太平洋戦の前日
「それでは我が神よ、これより陣を整えて参ります」
眼前の神に深く跪いた後、彼……都市王のルーラーは立ち上がる。
太平洋異聞帯への侵攻、その準備を進めるために。
我が神の力は絶対だ。勝利が揺らぐ事など無い。
だが、万全には万全を期するべきだ。
汎人類史の軍略家としての思考は、油断も驕りも決して許さない。
「少し 待ちなさい わが召使」
陣容を考えながら立ち去ろうとした都市王。
彼は珍しく自身を呼び止める声に素早く反応し向きなおる。
「左腕を 怪我して いませんか?」
『あああああ』
「……少し、捻ってしまいましてな」
何かと思えば、お優しい方だ。
表情を和らげて、都市王は神へと告げる。
「ですがこの通り、動かす事も叶います。王の治癒を受ける必要はありますまい」
黒い布で肩から隠された左腕を振り、大した事は無いと示して見せる。
「王の権能は明日の戦いの為ほんの少しでも温存していただければと」
治してあげます。
そう王が言う前に、都市王は先手を取り神の言葉を封じる。
『あ、あ、あああああ』
「わかりました 無理は しないように」
これ以上、何かを言われないように。
王の気遣いの言葉に無言の礼を返し、彼は神座を後にした。
――――――――――――――――――――
『ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ』
「う、ぐッ……!」
神座を出て直ぐ、都市王は右手で口を押える。
幸い、喉の奥から溢れだした赤の濁流は口内で止まり、尊き神の神殿を汚す事はなかった。
「……隠し通せたか」
四六時中体内を掻き回されるような灼熱感。
脳に何かが侵入してくるような感覚。
常に聞こえ続ける呻き声のようななにか。
左腕の黒の布……彼の信仰する神に現状を悟られないための強力な探知遮断と封印術式が施されたそれを外し、彼の体の異常の元凶である腕を外界に解き放つ。
それは、既に人間の形を留めるのがやっとの状態だった。
皮膚を取り除き筋線維を剥き出しにしたかのような赤黒い肉塊。
時たま、筋肉の隙間から目玉のようなものがぎょろりぎょろりと覗く。
「……このくらいは、必要なのだろうな」
腕の太さとしては元々の人間の腕と大差ない。
だが、筋力は高位のバーサーカーにも比肩するほどに高まり、さらに星に住まう生命に対する特攻を有している。
この異聞帯の戦力として、人間の身である自分には限界がある。
それを補うための、秘策だった。
同盟相手との共同研究の末結実した、正気の箍を外した強化。
それを自身に施した狂信者は、己に刻まれた汎人類史の記憶と異聞帯での出来事、かつての神との2回の問答を思い返す。
『人間が自分の手を離れ、貴女は寂しくはないのですか?』
汎人類史の彼女は言った。
──あなたたちの巣立ちを誇らしく思っていますよ、わが召使
『もし人間が貴女の手を離れると言ったら、貴女はどう思われますか?』
この世界の彼女は言った。
──もし そうなったら 寂しくて 苦しくて 狂ってしまいそう ですね
どちらが、彼女の本心だったのだろうか。
決まっている。
汎人類史の彼女は、自分たち人間を送り出すために自分の想いを必死に抑え込んだのだ。
それを知ったあの時、彼は誓った。
『あああああああああああ』
「黙れ」
一人でに動き回る左腕を睨め付け、都市王は低い声で命令する。
「この世界の存続さえ果たされたならば、この肉体、魂なぞいくらでも食わせてやる」
恐らく、自分の体は長くは持たないだろう。
都市王の肉体の大部分、ナンムの血肉の力によって強制的に鎮静化された左腕が不満そうに脈打つ。
戦いのために、これを移植した。
研究の成果は満足がいくものだった。
即座に暴走しないだけでも、十二分というものだ。
「親不孝者、なのだろうな」
我が神は、このような真似は決して許さないだろう。
彼女がかの存在に対して持っている感情という意味でも、自身が無理を犯している事大しても。
この事を知られてしまえば、罰として全てを奪われ殺される可能性すらあり得る。
だが、それで構わない。
“我が神に、永劫の平穏を捧げてみせる”
その絶対目標は、何も変わらない。
果たすためなら、悪魔にも魔物にも魂を売り渡して構わないと思った。
幾千の世界を滅ぼし、幾億の民を殺戮しようとも果たして見せると誓った。
それが、我が神の意に反する事なのだとしても。
「……ふ、私の事を愚かと思うか。なあ──」
たとえ死を賜る事になったのだとしても。
私は最期まで、母なるナンム様の為に在り続けよう。
「──アステカの怪物王」
答えなど期待せず、都市王は左腕に話しかける。
元々の持ち主の名を呼ばれた肉塊がぼこりぼこりと少し強く泡立つ。
お前は愚かだ、と笑っているような気がした。
太平洋異聞帯への侵攻、前日の夜の事だった。