強烈な息苦しさを覚えた。
目を開けると、視界はコバルトブルー。
呼吸ができず、眼前には泡が踊る。
舌には嫌な塩味を感じる。
ようやく自分が水中にいることに気付き、両手をばたつかせると、水面に手が当たったのかばしゃばしゃと音が鳴った。
私は下向きの体勢になっているらしい。
すでに喉にまで海水が入り込んでいる。
咳き込みたくて堪らないが、それを我慢して身を捻らせる。
「ぶあっはあぁあっ!」
顔を空へと向け、呼吸が可能になると、すぐさま口の中の海水を吐き出した。
がほごほと咳き込み、残った海水を吐いていく。
「ぅあ……」
太陽の光が眩しく私の瞳を襲う。
口の中が気持ち悪くて仕方ないが、ともかく危機は脱したようだ。
幸いにも服は着ているので水には浮きやすい。
ぼうっとしばらくそのまま水面で浮遊していると、なんとか落ち着きを取り戻せてきた。
首を動かし顔を横へ向けると、砂浜が見える。
ここから距離は離れていない。
着衣水泳は不得手ではあるが、上を向いたままラッコ泳ぎをすればどうとでもなろう。
途中で何度か休憩を挟みつつ、ばたばたと足を動かしていると、ふいに後頭部が地面についた。
衝撃よりも強い痛みに違和感を覚えるが、そういえば、私は頭を怪我しているのだった。
一度、全身を地面につけ、起き上がる。
水分を吸った服が重くのしかかる。
ひとまずはジャケットだけでも脱ぎ捨ててどこかで乾かさなくては。
砂浜は無人のようだ。
ここで脱いでも良いのだが、開けた場所なので、気が引ける。
見渡すと、砂浜の先の岩肌にテトラポッドの群体を見つけた。
あの辺りが影になって良いだろう。
スニーカーの中が気持ち悪いので、一度腰を下ろすと、脱いで中の水を流す。
ついでに靴下も脱いでしまって、素足で砂浜へ足を下ろした。
そのままてくてくと歩いて、テトラポッドへ移動する。
丁度良い場所はないかと少し散策すると、下着姿でテトラポッドへ腰掛ける押田を見つけた。
「やあ、押田くん」
「……やあ、はないだろう、安藤くん。感動はないのか」
「いや、まあ、互いに無事で良かったよ」
「ああ、そうだな……て、おいっ! こっちを見るなっ!」
そう言って押田は両手で胸元を隠す。
「女同士だろう……何を恥ずかしがっているんだ、君は」
とはいえ、押田の希望は尊重してやろう。
押田から少し距離を空けた位置を陣取ると、私も衣服を脱ぎ捨てて下着姿になる。
脱いだジャケットやシャツはテトラポッドへ広げて干した。
ポケットからこぼれ落ちたスマホを拾い、奇跡が起きてくれと願いつつ操作したが、ぴくりとも動かない。
充電切れか、もしくは故障だろう。
当然の如く、無線機も故障していた。
腕時計はなんとか生きていたので、時刻を確認すると、ちょうど短針が6を指していた。
やることもなしに、腰を下ろしてぼうっと海を眺める。
海は、波が高く、ひどくくすんだ色をしていた。
隊長の家で見た海とは、随分と印象が違う。
太陽はぎらぎらと輝いている。気温が高く、紫外線が肌を焼く。
少なくとも、いまだ季節は夏のようだ。
時折、熱をはらんだ風が体に当たる。
押田と会話もないまま、1時間ほどが経過した。
ふいに物音が聞こえて目を向けると、押田が慌てた様子で立ち上がり、干した服へ手を伸ばしている。
「どうした?」
「人が来たっ! 君も早く服を着た方が良いぞ!」
言われて押田の背後を見れば、確かに人影が二つこちらへ歩いてきている。
仕方なく干した服(湿っている)を手に取り、着込んでゆく。
暑いので、ジャケットだけは羽織らずに脇へ抱える。押田も同じ形だ。
人影は、一組の親子だった。人型ではない、我々の世界の人間だ。
母親が我々を見て、怪訝な表情を浮かべている。
私が「こんにちは」と声をかけると、息子の方からは「こんにちは~」と返ってきた。
遅れて母親も同じ言葉を返す。
押田が慎重にテトラポッドを越え、こちらへ近付いてくる。
「さて、これからどうする?」
「ひとまず移動しよう。まずは情報を集めたい」
「君はいつもそれだな。だが、私も同感だ」
短く言葉を交わすと、押田と二人、砂浜を抜け、林の中へ続く石階段を上り始めた。
◇ ◆ ◇
石階段を上り終え、林を抜け、さらに小道を歩いて行くと、二車線の車道へと出た。
車道の左手には小さな喫茶店や食堂などが並んでいる。
右手は駐車場になっており、その先には砂浜が広がっているのが見えた。
時間が時間なので、あまり人気はない。
店舗の看板を見るに、この場所は伊良湖というらしい。
押田が言うには、愛知県の南端ということだった。
「安藤くん、どうやって帰る?」
「……そもそも、帰る場所があるかどうかもわからんだろう」
ともかく出来るのは、歩くことだった。
帰る場所があるとすれば、そこはきっと我らが故郷、岡山だ。
愛知と岡山では途方もない距離が離れているが、歩いていればいずれは辿り着ける。
服が湿っているせいか些か体が重いが、あの世界ほどではない。
2時間ほど歩いたところで小さな書店を見つけ、中で高校物理の教本をめくると、重力加速度は9.8とあった。
我々の世界とも、あの世界のものとも異なる数字だ。
「結局、世界は一つになったということか」
「ああ……しかしそれにしては、この世界も至って平和に見える。あまり実感が湧かないな」
額の汗を拭いつつ、さらに歩く。
行けども行けども、景色は片田舎そのものだ。
田園、古民家、ヤシの木、ビニールハウス、雑木林。
野菜の無人販売所、果樹園、自動販売機、食事処、コンビニ――。
それらを横目に何時間も何時間も歩いてゆく。
途中、ぜえぜえと息を吐く我々を見かねたのか、通りすがりの老夫婦がペットボトルの水を買ってくれた。
あの世界の水を思い出し一瞬だけ躊躇したが、老夫婦の好意を無駄にすることはできず、喉の渇きも限界だったのでありがたくいただいた。
私と押田には何の変化も訪れなかった。
老夫婦とは、少しだけ話をして別れた。
「マリー様はご無事なのだろうか」
「わからない。だが、我々が無事だったのだから、隊長もミカも、きっと助かっているだろう」
「……そうだな、私も、そう信じている」
1時を過ぎると、道の両脇に建造物が増えてきた。
薬局、マンション、スーパー、家電量販店。
図書館、居酒屋、公園、ファーストフード店――。
道行く人に尋ねると、近くに駅があるということだった。
さらに教わった方角へ歩いてゆくと、『三河田原駅』と書かれた建物が見つかる。
「この辺りで、一旦落ち着こう。足も痛くなってきてしまった」
「ここからどうする? このまま日本を南下していくか?」
「……仮に実践するとしても、徒歩で移動すれば10日はかかるだろう」
「無一文の身で、そんな長旅が可能とは思えない」
先ほどの老夫婦の話では、この世界には戦車道や学園艦というものが存在しないとのことだった。
随分と我々の世界と違う。同じように見えて、同じではないということだ。
戦車道も学園艦もない世界で、我々はどう生きていけば良いというのか。
駅前の広場に移動すると、ベンチへ座り、足を放り出す。
「……アルバイトだな」
「安藤くん?」
押田が不安そうな声を発する。
「それしかあるまい。先立つものがなければ身動きが取れない」
「……いや、しかし、私は」
「ははーん? 君、さては労働経験がないんだな?」
「いやはや、まったく失礼した」
「崇高なる内部生様は、下働きをするような身分ではないものな?」
「おいおい、安い挑発をするのだな、卑しい外部生如きがっ!」
「おお、なんだとやるかっ!?」
一悶着繰り広げて体力を使い果たすと、私と押田は働き口を探すために町中の店舗を回った。
明らかに訳ありの我々を雇うような奇特な人物はそうそういないかと思われたが、運が良かったのだろう、10件目の居酒屋で働き口は見つかった。
時給はかなり安いものの、ありがたいことに下宿も工面してくれた。
これで当面の生活は出来そうだ。
早速、居酒屋で働き始め、夜になるとまかないの食事をいただき、風呂に入って、私と押田は眠りについた。
◇ ◆ ◇
そうして居酒屋で働き始めて2週間が経過した。
実家へ連絡を試みても電話番号は使われておらず、SNSで仲の良い友人へ連絡を取ろうにもアカウントが見つからず。
結局は、実際に岡山まで足を伸ばさなければどうしようもなかった。
初めこそ失敗を繰り返していた押田も仕事に慣れ始め、ようやく岡山への旅費も貯まってきた。
次の休みにでも、押田と二人、岡山へ旅に出ようと計画していた。
そんな折のことだ。
いつものように厨房で料理の仕込みをしていると、ふいに、その瞬間が訪れた。
「おい、お前らに客だ」
大将に声をかけられ、少し言い回しに違和感を覚えつつ「いらっしゃいませー」と店先へ出る。
そこにいたのは、柔らかな長髪を携えた、年の頃は12才ほどの少女だった。
「お嬢さん、一人かい? お父さんかお母さんは一緒ではないかな?」
「安藤くん、ご家族の方がいらっしゃるまで、この辺りで待っていてもらった方が良いんじゃないか?」
我々が話しかけると、少女は呆れた表情を浮かべる。
「――ねえ、もしかして、わからないの?」
「……わからない、とは?」
押田の言葉に、少女が長くため息をつく。
「迎えに来たのよ」
姿形こそ異なるが、その声色や言い回しは、ひどく見知ったものだった。
……まさか、まさか。
「長いあいだ、お疲れ様」
きっと不意を突かれたせいだ、目尻が濡れ、水滴が一つ、頬を伝う。
押田もきっと理解ができていた。
顔を紅潮させ、ぼろぼろと涙を落としている。
世界が一つになっても、変わらなかったのだ。
私はようやく、自分の選択を、これで良かったのだと肯定できた。
「帰るわよ、安藤、押田」
彼女の言葉に、私と押田は涙を流しながら「はい」と弱々しく返事をする。
そんな我々を見かねたのか、一瞬だけ逡巡すると、隊長は笑顔で叫んだ。
「ヴィーヴラっ! ベセーっ!」
それは、我々三人を繋ぐ掛け声だ。
ここで外すわけにはいかない。
我々は、これからも続いてゆくのだ。
私と押田は顔を見合わせると、揃って続きを口にした。
「「アーレっ!」」
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
これで終わりです。
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