東京都府中市。この街はトレセン学園があるということから休日には駅前や公園、その他娯楽施設で多くのウマ娘の姿を見ることができる。文化施設が多く、調べによれば東京都内でも生活満足度が非常に高い街として知られる府中はわざわざ都心部に行かずとも十分に休日を過ごすことができるからだ。
そんな中、マンハッタンカフェもご多分に漏れず街歩きに繰り出していた。休日は登山をしたり、トレーナーと親睦を深めるために一緒に行動したりするのだが今日は一人。家でゆっくりコーヒーを淹れて過ごそうか……とも思ったが、このところトレセン学園生の間でひそかに広がるうわさがカフェの足を外に向けた。
――『黒猫喫茶店』のうわさ。
府中のとある路地裏に一匹の黒猫が住み着いており、その黒猫の後を追うと『不思議な喫茶店』にたどり着けるというのだ。黒猫のモチーフはカフェの好むものの一つであり、いつもコーヒーを飲むのに使っているお気に入りのマグカップのデザインもそうだ。カフェはそのうわさを確かめるべく、駅前や繁華街を離れ、商店街近くの路地裏を散策していたのである。
「と言っても、さすがに『とある路地裏』というだけでは……」
既に2、3時間ほどうろうろと当てもなく歩き回ってみたが黒猫は見つからない。代わりに画材屋やら古本屋やらを少し覗いたが、そろそろお腹がすいてきた。商店街の方まで戻れば、洋食屋さんやお好み焼き屋さんなんかがあったな……とカフェは考え、そちらに戻ろうとした、その時だった。
「なあん」
ふと、カフェの立つ場所から横に伸びる細い路地で、猫が鳴いた。
それはよく手入れされたビロードめいた黒い毛並みの薄い琥珀色の眼をしていて、首輪には小さな鈴つきのリボンがついていた。
「あっ……」
うわさ通りの情景に、思わず声を上げる。黒猫は後ろ足で器用に頭を掻き、それからご機嫌そうに尻尾を振りながら路地の奥へと歩んでいく。思わず、それを追うように路地に足を踏み入れるカフェ。
「にゃあ」
黒猫はもう一度、ついてこいとでもいうように鳴いた。
◆◆◆ マンハッタンカフェは動じない #猫 『黒猫を追う』 ◆◆◆
ちゃり、ちゃり、ちゃらり。黒猫が歩むたびに、時折首輪についた鈴が鳴り、先導するように私を導く。見覚えのない路地裏をずんずんと進んでいくこの感覚は、まるで探検をしているように思えて、少し楽しい。
『スナックしらゆり』『酔いどれや』『小料理屋ほまれ』――歩いているうちにまったく自分の知る世界ではない飲み屋街に入り込む。午前中の飲み屋街は静かで人通りが全くなく、少しだけ料理やお酒の匂いが。夜の匂いが残り香の様に漂っていた。こうした見覚えのない路地などに入り込めばふつうは不安に感じるはずなのに、どこか自信に満ちた黒猫が一緒だと思うと、まるで百人力の勇者の供をしているようでもあった。
「……カメラでも持ってくれば良かったな。スマホのカメラも最近は性能がいいんでしたっけ」
路地裏には、奇妙な魔力がある。誰かがSNSだかでそう言って人のいない路地裏のきれいな写真をアップしていたのを思い出した私は、スマートフォンのカメラを取り出し、飲み屋街を歩んでいく猫を後ろからレンズに収める。猫は振り返り、何をしているのか、ついてきているのかとこちらを見た瞬間、ボタンを押す。なるほど、人気のない路地と猫。秋の高い空。流れる雲。にわかに冬の訪れを告げる、肌を刺す様な風。たしかに路地裏には私を虜にするそれがあった。
「ふふっ、待ってくれるんだね。えらいね」
「なあーん」
私は、はやくしろとばかりに鳴いた黒猫にごめんごめん、あんまりきれいな景色だったから。と謝りをいれて再び歩きだす。さっきの写真はそれを趣味にしている人からすれば稚拙でもっとうまくとれるものなのだろうが……私は冬前のこの一瞬の空気感を切り取ったこれを、誰にも見せずにスマートフォンのフォルダと私の心の中にしまい込んでおこうと思った。私はこう見えて、存外強欲で自分勝手なのだ。この景色は私だけのものにしておく。
と、黒猫がふいに横道にそれた。もはや路地とは言えない建物と建物の間の隙間のような空間。
「ここ、通るの?」
「にゃ」
私の問いにそうだ、というように短く返す黒猫はそのしなやかな体でスルスルと隙間に入っていく。身を横にして、蟹歩きでそれに追随したがかろうじて通れるという程度の隙間を通り抜けるのはなかなか骨が折れた。しかも、その隙間を抜けると今度は1mほどの水路が私の前に立ちふさがる。黒猫は、なんということもなくそれを飛び越えて手入れされていない竹藪とフェンスの間のもはや道ともいえない場所をとことこと歩んでいくのが見える。
「……ていっ!」
私は、勇気を出して……というよりは落ちたらヤだな……と思いながら水路を飛び越した。ジャンプして水路を飛び越すなんて、子供の時以来だろうか。そのまま黒猫を追うと、がらりと景色が変わった。この辺は古い住宅街のようで、気心の知れた知人と家の玄関先で世間話をする老人や古いバイクにのった豆腐屋の出前、あの竹藪からとんできた落ち葉を掃く人など、生活感のある風景が広がっている。『中井戸とうふ店』という看板のかかった木造家屋は、さっきの出前豆腐バイクのお店だろうか……
「にゃあ!」
と、私の足をてしてしと黒猫が叩いた。それから、駆けだした黒猫は5Mほど走って一つの店の前で止まる。
「駄菓子屋さん……?」
『菓子・10円ゲーム・おもちゃ』とだけ書かれた看板のかかったこれまた古い家屋。軒先には10円そこそこの駄菓子が大量に並べられており、店の奥には見たこともない古いゲーム……たぶん銀玉をうまく弾いてあたりポケットに入れれば駄菓子引換券がもらえるというものや初期のシューティングゲームなど……がいくつか置いてある。
「みゃおーうー」
黒猫は『ねこのえさ。一粒1円』と書いてある本当に猫の餌のカリカリしたやつをそのまま袋から入れてあるだけのビンを見上げ、あからさまに欲し気に『猫なで声』をあげた。
「いらっしゃいねえ。あら、ねこちゃん、おねだりをしてるのかえ」
「あ、どうも……」
猫の声を聴いて気づいたのか、背中の丸まった痩せた老婆が店の奥から顔を出し、よっこいしょとサンダルを履いて杖を突いて歩んでくる。
「ほら、ねこちゃんおやつよ」
そういうと、老婆はこちらがお金を払っていないにもかかわらずねこのえさをビンから2、3粒取り出して猫に掌から食わせてやっていた。
「この猫は昔っからこの辺に居てねえ。あじをしめてしもうたのよ。お代はいらないからねえ」
老婆は黒猫の背を撫でながら、私にそういったが……私はなんとなくこの駄菓子屋で少し物を買ってもいいなとおもった。
「いえ……少しだけお店を見て行っていいですか?」
「ああ、ええ、どうぞ」
スティックチョコ、10円カツ、ガム、試験管ゼリー、ポテトチップス、手作りの干し芋、スーパーボールくじ、ガチャガチャ、味付きするめいか、ねずみ花火、紙製のグライダー、キャベツスナック、パチンコ、着せ替え人形、ベーゴマ、にんじん、ぺろぺろキャンディー、ビンラムネ、吹きもどし、シャボン玉セット、アメリカンクラッカー、階段でみょんみょんなるやつ、餅、チューチューキャンデー、ぜんまいミニカー、梅干し、スライム……そのいい意味で雑につみあげられたカオスな商品ラインナップに私は圧倒された。しかもどれもべらぼうに安い。高い物でも30円ぐらいだ。
「…………買ってみようかな」
私は、10円の小さなチョコレートをいくつかの種類手に取り老婆にみせる。
「40円ね」
老婆はにっこりと笑い、私からそれを受け取ると、ああ、そうそうと一旦奥に行ってから傘を持ってきた。
「午後から雨ぇいうてたから、もっていきなさいな。孫のだけど、返さないでいいからねえ」
「え、そうなんですか? いえ、悪いです……」
「ええから……いっぱい傘なんてあるからねえ」
うっかりしていた。久しぶりに外出したので天気を調べるのを忘れていた。そういえば確かに、今日は雲が西の方から来ている気がする。日も陰ってきたし、一雨来るというのはあながち間違いとはいえなさそうだ。結局私は、老婆から傘を借りた。返さなくていいと言っていたが、後日、必ず返しにこよう。
それから……ポケットの中に四つのチョコレートを入れた私は、さあさあと降りしきる雨の中を黒猫とともに歩いていた。雨が降り始めると、当然というように傘の中に入ってきた黒猫は相当人慣れしているというか、度胸があるというか。
雨の日は、正直嫌いではない。湿った空気も、雨の匂いも、雰囲気も。ちゃぷ、ちゃぷ、ちゃぷ、しゃん、しゃん、しゃらり。いつもは一人、雨で曇った窓に頭の中で思い浮かんだデザインを独奏で描いたりするのだが、今日はセッション相手がいる。
「にゃ!」
と、ふいに黒猫がとある建物の軒下へと雨に濡れないようにさっと移動した。そこは、小さく古風な喫茶店だった。古めかしい木製の扉には『純喫茶くろねこ堂』という黒猫をモチーフにした看板が掛けられており、そこには『OPEN』とも書かれている。
「本当にあったんだ……」
私は入り口わきの傘立てに傘を入れると、扉を押開き、中へと入った。からころとドアベルが鳴り、黒猫も一緒に開いたドアから店内に滑り込むように入る、内装はこれまた、古風な……昭和の喫茶店という言葉がそっくりそのままあてはまるような風で、いくつかのボックス席とカウンター数席と言う造り。ややオレンジがかった照明が、既に雨雲で暗くなっていた外の青灰とコントラストを作り出していた。
「いい香り……」
コーヒーの香りはいつ嗅いでも良いものだ。挽かれたばかりのコーヒー豆の匂いは豊潤で香ばしく、少し甘い。かなり先の話ではあるがレースを引退したら父の喫茶店を継ぐのもいいかもしれないな。
「いらっしゃいませ! あら、じろーちゃん、お客さんをまた連れてきてくれたのね」
と、お店の人が顔を出す。シックなウェイトレス風の制服を着た女の人だ。なるほど、この黒猫はじろーちゃんというのか。
「今はお客さんいませんから……お好きなお席にどうぞ!
すぐにお冷、お持ちしますね」
私は店内を見渡して、窓際の席に着いた。カウンター席でコーヒーが淹れられるところを観察するのもいいかと思ったが、やっぱりなんだかんだはじっこが落ち着いてしまうのだ。そうこうしているうちに、すぐお冷とメニューが運ばれてくる。
「……洋食メニューもあるんですね。ナポリタンとかハムエッグとか……」
「ええ、うちのシェフ……旦那なんですけど、もともとはホテルでイタリアンを作ってたんです。どちらかというとコーヒーの方が趣味で始めたものなんですけど、今ではそっちに凝っちゃって」
「なあん」
なるほど、この喫茶店は夫婦でやっているのか。そう考えているとウェイトレスさんの足元についてきていた黒猫のじろーちゃんが、そのまま私の足元に潜り込んできた。
「あら、お客さん相当好かれちゃったみたいね。元々、人懐っこい子なんだけど、よろしければ、じろーちゃんをそうしてあげてやってくれないかしら……」
「ええ、いいですよ。じろーちゃん。私の足元でゆっくりしていてね」
「にゃー」
というところで、不意に私のお腹がぎゅううとなった。今思えば、昼食を取ろうと思い立ったところでじろーちゃんを見つけたのだったか。あれから結構歩いて時間も経っている……散歩が思った以上に楽しく、忘れてしまっていたがもうおなかはぺこぺこだ。
「す、すいません……」
「いいのよ。ゆっくり選んでね」
かああ、と顔が赤くなるのを感じた私はメニューでそれを隠すようにしながら何を食べようか……と目を動かす。ハンバーグ、ナポリタン、ビフテキ、エビピラフ、ハムエッグ、サンドイッチ……いかにも洋食屋と言う風なメニューの中、私が選んだのは『パストラミビーフと卵のホットサンド』だった。
ホットサンド。耳を落したサンドイッチを専用の器具で挟んで焼いたもの。ホットサンドメーカーなどは子供の頃憧れたものだ。それにセットドリンクが付く。当然、これはコーヒーを選ぶ。豆はマンデリンだ。やはりコーヒーはあの苦みがなくてはならないから。
「承りました。少々お待ちくださいね!」
ウェイトレスさんが、オーダーを持ち厨房へと向かう。その間、足の間をじろーちゃんがすり抜けるのを感じたりしながら、私は雨に濡れる窓に、いつものように無意識に頭の中に浮かんだデザインを指先で描いていた。ちゃりちゃり。じろーちゃんの首の鈴が雨音に混じり独特の音を立てる。コーヒーに混じり匂う、雨の匂い。そういえばこういう『雨の匂い』のをペトリコールと言うらしい。意味はギリシア語で『石のエッセンス』という意味らしく……科学的な解説などはタキオンさんが詳しいだろうが、それもまたずいぶんと古風でロマンのあるネーミングだな、と私は思いを巡らせた。
「どうぞ……ホットサンドと、コーヒーです」
そんな事を考えていると、すぐに半分に切られて断面が見えるようになったホットサンドとコーヒーが供された。ごろごろと足元で機嫌がよさそうに喉を鳴らすじろーちゃん。私はおなかが減っていたのでとにかく、まずホットサンドにかぶりついた。
おいしい。パストラミの塩気とコショウを卵がまろやかにしており、しゃきしゃきのレタスが新鮮な触感を与えてくれる……それに傘があったとはいえ、雨の中を歩いていた体にはホットサンドの温かさが嬉しい。気づくと私はほとんど一息にホットサンドを食べ終わってしまっていた。
「では……」
そして、コーヒーに口をつける。
マンデリンは基本的に苦みの強い品種で独特の風味があることから好みはかなり分かれる。この店のコーヒー豆は特にフルーティーかつ大地の香りを感じるアーシー感を強く感じられた。
「これ……浅煎りなんですね? マンデリンだと珍しい……」
コーヒー豆は焙煎の際、浅く煎るか、深く煎るかで味に違いが出る。浅煎りは酸味や香りに優れ、深く煎るほど苦みが出てくるのだが、マンデリンはその苦みを深く出すために深煎りで出されることが多いのだ。
「うちのマンデリンはスマトラの契約農家から直に仕入れた、スペシャリティグレードのものを使ってるんです。ですから深煎りしなくても苦みがちゃんとしていますし、マンデリンの香りも楽しんでもらいたいですから浅煎りにしています。正直な話、安いマンデリンは匂いが良くないものが多くて、それをごまかすために深煎りしているものもあるんですよ」
へぇ、やはり純喫茶を名乗るだけあってこだわっているんだな。私は、思わず感心してしまった。普段はちびちびとコーヒーを飲むのが好きなのだが、やはりまだ体が冷えていることもあって、熱いコーヒーを体に流し込むように飲んだ。
フランスのタレーランという昔の政治家は良いコーヒーを称して『悪魔のように黒く、地獄のように熱く、天使のように純粋、かつ、愛のように甘くなくてはならない』と言ったという。今に限っては冷えたからだを芯から温めてくれる熱いコーヒーがうれしく、私は会ったこともないそのタレーランという人物に親しみを覚えたのだった。まぁ、後から露伴先生に聞いた話ではタレーランは『裏切りの天才』と呼ばれていたらしいが。
(もう一杯、コーヒーを飲んでいこうかな……)
と、なんとなくメニューを見ていたところ珍しい物を見つける。
「トルコ式コーヒー?」
アメリカンやイタリアンなどはありふれているが、トルコ式とはあまり聞かないコーヒーだ。ちなみにコーヒー文化はトルコやヴェネツィアからヨーロッパに広まったと言われ、当初は異教徒の飲む悪魔の飲料とされていたが時のローマ教皇がそのおいしさから『コーヒー豆に祝福を与える』ことで飲んでも良いとしたというエピソードはコーヒー好きの間では有名だ。
「すいません、もう一杯いいですか。トルコ式コーヒーを」
「はーい」
私はどんなものだろう、と気になって例のコーヒーを注文してみる。やはり客が一人であるためかすぐさまコーヒーは運ばれてきた。それは深煎りのかなり黒い色のコーヒーで……泡が多かったが、そこにはあらびきのコーヒー粉が残って沈殿しているのが見えた。
「これはトルコ・アラビア式の水出しコーヒーで、そこに粉が残っているのが特徴なんです。粉を飲まないように、泡と上澄みだけを飲んでくださいね」
なるほど、中東の方では客人が来た際に、そういうコーヒーを回し飲みするというのは聞いたことがある。私は、言われたとおりに泡を味わい、上澄みを飲んでいく。これは……複雑な味だが苦くて美味しい。さらにレモンのような酸味ある匂いがある。これはカルダモンが入っているのか。
これは先ほどのコーヒーとはちがい、ちびちびと味わう事にする。雨の音、風の音、コーヒーミルで挽かれるコーヒーの音、サイフォンの湯の煮える音。じろーちゃんのにゃあ、という声。すべてが調和して、安らげる空間を作り出している。コーヒーは自室や理科室で飲むのが大半だったが、なるほど、こうした喫茶店もいいものだ。
「にゃーん」
と、じろーちゃんがふいに座席に飛び乗り、窓の方を見ながら鳴いた。いつのまにか雨は止み、雲間から光がさしている。もう少しこの喫茶店で時間を潰したかったが、また降り出さないうちに戻ったほうが良いだろう。
「お会計は1660円になりますー」
私は満足して、会計を行い『純喫茶くろねこ堂』を後にする。お店のウェイトレスさんとじろーちゃんは入り口の方まで来て、私を見送ってくれた。また来よう……今度はトレーナーさんや、タキオンさん、露伴先生と共に来てみるのもいい。詳細な場所はよくわかっていないが……そう、ここに来たくなったらまた路地で黒猫を探せばいい。
皆さんも、もし路地で黒猫を見かけたら……怖がらず、優しく、追いかけてみてください。近くにおいしい喫茶店がある合図かもしれませんから。
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