ねえ、いったいどうしておとうさんとおかあさんはしんじゃったのかにゃあ。
森丘の途中に広がっている草原地帯の一角にある大きな木の下で、旦那さんの膝の上に腰を下ろしながら、ずっと胸の内で考えていたことを僕は思い切って聞いてみた。
さあ? たぶんかみさまがさいころをふって、でためがたまたまそういうめだったからじゃないかなぁ?
遠くに見える飛竜の影を目を細めて見つめながら、旦那さんはそう言った。
だれかがしぬのに、かみさまがいちいちさいころをふっているのかにゃ?
僕は驚いて、思わず聞き返してしまった。
そうだよ。だからたとえもしちかくでひとがしんでしまったとしても、あまりじぶんのせいにすることはないんじゃないかな。だってそれはおれたちのせいじゃなくって、かみさまがさいころをふるのがへたくそだからおこったことなんだからね。
旦那さんは事も無げにそう言うと、僕の頭をワシワシと撫でた。その撫で方ときたら! 乱暴で雑で、かつてお父さんやお母さんの優しい撫で方とは大違いのもので。
似ても似つかない雑な物なのに、けれどどうにも懐かしく、僕は黙って目を細めてされるがままだった。
いつだってそうだった。どんなに下手くそな撫で方だろうが、旦那さんに撫でられると僕は一発でまいっちゃうんだ。
そして僕らは再び口を閉じ、草原の彼方に見える森丘を見据えながらただそこに座っていた。
風が吹いた。穏やかで柔らかで、傷ついた者をそっと一撫でするような優しい風が、そよそよと僕らに吹き付けた。
陽光を受けて輝く草花。戯れるケルビ達。穏やかに草を食む草食竜の群れ。
それは僕の世界が黄昏を迎えて滅び去り、新しい世界を構築している最中のある時の一日。
僕の全て。僕の世界。あぁ、そうだった。僕の世界を破壊した神はランポスなんかでは無かったんだ。僕の世界を破壊した神は、旦那さんだったのだ。
■
僕のそばに プーギーがやって来て こんな事を聞いてきた
アイルーさん アイルーさん どうしていつも怒っているの?
うぅん 怒ってなんかいないよ
でも 今日も他のアイルーと 口喧嘩をしていたよ
あれは喧嘩じゃないんだよ
僕の答えに 首をかしげるプーギーに 僕は微笑みながら言ったんだ
あれは喧嘩じゃないんだよ あれはね 僕にとっての世界への赦しなんだよ
家の前を 子供らが 軽快な笑い声を後に残して 彗星の様に駆け抜けて行く
その声を皮切りに 世界に音があふれ出す まるで神が一言で 世界を生み出したかのように
畑を耕す男の声が 子供を叱る女の声が 鋼を打つ加工屋の音が ガンガンガンと鳴り響く
穏やかな昼下がり 僕はその音を聞きながら 大あくび
■
「ふにゃ……?」
ふと目が覚めて、むくりと顔を持ち上げる。随分と懐かしい夢を見た気がするが、寝ぼけ眼を擦って眠気を払い落とす頃にはすっかり忘れてしまった。
窓の外を見る。陽はとっくの昔に上がっており、夜の闇から逃れた外は、太陽に色付けされてうんざりするほど自己主張していた。
「ニャ……? ニャ……?」
一緒に『ベッド』に寝ていた『彼女』の姿を探して、未だ眠気が覚めていないぼやけた視界で辺りを探ってみるが、覚醒していない頭ではあまりにも荷が重く、探すのが面倒くさくなった僕は二度寝に洒落こもうと目を閉じた。
「いやなに寝ようとしてんだ、この馬鹿」
「ニャッ!?」
その瞬間、僕の頭がボカリとひっぱたかれ、眠気は雲散した。
「痛った~……何しやがるニャ! このあま!!!」
僕はガバッと『ベッド』から跳ね起き、僕の頭をはたいた元凶であるこの家の
手入れの行き届いた真っ黒な毛並み。一部の隙も無い様な引き締まった体。形のいい耳は、僕への怒りでピンと尖っていた。普段は瞳孔の細い黄色の瞳は、怖ろし気に開かれていた。
この家のキッチンアイルー『マサムネ』が腕を組み、心底どうしようもないものを見る目つきで僕をねめつけていた。
「うるせぇわこのスカタン! 今何時だと思ってやがるんだ、このぼけ」
「だったら何ニャ? 僕がいつ起きようが僕の勝手ニャ? 何が悲しくてお前にどうこう言われなくちゃいけないニャ?」
「お前の糞みてぇな腹を満たすための飯を誰が作っていると思ってるニャ? もっとよく考えてから口を開け」
「「あ゛ぁ゛!?」」
『ベッド』の上で息がかかる程互いに顔を近づけながら、僕とマサムネは睨み合う。
部屋の中の冷たい空気を押しのけて、僕らのどろりとした生暖かい殺気が充満する。
一触即発の空気。ほんの些細なきっかけで喧嘩が勃発しようというまさにその時、うぅんと僕らが踏みしめている『ベッド』が身動ぎした。
「「……」」
その様を見たマサムネが一度だけ僕の顔から真下に目を移し、すぐに僕の方へ目を戻すと舌打ちし、それから『ベッド』から飛び降り、すごすごとキッチンの方へ向かって行った。
と、マサムネはキッチンの前で立ち止まり、こちらに振り返ってこう言った。
「
それだけ言うと、僕の返答を待たずにマサムネはこんどこそキッチンへ引っ込んでいった。
「お前に言われなくてもやるニャ」
僕は吐き捨てると、踏みしめている『ベッド』、インナー一丁でだらしなく眠りこける旦那さんの胸の上に四つん這いになり、顔をぐにぐにと突いた。
「おぉ~い、旦那さぁ~ん、朝……ていうかもう昼ニャ。寝すぎニャ。起きるニャ」
「うぅ……ん」
僕の必殺百裂突きを食らった旦那さんは、しかし起きる事無くただ寝ぼけた声を上げると顔を横に向けた。
「おら~起きるニャ~仕事しろニャ~」
「うぅん……うるせぇ~……だまれぇ~……むにゃむにゃ……」
僕はそれでもめげずに頬っぺたを突きまわし、ようやく意識が覚醒しだした旦那さんは白旗を上げる寸前だ。僕が旦那さんに勝利できる数少ない事の内の一つがこれだった。
あと少しで僕は旦那さんを完全に打ち負かせる! そう思うと頬が自然とほころび、目尻が下がって笑顔を浮かべる。
その時の事を想像し、うへうへと笑っていると、キッチンの方から祝福の様な香りがふわりと鼻先をくすぐった。
「むにゃむにゃ……スンスン……これ……は……『ガーグァ』のシモフリトマト煮込みの香り!!!」
祝福は僕だけじゃなくて旦那さんにも平等に降り注ぎ、祝福を受けた旦那さんはキスを受けたお姫様みたいにガバッと跳ね起きた。僕が苦労して覚醒寸前まで持っていったていうのに、あの糞ったれはほんのちょびっと匂いをかがせただけでいともたやすく旦那さんを起こしてしまった。
畜生、その役目は本来は僕のはずだったのに!
なぁんて嘆く間もなく、旦那さんの胸の上に乗っていた関係上彼が勢いよく起きた拍子に跳ね飛ばされ、僕は壁に思い切り叩きつけられた。
「ニャバーッ!?」
「ウオー!!!」
壁に叩きつけられ、無様にずるずると下がり落ちる僕なんかに目もくれずに、旦那さんはベッドから飛び降りると、寝間着の恰好のまま寝室から飛び出していった。
「ぐふっ……くそ」
したたかに打ちつけた顔面を摩りながら、よろよろとキッチンの方へ向かう。
旦那さんはすでに食事を始めているらしく、ガーグァのトマト煮込みをがっついていた。
「もがもがもが! ……ん? 何だお前、今起きてきたのか? 俺より遅いとかとんだ寝坊助だな」
パンを口の中に押し込み、モガモガと咀嚼している最中に旦那さんは僕の存在に気づいたようで、嚥下しながらこちらの方に顔を向けた。旦那さんの隣で同じように飯をかっ食らっていたマサムネがにやりと笑った。
「は? 何を抜かしてるニャこの人は? もしかして自分が起きた時間すら把握出来てないニャ? 五十歩百歩って言葉すら知らないのニャ? もしかして喧嘩売ってるニャ? なめんじゃねぇニャ!」
「オトモ」
うが―と怒りに支配された僕に、旦那さんの声がかかる。
「早く食えよ。冷めちまうぜ」
「うん」
僕は口をゆすいでからご飯を食べ始めた。
「いただきますニャ」
「どうぞ召し上がれ、寝坊助さん」
ヤオザミのスープを啜りながら、僕は目の前のマサムネを睨みつけた。彼女は僕の事を鼻で嗤って受け流すと、流れるような動作で空になった旦那さんのグラスに水を注いだ。
「お、ありがと。お前はどこかの馬鹿と違って気が利くな」
「んふー当然さ! だって私はどこかの馬鹿と違って優秀なんだからね!」
「この糞野郎ども!」
にやにやと笑いながら僕の方へ流し目を向けてくる二人に、僕は憤りを隠せなかった。思わず机に拳を叩きつける。
僕の反応に二人は顔を見合わせると、次の瞬間腹を抱えて大笑いした。
「わ、笑うなぁ!!! 笑うなぁ!!!」
「「ダッハハハハハ!!!」」
止めろと言われてこの二人が止めたためしは一度だってありはしない。今回もまた僕の言葉に耳を貸す事無く二人は笑い続ける。
「……ッ!!! ……ッ!!!」
こめかみがひくつき、顔が紅潮していくのが手に取るように分かる。体を流れる血管が脈打ち、血流がどくどくと流れる音が大銅鑼の様に耳元を木霊した。
「ッッッッ!!! ガァアアアア!!! ガァアアアア!!!」
ついに衝動のままに旦那さんに飛び掛る僕。すかさずマサムネが目の前に立ちはだかり、もつれ合って倒れる。それから立ち上がると僕とマサムネはひとしきり殴り合った。
それを見て旦那さんは机に突っ伏してゲラゲラと笑った。
そうだ。そうなのだ。
マサムネの拳が顔面に突き刺さり、床を舐めながら僕は思う。
これが僕たちの本来の日常だった。旦那さんが僕らを煽り、僕が切れ、マサムネが阻み、僕とマサムネが取っ組み合い、旦那さんがそれを後方から笑いながら見る。
これが僕たちの日常で、そこに他者が入り込む余地は無い。
僕がいて、旦那さんがいて、マサムネがいて。僕たち3人だけの、ちっぽけで閉ざされた世界。
そこに他者が入り込む余地は無い。
そのはずだった。つい一週間前までは。
あの一週間前の出来事の後、僕の世界は少しずつ、しかし確実に変わってしまった。
一ヶ月と一週間前、僕らの前に一人のハンターが現れた。
大した実力も無く、その癖下心を隠しもしないで僕の世界に土足で侵入してきた不届き者。
許せなかった。僕の世界に侵入してきたことにも、僕の世界に不可逆的な変化をもたらしたことにも。
嵐というものは全てを根こそぎ吹き飛ばし、例え過ぎ去った場所が何も変わっていないように見えても、でも確実に何かしら変化が起きているのもなのだ。
あのガキは嵐だった。嵐は一ヶ月もの長きに渡り留まり続け、そして決定的な変化をもたらして過ぎ去っていった。
旦那さんが外行きの衣服『マフモフシリーズ』に着替え、玄関の前で靴をとんとんして整える様を僕はまじまじと見つめる。
マフモフシリーズはこの村の民族衣装のような物で、これさえ着ていれば寒さなんてへっちゃらで、抱き着くとふわふわして暖かいのだ。
いつも通りだ。……旦那さんの顔がフルフルヘルムでなく『ユクモ村』に伝わる編み笠を被っているだけなのを除けば。
『本当なら『ユクモシリーズ』で固めたかったんだが、こんな場所であんな格好なんて沙汰の外だ!』
一週間前の朝、そう言って泣く泣くマフモフシリーズを着て外に出る旦那さんの姿が、脳裏に現れては煙のように霧散する。
「オラ行くぞ」
「……うん」
「うーっす」
旦那さんが歩き出すのに合わせ、僕らもその後ろをくっ付いて行く。
「お、白鬼の旦那! おはよう!」
「おう」
「あ、白雪鬼様! おはようございます!」
「あぁ」
「しししし白雪鬼様お、お、お、お、おはようござざいますすすぅううう本日もお日柄も良く素晴らしい一日でございますね貴方様も変わらずお美しい私はもう一目見ただけで夢見心地から抜け出せませんよところでこの後ご予定などはありますでしょうかなかなか良さそうな茶葉が手に入りましてねどうですか丁度焼き菓子も焼き上がった所ですのでどうでしょうか来ますか来てくれますかていうかもう来いオラそのすまし顔私のアクメ汁でビチャビチャにしてy、な、何をする!? や、ヤメローヤメロー! 私はやったんだー!!!」
「そうか」
旦那さんはかわるがわる挨拶してくる村人を捌き、旦那さんの前に立って危険な兆候を見せ始めた女を別の女が連行してゆく様を僕は鼻で嗤いながら、変わってしまった世界に思わず顔を顰める。
「無駄だぜ? 諦めな」
横で歩いていたマサムネが、前を向いたまま目だけを向けてぼそりと言ってきた。
「……うるさい」
「いつかこうなる事くらい予想できたはずだろ? だったらとっとと受け入れちまった方が身のためだぜ」
僕はそれに舌打ちで返すと、マサムネはため息をつき、可哀そうな物を見るかのように憐憫たっぷりの眼で一瞥すると、視線を前に戻した。
僕もそうした。
旦那さんは定位置である村の出入り口前の焚火で暖を取るネコートの奴と村長と何やら小難しい話を延々繰り広げていた。
〝いつかこうなる事くらい予想できたはずだろ? 〟
その背中を見つめながら、僕はマサムネの言葉を反芻する。
あぁそうだ。お前の言う通り。それくらい僕にだって予想できたよ。いつか旦那さんは吹っ切れて自分の作り出していた壁を取り払うことくらい。
でも、自分の世界に閉じこもる事の何が悪い? 世界に触れなければ成長できないだの傷は癒えることは無いだの、そんな事は本当の意味で傷ついた事の無い奴の戯言も良い所だ。
本当に傷つけられた者なら、傷を負った時の絶望が、向き合う事の辛さが分かるはずだ。分かっているなら、そんな事を軽々しく言えるはずが無い。
僕の世界は一度破壊され、旦那さんのおかげでようやく再生を遂げた。それを再び失いたくないと固執するのはいけない事なの? 停滞する事はいけない事か?
ねぇ神様? もしあんたがいるというのなら教えて欲しいんだ。僕のこの思いはいけない事なの? 何が良い事なの? 悪いことって何? 教えてくれよ。居るんだろう? なあ? 神様よう……。
旦那さんがネコートをひょいと持ち上げ、胸の前で抱きしめる。ネコートはじたばたと暴れるが、旦那さんに顎を撫でられた途端ぴたりと止まり、ぴくぴくと堪えるように震えだした。
いつかこうなる事は分っていた? 畜生、お前に言われるまでも無い。
俯いて、視界に広がる雪が残った地面を見つめながら僕は思う。
そうとも、間違っているのは僕の方なのだ。
隣にいたマサムネが気遣うように肩に手を置いた。僕はその手を振り払い、旦那さんに背を向けてとぼとぼと歩き出した。
村長がキセルから吐き出した煙が目に染みた。
■
僕の目の前に、旦那さんの後頭部がある。今から僕はある重大な仕事を始める。旦那さんの髪を切るという重大な仕事を。
「いつも通りバッサリと頼むぜ。いい加減髪を洗うのが面倒になってきたからな。いっそ坊主にでもするか?」
旦那さんはこっちに振り向きながら、にやりと笑う。
僕は身振りで前を向くように頼むと、旦那さんは「洒落の分からん奴め」と言いながら正面に向き直った。
僕は旦那さんの太陽を彷彿とさせる髪を手に取った。絹を触ったかのようなさらりとした感触に、思わず目を細める。
旦那さんは特に髪を手入れするような人じゃないのに、一体どうしてこうもサラサラになるのだろうか。疑問に思わなかった日は無い。
尤もいくら僕が疑問に思おうが、ある奴にはあるし。無い奴には無い。結局の所そういう事なのだ。
世の中は理不尽だ。一度も荒事を経験しない人だっているし、逆に一夜ですべてを失うような人だっている。
鋏を手に取り、ゆっくりと太陽を切り落としてゆく。切り落とされた太陽の切れ端が、陽光を受けてきらりと輝きながら、ゆっくりと地面に落ちてゆく。
すかさず待機していたマサムネがそれを掃き取ってゆく。
陽が上がり始め、鳥の声しか聞こえない部屋の中に、鋏の音と床を掃く音だけが響き渡る。
鋏で髪を切り落とす度に、僕たちだけの世界が端から少しずつ切り落とされていくような錯覚を覚える。
そのせいで何度もこの手を止めてしまいそうになったけど、僕は手を止めなかった。
僕は確かに僕の世界をそのままにしておきたい異端者だけど、それはそれとして主人に忠実な従僕なのだ。
延々に続くかともいえるような作業は、時間にしてわずか10分程度の時間だった。僕は自分の仕事ぶりに満足感を得ると、旦那さんに顔を上げる様に言った。
旦那さんは顔を上げ、目の前に立てかけられた姿見鏡で従僕の仕事ぶりを吟味すると、舌打ちした。
「おい……」
旦那さんの抗議の声に、僕はただ曖昧な笑みを浮かべた。鏡に映る旦那さんの髪形はいつも通りのショートヘアーだった。
旦那さんには悪いけど、これが僕なりの、変わりゆく世界へのせめてもの抵抗だった。
世界が変わろうとしているのなら、だったらあり方だけでもそのままで。
心が変わってきても、せめて、見た目だけは、僕の記憶のままで……。
僕の眼から落ちた一滴の涙は、床を掃くマサムネに髪と一緒に塵取りに掃き取られていった。
何だこれは…(戦慄)