午前7時45分。春はあけぼの、冬はつとめてと枕草子にあるように、私は早朝の静かな時間帯が好きだ。窓の外に見える雲が薄紅に染まっていく様を眺めながら、コーヒーを入れるために湯を沸かす時間帯は私の大切なモーニング・ルーティーンである。とはいえ、ウマ娘たちの朝は軒並み早く、マンハッタンカフェも朝のランニングを終え、軽くシャワーを浴びて部屋に戻るころには同室のユキノビジンは姿が見えなくなっていた。おそらく、入れ替わりでランニングに行っているのだろう。少し待って、ともに朝のカフェテリアに行こうかとも思ったが、ユキノは奥ゆかしい性格のウマ娘である。おそらく自分を待たせたことに恐縮してしまうだろう……と思い、少し悪い気はするが先に出ることにする。
8時30分の始業まではまだ時間はあるが、朝の時間というのはどう考えても他より早く過ぎ去っていくのでぼやぼやしているとゆっくり食事をする時間が無くなってしまう。朝に弱いタイプの者などはギリギリまで寝て、寮などで自前で用意した適当なものをさっと取ることも多いようだが、カフェテリアでもコーヒーを楽しみたい自分は豆のそろっているカフェテリアに多少面倒でも赴くことにしている。
今日の豆は……トラジャ・カロシにしようか。それとも、キリマンジャロにしようか。そんなことを考えながら部屋を出る、私の学園生活のいつもの一幕。
◆◆◆ マンハッタンカフェは動じない #終 『ジョジョの奇妙な冒険』 ◆◆◆
「……珍しいですね。こんな朝から。よく理科準備室近辺の廊下で寝落ちしているのに……」
「カッフェ~そりゃあないんじゃあないかい? 私だってたまには健康に気を使って早寝早起きをすることだってあるさ」
「そんなことをいって。昨日は理科準備室でポッケさんダンツさんどころかユニさんまで実験に協力してくれなかったといってふて寝していたでしょう」
今日は朝のカフェテリアでタキオンさんと一緒になった。これは本当に珍しいことだ。学園生活をしてきた中でもあまり経験がない。何故かタキオンさんは夜は研究がはかどるとなどいって深夜まで起きているか、徹夜……それも二徹三徹当たり前、彼女のトレーナーさんがついてからは多少マシになったものの今でもたまに食事を栄養ドリンクとサプリメントで済ませるような生活をしている人であり、正直言ってアスリートの自覚以前にもう少し健康に気を使ってほしいところなのだが……
「しかしたまに早寝すると調子が狂うなあ。この後は何をしようかな……」
「……何をしようかな、ではなくちゃんと授業に出てください」
溶けきらないほど大量の砂糖を入れた紅茶をざりざりと砂っぽい音と共に飲み干していくタキオンさんを見ながら私はため息をついた。
「そういえば、この週末は露伴先生の手伝いでM県S市杜王町に行く予定ですけど……もう準備は済ませたんです?」
いまでも夢のように思うのだが、私の大好きな漫画でありほぼほぼ唯一熱心に追っているといっても過言ではない『ピンクダークの少年』の作者である岸辺露伴先生に私は気に入られている。それどころか、ピンクダークの少年の『ウマ娘の秘密』編に私、そしてタキオンさんがモチーフとなっているキャラクターが出ている始末だ。漫画の執筆まではさすがにできないが、手間のかかる取材などをトレーニングに影響が出ない範囲で手伝い始めてもうずいぶん経つ。
「あぁ……君も熱心だねえ……いや、まだだが気が向いたらやっとくよ。気が向いたら……」
タキオンさんは露伴先生とそりが合わないようでしょっちゅう喧嘩をしているが、私がこうして取材に付き合う際には『監視する』といって必ずついてきてくれる。それは……正直言って、嬉しく思う自分がいる。心配をかけているともいえなくもないが……ひょんなことからはじまった腐れ縁めいたものではあったものの、タキオンさんとも長い仲になった。たんに同期という以上に、彼女は友……いえ、得難い親友であると少なくとも、私は思っている。本当に、無精で生活力がないところさえどうにかしてくれればいいのに、とも思わなくはないがそれももう半分許容してしまっている自分がいるのだ。
「……あ」
その時、私の顔を覗き込んでまるで見透かすようにタキオンさんがニヤついていることに気づいた。
「……そろそろ、授業に……」
私はごまかすようにそういうと、コーヒーを飲み干して席をたつ。そろそろ授業に向かわなければならない時間帯でもあった。その時だ。
「あ……? ぁ……?」
急に体が重くなった。いや、体と言うより……鉛のように瞼が重い。瞼が落ちると同時に、体から力が抜けていく。こんな、急な……眠気は。おかしい……でも……抗え……………………
……………………
…………
……
…
「ハッ……」
体を起こす。まだだるい感じが残っているが、いつのまにか床に倒れ込んで眠ってしまっていた。時間は……8時すぎ。10分程度寝ていたのか。何故? 夜更かしだとか、倒れてしまうほど疲れるようなことは何も……そんな疑問が頭をよぎる前に、カフェテリアのあちこちで床に転がったり、テーブルに突っ伏して眠る生徒の姿が目に飛び込んできて、私はその異常な光景に戦慄した。怪異……いや、これは――
「タキオンさんッ!」
とっさに、自分の傍らにいるであろうタキオンさんを探す。これは何なのかわからないが、彼女は無事なのか? そう思ったからだ。
「うぅ~ん、あと2時間……」
「ッ!?」
その瞬間、私は目を疑った。傍らに寝そべり……気だるげにうめいているのは『私』……? それになんだ。妙に口の中がざりざりしているし、舌は苦さと甘さで喧嘩をしている。これは砂糖入りのコーヒー? なんだこれは『奇妙』だッ!
テーブルの上に置きっぱなしになっているスマートフォンを取ると、私はカメラ機能を利用して自分の姿を見た。そこには……タキオンさんが映っている。間違えて背部カメラを起動したとかではない。これは。私とタキオンさんが入れ替わっているッ!?
「タキオンさんッ、起きてください! タキオンさんッ!」
「う~んうるさいな……もう少し寝かしておいてくれよ私~……ん?」
ちゃんと睡眠をとっていたせいもあってか、タキオンさんの眠りも深くなく『自分自身』が体をゆすっているということにも気づいて、私の姿になったタキオンさんはゆっくりと目覚めた。
「なんだぁ……もう一人私がいる。まあ3徹するとこういう幻覚が見える時があるからな……」
「違います! タキオンさんッ! 私たち、入れ替わっています!」
「はあ!? うわいたたたた! やめてくれたまえ! って、なんだァーーーッ!? これは現実なのかッ!?」
早寝したと言っていたくせに、くせで二度寝を決め込もうとしているタキオンさんの頬をつねり、強引に引き起こした。ひい~と呻きながらようやく完全覚醒した彼女は、ようやく異常事態に気づいた。意識が入れ替わる。例えば、アニメなどで頭をぶつけてそうなってしまうことなどはたまに見かける展開だが、実際に起こるとどうすればいいのかわからない。
「ブライアンちゃん! 私がブライアンちゃんになってる!」
「タイシーン!!! 私がタイシンになってるよおおおおおどうしよおおおおおおお」
「キタちゃん!?」「ダイヤちゃんどうしよう!?」「「入れ替わってるーーー!?」」
いや、異変は私たちだけではない。眠っていた生徒たちが続々と目覚め……反応的に、皆私とタキオンさん同様、体と意識が近くにいたものと入れ替わっているようだ。怪異……にしてもこれほど大規模に起こるとは、どれほどの力が――
「ハッ……」
と、私の体に入ったタキオンさんが何かに気づく。
「カ、カフェ、まずは冷静に聞いてほしい。白状するが、私は君の体と入れ替わったことを利用して実験――薬剤の投与を試みた。が、試みただけだ。全くそうした行為はしていない。寸前で。だが、『これはなんだ』?」
「タキオンさんはこんな状況で――」
……慌てていて気が回らなかったながら、この機に乗じて実験をするというのはタキオンさんなら確実にやる。それを咎めようと思ったが、私の体と入れ替わったタキオンさんが恐る恐ると言う風に、手をこちらに伸ばしていて……私は、その指先を見て戦慄した。
「こ、これは……花弁……? なんです、これは……」
指先の皮膚がめくれ上がっているように見えたが、それは薄ピンク色の花弁だった。皮膚が変化して、花びらのようなもの、ではなく、完全に花に変化しているのだ。そして、それは指全体に徐々に広がっているようにも見える。変化している……?
「分からないッ!こんな現象はみたことがないッ!皮膚が樹皮のように硬化する病気、だとかは存在するが、こ、こんな……感覚でわかるんだ。私という存在そのものが『変わっていく』……!」
タキオンさんが恐怖を押し殺したように言葉を吐いた。自分が何者かに変えられようとしているのを、彼女はまじまじと感じている。その感覚は筆舌しがたい。そもそも、それは『私の体』なのだ。もし意識が元に戻ったとしても、体が完全に植物と化していたら、私はどうなる……?
「と、とにかくここからまず離れましょうッ! この場にいるのはなにか、ヤバイッ!」
私は、私の体に入ったタキオンさんの手を引き……とにかく、まずはカフェテリアから離れようと立ち上がって走ろうとした。が、その時だ。
――バリッ!
「きゃあ!!?」「ぬわあ!!!」
静電気、というにはすさまじい感覚。不用意に電源に触れ、軽く感電してしまったような衝撃が走った。思わずその場に座り込んでしまう二人……見れば、明らかにおかしな……カフェテリアのドアの真ん前に『コンセント』が設置されている。
「な、なんでこんなところにコンセントがあるんだ? というか、こんなものなかっただろ。いつ、だれが設置したんだ?」
タキオンは次々と起こる意味不明な出来事に若干平静を乱しているが、それを見た瞬間カフェはある程度の自体を理解した。理解できた。
「……これ『チャリオッツ・レクイエム』と『バステト女神』だ……いけません、『コンセント』に二人で触れたから、余計もたもたしているとッ!」
「な、なんだそれ!? よくわからないが……うわッ!?」
タキオンの体の足を動かし、カフェは走り出した。その背中にはカフェテリアで利用されるスプーンなどの食器が張り付いている。
………………
…………
……
「う、うわあ!!!」「あっ、く……『磁力』がッ!」
それからタキオンとカフェは『徐々に強くなっていく磁力』に抗いながら理科準備室を目指した。カフェテリアから学習棟に入り、そのままいつものルートを全力で走った。タキオンから見ると、カフェは……なぜか『この現象』を知っている。『チャリオッツ・レクイエム』は広範囲の生物を眠らせたのち、精神を入れ替えてなおかつ別の生物に進化させる『スタンド』。そして『バステト女神』は『コンセント』状のスタンド像に触れたものに徐々に強くなる磁力を帯びさせるという物だ。
二人で手をつないだままコンセントに触ってしまったせいで、カフェもタキオンも磁力を帯びてしまい、磁石のN極とS極のように互いに引き合っているのを感じて走りづらい。
「タキオンさん、がんばって! 理科準備室までもう少しです! これ以上『スタンド』が発動するといよいよもって被害が出てしまいます!」
「カフェッ、これを解除する方法があるってのは本当なのか!? というか、なんで君はそんなにこの現象に詳しいんだ!?」
「それは……」
カフェがタキオンの言葉に答えようとしたとき、目の前に無数の『シャボン玉』が漂っているのが見えた。
「止まって。『ソフト&ウェット』にしろ8部の『キラークイーン』にしろ……触ればろくなことになりません。何かを奪われるか、シャボン玉自体が爆発します」
「しかしッ! ここを通らないと大回りになるぞッ……回り込む時間はあるのか……?」
そう言って、タキオンは近くの教室の時計を無意識に見た。11時21分……。
「ん?」
何かおかしい。我々は8時30分の始業前にカフェテリアにいたはずだ。眠り込んで時間がたったのか?タキオンは一瞬そう思ったが、変だ。何かが。違和感がある。秒針の動きが速い。これは。
「カフェッ……なにかおかしい、『時計』の動きが速いッ! きみ、こういうのも原因わかるのか!?」
「『メイド・イン・ヘブン』……まずい、そんなものまで……!」
「だから何なんだッ! 説明してくれッ!」
カフェは今までで一番深刻な表情をしたが、タキオンにはそんなことは分からず、カフェの細腕で自分の体と入れ替わった彼女をゆする。しかし、カフェはふー……と息を吐いて、言うのだ。
「外に、虹は出ていますか」
………………
…………
……
「……で、僕にどうしろって言うんだい。その、カフェさんにタキオン君」
理科準備室で資料を見ながらネームを考えていた岸辺露伴は、なぜか地面を這うようにしてぬろぬろと部屋に入ってきたカフェとタキオンを見て……微妙な表情を浮かべざるを得ない。タキオンの奇行はいつものことだが、それにカフェさんも付き合っているとは。露伴はそう思った。
「……『ヘビー・ウェザー』のカタツムリ化です。軟体生物の柔らかい動きなら、地面を這ってシャボン玉をかわせるし、『メイド・イン・ヘブン』で勝手に速くなって遅い動きもカバーできる」
「もう何が何やらだが、これでいいんだなカフェ。理科準備室にたどり着けばッ!」
「よくわからないが、何かしらのスタンド攻撃を受けているのか……? 手を貸した方がいいね?」
露伴がカフェとタキオンを椅子に座らせ、やれることはあるか?と言う風に声をかけてくるが、どういうわけかカフェはそれに答えない。何か……考えているようだったし、少し心苦しそうにも見えた。彼女には珍しく、やらなければいけないことを何とか先延ばしにしようとしている風。
「露伴先生」
「なんだい」
「……今すぐに『すべての漫画のキャラクターを漫画の世界に戻すファンタジー・ヒーロー』をデザインできますか?」
「……ああなるほど、そういう事か。僕は『岸辺露伴』だぞ。できるに決まっているだろ」
露伴はすぐそばの原稿用紙に、すらすらとGペンを走らせて1分もたたないうちにアメコミヒーローやギリシャ彫刻めいて筋肉質ながら日本の漫画のエッセンスを感じる芸術的なデザインのキャラクターを描き上げる。すると、それはすぐさま紙の上で動き出し、実体化した。
「……こ、これは?」
「『ボヘミアン・ラプソディー』。『ジョジョの奇妙な冒険・第6部』に出てきたスタンドでざっくり言えば『架空のキャラクターを具現化する』能力を持ちます。今まで出てきたスタンドも『ジョジョの奇妙な冒険』のキャラクターだったんですよ。『ピンクダークの少年』ではなくてね」
ずぞぞぞぞぞ。『岸辺露伴』の書いたヒーローは掃除機のような道具を起動する。すると、すさまじい勢いで世界中の『色彩』が窓や扉の隙間から道具に吸い込まれていく。しかし不思議なことに、風や衝撃を感じることがなかった。まるでこの世のものならざる虚像だけが、そこに吸い込まれていくように。
「……まあ、本来は交わる事のなかった世界だ。インスピレーションはだいぶ掻き立てられた、とだけ言っておくよ」
「露伴先生……!」
露伴は、いつのまにか色を失い線画めいた状態になっている。そう、『岸辺露伴』は『ジョジョの奇妙な冒険』の『キャラクター』だから。
「……つまりこういうことか? 露伴君は、スタンドの力で具現化していた『キャラクター』だったと?」
タキオンが顎に手を当てながら言う。それを見た露伴は、フンと鼻を鳴らして。
「こういう時はそんな考察より……涙のお別れがテッパンなんじゃあないのかい。小賢しいやつだと思っていたが、人の情っていうものをもう少し持った方がいいんじゃあないか?」
「何を。むしろ私は君が出て行ってせいせいするよ。学園側に私の手で突き出せなかったことが心残りってやつさ」
「最後まで、いつもどおり、ですね。私たち。先生もタキオンさんも喧嘩はだめですよ」
露伴がムッとした様子でタキオンに食って掛かり、タキオンも売り言葉に買い言葉でそれに反論し、カフェがけんかを止める。もう、何度これを繰り返しただろう。
「カフェさんと打って変わって、本当に失礼な奴だな、君は。やはり君とは波長が――」
ごう。最後に強い勢いの音が鳴って、露伴の体の線が機械に吸い込まれると、続けてファンタジー・ヒーローも自分のそれに消える。こうして、この世界に静かに存在していた『奇妙』なものは……その姿を消した。
――1か月後。
こぽこぽとコーヒーをカップに注ぐ。今日の豆はとっておきのキリマンジャロだ。タキオンさんもいつものサバラガムワ。ただ、少しだけ寂しく感じる。本来ならば? ここに原稿用紙に滑らかに滑るGペンの音が加わっていたからだ。
「ま、本来はいなかったのが正しいんだ。カフェ、それに君は貰っただろう? サインとか」
「ええ、本当に宝物ですよ。本物の岸辺露伴先生のサインなんて」
私物を置くパーソナルスペースのうえのほうには、ピンクダークの少年が描かれた『岸辺露伴』のサイン。かつて、露伴先生からいただいたものだ。
「……で、それを読み終わったら私に貸してくれたまえ」
カフェの手には、新しく発売された『ジョジョの奇妙な冒険』のコミックスが握られている。タキオンさんは単行本派なので、私が新刊を買うと借りて読みたがるのだ。
「いいですけど、薬剤を仕込んだらおともだちが気づきますからね」
「えー! この前私の資料を燃やしておいてまだそんなひどいことをするのかい!?」
……タキオンさんのそんな声を聴きながら、私は奇妙な冒険にドキドキしながら頁を繰るのだった。