれる心配がない。

戦域で、空を飛べもしないBETA相手に、真正面から地上戦を繰り広げるのは、そのような理由があった。

 ただBETAは、万単位の圧倒的な数を誇っており、航空戦力による爆撃や上空からの掃射なしの砲撃のみでは、簡単に倒せなかった。

その為、苦肉の作として生み出された戦術が、BETAのいるエリアに重金属を含んだ砲弾を撃ち込んで、それを光線(レーザー)級にわざと撃ち落とさせる方法である。

戦域全体を重金属の粉末による雲を発生させ、光線(レーザー)の透過効率を悪くし、その間に上空で爆撃機を飛ばしたり、巡航ミサイルを打ち込んだりする。

 ただどうあれ、この方法には、膨大な航空戦力と潤沢(じゅんたく)な資金が必要だった。

東ドイツには、一応イリューシン14という大型輸送機を80機ほど所有していたが、爆撃機は一切なかった。

 巡航ミサイルも、ソ連の政策のために、東ドイツ軍に配備されなかった。

その上、地上戦で頼みの綱となる戦闘ヘリであるMI-24も、戦争開始直後は輸出が許されなかった。

 なので重金属雲の展開させる戦術を用いず、衛士の操縦技量(テクニック)のみを武器と、一気に光線(レーザー)級を殲滅する。

これが東ドイツなどの貧しい国の戦術機隊の役割になった。

その事を、後に光線級吶喊(レーザーヤークト)と称すようになった。

 

 さて、対人戦の科目追加は、彼等には衝撃的だった。

対人戦、対航空機戦を想定した訓練……、対BETA戦を第一に考えていた。

 人造毛の防寒帽の耳を下ろして被り、綿の入った防寒服を着た男が、青年に声を掛ける。

防寒服は、人造毛の別布の襟が付き、上下揃いの深緑色。

防寒用の長靴を履き、服と同じ色の防寒手袋を()めて居る。

金髪碧眼の屈強な体躯で、顔には整えた口髭を蓄えている。

 声を掛けられた青年将校は、ユルゲン・ベルンハルト中尉。

灰色に染められた羊皮製の防寒帽には、陸軍ではなく空軍の帽章が刺繍してある。

ダークグリーンの別布を付けた襟のオーバーコートを着て、羊皮製の防寒手袋をしている。

 オーバーコートは脛丈の長さ。

純毛の厚手のトリコット織で、深い灰色から将校用の物と一目でわかる。

足首から膝下までがフェルト地で出来た防寒長靴。

首の下から、耳まで覆うように、筒状の頭巾を被り、顔だけを出していた。

 

「今回の訓練について、何か、聞いているのか」

口髭の男が、ベルンハルト中尉に聞いた。青年は黙ったままだ。

「戦術機の習熟ですら、鍛え上げられた戦闘機パイロットが半年かかるというのに、対人訓練とは作戦開始までに間に合うのだろうか。

来年の夏、早ければ7月までには仕上げなくてはなるまい。

或いは、NATO軍の都合によって早く仕上げねばならなくなるかもしれない。

WTOや参謀本部がどのような機会で、我々を投入するか分からないが、来年初春までにはある程度まとまった結果を示さねばならないだろう」

男は懐疑的な見解をベルンハルト中尉に述べる。

「参謀本部がアルバニアの事例を参考にして組み込んだのは分かる。

だが、我々の第一任務は、第一戦車軍団の支援と、光線級吶喊(レーザーヤークト)による戦線の露払いだ。

この様なことをしていては、十分な訓練時間がとれるとは思わない」

 ベルンハルト中尉は答えた。

「自分の方で、参謀本部に掛け合って、都合してみます」

 彼は、静かに続ける。

「ですが、光線級吶喊(レーザーヤークト)も対人戦も、技量の向上には変わりのないように思えます。

戦車や航空機に比して前方投影面積が一般的な戦術機の場合、18メートルもありますので、低空飛行や高機動により攻撃を避けるしかありません。

通信や状況によってより的確な判断がなされ、部隊が自在に運用できなければ、唯の標的と何ら変わりありません。

ある程度、行動様式の決まったBETAと違って、対人戦は読めないところがあります。

対空砲や対戦車砲の攻撃を受ければ、いかに装甲の厚い戦術機でも防ぎきれません」

「詰り、この訓練は無駄ではないと言う事か」

 ベルンハルト中尉は、息を吐き出すと、目の前の男に答えた。

「はい。

仮に内乱や暴動による出動命令が下った時、対人訓練がなされていなければ、行動パターンから敵側に一方的に撃破される事態に陥ることもあり得ます」

男は、静かに口髭を触る。

「戦術機同士の戦闘に発展する事態があり得ると言う事か」

ベルンハルト青年は深く頷いた。

「先日のアルバニアの事例はそういった点で、今後の研究材料になります。

米海軍は、航空機との連携で戦術機を使い、アルバニアの部隊を数日で壊滅させたと伺っています。

新型の戦術機が数種投入されたとの話もありますが、実態がつかめていないのが現状です」

「最悪、今作戦の終了を待たずに戦争状態に発展する可能性もあると言う事か……」

 

 ベルンハルト青年は、男の周囲をゆっくり歩きながら話す。

身に()み入る様な寒さで、じっとしていられない様子だ。

「仮想敵の米英軍ばかりではなく、ソ連の動向も気になるところです。

シベリアにあるKGB管轄の収容所が、何者かに襲撃され、壊滅。

その際、防衛に当たった戦術機部隊が一方的に失われるという事例があったとも聞いています」

 しきりに手袋越しで、伸ばした口髭に触れる。

男は、呼気で髭が凍るのを気にしている様子だ。

「例の超能力者の実験施設か」

 終りの一語は、吐き出すような響きだった。

ベルンハルト青年は立ち止まって振り返る。

「噂ですが、その様に伺っています。

事件の余波で、ソ連軍が、戦線から離脱、或いはわが軍と事を構える様になれば……」

 

『ソ連の完全支配』

最悪の事態を避けるために、軍事的均衡の為の戦術機部隊……

青年なりの考えであった。

「対人戦も無駄ではないと言う事か」

「ただ、BETAと違ってソ連はまだ多少は話し合いの余地があろうかに思えます」

「米英軍も同じであろう」

ベルンハルト中尉は力強く頷く。

「はい。

それ故、こちらの力を鼓舞するためにも、多少なりとも対人戦能力向上は、役に立つかと……」 

 男は暫し黙ると、頬に手を当てて考え込んだ。

暫しの沈黙の後、ゆっくりと口を開く。

(おおむ)ね、君たちの意見には賛成しよう。

なるべく損害の少ないことに越したことはない」

目の前の青年は破顔し、謝意を述べた。

「ありがとうございます。同志大尉」

 ベルンハルト中尉は、真剣な眼差しで、目の前に居る男を見つめた。

眼前に居る男こそ、戦術機実験集団の指揮官であるバルツァー・ハンニバル大尉であった。

 同大尉は、空軍地対空ミサイル部隊の出身。

同集団に多数を占める空軍操縦士候補生とは違い、航空機操縦経験はない。

しかし対BETA戦による軍事編成の変化の煽りを受けて、《左遷》させられた将校の一人であった。

 ソ連留学のある彼は、青年将校たちに一定の理解を示すよき人物でもある。

前任者で陸軍ヘリコプター部隊出身のユップ・ヴァイグル少佐と違い、空軍閥と言うのもあろう……

何より留学による衛士訓練経験のある上司との出会いは、ベルンハルト中尉には僥倖であった。

 

 脇で、静かに黒髪をした青年将校が佇んでいた。

ベルンハルト中尉より、質の落ちた化繊混紡の灰色がかった生地のオーバーコート。

ダークカラーの別布の襟を立て、空軍の帽章が刺繍してある人造毛の防寒帽を目深に被っている。

彼らが話し終えるのを待っていたかのように、両手を外套のマフポケットに入れ、縮まっている。

 周囲の様子をうかがってから、両手をポケットの外に出す。

化繊の防寒手袋をした手を振りながら、彼は語りだした。

「ソ連の戦況は、新疆のハイヴが陥落してから停滞しています。

仮に今回の事件の損害があったとしても、大勢に大きな影響はないと考えられます。

まあ、どの様な結果になったとしても……」

 

 ハンニバル大尉は、目の前の青年に語り掛けた。

「BETAの撃滅するという主任務には変化は生じないと言う事か」

青年は、続ける。

「はい、ベルリンっ子の噂ですが、何でも今回襲撃を行ったのは米軍の特殊部隊で、黒海を経由してカザフスタンから、ノボシビルスク市に潜入し、新型の原子爆弾を爆発させたそうです。

市内は、ほぼ跡形もなく消え去り、駐留していた部隊は30分ほどで壊滅させられてます」

 大尉は、目を大きく見開いて、面前の青年将校を見る。

「核武装の戦術機部隊だと!」

 彼は目を輝かせ、言葉をよどみなく伝える。

「何でも、目撃談によると、大型の戦術機が持ち込まれた。

その様に、モスクワっ子の間で話題になってるそうです。

最も噂ですから、どこまでが真実か不明瞭ですし……

その相手がどのような行動に出るか、予想も出来るとは思えません」

 青年は、大げさに手を振ると、肩を(すく)めた。

その様子を見たベルンハルト中尉は、彼を(たしな)めた。

「ヤウク、仮にも参謀の立場にある君が、根拠のない噂を流布するような真似は慎んでほしい……」

両手をヤウク少尉の方に置く。

「君は、参謀として部隊の為に情報を集めるのは助かるが、何よりも正確な情報が欲しい。

そんな噂話より、一番大事なのは根拠のある一次情報だ。

公文書や機関誌、各国の新聞報道から真実を探すことをすべきではないのか。

文諜*8で、一番大事なのは分析だ。

市井の噂話は、あくまで参考にしかならない」

「根拠はあるさ、これを見てくれ」

 そういうと、肩から下げた図嚢(ずのう)*9から数枚の紙を取り出す。

ベルンハルトは、ヤウク少尉からそれを受け取ると驚いた。

 英国の大手通信社ルイター*10のイスタンブール*11発の外電を報じた西側の新聞の複写だ。

「デイリー・テレグラフ」*12、「ワシントン・ポスト」*13、「ル・フィガロ」 *14等々……。

いわゆる、ご禁制*15の品々であったからだ。

「どうやってこんなもん、手に入れたんだ」

 ヤウク少尉は、満面の笑みで応じる。

「君の《親父さん》の友人さ。同級生だと話したら、茶飲み話のついでに貰って来た」

 ベルンハルト中尉は、その話を聞いた瞬間、頭が真っ白になった。

まさか育ててくれたボルツ老人が、その様な危険な橋を渡ったのかと……。

黒髪の男に、恐る恐る尋ねる。

「ボルツさんのところでも行って来たのか……」

 ベルンハルトの発言を聞いて、彼は肩を竦める。

「まさか。お屋敷の《旦那様》から頂いたのさ」

 唖然としたが、段々と彼に対して怒りが湧いてきた。

まだベアトリクスとは結婚もしていないのに……。

 彼女の父・アーベルを《親父さん》と呼んだヤウクの行為が気に入らなかった。

(いく)ら将来を誓い合った仲とはいえ、法律婚すら躊躇(ためら)っているのに……。

その思い人・ベアトリクスの父を、すでに岳父(がくふ)*16として扱う。

 ヤウク少尉の無神経さが、許せなかった。

彼は目の前の青年の肩を強く掴み、前後に揺らした。

「まだ独身だ。お前はそうやって周囲に言って回ってるのか。

人の気持ちも考えろ。この……」

 

 その時、ハンニバル大尉が笑った。

彼は、笑いながらベルンハルト中尉に向けて言った。

「貴様の気持ちも分からんでもない。俺も気になる若い娘がいる。

まだいい年頃になるまで待っているところさ」

二人はあまりの事実に唖然としていた。

この強面で、どこか知性を感じさせる雰囲気を持つ男に、その様な思い人が居た事実に……

そして柄にもない冗談に参加したことが、信じられなかったのだ。

「まあ、人の事も言えんが、諸君等もそろそろ身でも固めておくのも悪くなかろう。

5年近くに及ぶ対BETA戦でソ連邦では人口の3割強が失われたとの国連報告がある。

将来に向かって若い妻を迎えて、人口を増加せしめ、国力の涵養に努める。

そう言った事も、立派な愛国心の発露の一つではなかろうか。

それに家庭内で愛欲の発散というのも、健康な人間としては自然なことであると考えている」

 こんな笑顔をする大尉を見た事がない……。

思わず、ヤウク少尉と顔を見合わせて笑った。

 ヤウク少尉が周囲を(うかが)う。

そして大尉に向かって話しかけた。

「では、同志大尉、食事にでも致しましょう。

外も寒いですし、宿舎に戻って夕食にでもしませんか。

少し早いですが」

 ベルンハルト中尉は、腕時計を見る。もうすぐ15時半だ……

周囲はすでに日が落ち始めている。

ドイツの冬は日没が早い*17

もう16時には、暗くなってしまう。

男たちは談笑しながら、宿舎への道を急いだ。

*1
東独の公用外国語は露語で、中等教育以上で授業科目だった。英語は選択科目にあったが第2外国語の扱いを受けた。

*2
Nationale Volksarmee,。1956年創設の東ドイツの軍隊

*3
非公式な外人向け売春。東独では国法で売春は禁止されていたが、女性の自由意思での売春は黙認された。シュタージは対外交策で利用した

*4
要注意人物の監視任務

*5
色仕掛け工作

*6
原爆スパイや鎖国中のネパール・ブータンに潜入工作員を送り込んだKGBにしてみれば、シュタージの工作は児戯に等しかった

*7
KGB本部の所在地

*8
文字情報による諜報

*9
書類や地図を入れる野戦用のカバン。革や合成皮革の他に防水加工のされた布製が一般的だった

*10
マブラヴ世界の報道機関。現実世界のロイター通信社に相当

*11
トルコの大都市。かつてのコンスタンチノープル。

*12
The Daily Telegraph.1855年創刊の英国の新聞

*13
The Washington Post.1877年12月6日創刊の米国紙

*14
Le Figaro.1826年創刊のフランスの日刊新聞。

*15
東ドイツはチェコやハンガリーと違い、西欧の出版物は疎かソ連の公式機関紙『プラウダ』、『イズベスチヤ』、ソ連赤軍機関紙『赤い星』は発禁であった。

*16
配偶者の父親など、義理的な関係の上での父親を指す表現

*17
北極に近い高緯度の欧州は、極東以上に冬季の日照時間は短かった




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