和さんとナンムのお別れの話
不思議なほどに静まり返った、イラク異聞帯の海。
その海上で、異聞帯を統べていた神と魔術師はただ空を眺めていた。
「わが子 最後に 伝えておかねば ならない事が あるのです」
「……はい」
せき込み、口端から血を零しながら、ナンムは自分の膝に頭を預けている和に話しかける。
二人の状態は、満身創痍を通り越していた。
神格を砕かれている。
出血は止まりそうにない。
直に異聞帯は崩壊し、この世界は虚空に消える。
彼女たちの結末は、死以外には残されてはいない。
本当ならば、きっと他にするべき話があるのだろう。
ただ、ナンムにはこの結末に至ったからこそ問わねばならない事がある。
「わたしは あなたを 母として愛せているか わからないのです」
それは、子への想いを誰にも疑われた事がない神の本音だった。
──母さん。俺、母さんがやった事、否定できねえよ。
──でも、忘れないでくれ。
──俺たちは所詮神だ。どこまで行っても、人間を親が子にするように愛するなんてできないんだ。
かつて己の手で命を奪った息子が、死の間際にそう言った。
それから5000年近い年月を、苦痛に心を裂かれ、悪夢に魘され続けた。
時折感じる、愛する子どもたちとの価値観の違い。
人と神、あまりにも遠い二つの存在の思考体系の差異。
それを体感するたびに。
「お前は親なんかじゃない。ただの神だ」
「おままごとは楽しいか、化物」
そう現実を突き付けられているようで。
震える声で、ナンムは和へと伏せ続けていた思いを告げる。
「今からでも 遅くはありません」
本当は、この迷いを永久に自分の中に眠らせておくべきだった。
親が子に「あなたに向ける愛が本物なのか疑わしい」などと、どうして言う事ができようか。
「ルーラーの彼に──」
でも、今ここで言わねばならないのだと思った。
5000年の苦痛の回答を知りたいという理由があった。
しかし今の彼女にとって、それは二の次だ。
わが子は自分の事を信頼してくれている。
嬉しい事にこの世界を気に入ってくれて、共にここで終わる事を選んでくれた。
だからこそ、自分の愛がまがい物かもしれない事を伝えず、彼女を騙したまま共に滅ぶ事をしたくなかった。
自分の未練のせいでここまで付き合わせてしまった。
でも、今ならまだ間に合う。
彼女はこの事実を知ってもう一度判断するべきだ。
表情に暗い影を落とし、ナンムは和の顔を見て。
「おかしな事を言いますね」
即座に返ってきた否定の言葉に、目を丸くした。
自分の頬に落ちてくる涙を肌で感じ、和は困惑する。
「あなたは正しく神です。人間とは違う生物なのですから、感情の機微が違うのは当然でしょう」
「その想いが間違ったものであるとは、私は思いません」
彼女を苛む悩みが、その愛情が間違っているなど、考えた事が無かったから。
むしろ何故彼女がそれに苦しむような事があるのか、わからなかったのだ。
「でもきっと、あなたはそれでも納得できないですよね」
降ってくる涙は雨のようで、止む事がない。
ただ、ナンムがそれでは納得できない事は、彼女の様子を見ればよくわかっていた。
だから。
「……私はあなたが大好きですよ。どういう形であれ、私にない母親の愛情を持っていて」
自分が抱いていた王への感情を、包み隠す事なく伝えた。
「それだけでは、満足できないでしょうか?」
もはや動かす事すら苦しい手を無理やりに動かし、ナンムの手を握る。
自分の思いが、少しでも伝わらないだろうかと考えて。
「……そう」
「わたしのこれを あなたは 母親の愛情と 言ってくれるのですね」
雨が弱まる。きっと、今の自分の言葉だけで彼女を苛む全てが消えたわけではないのだろう。
異聞帯が分岐してから今に至るまでの5000年の彼女の日々を、自分の言葉一つで覆せると思うほど思い上がってはいないつもりだ。
でも、少しでもあなたの救いになったのならいいな。
和は、そこで思考を切り替えて。
「でも……あなたにだけ言わせて、不公平ですよね」
神の懺悔を聞いた代償を払わなければいけないと、思った。
「……私からも、隠していた事があります」
自分も言わなければいけない事がある。
首を傾げるナンムに、和はそう告げる。
「私の名前、本当は──」
ナンムに伏せ続けていた、秘密。
渡航実験の参加を決めた時、新しい場所で、新しい名前で、新しい生を歩き出そうと思っていた。
でも、この世界にたどり着いて名を名乗った後で、少しずつ怖くなってしまった。
真の名……自分としてはもう捨てた名ではあるけれど、それは魔術や信仰に大きな意味を持つ。
それを伏せたままの自分は、疑われはしないだろうか? と。
真実を告げた時の、王の反応が怖くて。
裏切者と扱われ殺される事を恐れているわけではない。
嫌われてしまう、自分の異聞帯への想いに疑念を持たれてしまうのが、心底恐ろしかった。
自分が求めていたように接してくれる神に背を向けられるのが、何よりも怖かった。
だから、今日まで伏せ続けてきたのだ。
「なぎ」
少しだけ躊躇い、意を決し……でも、ナンムからは目を逸らしてしまって。
続きを言おうとした和の言葉は、投げかけられた声で止まる。
短く名前を呼んだだけの、それ。
でも、それに驚いてしまったのだ。
いつも穏やかだった彼女の少し強い声色と……
……何よりも、これまで『わが子』としか呼ばなかった彼女が、自分の名前を呼んだ事に。
「……はい」
それを暖かく感じながらも困惑して、和は呼びかけに短く答える。
直後に来るのは自分の両頬に触れる、ひんやりとした感触。
少し驚いて目線を上げると、そこには先ほどナンムの疑問を聞いた和と同じような、困ったように微笑む神の顔があった。
「あなたは 自慢の 娘です」
穏やかな中に珍しく頑なな声色で、なんてことないかのように。
「……わたしにとっては それが 全てですよ」
そんな事で悩んでいたのか、と少し呆れすらあるように。
和の頬をふにふにと押しながら、ナンムは笑う。
「ありがとう」
「『みやじ なぎ』を信じてくれて」
和が想像していた波乱なんてものは何もなく、そこで話は途切れる。
もう、皮膚の感覚も薄いけれど。
自分の頬を、水が伝うのだけはわかった。
霞む視界の中で、互いに互いの顔を見る。
ああ、こんなに簡単な事だったんだ、と思った。
それから、血と涙が混じった声で、笑う。
私が、わたしが、抱え続けていた苦しみは、ただ少しこうやって話し合えただけで和らぐものだったのだと。
それがおかしくて、嬉しくて。
……少しだけ、悔しくて。
少しして、和は考え込んで。
「ごめんなさい、最期なんて言ったのですが……」
「もう一つだけわがままを……言っても……いいでしょうか?」
少しだけ躊躇いながら、何か買ってほしいものを親に尋ねるように、ナンムへと目を向ける。
「なんでも聞いて あげますよ 偉い 神様ですからね」
冗談めかして微笑むナンムにほっと息を付いて、その願いを伝えようとした。
だが。
「えっと、その……なんですが……」
いつも冷静な、それこそこの死の間際に瀕しても平静を保っていた彼女にしてはとても珍しく、頬にわずかな赤みを差して、二度、三度と言い淀んで。
首を傾げる神の瞳を、何度も見て。
そして。
「……頭を、撫でてくれませんか? できれば、私が眠るまで」
神に願うにはあまりにもちっぽけで、親に願うにはあまりにもありふれたわがままを、王へと伝えた。
「……ふふ 甘えん坊さん ですね」
そんな濡羽色の髪を手で梳いてあげて、ナンムは微笑む。
彼女を不安にさせないように。
穏やかに、眠りに就くことができるように。
それから、子守歌を歌うように、童話を読んであげるように、話をする。
今度作ってもらう予定だった、おいしいお菓子の話。
神と人、あまりに分かたれていた二人の、故郷の話。
この世界で過ごした、とりとめの無い日常の話。
……家族の、話。
それから、それから────
「いつも これくらい 甘えてくれて よかったのにな」
でも、楽しく穏やかな時間は、悲しいほどに早く過ぎ去り。
波の音すらしない静かな世界で、ナンムはほんの少し前の事を思い返す。
神の命の尺度で言えば、きっと瞬きにも満たない時間なのだろう。
でも、あの時から自分の凍っていた時間は動き始めた気がしたのだ。
この子と出会った、最初に質問をした時の記憶。
自分はそのとき、名前を、その意味を、尋ねた。
――名とは 願いが 込められるもの あなたの 名前には どのような 意味が?
今考えると、少し配慮が足りなかったと彼女は苦笑する。
なにかを伏せたがっていたのがわかったから。
でも。
――凪……私の国の言葉で、風の無い穏やかな状態の事です。
人のそれを定める側であったわたしがこんな事を考えるのは、とってもおかしかったけれど。
あなたが自分自身で決めた、その答えを聞いた時に、心の底から思ったのです。
これは、運命に他ならないのだと。
凪の海。
風の無い、穏やかな海。
永遠に平穏であり続ける海。
……それは、わたしが求めて、守り続けたかった世界の姿そのものだったのだから。
「なぎ……なぎ」
一度、二度、名前を呼ぶ。
答えはもう帰ってこない事はわかっているけれど。
「……ふふ」
結末は決して、幸福なものではなかったのだろうけど。
「ああ 本当に」
「本当に すてきな名前……」
――でも、わたしは幸せでしたよ。
――あなたももしそう思ってくれていたら、嬉しいなぁ。
崩れていく世界の、海の上。
超越者でなくただの母親としてありたかった海の女神は、愛するわが子をそっと抱きしめた。
<空想断絶>