薄青の空。煙のように浮かぶ雲。
不揃いで手入れのされていない草花。
ぽつぽつと生える広葉樹。
そんな当たり前で不気味な景色が、私の目の前にあった。
「どこだ、ここは」
「洞窟の中では、ないようだな」
押田の言葉に「そんなことは見ればわかる」と突っ込みを入れる。
見覚えのある場所ではない。
ここは隊長の実家の敷地内なのか? まさか岡山の外だったり?
いやいや、そもそも、ここは日本なのか?
そして何より、我々はどうやってここまで移動したんだ?
スマホを開いてみるが、当たり前のように圏外だ。
押田も同様なのだろう、スマホを手に私の顔を見ると、黙って首を横に振った。
ここから数百メートルはあるだろう草原の端には、森が広がっている。
針葉樹林――のように見えるが、一般的なそれと比べて明らかに背が低い。
一番てっぺんに位置する木でも、二階建ての家にも満たない高さだ。
振り返れば、森の反対側には地平線が見えた。
草原は地の果てまで続いているのか。草原の緑と空の薄青が綺麗に隣り合っている。
「……安藤くん、一つおかしなことを訊くようだが」
ふいに押田が口を開く。
「君、体調を崩してはいないか?」
突然なにを言い出すんだこいつは――という言葉が一瞬頭をよぎったが、よくよく考えてみれば、おそらくこれのことだろう、と心当たりがあった。
「そういえば、先程から妙に体が重い」
何が原因かはわからない。
初めは背中に何か乗っかっているか熱でもあるんだろうと思ったのだが、確かめるまでもなく背中は空だし、体に重さはあっても怠さはない。
「その質問をしたということは、お前も同じ状況か」
「ああ、その通りだ」
「……二人揃ってというのは気にくわないな、隊長の家で出された食事に細菌でも紛れ込んでいたか?」
「そんなはずがないだろうっ! マリー様を侮辱する気かっ!」
押田がさっと表情を変えて私を睨む。
そこまで怒ることもないだろうに、とは思いつつも、神経を逆撫でしないよう言葉を選ぶ。
「ああ、そうだな。確かに隊長の実家がそんなに緩い衛生管理であるはずがない」
「当然だ」
私が言うとすぐに怒りはおさまったようで、押田は肩の力を抜いて頷く。
「しかし押田くん。だとしたら、どうしてこうも体が重い?」
「私に訊くな。私にもわからないから確認したんだ」
さらに押田は額に手をやり言葉を続ける。
「まったく、まるで重力が普段の倍ほどもあるようだ」
「……重力?」
その言葉に、引っかかりを覚える。
重力。なるほど、重力か。
「もしかして、それなのか?」
信じがたい話ではあるが、一理ある。
確かに、かかる重力が倍になれば、当然、体も重くなろう。
常識というものをさておいて考えれば、体が重い=重力が強いというのはとてもシンプルでわかりやすい論法だ。
「お前もたまには冴えたことを言うじゃないか」
「随分と引っかかる物言いだな、君は」
「褒めているんだ、機嫌を悪くするなよ」
「褒めているようにはまったく聞こえないんだが」
「……いや、というか、『冴えたこと』というのは、なんの話だ?」
「そりゃあ、重力が倍あるという話だ」
私が答えてやると、押田は深くため息をついた。
「馬鹿馬鹿しい。そんなはずがあるまい」
「お前が自分で言ったんじゃないか」
「君、私が本気で言ったと思っているのか?」
「少なくとも私は本気だ」
元々、異常な状況だ。
これ以上、異常なことが起こっても受け入れる準備はできている。
「ひとまず、どうにかして確かめられると良いんだが……」
私の言葉に、押田はやれやれと首を左右に振る。
「確かに言い出したのは私だが――安藤くん、そんな悠長なことをやっている場合ではないだろう」
「まだここがどこかもわかっていないんだ。周囲の探索をするのが先だ」
「探索って、あの森をか?」
私が針葉樹林を示すと、
「馬鹿な。あそこに決まってるだろう」
押田が綺麗な所作で右手を持ち上げる。
首を回して押田の指さす先を確認する――と、おお、遠く草原の向こうに、まばらな大きさの建造物がぽつぽつと並んでいるのが見えた。
「あれは、学校の校舎、体育館か?」
「だろうな。……て、まさか君、気付いていなかったのか?」
「うるさいな。周囲の様子を窺う前に、お前に話しかけられたのだ」
「自分の不手際を他人のせいにするとは。下賤な外部生らしい反応だ」
「呼吸をするように嫌味を言うよな、お前」
恨めしげに見つめてやると、押田は、ふん、と鼻を鳴らした。
「私としては嫌味でなく的を射た指摘だったつもりだ」
「ともかく、それならあの学校に向かうということで良いか?」
「あまり納得できない回答だが、まぁ良い。さっさと向かおう」
「了解だ。まだ生徒も残っている時間帯だからな、話を訊く相手には困らないだろう」
押田が腕時計を眺めながら言う。
時刻は15時。日が暮れるまでにはまだまだ時間がある。
あの学校までは下手をしたら1キロほどもあるからな。
この重い体ではなかなか骨が折れそうだ。
「気合いを入れていこう。ヴィーヴラ・ベセ」
「「アーレ」」
二人で声を揃え、歩き出す。
――が、そうやって意気揚々と進めていたのもほんの数十メートルほどだった。
一歩一歩がひどく重く、体力を奪われる。
吹き出す汗と火照る頭に、無理矢理にでも気力を保たないと、学校へ辿り着く前にまいってしまいそうだ。
「おい、押田くん。君、なかなか辛そうな表情じゃないか。そろそろ休憩を挟んだ方が良いんじゃないか?」
「安藤くん、君こそ汗だくだぞ。まるで水浴びをした後の野良犬のようだな」
そうやって悪態をつき合いつつ、ぜえぜえと息を吐いて歩いてゆく。
途中で何度か休憩を挟みながら進んでいくと、意外となんとかなるもので、やがて学校の全景が見えてきた。
大きさからすると陸の学校――それも小学校だろう。
「……安藤くん、校舎に着いたら、まずは休憩としないか?」
「ああ、貴様にしては悪くない提案だ。そうしよう」
「できれば事情を説明して、中に案内してもらいたいものだが――」
と、早速、校舎の脇にのそりと動く影があるのを見つける。
「おお、ここの生徒か?」
そう言って手を振った後で、肩に強い感触を覚える。
振り返ると押田が険しい表情で手を置いていた。
「……安藤くん、反射的に口を開くのはやめた方が良い。あれのどこが学生に見える?」
「なんだと?」
押田に言われて影の方へ身を翻す。
――――あぁ、確かに。
よくよく見てみれば、それは学生ではなかった。
というか、そもそも人間ですらなかった。
ぱっと見た印象は、茶色い毛玉だ。
体長1メートルほどの毛むくじゃらの球体に、針金のように黒く細い四足が生えている。
妖怪か、SCPか、UMAなのか。
一体こいつが何なのか見当がつかないが、少なくとも、私の脳内辞書をどれだけ検索しようと、こんな生き物が登場するページは見つからなかった。
「安藤くん、どうする、どうする?」
「いま考えてる。というかまずはその手を離せ」
押田は怯えた声で私の肩を掴んでいる。
普段の彼女なら好きこのんで私に触れることすらないというのに。
私が拒絶してもまるで聞こえていないかのように離さないのだから、よほど混乱しているんだろう。
いやしかし、押田が動転するのは無理もない。
目の前の茶色い毛玉は、作り物なんかじゃなく、生きて、動いている。
存在するはずのない生き物だ。
異常だ。おかしい。普通じゃない。
ぶるりと、震えと共に、未知のものに対する漠然とした恐怖が襲いかかる。
「な、なあ、安藤くん……」
押田がすがるような声を発する。
私だって助けを求めたいのにお前さあ。
……ああ、しかし、二人とも混乱していたらたぶん死ぬ。
なんとか冷静に、頭を働かせて。
「まずは……そうだな、まずは、あいつが我々に気付いているかどうかだろう」
「そう、そうだ、やり過ごすのだ。見なかったことにするぞ、押田くん」
「な、なるほど、良い考えだ、安藤くん」
と、ふいに茶色い毛玉が震えた。
右足を伸ばし、一瞬だけ硬直。
がぱり。
毛玉の正面側に横線が入り、大きく上下に切り開かれた。
球体の7割以上もの面積を誇る、巨大な口だ。
口の中には、凶悪な牙が爛々と並び、べとべととしたよだれがへばりついている。
まるでSF映画に登場する悪趣味なエイリアンみたいだ。
そんなエイリアンは、我々の姿を正面に捉えていた。
奴に目はないが、こちらの存在は認識されているに違いない。
「や、やや、やばくないか?」
「逃げよう、逃げよう安藤くんっ!」
なんて言っている間に、毛玉の黒い手足が、がさがさと蜘蛛のように動いた。
ひええっ。
「ま、回り込んで校舎の中に入るぞっ!」
叫び、右へ方向転換して駆け出す。
毛玉の脇にも校舎はあったが、奴の隣を突っ切っていく度胸はない。
目標は、中庭を挟んで反対側にある、別の校舎だ。
「あ、あいつ、速くないかっ!?」
「喋ってる暇があるなら走れっ!」
ただでさえ体が重く本調子が出ないというのに、ここまでの移動で相当な疲労が溜まっている。
それでもなんとか体が動かせるのは、あの禍々しい生物への恐怖のおかげだ。
あいつが愛らしいクマのぬいぐるみみたいな姿だったなら、ここまでの馬力は発揮できない。
中庭に植えられた花壇を飛び越え、茂みを突っ切り、なんとか校舎の入り口――ガラス戸まで辿り着く。
――が、しかし。
「鍵がかかっている!」
校舎の中に人影はない。
扉は独りでに開いたりはしない。
このままでは追いつかれてしまう。
「ええいっ! 知るかっ!」
幸いにも、ガラス戸の鍵はスライド式の簡素なものだ。
ポケットからキーケースを取り出し、それをガラス戸に叩きつける。
派手な音を立てて割れたガラスの穴から右手を入れ、鍵をスライドさせた。
「開いたぞ入れっ!」
叫びながらガラス戸を横に引き、押田と二人で校舎の中へ体を滑り込ませると、ぴしゃりと戸を閉め鍵をかける。
「……助かった」
これで大丈夫だろう。なんとか逃げ切れた。
安堵の息を口から漏らし、昇降口に敷かれたすのこの上でへたれ込む。
「安藤くん、一つ疑問なんだが」
「なんだ」
「あのガラス、君の手で簡単に割れるくらいなら、あいつも破れるんじゃないか?」
「うん?」
目線を正面へ向ける。
閉じられた戸に怯むことなく、毛玉が突っ込んでくる。
「なるほど駄目そうだなこれはっ!」
「言っているうちに逃げるぞっ!」
身を翻して毛玉に背を向ける。
がしゃあああん、と、後方から聞こえるこれはきっとガラス戸が無残にも突破された音だ。
目の前には一直線に伸びる長廊下。
その途中には、おそらく屋上まで続いているであろう階段が見える。
「上だっ! 上に行くぞ、押田!」
「お、追い詰められるだけでは?」
「真っ直ぐ行っても突き当たりだろ!」
「どちらでも同じなら、私は真っ直ぐ行きたいのだがっ!?」
「馬鹿と煙は高いところが好きとはよく言ったものだ!」
「ことわざの用法も知らないのか貴様!」
「それなら貴様は一階ではいつくばってろ! 私は一人でも屋上へ向かうからな!」
「ああ、勝手にすると良い!」
階段の前で押田と別れると、私は曲がって階段を駆け上る。
二階。駆け上がり、三階。さらに四階。
そこでふと、後ろから毛玉が付いてきていないのに気付いた。
「……奴は押田の方を追っていったか」
こちらが追われていないのならば、ひとまずは屋上に立て籠もる必要はないだろう。
むしろ、押田が無事かどうか確認しなければ。
さすがに奴に死なれたら目覚めが悪いし、この状況では一人よりも二人だ。
仲間……と呼ぶのはあれだが、ともかく一緒に行動する人間は多い方が良いだろう。
そろそろ階段を下り、1階へ到達する。
ゴンゴンと鈍い音が断続的に聞こえ、廊下の角から顔を出すと、例の毛玉がとある教室の扉へ体当たりを続けていた。
押田はどうやら、あの教室の中に立て籠もっているらしい。
とりあえずは無事で何よりだが、あれでは中から出られないじゃないか――と、考えたところで気付く。
教室には窓がある。脱出は可能なのだ。
……まさか押田はこの状況を見越して一階を選んだのか?
あいつにそんな判断力があるとは思えないが、仮にそうだとしたら、私が認識していたよりも彼女は優秀らしいな。
ともかく、毛玉に気取られないよう、忍び足で歩き、破壊されたガラス戸から校舎の外へと出る。
ぐるりと回って件の教室の辺りへ向かうと、ちょうど押田が窓枠に足をかけているところだった。
「安藤くん――」
口の前に人差し指を立て、言いかけた押田を止める。
あの化け物に聞こえないとも限らない。
近くへ寄ってきた押田へ、小声で囁く。
「奴のほとぼりが冷めるまで、向こうの校舎で待機だ」
押田は私の言葉に黙って頷いた。
毛玉の残る校舎を離れ、中庭を抜け、段差を昇り、奴の元々いた校舎の正面入り口へと辿り着く。
こちらにも鍵がかかっていたので、先ほどと同様にガラスを割り手を差し入れる。
「開いたぞ。さあ行こう」
「……なあ安藤くん、なにやら不穏な音がしないか?」
「なに?」
耳を澄ませば、確かに砂を踏みしめるような音が聞こえる。
振り返ると、先ほどの化物が、残り数秒で我々に接触するほどの距離まで迫っていた。
悲鳴を上げる暇もないっ!
私と押田は、すぐさま校舎の中へ入ると、がむしゃらに足を動かして階段を駆け上がった。
◇ ◆ ◇
屋上の扉を閉めると、押田と二人、大の字に寝そべってぜいぜいと息を吐く。
だらだらと顔を流れる汗には、おそらく冷や汗も混じっているだろう。
「おい……どうしてこうなった……あいつは一体なんなんだ」
「一つ言えることは……あいつは……凄まじい嗅覚の持ち主だということだ」
あの距離まで迫っていたということは、私がガラスを割るよりも早く我々の居場所を把握していたはずだ。
可能性は色々と考えられるが、確度が一番高そうなのは、嗅覚が優れているという線だろう。
件の化物は、延々と屋上の扉への体当たりを続けている。
扉はおそらくスチール製なので破られる心配はないが、ずっとこの轟音が響いているというのは、心臓に悪い。
「そもそも安藤くん、どうしてこの校舎に移動すると言った」
「今のうちに学校を離れてしまえば良かったじゃないか」
「奴がすぐにいなくなると思ったのだ」
「まさか、我々に対してここまでの執着を見せるなんてな」
「というか、校舎へ入るのはお前だって同意したはずだ」
「あの状況で言い争いをする余裕がなかっただけだ」
「ああ言えばこう言う」
「しかし、結果から見れば、あの状況で学校を去ろうとしたところで奴に追いつかれていただろう」
私が指摘してやると、押田はむぐりと口を噤む。
やがて再び口を開くと、「残念だが、君の言う通りではある」と言って、きつく目を瞑り唇を噛みしめた。
そうして絞り出すように、続きを口にする。
「ともかく、これで我々は、閉じ込められてしまったわけだ」
さらに、ぶるぶると震える押田。
なにやら様子がおかしいが――、
「お前まさか、泣いているのか」
「泣いてなどいない! 嘆いているだけだ!」
「ホントか? 怪しいな」
「うるさいな! じゃあどうするんだっ!?」
「未知の場所に放り出されて、未知の化物に出くわして、我々はこれから一体どうしたら良いんだっ!?」
「そう喚くなよ、お前の方こそうるさいぞ」
苦言を呈してやると、神経を逆撫でしてしまったのか、押田は「なんだと貴様!?」とさらに喚き散らしてみせる。
――隣にこうも喧しいのがいると休憩にもならないな。
身を起こし、屋上の端――フェンス際へと移動する。
フェンス越しに地上を見下ろしてみると、学校の外側、数百メートル先まで景色が広がっている。
かなり遠方まで見渡せるが、その景色はやはり、どこか不気味だ。
私たちのいる小学校を出た先――草原の反対側は荒れ地になっており、少し離れたところにまた学校が建っていた。
よく見ると、驚くことに、その奥にはさらにまた学校が隣接している。大きさからして手前が高校、奥が中学だろう。
高校の近くにはぽつぽつと平屋のようなものも見えるが、どれもボロボロに荒廃しており人が住んでいる様子はない。
荒れ地には道と呼べるものが一切なく、建造物が無秩序に点在している様子は、まるでクラフトゲーム初心者が作った町のようだ。
探索するならば、ここの次は高校だろうが、そのためにもまずはあの化物を追い払わなければ話にならないな。
はあ、と息を吐きフェンスを離れる。
と、屋上の給水塔へ繋がる階段の裏手に、掃除用具のようなものが積まれているのが見えた。
「……何か使えるものがあるかもな」
と近寄ってはみたものの、実のところ掃除用具など一つもなく、あったのは用法のわからない変てこな物体ばかりだった。
金属で出来た葉っぱが詰め込まれたバケツ。
曲げた鉄板に木の棒を4本取り付け、椅子のようにしたもの。
プラスチックケースにテニスボールのように入れられた黒い玉。
想像力を働かせて考えてみたところ、小学生が工作の授業で制作したものか、と思い当たる。
が、それにしてはどれも粗がなく、なんというか、クオリティが高い。
「安藤くん、どうかしたのか?」
ふいに声をかけられ振り向くと、上半身を起こした押田がこちらへ顔を向けていた。
「武器になるものがないかと思ったんだけどな……可能性のありそうなのは、この黒い玉と椅子みたいな奴くらいか」
「黒い玉とは、なんだ?」
プラスチックケースごと手にとって見せてやる。
「な、なんだ、それは?」
「よくわからん。触ってみるか?」
押田が「ああ」と起き上がり、こちらに手を伸ばす。
近付いてプラスチックケースを渡してやると、押田は蓋を開け、中から黒い玉を一つ取り出した。
「おい、危ないぞ。砲弾だったらどうする」
「こんなに軽い砲弾があるか」
言って、押田は玉を垂直に高く放り、落ちてきたそれをぱしっと受け止める。
大きな危険はなさそうなので、私もケースから一つ取り出してまじまじと眺めた。
触った感触は鉄のようだが、それにしては弾力があるな。
見たところあまり光沢もないし、金属ほどの重さもない。
「少なくとも、武器にはならなそうだな」
これをぶつけたところで大したダメージはないだろう。
ため息をつき、押田へ「入れておいてくれ」と放る。
玉を眺めていた押田は私が投げたのに気付くのが遅れたらしく、玉を受け止められず、顔面に当たる寸前のところで辛うじて避けた。
「危ないじゃないかっ!」
「悪い。受け止められるとおも――」
どごん。と、私の言葉は、途中で止まってしまった。
爆発音と共に、押田の背後からぶわりと風が吹きスカーフが揺れる。
束の間の白煙が晴れ、屋上の床には亀裂が走っている。
私の投げた玉が爆発したのだ。
「あ、あ、あああ、あ、あぶ、危ないじゃないかっ!」
「なにも爆発するとは思わんだろう……」
押田は顔面蒼白で思いっきり目を見開いている。
……まあ、確かに今回のは私が悪かったかもしれない。
押田の髪は普段よりも数段もみくちゃになっていて、爆発の衝撃がうかがえる。
ひどいのは床の亀裂だ。
かなり深くヒビが入っており、コンクリート片が飛び散って中の鉄筋が見えてしまっている。
私は手で軽く放っただけ。それでこれほどの破壊力とは。
この黒玉、どんな構造をしているんだ? まるで手榴弾だ。
――――。
「待てよ、これで武器が手に入ったんじゃないか?」
「な、なな、なんの話だ、安藤くん……っ!」
押田はすっかり怯えてしまって、未だに声が震えている。
手にはその元凶である黒玉を持ったままだ。
「まずは落ち着いて、そいつをこちらへ渡せ」
黒玉を指さしてやると、押田はようやくその存在に気付いたようで、目を見開いたまま、がくがくと震えながら私に手を差し出した。
ゆっくりと慎重に、私は黒玉を受け取る。
「ど、どうするんだ……?」
「決まっている。これを使って、あの化け物を追い払うんだ」
私が言うと、押田は幾ばくか落ち着きを取り戻して、
「……作戦は、あるのか?」
「その様子では君がやるのは無理だろう」
「私がこいつ――そうだな、仮に名前は手砲弾としよう。手砲弾を、奴に向かって投げる」
「君は扉を開けて、あとは隠れていれば良い」
「それだけかっ!?」
「ずっとここに閉じこもっているわけにもいかないだろう。さあ、さっさと済ませるぞ」
私が言うと、押田は観念した様子で扉の方へと向かう。
スチール扉の左脇に陣取り、ドアノブへ手をかける。
「ど、どのタイミングで、開ければ良い……っ?」
そう言う押田の声には震えが混じっている。
押田の握るドアノブは、向こう側から幾度もかまされる体当たりのせいで、不規則に衝撃がある。
それが押田の恐怖を助長しているのだろう。
ただ、扉は外開きだ。
開けば押田は扉の影に隠れるから、毛玉に襲われる心配はない。
正直、怖いのはこちらの方だ。
「私が合図してやるからそれに合わせろ」
「りょ、了解した!」
押田の返答に頷き、続きを口にする。
「よし、じゃあいいか、3、2、1、0で開け――」
と、そこまで言ったところで、押田が威勢良くドアノブを引いた。
いやお前、お前っ!
動転したのか事前確認を本番と勘違いしたのか、ああまったく、ともかく押田は扉を開けてしまった。
「ぐ、う……っ」
黒い手足を振り上げた毛玉が扉の向こうへ姿を現し、反対に押田は扉の陰へ姿を消した。
毛玉は四足を床に下ろし、僅かに左右へ体を動かすと、ぴたりと停止する。
間近でみた毛玉は気味が悪く、柔らかそうな茶色い毛の下には暴力的な牙が覗いていて、そこから白濁した大量のよだれが滴っていた。
私と奴との距離は、横にした押田3人分くらいだ。
これ以上近付かれたらやばい。
今しかない。やるんだ、安藤っ!
「……ふっ!」
右腕を振りかぶって手砲弾を投げてやると、自然と口から声が漏れた。
私の手を離れた手砲弾は、真っ直ぐ前方へ突き進むが――僅かに毛玉を逸れ、前足付近の床に着弾する。
破裂した床の破片が飛散し、毛玉が跳ね、「くあっ」と、どうやら毛玉のものらしい高い声が響く。
「な、ど、どうなったんだっ!? 安藤くんっ!?」
しばらく黙ってろよお前はさあ。
毛玉が「くうくう」と鳴き、見れば、黒い前足が半ばほどで折れ曲がっている。
――が、それだけ。
毛玉は残った三つの足で立ち、依然としてこちらへ顔を向けていた。
素早く、脇に抱えたプラスチックケースから次の手砲弾を取り出して右手に持ち替える。
第2投だ。ともかく効いている。
このままこれを続けられれば、奴を退けられるだろう。
――と、毛玉に動きがあった。じりじりと後退を始めたのだ。
勝機だ。
「……我々は本気だ。お前を仕留めるまで続けるぞ」
言葉は通じないだろうが、感情は伝わるだろう。
そう言って毛玉を睨み付けてやる。
それで毛玉は、拍子抜けするくらいあっけなく身を翻した。
扉を抜け、下階に続く階段を駆け下りてゆく。
足が折れているせいで動きにくいのだろう、途中、何度かがたんがたんと転倒したかのような騒音が聞こえてきた。
屋上の端へ移動し、フェンスの隙間から地上を見下ろすと、校舎を出た毛玉が、遠く森の方へとふらふら駆けてゆく。
……あの様子なら、しばらく戻ってくることもないだろう。
気が抜けて、屋上の床へ尻をつく。
後方でいまだ不安そうに「どうなった、どうなったんだ?」と続ける押田へ声を放ってやった。
「喜べ。どうやら我々の勝利らしいぞ」