……時間が、止まっている。
歓声が止まっている。動きが、人の波が、絶えず回るはずの時間が稼働しない。
それでも、回り続ける思考と駆動するこの目は、目の前の現実を突きつけてくる。
今まさに、崩れ落ちようとする俺の愛バ。
膝から零れるように地面へ滑り落ちかけているウィングは、間違いなく今まで支えてきたその脚を壊したのだ。
およそ残り100m。
勝負はウィングとシービーのみの競い合い。
後は、ウィングが耐えるだけで、勝利を手にできるかという瀬戸際だったというのに。
……想像しうる最悪の展開に、思わず下唇を噛む。
叱咤と暴言、沸き立つ怒りが俺自身を責めた。責任の所在を、そしてアイツの安全を作りきれなかった、己自身への罰則だった。
それで許されるなど到底思っていないが、必要な重みだ。
トレーナーという担当の責任を持つ立場にいる以上……そして、アイツの友人として立っている以上は、背負わなければいけない積み荷なのだから。
「…………っっ!!」
嚙み締めた唇から、鉄の味がする。
握りしめた拳が悲鳴を上げ、皮膚から生暖かい液体が流れる感覚が分かった。
……自傷の類だろうか。行ったことなど過去一度もなかったが、どうやらこういうのは意志とは関わらず、感情によって無意識に行ってしまうらしい。
──目を、逸らしかけた。
いけないことだと分かっているのに。俺の意志とは無関係に、負の感情が、視界の動きにリンクする。
──顔を、伏せかけた。
叱咤の代償として赤い液体を流しているにも関わらず、熱くなった思考は冴えてすらくれない。
でも……。
それでも。
『いってくる!』
脳裏によぎった、彼女の瞳を。
その足取りを、覚悟の決めた表情を想起して。
あの珍しく、挑戦的で、かっこいい笑みを浮かべて、レースへ身を投じたウィングの光景を思い出して。
「…………っ!」
俺は再び前を向く。
下を向く必要はない。その先に見えるものなんてたかが知れている。
彼女が掲げた覚悟から目を背けるな。崩れ落ちかけているその表情が、たとえ諦めているものだとしても見ないふりをするな。
──俺は、アイツのトレーナーだ。
前を向く理由など、それだけで十分だ。
視界に映る光景は相も変わらず変わりはしない。
倒れそうなウィングが、そのまま目に映されている。
……ウィングの、表情は見えない。
それもそのはずだ。なぜなら、さっきまで観戦用に持っていた道具が
ミシリッと悲鳴を上げる双眼鏡の割れた感触を感じるに、俺はどうやら力を込めすぎて壊してしまったらしい。それだけ感情が荒ぶっている証拠ということだろう。
だが、それはいい。俺がアイツを大切に想っていることの証明でもあるのだから。
その想いが胸にあることを良しとし、俺はウィングの故障部位を予想。
膝からの転落、頑丈な脚首を持っているウィングの事を想定するに、恐らくはその中間。
脛骨、もしくはその周辺の筋組織の断裂。そこらへんが予測点だろう。
足首、太ももに続く負担のかかる場所だ。そこら辺の故障を予想するのは当然の摂理だった。
……今、アイツは激痛のさなかに立っているはず。
1秒と持たないこの刹那の一瞬、崩れそうな体を支える重要部分から発する信号に抗っている。
振り上げた片足の行方はどこへ行くのか。
その苦痛が楽な方へと、ただ痛みの少ない真下へと向かってほしいという思いもある中。
──諦めてほしくないと願う、俺の感情も、確かにあった。
だからか。
その願いが届いたのか。
あるいは、
ウィングはただ前に、壊れた脚とは反対のその脚を踏み出した。
「ウィング……!」
確かに見えたその覚悟に、喜びとは真逆の葛藤の念が生まれる。
噛み締めて叫んだ担当の娘の名を、並々ならぬ情熱を込めて口にした。
明らかに故障した脚を酷使し、されど限界を超えて走ろうとするその姿はあまりにも……俺には痛々しく見えた。大事に思っているからこそ、そう考えてしまう。
……苦痛を示す表情が見えないことが、逆にその心配の感情を増す。
それでも……前を踏み出した事実は変わらない。
アイツは、壊した今なお、その脚で困難を踏破しようとしている。
恐らく、二度とその足で立てなくなってでも……
その覚悟を、俺は……
────俺は、見て見ぬふりはできない。
……今から、俺が行う行動はトレーナーにとって、最もしてはいけない事なのかもしれない。
あらゆる非難を受けるだろう。
多くの者から間違っていると、正されるだろう。
それは間違いなく正しい。トレーナーとして身を置くものであるならば、故障したアイツを止めることが最優先事項になるはずだ。それこそ、ターフの中に入ってでも。
──知るかそんなこと。
壊れかけのウィングに、寄り添うことが一番の正解だと分かりきっている。
冷静に冷えた思考の中で、問いただした解答はそれが最善だと示している。
――それでも、感情が否定する。
だが、心が。
理屈で数えられない感情が。
アイツの覚悟を否定していけないと、そう叫んでいる。
目の前で全てをかけて走っているアイツに、そんな言い訳を残して止めろというのか?
脇役の立場でいることに我慢ができず、自身の努力のみで主人公の座に手を伸ばすアイツを止めろと?
折れた脚に目もくれず、なおも闘志を燃やすウィングを──
アイツを信じてやれるただ一人のトレーナーが
俺が──止められるわけねぇだろうがッ!!
「っ!!」
衝動で、思わず埒を殴りつける。
ガンッとという音と共に拳に鈍い痛みが走るが、そんなことどうでもよかった。
突然走った奇行に周囲の目が向けられるが、気にもしない。
だから、次の瞬間
ただ一つの思いを胸に、俺は叫んでいた。
「行けええぇぇぇ!!!! ウィングゥゥ!!!!」
そう
勝って帰ってこい、という思いを胸に俺は叫んだ。
なんでここにいる。
なんでこんなにも、息が苦しい。
なんでこんなにもなって
まだ、走っている。
「……」
大地が崩れる。
踏み抜く地面が落下する感覚があった。
1秒後には、体勢を崩した自身の姿が想像できた。
そして、敗者のように地に這いつくばる自分が想像できて──
「…………──!! ──!」
ずっと、何かが聞こえ続けている気がした。
まどろみの意識。あまりにも遠い1秒。
今にも外れかける意識を食い止めながら。
目がくらみそうな、遠く明るい暗闇の中に立っていた。
――まどろんだ意識の中で、少女は夢を見ていた。
それは栄光に溢れ暖かな願望とも言える、遥かな虚構にある自身の姿だった。
夢見た自分は、はるかに遠かった。
現実に打ちのめされて、圧倒的な強者に叩き潰されて。
一度は脚を壊してなお、少女は諦めきれずに走り出した。
『頑固者』と呼んでくれた彼が、私を送り出してくれたんだ。
「…………ゕ、ぁ」
再び、息が詰まった。
すぐ真下から感じる激痛に、呼吸が拒絶を起こしている。
踏み出そうとする意識が、それを拒否しようと信号をずっと出している。
でも、それでも。
少女は負けたくなかった。
負けたくないから、まだ抗おうとしているんだ。
「…………ま、だ」
その意思が、彼女の意識を現実へと戻す。
崖から崩れそうな感覚は変わっていない。マグマのような激痛も、無茶をした自分を祟っているかのように燃え続けていた。
少し意識を手放せば、狂っているだろう痛みの中で。
それでも、勝ちたいという強固な意志だけが、彼女を正気へ戻す。
――だから、すぐ隣を見た。
勝負の場に立ってくれた、彼女の
最も後ろから追いかけてきた、ミスターシービーの姿をこの目で確認する。
(な、に……?)
最初に確認したのは、その堂々とした風貌。
少女よりも、絶対的な強者の立ち振る舞いを、何度も見たはずなのに改めて自分の身に刻んだ。
次に、その走りを。
追いかけてきたにも拘らず、スタミナには余裕があるように見えた。
圧倒的な追い上げを見せた脚は、自分よりも強靭で、きれいだ。
そして、すごく速くて、目を逸らしたくなるほど、速く、て…………
……だからか。
冷静になった思考が、彼女の異変を察知したのかもしれない。
(ゆるん、でる?)
明らかに、脚が止まっているように見えたのだ。
いや、実際止まってはいない。今も一歩を踏み出そうとする彼女は、その脚を回し続ける。
ただ、それ以上は速くならないだろうと、そんな確信が持てた。
シービーは、
水晶のような瞳で、私を見ていた。
でも、その表情は、私を追いかけてきた時よりも笑顔じゃなくて。
まるで、痛いものでも見るような。悲しんでいるかのような。そんな悲痛な表情で……
壊れた私を見て、何か思うところでもあったのだろうか。
……いや、ある。
だって彼女は、私と走りたいって言ってくれたんだから。
交わしたんだ、約束を。
一緒に、全力で走ろうって約束をした。
だから、戸惑っているんだ。
全力で走れなくなっている私を見て、言葉も見当たらない感情が浮き出ているのかもしれない。
だから、脚が止まっている。
なら……
なら、
確証はないけど。それでも、可能性がある。
だったら――と、私は自分の胸に答えを出す。
……負けたくない。この先頭を譲りたくない。まだ、この光景を独り占めしていたい。
シービーと交わした約束に応えたい。全力で立ち向かって、勝てるなら勝って、負けたならその悔しさに溺れたい。
――足が折れているかもしれない?別にいい。痛みなんて敗北の痛みと比べれば蚊ほどのものだ。
――シービーと交わした約束を果たせないなんて、そんなの嫌だ。
覚悟もある。
踏み切る脚は壊れかけだけど、確かにあるんだ。
だからあと一歩。
その背中を押してくれるものが。
私を……支えてくれる彼の声が欲しい。
途切れそうな意識の中で。
私は、その声を。
「行けええぇぇぇ!!!! ウィングゥゥ!!!!」
聞いた。
確かに、この耳で聞いた。
意識が覚醒する。
宙に浮いたかのようなふわりとした感覚が、現実のものへと引き戻された。
トレーナーの声が聞こえる。
あの人が答えてくれた。
現実主義で、私が走ることを許容したくないだろう彼が。いつも、子供みたいで大人な考えを持っている彼が。
あの人が、私のトレーナーは、私の背中を押してくれる。
なら、応えよう。
うん。応えなきゃ。
足が折れてても。
もう二度と、走れなくなってでも。
「私は──」
今の私でいることを諦めきれない私自身のために。
脇役でいられない私を支えてくれた彼のために。
「まだ──!」
走ろう
走ろう!
全力で!! 楽しむように!!!
「前に! 進むんだああぁぁァァア゛ア゛!!!!」
意味を持たない咆哮を機に、私は崩れた地面を踏み越えた。
全力を賭けた一歩目。
ここが全ての分岐点。
後ろに体制を崩さないように前傾姿勢で。次の地面を拾うように限界まで足を広げて。
すでに限界を超えた足で、
「────ぁぐっ……!!」
私の内の何かが悲鳴を上げる。
許容量を超えた思考が、停止の信号を響かせた。
今すぐにでも止めないと、と当たり前の危険反応が全身を響かせる。
でも。
──知るかそんなもの。
私は、否定する自分にそう結論付けて、次の一歩を辿った。
二歩目。
視界が明滅。
白と黒で染まった色彩が私の目に映る光景を縛る。
問題ない。地面は見えてる。まだ走れる。
自分の内にある思いはまだ途切れない。
「は……ぁ……──!」
三歩目。
思考が、途切れ欠けた。
……だイじょウぶ。
想いは──感情は、途切れない。
だから、まだ。
その脚を進ませる。
四歩。
五歩。
六歩。
何度も進んでいく中で、私の景色はもう、白と黒でしか埋まらなくなった。
明滅どころではない灯りの停電に、目がおかしくなりそうだ。
すぐ下から伝わってくる激痛は、ずっと私に諦めろと問い詰めてくる。
でも、あきらめたくないから。やめない。
――後ろは向かない。
そんなことをしても得られるものなんてないって、私のトレーナーが言ってたから。
そして今なら、私にも分かる。
この覚悟を、シービーとの大事な約束から目を背けたところで、私は後悔しかしないって予感がしたから。
――満足げに、上も向かない。
今放り出して、諦めて上を向いたら、それで楽に終わる。全部終わってくれる。
でもこれで、満足なわけがないから。
……上を向くのは、偶にでいいって言ってくれた人がいたから。
だから。
――私は想いのままに、前を向く。
この崩れた脚で登り切った、遥かな崖の上にある。
はるか上の、青空を見た。
「………………あ、は♪」
白と黒しか見えないはずの視界に、青色の空が映った。
感情が埋まった。
黒で埋まった感情が、青色のものへと染まってゆく。
──楽しい。
こんなにも壊れかけなのに。
どうしてか、訳も分からない高揚感が、私を埋めていってる。
――ずっと、走っていたい。
いつの間にか忘れていたものを、思い出した感覚。
何のために走ってきたか、なんていういつかの掛け合いが、今答えを得た気がした。
――ああ、こんなにも。
一歩一歩と進んでいく脚が、こんなにも軽く感じる。
勝ちたいと思いながら歩んできた脚が、あんなに重かった私の身体が、軽く感じてちゃってる。
まるでどこまでも『
――走るのって、楽しかったんだ。
走りたいから、走った。
やりたいから、やってきた。
多分、彼と同じ。トレーナーと同じ感覚が、私に流れ込んできてる。
結果なんてどうでもいいって思える。
勝てたらいいなって思うけど、今はこの飛べるかのような感覚に身を任せたい気持ちでいっぱいだ。
そんな過程を、すごく楽しみたい。
そんな風に、走りたい――!
目の前の光景が、限界の疲労からくる幻覚であろうが関係ない。
踏み越えろ、乗り越えろ、前に進め。
そこに、私が走りたいって思う道があるんだから――!
崖で崩れた見える地面は残り少ない。
だからその一歩を嚙み締めるように、踏み込む。
あと三段。あと二段。と
そして、最後の一段を――
「ぁ」
──ついに、視界が晴れた。
そこにあったのは、青と白の混ざった色彩。
眩いほどに綺麗で、あの人の純粋さを現した染まりのない景色で。
いつもように見ているその視界は普段よりも。
私の目には近づいて見えた。
『ゴールインッ!! 先頭はアストラルウィング!! アストラルウィングだぁ! 最後に見せた3度目の加速で後続のウマ娘を引きはがしましたぁ!!』
「」
崩落した大地をやっとのことで乗り越えた。
私の前には誰もいない。
両足を安定した地面に着けて、ふと空を見る。
ピキリとした痛みが全身を走るが気にならなかった。
だって、そこにはいつもと同じ青空があったから。
走っていた時よりも、少し遠く見えるあの空を
──私は、子供のように。離さないように。
──両手を宙へ伸ばして、グッと掴み取った。
他ウマ娘との絡みもっと欲しい?
-
くれ
-
いらん
-
どうでもいいからイチャイチャ見せろ