「『リアル切腹ショー』ってなんだい、この悪趣味なチラシは」
理科準備室。アグネスタキオンは床に散らばる研究書類に、あえて昭和レトロ風の少々バタ臭いが味がある……雰囲気を目指したと思われるダサい絵が書かれたチラシが混じっているのを、偶然見つけて拾い上げた。いや、正確には必要だった申請書類がなくなったため探していたところ、妙に目についたというのが本当のところなのだが……目的はこれではない。
「……あぁ、風で落ちていたのか。君は最近、ポッケ君からもらったサンキャッチャーが揺れるのが気に入ったのか窓を開けっ放しにしてるからな……」
そこに声をかけたのは、デスクでぼんやりとノートパソコンを操作していた漫画家『岸辺露伴』だ。基本的に手書きタイプでデジタル作画を行わない露伴はPCでの作業――ネタ集めの取っ掛かりや担当編集者の泉くんその他クライアントとのやりとりなどでそれを使う時は本当につまらなさそうにしている。社会人として漫画を書き、流通させる。つまり読者に漫画を読んでもらうという行為に付随する必要であるが面倒な行為であるからだ。
「……当たっているのは認めるが、少女の趣味趣向を勝手に考察する大人はちょっと気持ち悪いぞ露伴くん」
「少女を名乗るには、君は少々小賢しすぎる。自分自身をもう少し客観的に見るといい」
「そういう君は歳の割に子供っぽいよな」
「はぁ……」
徐々にヒートアップしつつある露伴とアグネスタキオンをしりめに、今日の豆を選んでいたマンハッタンカフェはため息を付いた。もう何度こういう『波長が合わない』二人の喧嘩を仲裁したかわからない程度にはこの二人は嫌味を言い合う。そろそろタキオンさんももう少し露伴先生を認めてあげてもいいのにな、と思ったが性格的に絶対に関係が改善することはないんだろうな、ともタキオンとの付き合いが――露伴よりは長いカフェは思った。
「……で、『リアル切腹ショー』ってなんなんですか?」
このまま喧嘩になられると、おちおちコーヒーを楽しむこともできないので適当に話を切り替える。と言うより戻す。タキオンの見つけた露伴のチラシにかかれたなかなか刺激的な文言。
「そっくりそのまま『リアル』をうたう『切腹ショー』だよ。たぶんだが、最近の子は知らないよな。『切腹ショー』って。僕も実際には見たことがない」
「はい、『切腹ショー』というのは聞いたこともないですね……」
「『切腹』というと、フジヤマ・ゲイシャ・ハラキリだとか言って『典型的な日本カルチャー』のステレオタイプのように挙げられることもあるが、もともとは武士社会において最も重い刑罰であり……時代を経るに従って『名誉の保たれた死』である。そういう認識が一般的になった……というのは我々日本人なら皆、なんとなくでも知るところであると思う」
「まぁ、はい……」
「だが、人間というのは変わったものでね。『奇妙』だが『死』に一種の『エロス』を感じる者は少なくないという。年頃の女の子の前でこんな単語はあまり使いたくないが『性癖』というやつだな。そして――『切腹』という行為にも『エロス』を感じる者がいる……いや、もっと正確に言うならば――『他人の死を、安全な場所から眺めること』に快楽を覚える人間は多い、というべきだな。古代では公開処刑は娯楽とされていたし、ローマの剣闘士だって極論、そういうことだ」
「君、いつぞや我々と同じ女子高生の知人に『精液』という言葉を言わせて喜んでいただろ……あの時の露伴くんちょっとキャラがおかしかったぞ」
露伴はタキオンのツッコミを完全に無視しながら、PCの画面をカフェやタキオンに向ける。
『切腹ショー』というのはおもに昭和。温泉地や見世物小屋、SMテーマのストリップなんかで行われていた一種の『フェティシズム』を含んだ見世物で、『切腹』するところをショーとしてみせるんだ」
ネット検索して表示したであろう荒い画像の中には、切腹をするイラストや実際の切腹ショー?のものと思われる古い写真――正座したままつっぷした男と、その傍らで内臓?を手で持って見せている女の画像が表示されていて、カフェは悪趣味だな……と思いながらジャワの苦みとほんのりとしたアーシーな風味を飲み下す。
「……で、切腹ショーとやらは当然トリックなんだろう? 実際に切腹して死ぬところを見せるわけにはいかないし」
「そのとおり、基本的なショーの流れとしては、食い詰めたヤクザものだとかなんとかの口上のあと、切腹役が切腹をして見せる。そしてその切り裂かれた腹から介添え人の女性が内臓を引きずり出して、観客に見せるんだが……当然、それらは偽物だ。主に血糊とブタの腸が使われた……ネット上の文献にはそうある」
「なるほど、ブタの腸は我々が想像する人間のそれに似てるからな……」
タキオンの言によるとそういうことらしい。カフェも昔見たホラー映画だとかを思い出そうとしたが、同時に流石に悪趣味な情報が一気に流れてきすぎて、なんとなく気持ち悪くなってきたので一旦コーヒーを飲むのをやめた――いや、豆の濃厚な香りが、どこか画面の中の『死』。フェイクではありながら『匂い立つ』それと同じ香りがした心地になったからだ。
「しかし……そのチラシには『リアル』切腹ショーと書かれていますし。露伴先生が興味を持つということは、なにかが違うのでしょう」
実際、露伴は気になったことには手間を考えず。時には自分の身を顧みずに実際に見聞きし、体験しに行く。このまえにはヴェネチアまでわざわざ取材に行った(そして当然事件に巻き込まれた)と聞く。
「……そのとおり。この『リアル』切腹ショーでは実際に人が死ぬんだよ。だからこそ価値がある」
◆◆◆ マンハッタンカフェは動じない #039 『切腹奇譚』 ◆◆◆
東京都F市――。
「ふぅン。だからチラシがあったんだな」
「まさかこれほど身近で『見世物小屋』をやっているなんて……」
そう、トレセン学園がその所在地とするF市でも常設ではないが、見世物小屋興行がなされることがある。F市にある大きな神社の例大祭、通称『くらやみ祭り』――神聖な存在である御霊が神社から神輿に移るとき、万が一にでも我々がそれを目にするような不敬があってはならないという伝統にのっとり、すべての照明を消した暗闇の中でおこなわれるこの祭りの日。かつてはトレセン学園も協力し、その日は早期にトレーニングを中止していたというそれ。この祭りでは、日本最後の見世物屋による興行が行われることもあり、今年、その『見世物』のひとつとして『リアル切腹ショー』が行われることからあのチラシが露伴のところに回ってきたのだ。思わぬ近場取材に、カフェなどは興味津々。タキオンはまぁ、いつもみたいに泊まり込みにならないのはよかった、という風でさっそくりんご飴をかじっている。
「あった、これだ。思ったより目立たない場所にあったから手間取ったな……」
興味深い、とつぶやく露伴の手には早速スケッチブック。例大祭の敷地のスミに設営された『怪奇と妖艶のスペクタクル』『見世物地獄』『怪奇、生きたままの蛇を丸呑みする女』『人間ポンプ』といった文言のノボリが立てられて、灯りが少ないこともあり一種異様な雰囲気を醸し出している。
「珍奇! 怪奇! 驚愕! さあさ、見てかないとソンだ! 世界でここでしか見られない脅威の世界だよ! お代は見てからで結構、つまらなければ払わなくても文句ありません! ただし、心臓の弱い人だけはごめんなさいね! さあ見てって見てって! さあはじまるよ!」
呼び込みの男が手慣れた様子で客に声をかけている。露伴はそれに近づくと、会釈して名刺を差し出した。カフェとタキオンも、それをみて居住まいを正す。
「座長の樺地さんですね? 私、事前に取材のアポイントメントを取らせていただいております。漫画家の岸辺露伴です。こちらは――」
するとどうだ、樺地と呼ばれた男は露伴に背に馴れ馴れしく手を回して。
「世紀の大漫画家、岸辺露伴先生が今回ね。取材に来ていただいております! あの大傑作ダークピンクの少年! 少年ジャンボに連載中! もしかしたらあなた達も漫画のモチーフに!? 今すぐ見世物小屋を見ていって! ……とね、ハハハ! すいませんなぁ。なんでも商売にしないと。ね。あたしは関西の商売人ですから。こういう商売はもうウチだけで苦しいですから! あ、ご紹介がおくれました、座長の樺地です! よろしくおねがいします!」
口からぽんぽんと商売文句が流れ出し、そのままの勢いで一息に挨拶までされてしまった。露伴はピンクダークだ、と即座に訂正しようにもできず、露骨に不機嫌そうな表情でなにやらモゴモゴ言いかけてため息を付くだけにとどまり、カフェとタキオンなどは自己紹介すらさせてもらえない始末。
「で、今回はウチの取材ということで。事前に聞いてますよォ。『リアル切腹ショー』。いいところに目をつけましたな。まさしくあれこそ芸事の極北ですわ! 昭和のエロ・グロの要素を色濃く残した出し物でしてね。一度見れば病みつきになりますよ。こっちです。こっち。控室見てって。何なら他の出し物も!」
……樺地という男はまくし立てながら、テントの裏へ歩いていく。嵐。あるいはマシンガンのような言葉の羅列に、おもわずタキオンはぷっと吹き出してしまった。
「さしもの君が言葉でやり込められることがあるんだな。珍しいものを見た気分だ。『見世物小屋』に来てよかったよ、フフフ」
「商売柄というか、職業病って感じだなアレは……とにかくだ、今日の『おめあて』は『リアル切腹ショー』……とはいえ、漫画のネタになりそうだからな。バックヤードなんかも少々見ていくか」
売り言葉に買い言葉になるとすぐに喧嘩が始まるので、それを牽制するようにカフェが視線を向けるとタキオンなどは白々しく口笛を吹きはじめ露伴もとりあえずはまず取材という風でおちついた。
「しかし露伴先生、なんというか、不躾ではあると思うのですが……『リアル切腹ショー』だけでなく、見世物小屋というモノそれ自体がどことなく、『浮世離れ』しているわりに『下世話』なように感じるのです」
「つまりカフェはこういいたいのさ。『前時代的』で『悪趣味』じゃあないか? ってね」
カフェは言葉を慎重に選んでいるようだったが。タキオンなどはズケズケと言い放つ。カフェも否定はできないのか、ううん、と口ごもってそのままになってしまった。
「……実際、そういったそしりは否定できないだろう。英語でフリーク・ショーというように見世物小屋というのは珍奇さをフューチャーし、人間のどこか仄暗い好奇心を刺激する出し物だ。単純な手品だけにとどまらず、珍しい動物に詐術の類――かつてフィージー人魚っていうのを教えたことがあったよな。魚や動物の骨に粘土やらで肉付けをして『人魚』をつくったものだ。そういった類のもの。そして現代では人道的観点で禁止されているが、障害を持つ人達も見世物になった――小人症・多毛症・シャム双生児だとかの奇形など……そういった歴史がある――が、同時に通常の仕事につけない人達の受け皿となったという複雑でデリケートな部分も存在する」
「……倫理のグレーゾーン、とでもいうのでしょうか。あるいは時代の徒花。かつては許されていたものが、昭和、平成、令和と時代を経るごとにアップデートされた『倫理観』によって、その存在を許されなくなった」
カフェは『怪奇、生きたままの蛇を丸呑みする女』のノボリを見た。おどろおどろしくどこかエロティックな挿絵が印刷されたそれだが、現代的な倫理観に合わせてしまうと女性蔑視だとか言われかねないのではないだろうか。あるいはそういった視点こそがこの職業についている人への蔑視なのか。だが、実際に日本で見世物小屋を行っているのはもう一社しかないのだという。
「手品にペテン、詐術に大嘘。大いに結構。見世物っちゅうのはね、『本物』かどうかなんてどうでもええんですわ。客が『本物』やと思ったらその人ん中では、それが『真実』になるんやから」
と、露伴たちに背後から声をかけてきたのは樺地である。どこか影のあるさみしそうな愛想笑いを浮かべながら掛けてきた声にどういった意図があろうかは、カフェには読み取れなかった。
「……申し訳ありません。職業をご批判するつもりは」
「あぁ、ええんです露伴先生! そういった声があるのも重々わかって、そのうえでね。こういったことをやっておりますから。とかく、世の中臭いものに蓋をしたがるでしょ。そらそうや。みんな汚いものなんてみたないもの。でもね、こういう『部分』があったというのを私は残していきたいんですわ。文化の継承なんて大仰なことを言うつもりもないけど、あんたらもこういうの見て面白いと思う部分があるんやで、みたいたね。あ、こういうの露悪っていうんですかね、取材に来てもろてこういうのは今度はこっちも礼を欠いてしもたかな」
「いえ……」
言葉の機関銃。露伴すら封殺されてしまうそれだが、自らの『好奇心』によって見世物小屋を見に来ている立場である露伴。そしてカフェ――二人は何も言い返せなくなってしまった。こういう『悪趣味』なものをみてどこか仄暗い好奇心を満たすというのはまさしくそのとおりだったからだ。
「……で、いつになったら出し物ははじまるんだい。例の『リアル切腹ショー』。あいにく、チラシにはほとんど情報がないし、露伴くんが問い合わせても実際に見てください! の一点張りだったって聞く。で、ネットに転がっている噂じゃ……本当に『死者』が出るんだろう。」
あくまで取材について来ているだけであるタキオンがここは助け舟を出した。そう、リアル切腹ショーについての情報は少ないが、実際に露伴のツテで関係各所に問い合わせてみると、『切腹ショー』の観覧者がことごとく観劇から数日以内に『死』んでいるのだという。
「フフフ……それは見てからのお楽しみ……というのも、取材の手前そればっかりでもいけませんかねェ。一応、ウチのはね。切腹ショー自体はむかしから変わらんのですが、医者の監修付きで『安全に死ぬ』という触れ込み……あくまでそういう物語上の建付けですよ? そういうので、お客さんに『切腹』を体験してもらう。そういうのはやってます。死者が出るっていうのは……それが歪んでつたわったんじゃあないですか? ほんまに死人だしたらこちとら捕まってしまうわ! アハハハ! さて、そろそろはじめたいんでね。バックヤードの取材は出し物のあとにしましょ」
「ではそうしましょう。カフェさん、タキオンくんでは事前に渡したカメラなんかでの撮影は頼んだよ」
露伴はすさまじい執筆速度でその場の情景をスケッチしてしまうが、カフェが手伝いをするのもあってあとから精査するために録画・録音などもするようになった。そうした作業は二人の役目だ。劇場――というにはあまりにも粗末で、外の照明が少ないこともあり輪をかけてテント内には他に数人の客がおり、それらの迷惑にならないよう、後ろから小さな足場を使ってやや高い位置から撮影する。
「……毎回いやいやながら手伝わされてなんかもう手慣れてきてしまったな」
「ええと、マイクは……大丈夫そうですね。あ、もう始まりそうです。誰か壇上にでてきます」
……でてきたのは樺地だ。さほど背の高い男ではないのに、テントの中にひとつだけてらてらと輝く照明の灯りで影が伸びて、見た目以上に大きく見える。
「それではこれから皆様にお目にかけますは、幻想と怪奇、珍奇と妖艶、ミステリアスの世界でございます! すでに皆様、好奇心に胸をときめかせておられましょう! 今宵、皆様この時間が忘れられぬひとときとなれば幸いでございます! では、さっそくの出し物をお見せしましょう!」
樺地の口上もそこそこにはじまったのは、飲み込んだ金魚・飴玉・水。はては碁石を白黒自在に吐き出す『人間ポンプ』にそっくりそのまま『生きたままの蛇を丸呑みする女』。貝細工の工芸品。人体のパーツが使われた(という触れ込みの)精巧な人形。珍しい双頭の亀などなど。
――正直、つまらなかった。薄暗い照明と樺地の軽妙な語りによる雰囲気は白眉であったし『毒気』を感じるが――いや、正確には毒気の残り香だ。時代に合わせてそれらを抜かれて『見世物小屋』という珍奇さだけが残った――残骸のようなもの。露伴はそう思いかけた。既に帰ってしまった見物客もいる。
「ではつぎなる出し物は武士道の代名詞! 日本人なら誰もが知る『切腹』でございます! シノギにくい詰め、もはやこれまでと有終の美を飾ろうとする極道者の最期の花道! ぜひともご覧ください!」
「来た……カフェさん、しっかり撮ってくれ」
……樺地が紹介を行うと、神妙な面持ちの男。いかにも昭和のヤクザという風な股引きにサラシと言う服装で女性の介添え人を引き連れている。
「手前生国と発しまするは関東は下総の生まれ、名乗るほどのものでもござんせん。渡世の義理と人情に生きるも、流れ流れてこの有様。しがない若輩者にござんす。若気の至りと申しますか、義理を違え、筋を外し、気が付けばこの身一つでお天道様にも顔向けできぬ身の上。今さら何を悔やんでも遅うござんすが――せめて最期ぐらいは、筋を通してみせやしょう。これよりお目にかけまするは、武士のならい、腹切りにござんす。どうぞ皆々様、目を逸らさずご覧あれ」
剥き身のドスが食い込んだ板が介添え人によって、ヤクザのまえに置かれる。刃は光を反射してギラリときらめき、口上とあいまって雰囲気がでているためか観客のなかにはおお、それっぽいなとか言うものもいれば、古風で半分も意味がわからぬ名乗りを聞いてくすくすわらうものもいた。
「……ただしひとつ、お断り申し上げます。この腹切り――『本物』と思った人のみ『本物』となりもうす……それでもよろしければ、どうかご覧くだせぇ」
「え……?」
カフェが違和感のこもった声を漏らした瞬間、意を決したように男が刃を手に持った。一瞬の静止。観客が固唾をのみ、男の呼吸だけが祭り喧騒の間に大きく聞こえた。どくん、どくん、と緊張する自分の鼓動の男が、男のそれのようにも感じられる。それが滑るように腹へと差し込まれた。ように見えた。正直なところ、やや前傾姿勢となった男の手元がどうなっているかはわからない。刃が腹に当たったのか柄が止まる。皮膚が抵抗する。しかし、男が更に力を込めて押し込むと――抵抗がふっと消えた。布を裂き、肉に。繊維に刃が入るような音。
――じゅちゅっ、ぼたぼたぼたっ
粘性のある液体が吹き出し、地面に垂れる音。そしてつぎに――鉄臭い、鼻とのどのおくに滞留するような、重い匂い。
男が苦しげに唸りながら、手元を横に動かすとさらにびちゃびちゃという音とともに何かが垂れて、床を汚す――誰も悲鳴を上げなかった。いや――誰かが、笑った。無遠慮な乾いた笑い。それが一人ではないと理解できた瞬間、背筋が冷える思いがした。残酷なまでに自分と他者が乖離しているのか、あるいはこれが普遍的な反応であるのか。いや――。
最前列の男が、ぽつりと呟いた。
「……血だ。これ、この血。本物じゃないか?」
その瞬間、空気が変わった。まさか。誰かが呟いたが、びしゃりと男が自分の血溜まりに倒れ伏し……介添人の女が腹に手をやって、ずるずると肉の糸を引き、灯りで妖しくてらてら光る内臓を引きずり出すと息を呑む声が聞こえた。
「……はい、世にも残酷、『奇妙』な切腹でございました! しかし今宵のショーはこれだけでは終わりません!」
担架で運ばれていくヤクザものを背にしながら、再び登場した樺地が観客に語りかける。
「当見世物小屋では、みなさまにも切腹を体験していただけます! 希望者の方はございますか? 医者の監修で安全に死ぬことはお墨付きでございます! ですからお上もこの切腹ショーにはなにもいえません! 安心・安全の切腹でございますよ! さあさ、そこのお方、体験してはいかがですか?」
「……やっぱりな。ありゃ人間の血じゃない。粘度がちょっと薄いんじゃあないか……たぶん文献通り、ブタか牛の血だろうね」
タキオンなどはもうここは撮らなくていいだろう、とばかりに撮影に声が乗るのもおかまいなしに喋り始めたが……観客席がざわめいた。
「体験て……本当に腹切るのか?」「本当に切るわけがないだろ」「でも医者がどうとか……」
半信半疑。笑い。困惑。しかし、その笑い声の奥に別の仄暗いものが――いや、仄暗くも官能的な『熱』が混じっているのをカフェは感じた。これは期待だ。
――もっと『本物』が見たいという期待。
人間ポンプでも蛇呑みでも満たされなかったグロテスクな欲求。さっき壇上で流れた血によって、客席の空気は変質していた。
――本当に死ぬところが見たい。
ある種の性的なそれすら交じる欲望。
「……気持ち悪い」
カフェがぽつりと呟く。すると露伴は、スケッチブックから目を離さないまま言った。
「……だが、そういう欲望は『確実』に存在する。見世物小屋という存在そのものに人間は何を求めると思う? エロとグロ。背徳だ」
「……本当に悪趣味だな。見なくてもいい闇の部分を敢えて直視しようとする――真実に光を当てると言えば聞こえはいいが、出歯亀根性も甚だしい。なぁ、露伴くん」
ややいじわるにタキオンが言う。
「否定はしない」
……露伴は鼻を鳴らして即答した。
「『リアリティ』とは『エンターテイメント』なんだよ。わかるかね。ずっと取材のために一緒にいるから『青少年の指導』のために『大人』として振る舞いもするが、漫画家としての僕は『リアリティ』のためには蜘蛛の腹だって裂くし、全財産はたいて山を買いもする覚悟がある。『漫画を書く』ためには全てを優先するぞッ」
「うわ、開き直った」
「それに――」
露伴は壇上を見つめた。担架で運ばれていった男。その床にモールス信号めいて点々と残った血痕。
「妙なんだ」
「妙?」
「演技にしては、死に方が自然すぎる」
その時だった。
「さぁ! どなたかおられませんか! 安全安心! 現代医学監修の切腹体験!」
樺地が観客席へ降りてくる。その軽薄な笑顔。その時、露伴は立ち上がった。
「……僕がやる」
「そこまで啖呵を切ったんだ。そうだろうとは思うが、なんというか思い切りがいいよな」
「……いけない」
呆れたような嘲りの笑みを浮かべるタキオンだが、カフェは顔面を蒼白にしてつぶやき、露伴を止めようとした。だが露伴はもう壇上へ上がっており。
「安心してください! 刃は引っ込み式! 血糊も特殊メイク! 危険なんてありません!」
樺地は慣れた口調で言う。だが露伴は、その言葉を無視していた。代わりに見ていたのは――客席観客たちの目。
――期待。好奇。残酷。嗜虐。恐怖。愉悦。
それらが混ざり合った濁った熱。
(……この空気)
露伴は理解した。この場には、『物語』が『文脈』として成立している。誰も本気では信じていない。だが同時に、誰もが心のどこかで願っている。
――本当に死ね。
と。
「では先生、こちらへ」
樺地が短刀を差し出し、それを露伴は受け取る。軽い。揺らしてみると、中の細工のバネ仕掛けか何かがチャラチャラとかすかに音を立てる。仕込み刀だ。やはりインチキだ、インチキだが――。その瞬間。客席の最前列。さっき「本物じゃないか?」と呟いた男の席が空になっていることに気づいた。
「……?」
嫌な違和感。次の瞬間。どくり。露伴の腹の奥で、脈打つような痛みが走った。
「……ッ!?」
服の下。腹部に一文字。かすかに赤黒い線が浮かんでいた。まるで内側から刃で裂かれたように。
「露伴先生ッ!」
カフェが叫ぶ。裂け目から、血が滲み始める。ざわ……と客席が沸いた。
「おい……」「すげえ……」「本物か?」「仕込みだろ?」「本当に切れてるぞ!」
その声。その瞬間。露伴は理解した。
(そういうことか……!)
『切腹ショー』は演技。本来はただのインチキだ。だが。誰かが『本物だ』と認識した瞬間。虚構が現実へ侵食する。見世物が『本物』へ変質する。あの最初の男。最前列で「本物だ」と呟いた観客。あいつが引き金だ。あの観客は『演技』に呑まれ『本物』であると認識し、そこから『物語』が現実になりはじめたのだ。そして――
「露伴先生! 傷が広がってます!」
カフェの声。裂け目がさらに横へ広がっていく。まるで見えない刃が腹を割いているように。
「……ヘブンズ・ドアーッ!」
露伴が自分の顔へ、張るように指を叩きつけるとばらりとページが開く。自分自身を『本』に変え――自分自身の記述を読む。
(『岸辺露伴はこれから切腹する』だって!? 僕自身は微塵もそんな事考えていないが……なるほど場に呑まれるということかッ!)
「露伴くん!」
タキオンが叫ぶ。
「最初の男だ! あの『本物だ』と言った男! あいつが認識の起点になってる!」
「分かっているッ!」
露伴は歯を食いしばる。いつまで持つ? 時間はないが、あの男を探さなくてはッ! まだ近くにいるはずだ。顔は――カフェさんの撮っていた映像に残っているはずだ。
その時だ。樺地が、ぼそりと呟いた。
「……あのひとなら多分、今頃死んではる」
一瞬、場が静まる。
「先生がそうなってるってことは、最初に呑まれたお客さんはイのいちにお陀仏してますわ。あ、かすかに聞こえません? 救急車かパトカーのサイレン。たぶん、車にでも轢かれたりしたんかな」
ぞわり、と空気が冷える。
「だからもう、書き換えられへん」
樺地は笑っていた。だがその目は笑っていない。
「『本物』を見た人間は、『本物』に引っ張られるんですわ。『死』に――」
露伴の腹から血が滴る。内臓が軋むような感覚。喉の奥から血の匂いが立ち上り、噎せ返るようだし、視界はチカチカと白く明滅し、うすぐらいテントに吊られた電灯を見上げるようにその場に倒れ込んだことすら自覚できなかった。
(なら――)
露伴は、自分のページへ書き込んだ。ペン先が震える。
『岸辺露伴は、この切腹を『安っぽいインチキ芸』だと心の底から認識する』
次の瞬間。ぶしゅ、と吹き出していた血が止まった。裂け目が、ゆっくり閉じていく。客席がどよめく。
「え……?」「なんだ?」「傷が……」
露伴は荒く息を吐いた。もう血の匂いも目眩もない。ただ冷や汗だけが背筋につうと垂れた。
「……なるほどな。この見世物小屋は、『リアリティ』を感じたものだけを殺す」
樺地は肩をすくめた。
「見世物なんて昔からそういうもんです。客が『本物』やと思ったら……それが『真実』になる。そういうオハナシなんですわ」
露伴はゆっくりと立ち上がった。
腹部には、つい数秒前まで確かに存在していた裂傷の名残――血に濡れたシャツ……いや、そのシミすら既に消えかけている。客席のざわめきはもう恐怖というより混乱だった。
「……なんや、種が割れてしもうたら興醒めですなぁ」
樺地は、舞台袖の木箱へ腰掛けながら肩をすくめる。
「興醒め?」
露伴は睨みつけた。
「人が死んでいるんだぞ」
「せやけど先生。見てくださいや」
樺地が顎で示した先。客席には――まだ帰らない観客たちがいる。青ざめながらも席を立たない者。スマホを握りしめ、動画を撮り続ける、あるいはSNSにでも書き込んでいるのか画面をタップする者。恐怖と嫌悪を顔に浮かべながら、それでも壇上から目を逸らせない者。
「皆さん、帰らへんでしょう?」
静かな声だった。
「『怖い』『気持ち悪い』言いながら……結局もっと見たいんですわ。人間いうのはそういう生き物です。覗きたいんです。『ほんまもん』を」
「だからって、人を死なせていい理由にはならないでしょう……!」
カフェが低く言う。
樺地は、その言葉に少しだけ困ったような顔をした。
「……もちろん、本当に死なせるつもりなんかありませんでしたよ」
「なに?」
「最初はただのインチキやったんです。昔ながらの切腹ショー。血糊に豚の腸。古臭い見世物。せやけどなぁ……」
樺地は舞台を見上げる。
「ある時から、『本物や』って言う客が出始めた」
テントの裸電球が、じ、と音を立てる。
「最初は酔っ払いの冗談やと思ってた。でも、その客が翌日死んだ。事故や自殺や急病で。偶然やと思いましたわ。けど、二人、三人と続いた」
樺地は笑った。だがそれは、呼び込みの軽薄な笑みではなかった。
「そしたら逆に客が増えたんです」
誰も喋らない。
「『本当に死ぬ切腹ショーがある』って噂になって。みんな怖がりながら来る。でも、期待してる。もしかしたら『本物』見れるんちゃうかって。正直言ってね、死なんてみんなもう見飽きてるんですよ。帰ったらTVつけてみてください。ニュース番組で、事故で人が何人死んだ言うたってみんなもう心動かさんし、ドラマ、映画、アニメ……ウソで人が死んだら、それをエンタメとして消費してるでしょう?」
露伴は黙って聞いていた。
「……止められなかったんですわ。いや、ほんまは止めるべきやったんでしょうけどな。みな『本物』を求めとる。昔は『嘘っぱち』『詐欺』『作り物』言われたワシらに『本物』を求めて皆さんやってきはる」
樺地は、自嘲気味に鼻を鳴らした。
「ウチみたいな商売、もう死にかけなんです。見世物小屋なんて時代遅れや。誰も振り向かへん。せやけど、『本物』になった瞬間だけ、客は目を輝かせる」
「だから続けたのか」
「……ええ」
沈黙。やがて、遠くでパトカーのサイレンが近づいてくる音がした。テントの外がざわついている。
「露伴先生」
カフェが小さく呼びかける。
「どうしますか」
通報はされている。最初の観客も死んだのだろう。警察が来れば、この興行は終わるだろう。だが、露伴は客席を見た。観客たちの目。怯え。興奮。好奇心。嫌悪。
――それら全てが、まだ壇上へ釘付けになっている。
「……樺地さん」
「はい?」
「君はさっき言ったな。『客が本物だと思えば真実になる』と」
「ええ」
「なら逆も成立する」
露伴は、スケッチブックを開いた。猛烈な速度で、何かを書き始める。ペン先が紙を削る音だけがテントに響いた。
「露伴くん?」
タキオンが覗き込む。そこに描かれていたのは――今、この舞台そのものだった。安っぽい照明。古びたテント。大袈裟な血糊。インチキ臭い仕込み刀。わざとらしい悲鳴。チープな見世物。そして。舞台中央で大袈裟に腹を押さえて転げ回る、三文役者じみた『切腹役』。
「……『リアリティ』を消すんだ」
露伴は言った。
「人間は、『本物』らしさに呑まれる。なら徹底的に安っぽくしてやればいい」
描く。描く。描く。
岸辺露伴という漫画家が、人生を懸けて積み上げてきた『リアリティ』。その逆。徹底的に胡散臭く、馬鹿馬鹿しく、キッチュで、作り物めいた虚構のカリカチュア。
露伴はそれを描き殴る。すると。
――ぶしゅ。
壇上に残っていた血痕が、急にペンキめいた色へ変わった。
「うおっ!?」
観客がどよめく。介添え人が持っていた臓物も、急にゴム細工のような質感になる。
「な、なんだこれ……」
「作り物……?」
空気が変わる。さっきまで充満していた、あの生暖かい『死の熱気』が急速にしぼんでいく。
「見世物は『本物』になった瞬間、人を殺す」
露伴はペンを止めた。
「なら、最後まで『インチキ』であるべきなんだよ。君は『インチキ』を最後まで張り続ける度胸がなかっただけだ」
樺地は呆然と舞台を見ていた。やがて。ふ、と力なく笑う。
「……参りましたわ」
その声は、どこか晴れやかですらあった。
「先生の言う通りや。見世物が『本物』になったら、あかんかったんやな」
サイレンの音が、もうすぐ近くまで来ていた。テントの外で怒号がする。樺地は立ち上がると、深々と一礼した。
「ほな、これで打ち止めですわ。日本最後の見世物小屋、これにて終幕」
それから。裸電球がぱちりと消えた、暗闇の中。露伴は最後に警官によって連行される樺地の声を聞いた。
「……けど先生。人間いうんは、たぶんまた『本物』を見たがりますで。あんたも『リアリティ』を求めてるんとちゃいますか?」
くらやみ祭りの喧騒の向こう。どこかで、誰かの笑い声がした気がした。
――to be continued?