突然だが、あなたに質問をしよう。アメリカ合衆国第23代大統領は誰か? ベンジャミン・ハリソン? それとも『ファニー・ヴァレンタイン』? 答えはどちらも正解だ。もしかすると別の答えを思い浮かべた方もいるだろうが、それも正解かもしれない。
あなたは並行世界仮説あるいはパラレルワールドという言葉を……聞いたことぐらいはあるだろう。この世は可能性と選択の連続だ。例えばテニスでネットに弾かれたボールが手前に落ちるのか? それとも奥に落ちるのか? それは誰にもわからないが、そうした些細な、あるいは大きな可能性の分岐が異なった『世界』が……連続して続く本のページのように……枝分かれ、並行してあるのではないか、という考え方で、映画だとか漫画だとか……いろいろな媒体で創作ネタとして取り上げられているから、概念としてはなんとなくわかる者も多いはずだ。
ここに記すのは『あたし』こと『キタサンブラック』が体験した……一つの『奇妙』な記録である。
――これは、あたしが少しだけ成長する物語だ。
◆マンハッタンカフェは動じない #020 『
「じゅ、授業に遅刻しちゃう~~~っ!!!」
その日、朝のランニングに出かけたキタサンは横断歩道を渡れずに困っているお婆さんを助け、木の上に上ったはいいが降りられなくなってしまった子猫を助け、さらには府中駅と東府中駅を間違って降りてしまった地方からの観光客にバス乗り場などを教えているうちに、完全に時間を喰ってしまい授業に間に合うかどうかの瀬戸際にあった。キタサンはとにかく、困っている人物に対して見て見ぬふりをできぬ性質で、皆からはお助け大将キタちゃんなどと親しまれているのだが……授業に遅れてしまうのはいただけない。
いつもは通らない裏道や、細い路地を駆使し、とにかくトレセン学園への帰路を急ぐ。このペースなら辛うじて間に合うだろうか? 最悪ジャージのまま授業に出ることになるかもしれないが……!
などと考えているとき、キタサンはとあるものの存在に気づき、足を止めた。
「これ……血……?」
地面に、点々と赤いものが落ちており……最初はペンキかなにかかと思ったが、どうやらそれは血であるようなのだ。しかも、まだ新しく乾ききっていない。
「誰か、怪我をしてるのかな……ほっとけない……!」
キタサンはポケットに入っていたテーピング用のバンデージを取り出し、その血痕を追った。もし怪我人がいるのなら痛い思いをしているはずだ。早く助けてあげなくては……純粋に、そう言った思いからの行動。おおよそ路地を折れて5mほど進んだ時の事。
「ハァーッ……ハァーッ……いいか、一度しか言わない。『そこで止まれ』」
男の声。どうやら、この先にあるいくらか草木の生えた放棄地からしているようだ。とはいえ、姿は見えないが息が荒い。やはり負傷している風に思える。
「『動けば』……君を『敵』と見なす」
キタサンは、男が何かトラブルに巻き込まれているのだと気づいた。もしかすると危ないことかもしれない……大人の人を呼ぶべきか? しかし……
「……怪我、してるんですよね? 大丈夫です、怯えないで。事情は分かりませんけど、あたしがあなたを助けます。近くに行ってもいいですか……?」
とにかく声のする方に呼びかけてみる。返事はない。キタサンは恐る恐る……そちらの方向に歩を進めようとした。
「失礼、お嬢さん……」
「わっ……!」
と、ふいにキタサンは肩を掴まれる。振り向くと、そこにはすらりと背の高い学生服の男がおり……何かを探すように周囲を見回しつつ……
「……人を探していてね。そう……僕の友人なんだ。怪我をしている。このあたりに来たようなんだが、そういう人物を見ていないかい?」
そういって男がキタサンを見下ろすその眼は――なにかとてつもなく冷酷なものが隠し切れずあり、その声も、友人を探しているにしてはあまりに剣呑すぎた。人を信じて疑わないキタサンもこの男に対して、警戒感を抱かずにはいられず。やはり、何か事件が起きているのか――もしかして、例の声の人物はこの男から逃げているのでは、と合点がいく。
「……はい、知っています」
男に対して、キタサンは答える。
「その人、怪我をしていたのであたしがバンテージで止血してあげたんです。するとすぐに、逃げるように『向こう』の方に走っていきました」
「……ふむ、そうか。ありがとうお嬢さん」
男はキタサンににこやかに笑みを作り礼を言うと、次の瞬間には……既にいなくなっていた。
「……もう大丈夫です。何があったかは本当に解りませんが……怪我をしてるんですよね。手当ぐらいはさせてくださーい……」
それから、草の茂みをかき分け、放棄された空き地の奥へと入っていくキタサン。すると、そこにはピンク色の派手なコートを着た外国人の男がうずくまって倒れているのが見えた。頭髪も、まるで音楽の授業で見たバッハとか……そういった感じのカールした奇妙な髪形をしている。が、そんなことはどうでもいい。腕からの出血がひどい。そのせいか、男は額に脂汗を浮かべて気を失っていた。
「…………!」
「ハァーッ……ハァーッ……」
キタサンは、すぐさまバンテージを取り出しスポーツ医学の授業で習った緊急時の簡易応急処置を思い出しながら止血する。しかし、このまま放っておくわけにもいくまい。
「止血はできた……はず。なら、動かしても……!」
そのまま、キタサンは男をウマ娘の怪力で苦も無く担ぎ上げ病院へと向かう。
「なるほど……この僕に対してうそをついていたのか、ベイビー……」
その光景を、少し離れた場所から見つめる男の姿があった……。
――府中中央病院。キタサンは負傷した男性を見つけたので連れ添っている、とトレセン学園に連絡し今は男が寝かされている病室にいる。なんでも、腕の負傷はかなり深く何でつけられたのかはわからないが事件性があるのではないか、と病院側が判断したためもうすぐ、この病室に警官が事情聴取にやって来るそうだ。キタサンも発見者として、その事情聴取に同席し、話を聞きたいとのことなのだが……。
「アメリカの人……なのかな」
ぽつり、呟く。彼の持ち物はベッドわきの台の上に並べられている。といっても血のついたコートは処分され、残ったのはハンカチと古いアメリカの金貨や紙幣のみ。パスポートだとかの身分証明ができる物は一切持っていない。
「『アメリカ合衆国第23代大統領』は誰か?」
「え? えーと……誰だろう?」
と、その時キタサンに質問が投げかけられた。一瞬考えこんだが、アメリカの歴代大統領の事は分からず。というよりも、この声の主は……!
「ああっ! 気づかれたんですね? よかった……! ここは府中中央病院。怪我をされていたので、勝手ですが運んできちゃいました」
やはり、例の男だ。痛むのか包帯に覆われた右腕を抑えているが、半身を起こして興味深そうにきょろきょろと病室を観察している。
「ふーん……まぁ、いい。『包むもの』が手に入ったのは僥倖だ。どの程度『基本世界』から離れたか知っておきたかったが……君のその『耳』を見ると、だいぶ、遠くまで逃げてきたらしいな」
逃げてきた、という男の言にやはりなにかトラブルに巻き込まれているのだ、と言う思いを強くするキタサン。
「大丈夫です! 今、事情を聴きに警察の人もこちらに向かっているそうです。それに、おたすけ大将キタちゃんがいます。なんでも相談してください!」
「そうか……まぁ、警察なんてどーでもいい。すぐ『出発』する私にとってはな……」
そう言うと、男は台の上に置かれたハンカチを取ろうとしたが、キタサンはそれを制止する。
「だ、ダメですよ! 怪我してるんですから! お医者さんも一週間は絶対安静だと言ってました! それに……あ、警察の人が来たみたいですよ!」
だが、引き戸を開けて病室に入ってきたのは……例の学生服の男であった。
「随分とゆっくりしていたものだ……『ファニー・ヴァレンタイン』。とっくに別の『次元』に逃げたものだと思っていたよ……」
「あっ……!」
学生服の男は、扉を閉めると後ろ手で鍵をかける。ファニー・ヴァレンタインと呼ばれた方の男は、ただ静かに様子を伺っているように見えた。
「『ハイエロファントグリーン』ッ! とどめくらえッ『エメラルドスプラッシュ』ッ!」
「うおおおおおッ!!! 『D4C』ッ!!!」
学生服の男が、なんらかの方法で先に『仕掛けた』。キタサンブラックにはそれがわかったが、次の瞬間まるでなにかがぶつかり合ったかのような空気の衝撃があり……
――ドグシャアアアアッ!!!
部屋にある調度品――花瓶や空きベッドのシーツ、カーテン、窓ガラスなどが一斉に弾き飛ぶッ!
「きゃああああッ!?」
咄嗟に身を丸め、飛来物から身を護るキタサンだったが……次の瞬間気づいた時には、体が動いていたッ!
「な、何が起こったのかわからないですけど、やめてくださいッ! ここは病院の中なんですよッ……!!!」
ヴァレンタインと学生服の男の間に手を広げて立ち、制止するキタサン。正直言って、怖い。何が起こったのかわからないが、これ以上踏み込めばこの二人の事情に確実に立ち入ってしまう。だが……やはり、怪我人に対して何らかの攻撃を仕掛けるというのは、間違っている。しかもこんな病院にまで追いかけてきて……! それが今のキタサンに勇気を与えていた。
「勇敢なお嬢さんだが……ヴァレンタインは『あのお方』を裏切った……邪魔だてをするならば、君も『始末』せざるを得ないッ!!! 喰らえ僕のエメラルド――」
来るッ! 謎の攻撃がッ! キタサンは咄嗟に目をつぶり――
――バサァッ!!!
瞬間、何かが横から飛び掛かってくるッ! それは、ヴァレンタイン! 何ゆえか半ばシーツを被った状態のヴァレンタインはキタサンを咄嗟に伏せさせるように引き倒し……そのうえにふわりと一瞬遅れてシーツが二人にかかる。
「クッ……!」
学生服の男は、そのシーツを攻撃しようとして……やめた。意味がないからだ。
「……隣の世界へと逃れたか。だが、いつまでそうしていられる? 『あのお方』に敵対する者は……全て始末する。私の『
……一方、キタサンとヴァレンタインは。
「ハァーッ! ハァーッ! い、一体ッ!?」
「これは……またよくわからない場所に来てしまったようだな。いや、待て。ここは『ボストン』か? いつの『時代』だ? 『私』の時代より幾分か古いようだが」
ヴァレンタインは、とりあえず周囲を見渡し、どこへ行くでもなく歩き出す。木造の建物が立ち並ぶ近世の活気ある港町。キタサンも……訳が分からなかったが、他に人がいないこの状況で一人になるのは心細く、ヴァレンタインの後をとぼ、とぼと追うしかなく、彼もちらりとキタサンを見ただけで特に咎めたりする様子はなかった。
(さっきまで病院にいたのに、あたし……どうしてこんな見覚えのない場所に? なんで? どうして? うう……不安だよう……)
「……君、名前は?」
しばらく歩いたのち、ふいに、ヴァレンタインが話しかけてくる。ここまで殆ど話したこともない男と二人きりで見知らぬ場所にいることに不安を覚えていることが、顔に出ていたキタサンの多少気を紛らわせてやろう、とでも思ったか。あるいは単に、呼び方がわからないのが不便だったのか。
「え……あ、はい、ええとキタサン……ブラックです」
「ブラック? 変わった名前だな……日本人にしては……」
「あたしは……ウマ娘ですから」
「ウマ娘……? 面妖なものだ……」
フン、とヴァレンタインが鼻を鳴らす。結局、それで話が途切れしばらく会話がなされることはなかったが……ふと、キタサンは逆に相手の名前を聞いていなかったことを思い出す。いや、先ほどの学生服の男はこの男の名を『ファニー・ヴァレンタイン』と呼んでいた。だが、まだ正式に名乗ってもらっているわけではない以上、こちらも名前を聞いておこう、とキタサンは思った。
「あの……お名前は『ファニー・ヴァレンタイン』さん……でいいんですよね」
「ああ……その通り。私は合衆国第23代大統領『ファニー・ヴァレンタイン』。君にこの肩書がどこまで通じるかは分からないがね」
「が、がっしゅうこくだいとうりょ……え、あ、ああー!!!!!」
キタサンはその名前を聞いた瞬間まるで点と点がつながったかのように合点がいき、同時に驚愕した。ファニー・ヴァレンタイン。座学の『ウマ娘史』の授業で聞いたことがある。史上初のアメリカ大陸横断レース『スティールボールラン』の最大のパトロンの一人。フィラデルフィア独立宣言庁舎を出発後消息不明という謎めいた最期は今なお陰謀論として議論される人物……。
「だ、大統領がなんで……それに、もし本当だとしても、あなたは130年以上前の人物のはず……!」
「なるほど、先ほどの時代は2020年代あたりか。どうりで医療機器などが進歩してるはずだ……ま、君が信じようと、信じまいと……私は私で、そういうことなんだなこれが」
キタサンはヴァレンタインの言葉を疑わなかった。歴史の教科書にはヴァレンタインの写った写真が図として掲載されており……顔などを詳細に覚えているわけではないが、その特徴的な髪形はインパクトがあったからだ。だが、パニックだ。あたしはなぜここにいて。130年まえのアメリカ大統領と行動を共にしている? 病院で襲ってきた学生服の男の目的はなんだ?
「少しだけ……私の事情を話してやろう。すべてが理解できるとは思えんが……」
混乱して頭を押さえていたキタサンに、見かねたのかヴァレンタインが助け舟を出した。
「私はいわば『並行世界』間を自由に移動できる。この世にはほんのボタンの掛け違いでなにかが変わってしまった世界がまるで本のページの様に……隣り合って無数に存在している。それは髪の毛一本の違いかもしれないし、大きく変わっている世界もある」
「は、はぁ……」
「そして……とある『並行世界』には『巨悪』がいる。私はその『巨悪』を倒すべく、奴らの仲間になったフリをしていくつもの『並行世界』を回り……『聖なる遺体』そして『ヤツを倒せる者』を探していたのだ。といっても、今はもはや『奴ら』に私の思惑は露見した。さっき襲ってきた男はいわば『刺客』というやつだ」
「つ、つまり……大統領さんは、悪い奴をやっつけるためにいろんな『世界』を旅してまわっている……ってことですか?」
簡単に言えばそういうことになるな。とヴァレンタインは真面目な顔で答えた。さすがのキタサンもこれには半信半疑であったが……いきなり見ず知らずの外国に飛ばされたのも『世界』を移動したからと考えれば、つじつまが合う……のだろうか?
「……説明はここまでだ。それに私にあまり付きまとわない方がいい。いつまた襲われるかわからないからな」
ヴァレンタインは、隠れ休む場所を見つけねば……と呟いて去っていこうとする。
「付きまとわない方がいい……って、そ、その、元の世界に帰るにはどうしたらいいんですか!?」
キタサンは血相を変えてヴァレンタインを追いかけた。とにかく、男の言う事を信じるとしてここが違う世界なのなら大問題だ。元の世界……トレセン学園に帰るにはどうしたらいい!? その答えを、聞かなければ!
「……私の能力ならば、君を『元の世界』まで送ることもできるが……そうしている時間はない。すまないな。本当にそう思う……それに別段君が助けてくれた恩に感じるところがないわけではないんだ。ただ、それは先ほど君が攻撃されそうになったところを助けたことで『チャラ』ってことにしてくれ……命あっての物種、っていうだろ」
「そ、そんなあ……!」
「君は君自身の『でしゃばり』によって『下手を掴んだ』……自分の身の程をわきまえて静かに暮らしていれば……『回避』できた下手をな……同情するが、もはや助けてやる義理もない」
あまりにも勝手すぎる……! キタサンはヴァレンタインの身勝手さに少しだけ腹を立てながらも、とにかくこの男を見失っては元の世界に帰るすべも失われると理解し、後についていくことに決めた。その時、ぐらりとヴァレンタインの身体が揺れ、とっさに倒れ込まないよう、壁に手を突いたがそのまま膝から崩れ落ちた。
「大統領さんっ……!」
「ぐ……く……足が……血を失いすぎたか……」
無理もない。医者の見立てでは少なくとも一週間は絶対安静なのだ。病院で少し寝たとはいえ、あれだけで回復するはずがない。キタサンは、やはり放っておくことはできずヴァレンタインを担ぎ上げると、とりあえず近くにあったベンチにまで運び、寝かせてやる。
「こんなものしかないですけど……食べますか?」
さらに、そう言ってポケットから取り出したのはキャンディーだ。本来ならダイヤちゃんのお茶を飲む際に食べたり、子供たちにあげたりする用なのだが多少のエネルギーにはなるだろう。ヴァレンタインはそれを無言でかみ砕き、飲み込むと……そのまま疲れのあまりか意識を失ってしまった。
「……どうしよう。どうやったらトレセン学園に帰れるんだろう」
キタサンは、その横に座ると……心細げに、そうつぶやいた。
「ハッ……!」
次にヴァレンタインが目を覚ましたのは、しっかりしたベッドの上だった。上等な部屋ではないがぱち、ぱちと燃える暖炉が身震いするような冬のボストンの寒さをほんの少し和らげている。そして、ベッドのわきの椅子ではくうくうと座ったまま寝息を立てるキタサンの姿。どうやら彼女はどこか宿屋を見つけてくれたらしく……同時に、看病してくれていたようで濡れたタオルと水の入った容器が卓に置いてあった。
「…………看病してくれていたのか」
「ぁ……」
呟くヴァレンタイン。起こすつもりはなかったが、キタサンのウマ耳がぴくりと動き、未だ眠そうに眼をこすりながら彼女も覚醒した。
「……すまない、寝ているところを起こしたな」
「ふぁあぁ……だいじょぶれふ。気が付いたんですね……」
彼女の話では、気を失った後熱を出したヴァレンタインをどうしようかと悩んでいるとき、偶然この宿屋のおかみさんが通りがかって、空き部屋を一室貸してくれたそうなのだ。食事もほんの少しだが、分けてくれたといい、部屋のテーブルの上にはリンゴとパン、それになにかのパイと新聞が置いてあった。
「偶然ですけど、いい人に出会えてよかった……あのまま野宿かとおもいましたよ……」
「……お人よしって点では、君も相当なもののようだがな……冬のボストンは冷える。私は何日寝ていた? その手は数時間看病したって感じじゃあないだろ」
キタサンの手は、何度も冷水に漬けられたことでふやけ、少し血がにじんでいた。指摘されたキタサンは、一瞬手を隠したが……無駄だと悟り、えへへ……と頬を掻いて。
「2日ですかね……あ、いまのところ例の『追手』は来てないみたいです。たぶん、ですけど……」
「……君はそんなに元の世界に帰りたいのか?」
ふと、疑問に思いヴァレンタインは問うてみる。望郷の念と言うのは強いものだ。恐らく、私が亡き父をいくつもの世界を渡って探したように彼女だって元の世界に帰るにはなんだってするだろう。見ず知らずの男に取り入るために、手をふやかすぐらいまで看病をするかもしれない……が。
「帰りたいです……元の世界にはダイヤちゃんや、テイオーさん……あたしのお友達がいっぱいいて、目標も、やりたいこともたくさんありますから。でも……」
目の前の少女は、どん、と自分の胸を拳で叩いて言った。
「あたしは困っている人の事を見過ごせないんです。おたすけ大将キタちゃん、っていったらちょっとは有名なんですよ! それに……大統領さんは『悪と戦う正義のヒーロー』なんですよね? ヒーローが困っているなら、助けなきゃ……!」
ヴァレンタインは苦笑した。目の前の少女のいう『悪と戦う正義のヒーロー』という言葉に。この少女は……あまりにも『純粋』すぎる。物語の中の話の様に、この世には『絶対的な正義』と『絶対的な悪』が存在し……悪を倒せば、正義がなされるならどれほど楽なことか。たしかにヴァレンタインは自分の中の『正義』を信じて行動している。が、『絶対的な正義』という物は存在しない。
「……少し意地悪な質問をしようか」
「はい?」
ヴァレンタインは、ベッドわきの水差しからコップに水を汲みそれを飲み干す。
「A国とB国という国があったとする。A国には豊かな水源があり……B国はその水源から来る水を使って生活している。だが、ある日、A国が水源を自分の国だけのものとするために川をせき止めた……」
「えっ、じゃあBの国の人は水が飲めなくなっちゃいますよ!」
「物事の片方の面だけを見て判断するのは止めて話を最後まで聞き給え……A国では、湧きだす水源の水が少なくなり……B国までまわすことが困難になってしまっていたんだ。この場合、A国の行為は悪と言えるかね?」
「う、うーん……」
キタサンは、腕を組んで悩みこんでしまった。A国の事情も分かるからだ。
「なんとか……みんなが幸せになる方法はないんでしょうか」
「……残念ながらそんな方法は『存在しない』。それがこの世の真理であり、私の考え方だ」
この世の幸福と不幸はプラスとマイナスで均衡しており、美しさの影にはひどさがある。同じように、誰かにとっての『正義』はだれかにとっての『悪』なのだ。すくなくともそう考えている。
「それはそうかもしれません……」
しゅん、とウマ耳を垂れ元気をなくす目の前の少女。しかし、頭を振りぐっとこぶしを握ると。
「でも、あたしはあきらめたり、見て見ぬふりをしたくないんです……せめて、自分の手の届く範囲の人ぐらい……助けたいじゃあないですか……!」
「そうだな……それもその通りだ。私もこんな『不条理』で『厳しい現実』の中で……少なくとも『良き隣人』であろうと努力はしている。君のような『良き隣人』も欲しくないと言えばウソになるしな」
「こう……そんな感じで一人一人が協力し合っていけば……うーん難しいのかな……」
真剣に悩んでしまうキタサンのその言葉を聞いて、ヴァレンタインは再び苦笑した。目の前の少女は、甘い。甘すぎる……だが、その甘さがあまりにもまぶしく思えて、こうした『良き隣人』『良い人間』『良い国民』を守るために……私はこの身をいくらでも差し出す。いくらでも後ろ暗い事をしてやる。そう決意をしたのを思い出したからだ。『吐き気を催すゲス野郎』から『多数の幸福』を守るために。
「新聞を取ってくれ。今日は何日だ? それだけ知っておきたい」
「あっ、はい。えーと今日は1773年12月16日……みたいで――」
その時だった!不意に感じる殺気!
「伏せろッ!!!」
「えっ!?」
ヴァレンタインが、咄嗟にベッドから飛び出しキタサンをかばうように地面に伏せさせる。
――チュドッ!!!ドドドドッ!!!ズガッ!ガシャアッ!!!
宿の廊下側から、壁越しにまるで機関銃が乱射されたかのように壁を突き抜けて穴が開き部屋中の物が破壊されていく!
「クッ……『花京院典明』……さすがに追いついたかッ!」
「きゃああああ!!!」
とっさにヴァレンタインは部屋の中で『挟み込めるもの』を探す。何かと何かに挟まれること。それがヴァレンタインの『D4C』の能力発動条件トリガーだからである。しかし……ベッドは重点的に攻撃され、シーツはめちゃくちゃ。新聞やカーテンも同様に使えそうにないッ!
「ようやく見つけたぞッ! ヴァレンタインッ!!! もう鬼ごっこは終わりだ。ここで『始末』するッ!!!」
ヴァレンタインは『エメラルドスプラッシュ』の掃射が続くこの部屋にいればやられると判断し、すでに見る影もない窓ガラスをキタサンと共に突き破って、二階から海沿いの道路に着地した!
「……逃げるぞッ!!!」
「あ、は、はい……!」
キタサンの手を引き、荷あげされた貨物や馬車、魚売りの屋台の間を縫い、遮蔽物として使いながら走るヴァレンタイン。当然、後ろから花京院は追ってきて『エメラルドスプラッシュ』を連射する。特にカーテンや布と言った体を挟み込めそうなものは優先的に破壊されるッ! このチェイスのおかげで、港は大混乱だ。
「……鬼ごっこはここで終わりかな? 案外あっけないものだね」
とはいえ、200mほど走ったところで……ヴァレンタインとキタサンは花京院に追い詰められてしまう。もはやこの先に道はなく、これ以上逃げるには海に飛び込むしかない。実際、それでも『海水』によって挟まれた……ということになり逃げることはできるが、花京院ほどのスタンド使いがそれを許すはずがない。飛び込もうとした一瞬をエメラルドスプラッシュでやられる……ヴァレンタインは、遮蔽物の影で少し思案すると、あえてゆっくりと花京院の前に姿を現した。
「……今日が何の日か知っているかな?」
そしてヴァレンタインはそう言いながらどこで拾ったのか『拳銃』を花京院に向けた。花京院は驚きすらせず、すぐに嘲笑めいて鼻を鳴らした……
「……『拳銃』を拾っていたのか……だが、弾丸程度なら僕の『ハイエロファントグリーン』の『法皇の結界』で十分に絡めとることができる。むしろそんなチャチなもので僕に対抗する気だったのかな……?」
だが、勝ち誇ったような笑みがすぐさま、殺気にかき消される。来る。あの『エメラルドスプラッシュ』が!
「君は本来承太郎一行の仲間だったようだが……少々の怪我くらいは勘弁してくれ。これは正当なる防衛だよ……」
一手早かったのはヴァレンタイン! 拳銃を……斜め上!まさしく明後日の方向に向けてトリガーを引く!
「何ッ!?」
――ドガシャアアアアアァアアァァッ!!!
発射された銃弾は、船上から港に下ろすために一纏めにされ吊り上げられていた『木箱』のロープを切断。落下したそれらは凄まじい破壊音と共に、地面に散らばったり、海に落下したりした。だが……
「何をするかと思えば、血迷ったか……?」
例の花京院は無事だ。そもそも木箱の落下点は花京院のいる場所でもなく、無関係の場所に散らばって大きな音を立てたに過ぎない。もはや勝てないと悟り、最後に華々しく散ろうとでも思ったのか?
「……喰らえ僕の『エメラルド』――」
花京院が再び発射態勢に入った時、すさまじい足音が背後から響いてきたッ! 叫び声。銃声も聞こえる! これはッ!
「「「うおおおおおおおおおおおお!!!!!」」」
「な、何ィ―ッ!? なんだこれは……ッ!」
そこにいたのは奇妙なメイク……羽根飾りやフェイスペイントなどをした無数の男たちであった! ライフル銃で武装している者もいるッ! それらは興奮状態でこちらに突っ込んでくるッ!
「まずいッ、『ハイエロファント』――うおおあああああああッ!!!!?」
花京院は咄嗟に防御しようとしたものの、その集団に飲まれて吹き飛ばされ木箱に激しくたたきつけられそのまま意識を失った。その集団はそのまま停泊していた船に乗り込むと、乗っていた木箱を叩き壊し、または木箱を海に投げ捨て始めたのだ。
「な、なに……これ……助かった、けど……」
あまりにもあっけない決着に、呆然と立ち尽くすキタサン。
「……1773年12月16日、ボストン港……いわゆる『
そう、今日は歴史の教科書でならった事を覚えている人も多いであろう『ボストン茶会事件』の日。当時イギリス植民地だったボストンの急進派が、モホーク族の衣装で変装して港を襲撃し紅茶の木箱をボストン湾に投げ入れたという事件だ。ヴァレンタインは、銃声……ついでに木箱を破壊して大きな音を立てることで、襲撃のためにボストン港周辺に潜んでいた襲撃メンバーに襲撃が始まったと誤認させ、港に殺到させたのである。
「……今は、これでいい。だが、ブラック君、別の世界に逃げるぞ。
ここも気づかれた。君も元の世界に戻りたいのなら、きたまえ。また『恩』を掛けられてしまったからな……」
ヴァレンタインは近くにあった魚売り屋台のテーブルクロスを強引に引っぺがすと、それにキタサンと共に、くるまろうとした。しかし……その瞬間であった。
「…………!」
その場の光景は、一瞬で妖しいほどの満天の星が見えるどこかの空間に変化していた。
「これも……ヴァレンタインさんの『能力』なんですか?」
「違うッ……」
そう言葉を吐き捨てるヴァレンタインは冷や汗を流し、ただ、一点を見つめて震えていた。その視線の先には――
「『DIO』ッ!!!」
「あ……ッ!」
キタサンは……ヴァレンタインの言っていた言葉がすべて真実だったのだと、改めて理解した。目の前の男を見ているだけで……汗が噴き出す。『巨悪』とはこいつのことだ。ただそこにいるだけで理解できるほどの圧倒的な悪のオーラ。弱者を利用し、己の踏み台にすることが当然だと思っている傲慢なまでの『吐き気を催す邪悪』……それが、この男なのだ!
「花京院には少々……がっかりさせられた。優秀なスタンド使いではあったが……まさかかつて承太郎。そしてまたヴァレンタイン……君に敗北してしまうとは。やはり、私自身がこの『手』で決着をつけねばならない……ということ……」
「ク……DIO本人のおでましとは……!」
ヴァレンタインが気圧されている。キタサンも、もはや立てなくなりその場に両膝をついた。そればかりかプレッシャーで胃の中のモノが逆流しそうだ。
「だがその前に一つチャンスをやろう……ヴァレンタイン、お前は優秀なスタンド使いだ。『消してしまう』のは惜しい……ついでにそこの美しいお嬢さんも……な。『仲間』になれ。そうすれば永遠の安心を与えてやれるぞ……?」
「ハァーッ……ハァーッ……」
その提案は……正直言って、ヴァレンタインにも、キタサンにも蠱惑的なまでに耳にこびりついた。ここで、YESといってしまうだけでこの不条理な世界のすべての不安から逃れられるのだ、という確信があったし、目の前の男にはそれだけの力があることが理解できた。
「……本当に、『永遠の安心』をくれるんですか」
キタサンが、DIOと呼ばれた男に問いかける。
「美しいお嬢さん……その通りだよ。人間は何のために生きるか、考えたことはあるかね? それは『不安や恐怖を克服して安心するため』……金儲け、権力、人助け、恋人……そうしたものはすべて己の『安心』のために手に入れようとしている、あるいはやろうとしていると言い換えることができる」
私に仕えるだけで、それが手に入るのだ……といい、DIOはゆっくりと唇に人差し指を当てた。
「……要りません」
だが、キタサンは……折れてはいなかった。むしろこの圧倒的な『邪悪』に対抗するために自分を奮い立たせ『勇気』で心を満たしたッ!
「あなたの言う『安心』は『他人』を踏みつけて、『犠牲』にすることで成り立つ『安心』です。あたしはそんなものはいらない。たとえ『甘っちょろい』と言われようとッ!」
脚に力を入れて、立つ。
「DIOさんッ! あなたは間違っていますッ! みんな未来は『不安』なんだッ! でも、だからこそ努力して、みんなで努力して! どうにもならない『現実』や『不確定な未来』と戦っているんですッ! あなたは怯えて『安心』という狭い部屋の中に逃げ出し籠っているだけなんだッ!!!」
途端、DIOの表情が変わる。なんとも不快だ、と言う風に。
「……どこの時代にも……ジョースターエジプトツアー御一行様のように、こういう跳ねっかえりは現れる……路傍にある犬のクソのような連中だったが……」
その瞬間だった。『いつの間に近づいたのか』? キタサンの背後に出現したDIOは彼のスタンド……『ザ・ワールド・オーバーヘブン』で背後から――
「ぶ、がッ……!!!」
その白金の拳が、胴を貫いた。ヴァレンタインの胴を。激しく吐血しながら、とっさにD4Cを発現させ、手刀を繰り出す。しかしDIOは、無情にも相手をすることなくやはり一瞬で数m後方に移動していた。
「え……!」
「これはこれはヴァレンタイン……少女のために命を投げ出すとは、なんとも英雄的な行動じゃあないか? だが……『挟み込むもの』はあるのかなァ? この場に……さっさとしないと、『時間切れ』になるぞ」
ヴァレンタインは別次元から『自分』を持ってくることによって、人海戦術を行ったり、たとえ死んでも別次元の自分にスタンドと意思を受け継がせることで存在し続けることができる。だが、この場には……『天国に到達したDIO』の『ザ・ワールド・オーバーヘブン』によって『上書き』された空間には、一片の布も存在しない。
「笑わば……ゲホッ、笑え……だが、これぞ、私の『本懐』……『国民』を護ること……そして『良き隣人』を護ることこそ……大統領の、使命ッ……! 子孫……の、自由……ガボッ……それを我々は護るッ……!」
「だ、大統領さんッ……し、しっかり、しっかりしてください……! どうしてッ……こ、こんなの! こんなのやだよッ……!」
キタサンは、ヴァレンタインの胸から噴き出す血液を、バンテージで留めようとした。だが、あまりにも傷が深すぎる。助からない……素人目にも、そう一瞬でわかる傷だ。だが、ヴァレンタインは……倒れなかった。寧ろ、うつろながらもまだ、その二つの瞳でDIOを睨みつけていた。
「貴様はいつか、ブラック君のような『黄金の精神』を持つ者によって倒される……なぜなら、それは『不滅』だからだ……受け継がれていくからだ……案外、それはすぐなのかもしれないな……?」
「ぬかせ……死にぞこないがッ! 『ザ・ワールド・オーバーヘブン』ッ!」
ヴァレンタインの目前に、白金の筋骨隆々のスタンドが迫る。
「……わが心に一点の曇りなし。『全てが正義』だ……!」
だが、ヴァレンタインは拳が届く一瞬先に、キタサンに寄り掛かるように倒れ……床と己の身体でキタサンを『挟み込む』と動かなくなった。
「ハッ……!」
キタサンは、ふいにどこかで目を覚ました。ここは……病室だ。『府中中央病院』の病室……。
「大統領さんっ……? 大統領さんッ……!!!」
呼びかける。答えはない。部屋には……誰もいない。
「夢、だったのかな……」
妙に鮮明で生々しい夢だったな……それにあのDIOと言う男の凄まじいまでの『悪のオーラ』。思い出すだけで寒気がする。その時だった。ふと、窓辺の棚の上に置きっぱなしの『ハンカチ』に目が行く。
「……H1847M9D20」
ハンカチに刻まれているのは……日付のように見えた。1847年9月20日。キタサンは取り出したスマートフォンでその日付を調べてみる。この日に生まれた偉人――アメリカ合衆国第23代大統領『ファニー・ヴァレンタイン』……
「夢じゃない……!」
キタサンは弾かれたように立ち上がる。しかし、しかし……今の自分には、何もできない。
「うわあああああああああああああああーーーーッ!!!!!!!」
キタサンは、何かわからない、すさまじい衝動に突き動かされ、叫んだ。哀しみなのか? 恐怖なのか? 怒りなのか? 猛りなのか? わからない。
「……大統領さん、あたしは……あなたが称してくれたように『黄金の精神』を持って、生きていきます……! あなたのような……『気高い心』からでた『誠の行動』は、絶対に『滅びない』から……!」
それから。キタサンはいつにもまして、トレーニングに打ち込むようになった。自分にできることは、レースに勝つことだ。『DIO』のように『安心』に逃げ込んで泥の様に生きるのではなく、星を目指して苦難の道を行くことこそがあの『巨悪』と戦う方法のように思えたから。
だから……キタサンは決して屈しない。たとえ人から笑われようとも、どんなに苦しい事が、未来に待ち構えていようとも。
「あたしは……星の光を見ていたい」
――二人の囚人が鉄格子から外を眺めた。一人は泥を見た。一人は星を見た。
――フレデリック・ラングブリッジ 『不滅の詩』より
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