春の陽気を感じるこの季節、研究室で一人、アグネスタキオンは考え事をしていた。丁度この時期はアグネスタキオンにとって、思い入れの深い時期でもあった。
彼と出会って4度目の4月。当初はまさかここまで共に来れるとは思わなかったよ。
4月は色々な思い出があるが、中でも一番の思い出は、彼と共に走った皐月賞だろう。
私にとっては初めてのG1、しかもクラシックだ。実を言えば、レースの一週間前から緊張しすぎて夜も眠れなかった。
カフェからは「………ひどい顔ですよタキオンさん…ちゃんと寝れていますか?」と心配されたが、それに今まで通り答える余裕すらなかった。実際、私の顔は見るに耐えない顔色をしていただろう。
弥生賞でもこんなに緊張しなかったのに、クラシック三冠の一冠目、と言うものを強く意識しすぎてしまっていたのだろうか。
研究も手につかなかったし、トレーニングも全く集中出来なかったねぇ。
私としたことが、うっかり間違えた薬品を配合してしまい、研究室を爆破してしまった事もあった。私の様子を見に来て巻き込まれたバクシンオー君には申し訳ないと謝罪をしたが、次の日研究室にSWATのような格好で入ってきた時は、流石に驚いたよ。
トレーニングではついつい飛ばしすぎてしまったり、スパートのタイミングを間違えてしまったり。
私はらしくないミスを繰り返し、それを彼に心配されるたび、私は彼の期待を裏切りたくないと余計力が入ってしまう。
だって、彼のためにどうしても勝利を届けたいと思っていたから。
だが、その気持ちが空回りして余計なミスを繰り返す、という悪循環に陥りそうになった時は、流石に心が折れるかと思ったよ。
私は今までで一番最悪なコンディションだったと思う。
なのに世間の評価ときたら、私が皐月賞を獲るのは確実、果てはその先の三冠までも達成できると囃し立てている。
私をマッドサイエンティストだの変人だの馬鹿にしていた連中も、急に私と仲が良いとアピールをし始める始末だ。
私は微塵も気にはしなかったが、世間は私の一挙手一投足に注目していた。
私は上手くいかない事にとても腹がったし、それをトレーナーにぶつけてしまいたい欲求に駆られた。
トレーナーに八つ当たりをしてしまったり、無茶な注文をして、理不尽な事も沢山言ったと思う。それなのに彼はずっと私に寄り添い続けてくれて。
レース前日、不安や重圧に押し潰されそうな私を、彼は私が落ち着くまで抱きしめてくれた。
その温かさがないと今頃私はどうなっていたのだろうか。
そのおかげで自分を取り戻した私は、前評判通り皐月賞を獲ってみせた。最後の直線310mを駆け抜け、電光掲示板に自分の番号が一着と表示された時は、思わず涙が溢れそうになってしまったよ。
インタビュー中も涙を堪えるのに必死で、もしかしたらまともな受けごたえは出来ていなかったかもしれない。
私はレース終了後、裏側にいた彼の元に駆け寄り、思いっきり飛びついた。私らしくない行動、だが自分が抑えられなかった。
「とれぇなぁ君…!!トレーナー君!!私、私…!!」
「本当におめでとう…!タキオン、君は本当に凄いウマ娘だ」
涙で顔をグチャグチャにした私を見た彼も、私を抱きしめて泣きながら喜んでくれた。
このまま君の今までの担当も超えてみせるさ。ウイニングライブ後にそう誓ったら、彼は一瞬曖昧な表情を浮かべたが、すぐに笑みを浮かべ、期待してる。と私の頭を撫でてくれた。
残念ながら日本ダービー、菊花賞は走ることが叶わなかったが、トレーナー君と共に皐月賞を獲ることができてとても良かったと思っている。
あの日から、私は彼の事を意識するようになった。
私としては色々なアプローチを仕掛けているのだがねぇ。彼は全く気づいてくれない。
最初から手強いと思っていたが、まさかここまでとは。この私に手こずらせるとは、意外とやるじゃぁないか。
…最近は全く脈無しな気がして心が折れそうだよ。彼は本当に私の事をただの担当としてしか見ていないんじゃないか。
本来はその関係が正しいのだろう。だが一度芽生えてしまった感情を、今更どうこうする事はできないんだ。
ウマ娘はトレーナーに依存しやすいとはどこかで聞いた事はあるが、まさかその当事者に私がなるとはね。
なぁ、トレーナー君。嘘でも好きだと言ってくれないか。君は私がどれほどトレーナー君を求めているか知らないだろう。
これでも一日中トレーナー君の事が頭から離れないくらいには想っているんだよ。
君が最近カフェと仲良さそうに会話をしているのも知っているんだよ?どうやら趣味の話で盛り上がっているらしいじゃないか。
私には趣味の話など、自分からした事ないくせに。私と出かける時はいつも私が行きたい所を優先して、私が話したい事を話させてくれるけど、君は自分の事は話したがらないんだ。
トレーナー君、もっと君の事が知りたいよ。他のウマ娘なんて見ないでくれ。もっと私を見てくれ。もっと、もっと…
「……い、…〜い、おーい、タキオン、起きろー、トレーニングの時間だぞ」
遠くから誰かの声がする。悪いが今は起きたくないよ。
「んぅん…なんだい…もう少し寝かしておくれぇ…」
「そうは言ってもなぁ、今日はすでに並走のトレーニングが入ってて休めないんだよ。あちらのトレーナーにも申し訳ないんだ。だから起きてくれよ、タキオン」
なんだいトレーニングかい?と言う事はトレーナー君か。
「んんっ…ふぁぁぁ…っと。どうやら寝てしまっていたようだね。だがトレーナー君、これであおいこだよ。」
「その件は悪かったよ…埋め合わせもちゃんとしたし、許してくれるって言ってたじゃないか。」
「それはそれ、だよ、トレーナー君。君が寝坊したと言う事実は変わらないんだ。あの時失った時間は帰ってこないんだよ?なら私も、自分のためだけに時間を使わせてもらうさ。」
「…本当に悪かった。もう二度しない、お詫びに紅茶を毎日淹れるから、それで勘弁してくれないか。」
「ふぅん…言ったね?その言葉、取り消させないよ。ちなみに私は甘めの紅茶以外受け付けない、わかってるね?」
「はいはい、仰せのままに。…そんな事より、早く行こう。向こうのトレーナーを待たせてある。」
そう言いながら彼は私の白衣を持ってグラウンドへ向かっていく。私も仕方ないのでついていってあげよう。
それにしても、今日はトレーナーの匂いがいつもより濃い気がする。気のせいかな、けど確かに濃いのだ。私は疑問に思いながらも、その濃い匂いを充分に肺に貯めながら、トレーナーについてグラウンドへ向かった。
タキオンを呼びに研究室に向かうと、そこには机に突っ伏して寝ているタキオンがいた。
いけない、と思いつつもタキオンのサラサラの髪を触ってしまう。寝ているはずなのにピコピコ反応する耳がとても可愛い。
タキオン…俺は君に恋をしている。だが俺はトレーナー、君は俺の担当ウマ娘。それ以上でもそれ以下でもないんだ。
その事が非常に寂しく思えてくるが、タキオンの事を思えばこんな気持ちは捨てた方がいいのだろう。
せめて、せめて君が、俺の事を想ってくれていたら良いのに。
何度もそう想っては、絶対にあり得ないと自分に言い聞かせるのだった。