まずい。非常にまずい。
何故か分からないが、タキオンが物凄い怒っている。
目は怒気を帯び、尻尾の毛並みは逆立って、今にも暴れ出さんとゆらゆら揺れている。
その顔に一切の優しさはなく、黒々とした怒りの色が浮かんでいた。
何故こんな事に?
研修から帰ってきて、トレーナー室に荷物を置きに向かうと、中にはタキオンがいた。
ただいまと言ってその横を通り過ぎた瞬間、呼び止められたと思ったら強引に物凄い勢いで壁に押し付けられた。
いつものタキオンからは想像もつかない物凄い剣幕でこちらを睨み、服に掴みかかって壁に押し付けられている。
「……トレーナーくん? 」
聞いた事もないような、血の底から響いているような威圧感のある声。
「どこの……誰なんだい? 」
タキオンは何を言っているんだ?とにかく、この状況では非常にまずい。今にも服が千切れそうだし、押し付けられすぎて、呼吸も苦しい。その身体の何処からそんな力が出ているのか、改めて疑問に思う。
「タキオン……落ち着いてくれ、今の君は、冷静じゃない」
「落ち着いてくれ……? ……あぁ、落ち着いているとも。私は冷静だよ、トレーナーくん……。それで……これは、どういう事なのか説明してくれたまえよ」
「……どういう事? どういう事なのかは俺が説明してほしいよ……タキオン、君は何に怒っているんだ?」
「ハハッ、白々しい。こんなに分かりやすい物を纏って、私が気付かないとでも思ったのかい?」
タキオンが何で怒っているのか、全く想像もつかない。そろそろ緩めてもらわないと、本格的に潰されてしまうかもしれない。
「トレーナー君……私はねぇ、隠される事が一番嫌いなのだよ。君が答えないのなら、無理にでも答えさせて見せようか? 」
そういうとタキオンは懐から何かを取り出す。
「この薬はねぇ……少々強力でね。人間が飲む用には作ってはいないのだが、どうやらウマ娘に飲ませても想定以上の効果が発揮されるらしい。君は人間ではあるけど、その前に私専用のモルモットでもあったねぇ。どうだい、この強力な催淫剤、飲んでみるかい? 」
「何故催淫剤なんか作ってるんだ……」
「ウマ娘特有の発情期と言うものは知っているだろう?その研究をする上で必要だと判断したのだよ。だがこう言ったものは初めてでねぇ、少々分量を間違えてしまったから誰かに渡す訳にもいかなくてね。だが予想される効果は机上の空論に過ぎない。研究者としてはその効力はやはり知りたいだろう?だからトレーナーくん、君が飲んでくれたまえ。なぁに、私の予想では少々理性を失うだけだ。理性を失った君を拘束し、徹底的に我慢させる。やがて君は私の言う事をなんでも聞く、本物のモルモットになるだけさ。何も悪い事はない」
そう言ったタキオンの表情は、怒りの他に何か強い別の感情を感じた。とにかく、そんな物を飲まされては男としての尊厳は奪われてしまうだろう。なんとしてでも、タキオンの怒りを鎮めなければ。
「落ち着いてくれ……タキオンに何かしてしまっていたのなら謝るし、とにかくタキオンが何に怒っているのか、教えてくれないか」
「だから言っているだろう……? 君が纏っているその匂い、一体誰のものなんだい? 」
「……匂い?」
「そうだよ、その匂い……明らかに他の女の匂いだ。嗅ぐ事すら虫唾が走る……私にはわかるよ、トレーナーくん。研修とは名目で、本当は別の女と仲良くしていたのだろう? でないと、そんなに濃い匂いが君につくわけがない」
「もしかして、この服についた匂いの事か?」
「だからそうだと言っているだろう。早く答えたまえ、そろそろ私も限界なんだ。君を、どうしてしまうか分からない」
「いや、待て待てわかった。実は……最終日に色々あって、服を貸してもらっていたんだ。タキオンが嗅いでいる匂いは、恐らく俺にジャージを貸してくれたトレーナーの匂いだと思うよ」
そういうとより一層タキオンは俺を壁に押し付けてくる。
さすがに、もうこれ以上は本当に苦しい。
「……貸してもらった?色々とは何があったんだい」
「今日の朝方雨が降っただろ?それで道が泥濘んでいたんだ。それで散歩していた道で足を滑らせて、ドロドロになってしまって。着替えは持ち合わせてなくて困っていた所を、偶然居合わせた別のトレーナーに助けてもらったんだよ」
「……偶然居合わせた、女のトレーナーに貸してもらった」
「そう、だからこの匂いはその人の匂いだと思う」
「そんな、都合よく居合わせる事があるのかねぇ」
「俺は嘘はつけない。タキオンも分かるだろ」
「……君は嘘が下手だからね」
そう言うと少しだけ緩めてくれるが、まだ離してはくれなかった。
「何故まだ着ているんだい?」
「返すのは後で構わないって言ってたし、上着は全部洗濯にかけててさ。だから今日だけは借りておこうと思って。勿論、洗濯して返すよ」
「……その匂い、それ以上私の周りで振り撒かないでくれ。君の上着なら私が用意する。今すぐ着替えるんだ」
そう言うとタキオンは俺から離れ、トレーナー室のソファーに座り込んだ。
「ほら、これを着たまえ。元々は君の物だし、サイズは大丈夫だろう」
「……なんでタキオンが俺のジャージを持ってるんだ? 」
それについては答えが返ってこなかったが、タキオンから渡されたジャージからは、タキオンの匂いを強く感じた。
「君がそんな匂いで帰ってくるのがいけないんだ。君には少々、反省してもらわないといけないねぇ」
「いやいや完全に不可抗力だと思うけど。それに俺も、タキオンがそんなに嫌がるとは思ってなかったし」
「とにかく、君には罰が必要だ。そうだなぁ……罰として、君から私を抱きしめたまえ」
「なんでそうなる」
「君についた匂いを私が上書きしないといけないからねぇ。……全く、本当に余計な事をしてくれる。これだから君から目を離したくないんだ」
「上書きって。別に匂いなんて誰も気にしないんじゃないか?」
「……まぁ君は気にしないだろうね。私は君に向けてやっている訳では無いし。とにかく、早く抱きしめたまえよ」
これ以上はタキオンをまた怒らせるだけだと思い、タキオンに言われるとおり抱きしめた。
「……っ。ばーかばーか」
「どうしたんだ」
「君がいけないんだ……君が私と共にいたいと言ったのに、他の女の匂いをつけてくるから……」
「……不安にさせたなら謝るよ。俺はタキオンの担当でいる以上はタキオンが一番だし、恋愛とかでタキオンを疎かにする事はない。俺に相手ができたから、タキオンは自分が相手にされなくなると思ったんだろ?そんな事は無いよ」
「……そう言う意味じゃ無いんだがね……」
タキオンは小声で何かを呟いたが、うまく聞き取る事ができなかった。
それからしばらくはタキオンが満足するまで、ずっとタキオンを抱きしめ続けた。
トレーナー君に彼女が出来ていなくてよかった。もしトレーナー君が誰かに取られたらと思うと、私は自分を保つ自信がないからね。
さっきの女の匂い、一度嗅いだ事がある。確か桐生院とか言う新人トレーナーだっただろうか。
一度トレーナー君の部屋に挨拶に来たから覚えている。その時は憧れのトレーナーに会えて嬉しいと言っていたが、あの目は間違いなくトレーナー君の事を意識している目だったな。
私とした事が、油断していたねぇ。まさか研修中にトレーナー君に近づくなんて。
今まで眼中になかったからか、他のウマ娘だけを警戒していた。まさか鼻の効かない人間までも対策しなくてはいけないなんて。
目に見えてしまう対策はトレーナー君に逆効果だからね。かと言って下手に放置しておく訳にも……ああ、本当に面倒臭い事を増やしてくれる。
そう易々と手に入ると思ったかい? 残念、相手が悪かったねぇ。トレーナー君は絶対渡さない。誰にも、渡してなるものか。
だが……私の方が不利なのは明らかだ。私はあくまでもトレーナー君の担当ウマ娘。何か不貞があればそれだけでトレーナー君との縁は切れてしまう。今は黙認してもらっている訳だが、いつ上の気が変わるかも分からない。
だが彼女はトレーナーで、トレーナー君の後輩に当たる。年齢は20歳前後だろうし、関係も構築しやすい。あとはキッカケさえあればいつでもトレーナー君と仲良く出来てしまう。
その他にも要素はあるが、立場場は私が有利に見えても、実際はそれ以上が私には無く、彼女にはそれ以上が存在する。
だが結局はトレーナー君がどうするかなのだ。結局、私がそれらを覆して見せようとも、トレーナー君が私を選ばなければ所詮そこまで。だから私はこの立場を存分に利用し、トレーナー君に選んでもらう。その為には、手段は選ばないかも知れないねぇ。
悪いが桐生院君、ポッと出の君が付け入る隙なんてないくらい、私とトレーナー君は深く繋がっているのだよ。
申し訳ないが今回は諦めてくれたまえ。その方が君のためになるだろうし。私を相手にすると言うのならば別だがね?容赦はしないが。
とにかく、君や他のウマ娘にも、彼は絶対渡さない。
愛するトレーナー君、君は罪な人間だねぇ。