対戦カード発表のやつ
イラク異聞帯、ウル本島は数多くの群島から構成される人間の居住地域の中で最も大きな島である。
異聞帯の人口のうちの約55%がこの島で暮らし、交易と行商の中心となる王都もまたいつもと変わらぬ賑わいを見せていた。
「戦、ねえ」
焼き串を頬張りながらつぶやく民の一人。
その話題に周囲の民も乗り、昼飯時の話題が出来上がる。
それは、ここ数日で民を賑わせている一番の噂だった。
王から異聞帯全域に伝えられた御触れ。
近いうちにこの世界は異界との戦闘状態に入る恐れがある、というもの。
『戦争』という概念はそもそものところこの世界には存在しない。
世界の始まりから神に庇護され一つに纏まっているシュメルの地において、大規模な戦闘行為など起こりえるものではないのだから。
人々の記憶に新しい……今回の150年で最も大規模な争い事といえば、第四区街の色男、ジャルクが5股をかけて女性たちに追い回された事件だろう。
あれは酷かった。水瓶が2つは割れた。自分なんて酔って囃し立てていたら殴られた。
たしか、100と23年前だっただろうか? そんな思い出話を語り合いながら今日の昼のひと時は過ぎていく。
戦争とは、どのようなものなのだろう。
何十人も出てきて殴り合いになるのだろうか。もしや、刃物を持ち出してきたり?
家が燃えたりするのだろうか。なんと恐ろしい。
さすがにそこまでではないだろう。
笑いあい、そろそろ休憩の時間も終わりだと串を籠に放り捨て、欠伸をしながら人々はそれぞれの仕事場へと去っていく。
いつもと変わらない日常。
崩れる事のない平穏と安寧。
大いなる海の女神に守られたこの世界において、それは日の始まりに太陽が昇り日の終わりに沈むのと同列の真理であった。
まだ日は高い。今日の仕事は面倒だ。早く沈んでくれないだろうか。
そのような冗談を言った民がいた。
いやいや、そんなバカなこと。
隣を歩く民が、苦笑しながらそう肩を叩いた瞬間。
空から太陽が消えた。
――――――――
鬼の群れが、人を蹂躙する。
ウル島東部沿岸区は近年開発が進んでいた地域の一つだった。
山がちな地形こそ峻険であるものの、そこに刺激を求めた若者たちが集まり、王都に勝るとも劣らない賑わいを見せていた。
だが、ほんの数十分でその全てが失われた。
イラク異聞帯では見慣れぬ生物、鬼の群が突如として現れ、住民を無差別に殺害し始めたのだ。
不幸だったのは、この沿岸区の民の層が好奇心旺盛だった事だろう。
そのため、突如として夜のように日が落ちても、鬼という異界の生物を見ても、退避が遅れた。
新しい遊興の何かだろうか。
そうワイワイと集まった一団が、まず命を奪われた。
そしてまた、鬼の一体が幼い少年を頭から食らい――
瞬間、鬼の喉に穴が開き――刺突、と呼ぶにはあまりに暴力的な加害範囲は穴だけで収まらずその頭部を瞬き一度としない間に消失させる。
首を失った鬼は一歩、二歩と歩き、そこで力なく崩れ動きを止めた。
それとは逆に、腰が抜けて立てない少年の手は何かに掴まれ、無理やり立たされる。
「大丈夫か、少年」
その視界に映ったのは、炎を逆さにしたかのような赤髪の女性だった。
その腕には二股の長槍が握られ、血に濡れた先端からは多くの敵を屠ってきた事が伺える。
沈泥のランサー、イラク異聞帯に所属するサーヴァントの1騎である。
「さあ、早く――」
避難を促したのと、同時に。
ランサーの側頭部に、槍が突き刺さる。
威力はそれで止まる事無くランサーの体を吹き飛ばし、瓦礫の山に強かに打ち付ける。
立ち込める砂煙。
それに向け、上機嫌の声が向けられる。
「ハハハ! 遅え遅え! 本当に神かよお前!」
姿を現したのは、女だった。
すらりとした体型に、編み込んだ金の長髪。
表情には喜悦の色が浮かび、その手には槍が握られている。
アステカ異聞帯のサーヴァントの一人、金星のランサー。
「小鬼どもが潰されてるってから来てみたが……ハッ、あっけねえ」
頭部に槍が直撃した。
己が投擲した槍を受け、無事である存在などそうはいないだろう。
それは、破壊神としての己に裏打ちされた自信だった。
「さて、死体は……っと!」
言葉を打ち切り、金星のランサーは首を傾ける。
瞬きの時間の前に首があった位置を通過するのは、先ほど己が投擲した槍と、微かに遅れて来る風切り音。
次いで金星のランサーの眼前に、赤の影が映り、袈裟懸けに大槍が振るわれる。
風を薙ぎ迫るそれを自身の槍で逸らし、金星のランサーは背後に飛ぶ。
「直撃で形があるたァ褒められたもんじゃねえか」
「……アステカの神は随分と礼儀に欠けるようだ」
地面に叩きつけられ大地を砕き割るその一撃と下手人の姿を見て、軽口を叩きながら金星のランサーは思考を走らせる。
自分の一撃は確かに直撃した。それも、頭に。権能やなにやらで無効化されたわけではないのは、命中した側頭部から微かに血が流れている事がわかる。
その上、吹き飛んだ時の勢いに違和感があった。
おそらく、相手は外見通りの重量をしていない。
加えて、己の一撃を軽傷程度で耐える耐久性。
霊基的な質量は、それを遥かに超えているだろう。
「礼儀だァ? お行儀よくして戦いに勝てんならいくらでもそうしてやんよ」
「……まあ、それについては頷けるところもあるが」
距離を取り、住居の屋根に飛び乗った金星のランサーを見上げ、沈泥のランサーは溜息を付く。
相手は粗野な下級神。その傲慢さ、戦神か破壊神か。己の力に酔ったところを一刺しにすれば、すぐに片が付く……わけでは、ない。
もし目の前の相手がそのような神であれば、初手の不意打ちを受けた後の反撃、こちらも不意打ちに近い形で槍を投げ返した際に敵は死んでいた。
だが、実際にはあっさりとそれを回避して見せた。
不意打ちで敵を殺してやった、ざまあみろと油断している状態でそのような芸当は不可能だ。
さらに、次いで自分が放った槍の一撃をまともに受けるではなく、最小限の軌道逸らしと後退で捌いた。自身の力に驕らず冷静に分析し、致命の一撃は無理なく回避する判断力が備わっている。
そこから伺えるのは、戦士としての技量と貪欲に勝利を求め好機を見逃す事はない精神性。
おそらく、位が低い神では決してない。
「悪くねえ悪くねえ、決まりだ」
「全く、初戦からこのような相手など……」
屋根の上、上機嫌に言葉を紡ぐ金星と、地面に立ち、渋面をしながらも瞳の奥に微かな喜色の光を灯す沈泥。
その位置関係は、まるで互いの司るものを象徴しているかのように。
両陣営のランサーは、同時に己の得物を構える。
「お前の心臓、晒してやるよ」
「運が無いものだ、まったく」
星喰らう怪物の使徒と、外界の神を内包せし蛇神。
アステカとイラクの主戦力の最初の交戦は、こうして始まった。
――――――――――――――
古来より、火とは人に与えられた祝福であり、同時に脅威でもあった。
火を得る事で人は夜の闇を払い、寒冷から身を守り、金属を鍛え、病毒を防ぐ事ができるようになった。
一方で制御を外れ燃え広がった火は命を奪い、自然を焼き尽くす。
かの火の神たちも、かつてはそのような神であった。
苛烈さと温かさを併せ持つ、多くの人々に恐れと崇敬を以て迎えられた存在だった。
だが今は燃え盛る炎しか残っていない。
ウル島南部。
つい先ほどまでこの場所を説明するには多くの言葉を連ねる必要があったのだが、今はその必要も無くなった。
焦土。
この二文字で全て事足りる。
元は住居だった炭も、人間だった炭も、オアンネスくんだった炭も、見分ける必要はない。
炭化した塊が転がり、煙がくすぶる世界を、人影が一つ、歩く。
「弱い」
口元を布で覆った女性だった。
不満げに、何かを探すように、彼女は焦土を歩み、そして焦土を拡大させていく。
アステカ異聞帯、炎のバーサーカー。
この区域に顕現した彼女は、まず手始めに周囲を焼き尽くした。
次に、駆けつけてきた防衛兵を焼き尽くした。
最後に、残った住居も全て焼き尽くした。
だが、彼女が望むものは一度も現れなかった。
強者。強者はどこだ。
それを求めて、彼女は彷徨っている。
「ほう。強い者を探しているのか」
そんな彼女に、突然声が降り注いだ。
空か。声の主を仰ぎ見ると同時、彼女の体は硬直した。
「人間を守ってやるのは業腹だが、後始末はさらに面倒だ」
硬直した視界の中で、敵の姿を視認する。
戦士とは程遠い姿の、少年だった。
「故に火の神よ、我が相手になってやろう」
だが、その身から発せられるのは膨大な魔力。
神霊、いや、生きている神そのものだろうか。
「『天界刺通す(ディンギル・)――」
少年の頭上に凝集する魔力。
彼の言った『相手になってやろう』。それは言葉通りの意味ではない。
真意は『反撃の隙すら与えず一方的に滅ぼしてやろう』だった。
だが。
「神霊を拘束する術か……だが私には通用しない」
「ぐッ!?」
炎のバーサーカーは身を躍らせ、宙に飛ぶ。
少年は微かに驚いた顔を見せるが、すぐにそれは苦悶へと変わる。
その白い首にバーサーカーの腕が掛かっていたのだ。
あとは腕に力を込めるだけで、首をへし折る事ができる。
その通りにバーサーカーは動こうとし。
「『地界刺通す星幽の楔(ディンギル・ドゥルアンキ)』」
瞬間、少年から手を離し身を翻した。
生死を分けたのは、闘争で磨かれた直観。
離脱した直後、炎のバーサーカーが居た位置に光の柱が立ち上がる。
「『にい、なさけない』」
「お前を信頼しているからこそだ、妹よ」
それは、ただの魔力投射だった。技巧を凝らした技ではない、純然たる魔力量の暴力。
だが回避した余波ですら肌を焦がすそれは、直撃すれば神霊クラスのサーヴァントですら戦闘不能は免れないであろう一撃だ。
地面をすり抜けるように現れたのは、黒衣を身にまとった少女だった。
無気力そうな表情に、その手には石板が握られており、そこに刻まれた文字が次々と切り替わり、その意思を代弁している。
炎のバーサーカーの感知能力は、告げている。
霊基の反応は、自分以外には1つだけ。
つまり、相手は二神一体の霊基を有しているのだと。
「面倒だ。今すぐ逃げ帰って二度とこの地を踏まぬのであれば、見逃さん事もない」
「『私たち、これでも一応寛大』」
心底面倒そうに、少年は炎のバーサーカーを見下ろす。
興味深そうに、少女は炎のバーサーカーを見上げる。
「「返答や 如何に」」
強者だ。
霊基から感じられる気配で、わかる。
零落しているのか、大きく弱体化しているようだが……相手は、主神クラスの神だ。
並みの神霊であれば、尻尾を巻いて逃げ出すような存在である。
だが。
「お前たちを、殺す」
その解答は、単純にして明快な、断絶の表明だった。
二度と負けないと、決意したのだ。
あの日あの時、大好きな人の××に、そう誓ったのだ。
「そうか」
「『そっか』」
ならばこれ以上の問答は不要と言わんばかりに、目の前の二神は炎のバーサーカーを見据える。
「火の神如きが、天を統べる我に手向かうか」
バーサーカーの少年の周囲を、星片のような煌めく結晶が取り囲む。
「『火の神はすごいけど、地を統べる私に歯向かうの?』」
バーサーカーの少女の周囲を、無数の土塊が取り囲む。
「強くならねば……足りない、まだ……足りない!」
執念の炎、いと高き天地。
狂気に飲まれた神と神が、激突する。
――――――――――――――
ウル北部、王都のある地区。
戦略的な拠点であるこの地では、最も激しい戦闘が起こっていた。
王宮を攻め落とすため、逃げる民を殺傷するため、無数の髑髏兵が殺到する。
それを押し返すのは、魚類に人間の脚を生やした、イラクの防衛戦力たる王の眷属、『オアンネスくん』と呼ばれる魔獣である。
髑髏兵はその剣を突き立て、魔獣を殺傷する。
魔獣は口から魔力弾を放ち、時にその足を使った蹴りで髑髏兵を砕いていく。
どちらも耐える事なく新たな戦力が増産される消耗戦。
「五分ですか……」
荒野に築かれた陣で、色づいた髑髏の仮面を被った女性は不安げにつぶやく。
アステカ異聞帯のキャスター、髑髏の女王。
同じくアステカ異聞帯のサーヴァントである夫と共に彼女が命じられたのは、王都の攻略であった。
彼女の宝具『死者祭宴の髑髏兵(ミクトラン・ショチ)』は冥界の戦士たちを生み出す宝具だ。
人間が多いこの地域で効率的な殺戮を成すには、個人の武に長けたランサーやバーサーカーよりも彼女が適していると選ばれたのだった。
「ここにおったか」
「……!」
そこに幽鬼のようにゆらりと現れた、一つの影。
気配を感じ取り、一瞬だけ髑髏の女王はぱあっと晴れやかな表情を浮かべる。
だが、その姿を視認し、彼女は体を強張らせた。
それは、彼女の待ち人ではなかったのだから。
少女の姿をしたサーヴァント。霊基の質からして、神性を有しているようだった。
「なぜ、ここが……」
幾重もの魔術によって隠蔽された陣地。
それを開戦からのわずかな時間で探知された。
そこに、動揺が隠せない。
「……黄泉の道を、黄泉の神が知らずと思うてか?」
それは、髑髏の女王が少女の気配を一瞬だけ夫と誤認した理由でもあった。
イラク異聞帯のアヴェンジャー、真名を伊邪那美命(イザナミノミコト)。
イラクの魔術師と同じく外つ国、日本を出身とする黄泉の神……冥界神の一柱である。
普段であれば、愛する夫を気配だけでも誤認するなどあり得ない事だった。
だが、戦場に気を向けていた事と、イザナミの中に、何故か男神の気配が混じっている事。
複数の要因で、一瞬のみではあるが気配を誤認してしまった。
陣に仕込まれた緊急退避の術式を起動できるか否か、それが明暗をわけた。
「同じ黄泉の神同士、話でもと思ったが……すまぬな、時間が惜しい」
髑髏の女王が瞬きをし、再び目を開いた時、目の前には自身の首を掻かんと迫る太刀。
彼女は戦闘に長けた神ではなかった。
なので、この高速の斬撃を回避する手立ては無く。
死を覚悟し、ぎゅうと目を瞑る。
浮遊感。首を落とされて、数十秒もすれば意識が潰える。
そう覚悟した。
だが、その瞬間はいつまでたっても訪れず。
「……すまなかった。一人にするべきではなかった」
代わりにあったのは、己の身を抱く温かさだった。
そして今度こそ間違いなく感じ取れる、その気配。
「旦那、様……」
冥界の神、彼女の伴侶である髑髏のアルターエゴ。
前線を離れ助けに来てくれたその温かさ、愛しさと一人で任を完遂できなかった申し訳なさに、彼女は夫の体に回した手に力を込める。
「……周囲を遊弋している気配があったが、貴様がそうか」
そんな妻の髪を一度撫で、髑髏のアルターエゴはイザナミに怒りを込めた声と目線を送る。
「貴様、男だな?」
それに対するイザナミの回答は、全く関係の無い質問であった。
髑髏のアルターエゴの容姿は、どう見ても女性のそれである。
だが、彼女自身の本能が、彼女を復讐者たらしめる消える怨恨の炎が猛っている。
目の前の乱入者は、自分の復讐相手に重なる存在であるのだと。
「冥界神の夫婦」
「そうか」
ぽつり、ぽつりと呟くイザナミ。
空を切った太刀。
それを下ろし、髑髏の夫婦を目に映す。
そこに映るのは、彼女の治める黄泉の国のごとく深い憎悪と、微かなまた別の感情だった。
「我が妻を傷つけようとした罪、償ってもらおうか」
「償うのは貴様の方だ、黄泉の男神」
――――――――――――――
海上で、2人の少女は対峙していた。
人間の尺度でその容姿を見れば、どちらも幼い、迷子と思われてもおかしくない両世界の王。
だがその身からあふれ出すのは莫大な神威と魔力。
「あれは なに でしょうか」
イラクの王が尋ねる。
指を差した先には、アステカの王の背に見える太陽があったはずの位置。
そこには、籠のような……あるいは、膝を抱えた人型の何かのような、何とも形容し難い奇怪な物体が太陽を覆い隠していた。
アステカ異聞帯の侵攻と同時に起こった怪現象、太陽の消失。
正確には、正体不明の物体に太陽の全てが覆い隠され、地が闇に包まれてしまった。
タイミングからして要因がアステカ異聞帯の何らかにあることは確実だ。
加えて、何か、と聞いたものの、イラクの王には太陽を覆うそれが何であるのか、正体まではわからないが大雑把にはわかっている。
彼女の権能、異聞帯全域の感知。
それが告げている。あの何かは脈を打っていると。
「もしかしたら――」
イラクの王、その傍に控える魔術師の言葉を遮り、黒の触手が襲い掛かる。
その内の二割ほどはイラクの王へと殺到し、その全てが宙を浮く石板に叩きつけられ、勢いを失う。
もう八割はイラクの魔術師、和に襲い掛かるが、こちらもイラクの王の手により石板の迎撃で防がれる。
攻撃こそ防げる量であったが、イラクの王と和はうすら寒いものを感じ取る。
目の前の明確な外敵である神よりも、令呪によるブーストはあるとはいえ戦力としては遥かに劣る人間を優先した。
それはまるで、意思表明のようだった。
オマエなどよりも、人を喰らう方が重要だ、と。
「ウゥゥ…………」
アステカの王はその憮然とした表情を変える事はなかったが。
まるで、先ほどの和が言いかけた予想に答えを教えてやる、とでもいいたげに。
アステカの王の背、イラク異聞帯の空。
太陽を覆い隠している異形が、その形を変えていく。
太陽を抱き込むように、うずくまるようにしていたその脚が、広く広げられ全容を晒す。
八本の脚。筋線維を露出しているかのような体表。ともすれば人のそれに見えるかもしれない、胴と頭。
体の端から漏れ出す、背に隠された太陽からの陽光は揺らめくその姿をより奇怪に際立たせている。
まるでそれは、巨大な蜘蛛のような。
「あ あああ」
そして、感情も理性も移さない、感覚器官の姿が伺えない頭部に、口が開く。
その様子は、まるで、見下しているかのような。
お前たちの抵抗など全て無為だ、と嘲笑っているかのような。
だが、今の彼女にそのような意思は無く。
それはただ存在の強大さだけで、事実と全く異なる感情を周囲に振りまいていた。
「あ ああ あああああ」
口から漏れるのは、何の感情も伺えない、うめき声とも似つかない何か。
純然たる生命の本能に突き動かされる、ただ一つの種族のただ一柱となった個体の、叫びだった。
―――曰く。
アステカ文明において、日食は星の怪物が太陽を攻撃していると考えられていた。
そしてその実態はそれだけでは飽き足らず、天より降り立ち世界を破滅させる災厄の魔物であった。
とある世界において、神々は力を合わせその脅威に立ち向かった。
だが、不幸な巡り合わせの末に世界は破滅し、星は光を失い死の世界と化した。
一つの世界の終末。物語がこれで終わっていれば、どんなに良かった事か。
異聞と消えた世界を手は掬い上げ、かの存在は解き放たれ、得た。
他の世界へと渡る術を。己の生存欲求を満たす、最も簡単な手段を。
アステカ異聞帯を統べる王。
それは星海よりの降臨者、星を渡り星を喰らう魔蟲である。
―――――――
「わが子」
イラクの王は、眼前に立つ少女の姿をした災厄を、その背に見える太陽を覆う魔蟲へと順に目を向け、それから背後を見やる。
そこにはこのイラク異聞帯に訪れた魔術師、彼女が愛するわが子の姿。
「ここから 離れて と言ったら 聞いて くれますか?」
帰ってくる答えはわかりきっているのだけど。
あなたが優しく、強い子であると知っているのだけど。
「……いいえ。ご一緒しますよ、王」
予想と一言も違わぬ言葉に、イラクの王は苦笑する。
ふと足元を見ると、震えている様子だった。
たとえどのような強い人間でも、世界を滅ぼす厄災と相対すればこうなるだろう。
それでも逃げようとしない。してくれない。
「では 一つだけ 約束」
「王……様?」
それが愛おしくて、彼女は今の自分よりも遥かに大きいその体を抱きしめる。
じんわりとした熱、今の自分が、とうの昔に失ってしまったもの。
それがまだこの子には残っている事が、嬉しくて。
同時に、今から嫌われてしまうことが、悲しくて。
「あなたが わたしを 恐れても 化け物と 罵っても」
「変わらず あなたを 愛しています」
その言葉と行為が理解できなくて、和は困惑に目を揺らす。
魔術をかけられた。
強力な、精神防御の魔術を。
「……っ、王!」
その意味を思考する間は無く脅威が迫る。
和を抱きしめている、つまり背を向けた状態。
その茶番を見逃してやる理由があるのか? と言わんばかりに、アステカの王の体から無数の触手が放たれたのだ。
破壊力は、先の交戦で知っての通り。
石板による自動防御も間に合わない速度で迫るそれに、和は王を突き飛ばして守ろうとし。
「……神核励起 臨界」
そこで、和は逆に王に突き飛ばされていた。
無機質に、何かの合言葉のように紡がれた、その言葉。
瞬間、見渡す限りの美しい蒼海が、灰色に染まった。
同時に何本もの触手がイラクの王の背を食い破るように体内から伸び、アステカの王が振るった触手のことごとくを弾き返す。
「星を渡る 旅人 わたしと同じ はじまりの 命」
アステカの王に向き直り、イラクの王は告げる。
その言葉に、人の子に向けるものとかけ離れた冷たさを湛えて。
「あなたと わたしは 同胞かも しれません」
風に髪が乱れ、隙間から左の目が覗く。
感情を映さない、虚ろな瞳。
それが、縦に裂ける。
瞬膜と呼ばれる、爬虫類や哺乳類の一部が持つ眼球を保護する膜。
これまで覗いていた左目はそこに描かれた模様に過ぎない。
「でも 許さない」
「ウゥ……!」
内から覗いた左の目、根本から変質した……否、隠蔽していたその霊基に、アステカの王は警戒の声を零す。
恐れは無い。負けるつもりも道理も、無い。
だが、彼女の生命としての本能が激しく騒いでいる。
目の前のソレは、自分と同列の魔物だと。
「わが神権 その全てを懸け あなたを 滅する」
そして、イラクの天に宇宙が浮かび上がる。
巨大なアメーバ状の不定形のそれはぐねぐねと増殖し変形し、一つの形を成す。
それは、鯨だった。
宇宙そのものを切り出したような模様に、半透明の体。
だが海棲の哺乳類のサイズとは異なり、太陽を隠す魔蟲に劣らぬ、天を覆うほどの巨体である。
その端々から、無数の龍の首が表皮を突き破り姿を現す。
イラクの王、その真体。
それは、かつての戦いで失われたものだった。
異聞帯戦争における、イラク異聞帯の切り札。
それは数千年蓄積し続けた魔力を注ぎ込んだ、神の本体の疑似再現。
星を喰らう神と星の海の神。
一つの星を懸けた神々の闘争が、ここに幕を開ける。
「たとえ どのような魔物に 成り下がったとしても」
茫洋と広がる大海、海の生命の象徴たる真体、星を映したかのような右の瞳。
それは、生命の始原たる大地母神の証。
そして。
蒸気を噴き上げる灰濁の原形質の海、そこから這い出ずる異形の眷属、泡のように無数の眼球が生じては潰え消える、左の眼窩。
それは、生命の始原たる――