「ずっと 迷っていました」
絶海遺構都市を揺らめく水平線の端に捉え、イラク異聞帯の王は海にひとり立つ。
従属する神々は、既に別の場所で戦闘態勢を整えている。
愛するわが子は、自身の戦闘準備の際付近にいると危ないため少し離れてもらっている。
「でも あなたは 言いましたね」
だから、この場にいるのは今この短い時間だけ、彼女のみ。
自身の準備が整うわずかな時間を、彼女は聞かせる相手のない独り言に費やす。
「『子は巣立つもの』『親より自立するもの』」
少し前にその言葉を言った相手を思い浮かべ、反芻する。
瞬間、彼女が背にする海の一面が盛り上がり、海を叩いて宇宙が天に跳ね上がる。
それは彼女の神としての真体だった。
本来であれば、とても人間相手に振るうものではない怪物としての姿。
「その言葉 撤回するつもりは ないのでしょう」
体に星の海を宿した鯨は海中から空に飛び出し、重く腹の底に響くかのような声を上げる。
この戦いで、自身が持つ全ての神権を振るう。
その決断をしたのは、この戦いが始まる前の本当にぎりぎりだった事を思い出す。
最初の戦いを終えた後、太平洋異聞帯の王による戦線布告を受けた時、彼女の内にあったのは怒りでも対抗心でも、悲しみでもなかった。
子どもには反抗期というものがあるものだ。
でもそれは仕方ないこと、時にぶつかる事も親と子には必要なのかもしれない。
戦って、納得させてあげよう。
人が歩み続けるのがいかに苦痛に満ちていて、そんな事を考えずに生きていける親の庇護の大切さを。
まるでそれは車に斧を振り上げる蟷螂を見るような。
微笑ましい、という傲慢な超越的存在としての思考だった。
大人げなく権能を吐き出すつもりはない。
程々に、怖がらせない程度に済ませよう。
そう考えていた。
だがこの生存競争を経て、少しその考えは変わった。
神に食らいつく人の執念を見た。
人が神を下す瞬間を見た。
……子は親に与えられるだけではないと自分の考えをぐらつかせる、いつも自分を助けてくれるわが子の姿を見続けてきた。
そうして、改めて太平洋の王の顔を見て。
反抗期の子どもなどではなく、怯えを底に隠し大事な人たちのために力強く振る舞うその姿を初めて認識して。
「ならば どうか どうか」
殺す。
子をなだめる親としての戦いでなく、本気で殺しにかかると誓った。
その果ての結果でないと、自分は認められないと思ったから。
「
太平洋異聞帯の天が歪む。
彼女の頭上を中心に、雲が見えないなにかに呑まれたかのように消失し、大気に異常な圧が生じる領域が広がっていく。
その青い空を染めているのは、既に空に、大気によって生じる青色ではなかった。
「波を被り 嵐に遭い それでも 進み続けられるのだと」
一神話体系の主神とは、
ゼウス、ラー、エンリル。
彼らの偉大さ、逸話、知名度は同神話体系のどの神も及ぶものではない。
しかし、カオス、ヌン、ティアマト。
主神より名を知られぬ神々の分類、彼ら彼女ら──。
太平洋異聞帯の高度に発達した計器は示していた。
敵の異聞帯王が顕現した周辺空間の異常を、回りくどい比喩などではなく実に直接的に。
『上空の全てが、さらにその延長線上にある地球の外部領域全てが、膨大な神気を纏った水に埋め尽くされている』
──すなわち原初神とは、一つの世界そのものである。
「
世界は地上とドーム状に閉じられた空で構成されているというシュメール神話の世界解釈は、紀元前の神話としては意外なほどに科学文明の発達で判明した真実と近しい。
だが明確に異なる点が、ひとつ。
シュメール神話において世界の外側は、後の人類が解き明かしたような果てなき真空の領域などではなく。
とある神の体躯なのだ。
「わたしに 証明してみせなさい」
名をナンム。古代シュメールにおいて、時よりも古く星よりも巨きなる存在。
シュメール神話世界の領域外、宇宙空間を満たす原初の海そのものを肉体とする、始まりの神である。
──幾人もの勇士がただ一人を愛した末に、剪定された世界があった。
──ただ一柱の神が全ての人を愛した末に、剪定された世界があった。
そして、人と神の決戦の幕が上がる。