いろはくん短編置き場 作:放浪するモキュ侍X
年が明けて6日目、いろはは澄み切った空気を肩で切って軽快に水徳寺の階段を駆け上がっていった。
新年というのは家事をやる身には日々と変わらない。午前に昨日まで残っていたおせち・煮しめの器の片付けをして、明日の七草の準備を終えてしまうといろはは時間を持て余した。
そんな時、時女の一党から誘いを受けたのはいろはにとっても行幸だった。
なんでも特製の屠蘇と良い漆器が手に入ったから、簡略的な屠蘇の会をやるので軽い気持ちで来ないかという。
どうにも折り合わない日だった。皆に用事を聞いてみると、やちよは休み明けの仕事の衣装合わせ。さなはういやねむ、かこ達と新刊の打ち合わせをやるとかで明日まで帰ってこない。灯花は今日もみふゆを鍛えている、センター試験まで一歩も家を出す気はないと息巻いていた。
鶴乃は万々歳とはいえかき入れ時なので夜まで仕事が忙しく、フェリシアはとうとう正月料理に耐えかね「フライドチキン、唐揚げ、鶏天、ザンギー」と汚い字で書き置きを残してどこかに行ってしまった。今日まで我慢出来たのは成長と言ってよいだろうけれど。
それならたまには一人で出かけるのもいいかと思い、自分だけでも大丈夫かと聞くと皆も時女も構わないらしいので訪れる旨を告げて、道中土産を用立てて寺に向かった。
鯛はこのようにして海老に釣られるのだ。
お年玉はたっぷりとある、財布重けりゃ心が軽い、時女に惹かれ水徳寺。
「お待ちしておりましたいろはさん」
まだ人の多い大門ではなく勝手口から境内へと一歩踏み入れると、出迎えに待っていてくれたのは土岐すなおだった。
三が日を越えたためか、和装ではなく普段どおりの洋装と、ファーの付いた温かい上着に身を包んでいる。
「こんにちわ、今日はお招き頂いてありがとうございます、これお土産です」
「あらご丁寧に……後で皆と上がらせていただきます」
丁寧に挨拶を交わして土産を渡す。道中の商店街で良い物が余っていた、饅頭や大福の詰合せだ。
土産を横に控えていた一族のものに手渡すと、これ以上立ち話もよろしくないということで、玄関に草鞋風の洒落たスリッパを置かれて招かれる。
靴などを預けると、いろはの後ろでガチャリと固い音がする。通用口と靴入れの鍵がかけられる音だった。
正月でも用心なことだなあと一切の警戒もせず案内されるいろはを、仮面を外した従者たちは微笑ましげに見送った。
履物とコートを預けて廊下をゆく。縁側はすっと風が吹いてセーターごしでも寒さを感じさせる。普段は静かな水徳寺も、今日ばかりは裏も表も騒々しい。
表の方は明日に修正会をやるとかで、和尚たちが準備にかかりっきりのようだ。寺の本格的な行事に関わることの出来ない裏、つまり時女の者たちは清掃くらいしかやることもないので、仕事を終えたものは休憩しているという。
部屋と庭を覗いて見ると、少女たちの羽つき、双六の賽、独楽の音、高らかなるカルタと百人一首の歌声。けん玉に花札とだるま落としまで、子供の頃に少し触れたきりなオモチャがイキイキと遊ばれていた。
「どれも隠れ里から持ってきたものなんです。私は静かに過ごすならワンセグのテレビと堀こたつでいいかと思ったのですが、和尚に里のものには刺激が強すぎるから違う遊びをしたほうが良いよと忠告をもらいまして」
「でしょうねえ……」
日々を悪鬼討滅の鍛錬で過ごす隠れ里にテレビやパソコンは無い。
一度会合の準備でみかづき荘に静香が泊まった時のこと、突如鳴った携帯電話に向かい挨拶する静香を見てフェリシアが「これが昭和人ってやつか」といたく失礼なことを言って、かえでが「本当に現代の人? ミラーズからタイムスリップしてきたみたいだよぉ」と天然で煽り散らしたせいで起こった事件がある。
それはさておき、いろはの知る正月といえばテレビの中にあるものばかりだったが、こうして実際に見ると風情とはこういうものかと得心させられる。
中学に入ってからは気恥ずかしいので離れていたが、コンセントの要らない遊びも良いものだ。
帰りにういに何か買ってあげようか、いや父さんがそうやって母さんに何も言わず衝動買して怒られていたなあと昔を懐かしむうちに、いろはは以前も通されたことのある客間の更に奥へと案内させられた。
前よりは狭い部屋だが、茶会には良いのだろう。近くに垣根があってか先程までの遊興の音が遠い。
「当主様がお待ちです、ごゆるりと……」
音も立てず開かれた障子戸の向こう、当主と呼ばれる少女がこちらに微笑んでいる。
格好は数日前に画像が送られてきた“初日の出”という装いともまた変わっていた。簪で髪を整え、部屋向けの淡い紫の下から白と黒が覗く着物に身を包んだ美しい格好の少女だった。
「改めまして、時女一族当主の時女静香と申します。本日は良い屠蘇が手に入りましたので、三が日に遅ればせながらではありますが、健康への祈りを込めて略式の屠蘇会を行わせていただきます」
用意された座布団に座ったいろはへ粛々とお辞儀をする静香の髪から手の甲と同じ白さのうなじが覗く。
「神浜マギアユニオンの環いろはです。本日は屠蘇会にお招きいただきまことにありがとうございます」
どうだろう、返事はこれでいいのだろうかと思案しながら頭を下げる。返事がない、そして頭をいつ上げて良いのか分からない。
静香も顔を上げられなかった。化粧の仕方は間違えていないか、この格好は重すぎやしないか。いっそみかづき荘に出向いて良かったのではないかと思考が回転している。
お辞儀をしたまま固まってしまった二人に声をかけたのは障子の向こうで待っていてくれたすなおだった。
「それでは私はこれで失礼します。廊下を渡った先の部屋にちゃるたちが詰めておりますのでお困りのことがありましたらお声掛けください」
すっすと立ち去るすなおの足音に合わせて顔を上げる。目と目が合う。狭い部屋にいるからか、何故か気恥ずかしい。
気のせいか、ほのかに懐かしい香りがした。
用意された道具は良いものだった。
時女の家紋が入ったお盆には盃台と三段盃、紙上に置かれているのは州浜などの練り菓子。
「本当なら昆布と干しアワビ、栗などが良いのですが、略式ですし菓子とさせていただきました」
それはいろはにも嬉しい話だ。アワビはさておき、昆布は昨日まで毎日食べていたので見るのが嫌だった。
銚子は二つ、赤と黒の深い光沢のもの。
「2個ありますけど……」
「はい、なんでも黒と赤の順に飲むと良いとかで、黒は甘くしたみりん、赤は果実水で作ったものだそうです」
「そうなんですか」
いろはは疑問に思わなかった。実は屠蘇というものを初めて舐める程度に飲んだのがつい先日のことで、まだよく理解していなかった。
静香も二つあることを疑問に思わなかった。こういう形式もあるのだろうと考えていた。
お互いに黒を盃に注ぎ、掲げて互いの健康を祈る言葉を送る。
一年息災であるように、いい年であるように。
それから二人、同時に盃を空にした。
(……あれ?)
不思議なことにすっと飲めてしまった。前に飲んだ時は舐めるだけで精一杯だったのに、香りに誘われるがまま飲み干した。
美味しい、鼻から抜ける不思議な香りと味だ。良い屠蘇とはこういうものか。
静香も同じ心地なようで、頬をほころばせていた。
「素敵な味ですね」
「ええ」
一杯で心がほぐれる心地だった。ではもう一杯と注ぎあったところで、いろはは静香に皆のように遊ばないのかと聞いてみた。
「里に帰った時に気を抜いたから大丈夫ですよ。それに私は当主なので、そういう場に顔を出すと気を使わせてしまうんです」
そう言われてしまうと、やはり偉くなるとそういうことに気を配らなければならないのだな、としきりに感心するしかなかった。
そのまま一口、やはりすんなりと飲めるし菓子にあう。これが良いものと市販品の差なのか。
「このまま飲んでばかりというのもいけませんね。どうです、なにかしてみますか?」
「ううん……それもいいかもしれませんね。ここにも何か置いてあるんですか?」
「はい、こちらに来る前母に相談したらこういうものを渡されました」
日の差す丸窓の下から静香が何か小包を見せる。よく見るとそれは風呂敷だった。
お手玉・扇・丸と平のおはじき・紙とハサミ、他にも何やら色々なものが入れられていた。
最初、静香はよく遊んだというお手玉を選んだ。最初は二個、そこにいろはが一個と投げ入れるたび、見事なジャグリングの腕前を披露してくれた。
「どうですか? 村では同年代で一番だったんですよ」
凄い凄いと拍手するいろはに気を良くして静香は再び注いだお屠蘇を飲んだ。とても楽しそうだ、ここまでにこやかにしている静香は見たことがない。
つまりこの時点で異変に気づくべきだったのだが、そうとはならずいろはもモノを選んだ。
おはじきと福笑い。以前テレビでで見た和風の格好をしていた女性たちがやっていた遊びの変形。
少し遠くにオキナの輪郭を置いて、左手に平のおはじき、右に顔の部品を握る。
じっとこちらを見守る静香の前で、少し深呼吸したいろはは輪郭に向けて手首の力で紙を投げた。
さながら手裏剣のように紙が飛んでいく、輪郭の上に差し掛かったころ、いろははおはじきを弾き紙を輪郭に落とした。純美雨が一度見せてくれた指弾の技の真似事だった。
流れるような手付きで紙、おはじきと流れを繰り返し、眼耳鼻眉口の紙をおはじきの重みでいびつな向きに揃えていく。最後、ひげを斜めに落としたところで終了となった。
今度は静香が手を打つ番だった。
「お見事、面白い芸ですね」
「ありがとう、年越えてから夜中なのに急に鶴乃さんが言い出してかくし芸やりたいって話になったから……その時は凄い顔になったけど」
披露した時は顔でさえ無い物体が出来上がった。今回は場所が合っているだけうまくなったと実感する。
緊張したし、屠蘇をもう一杯と銚子を持つと軽い。もう空になっているようだった。
「ずいぶん飲みましたねえ……それじゃあ赤い方を飲んでみません?」
いいですね、といろはは浮いた気持ちで盃を持った。静香に至っては鼻歌を歌っている。それに合わせて体を揺らす、世界も揺れる。
ふとかがんだ静香のお尻を見てしまう。綺麗な形だな、そこそこ前、触れた時は柔らかかったなと玄関にあった鏡餅の形を思い出す。
いけない、思考が変な事になっている。珍しい遊びが楽しくて浮かれているのか。
心の定まらないいろはの盃にトクトクと音を立てて赤の屠蘇が注がれる。
甘辛い臭い、つんとする。果実だろうか。
ただ疑念をはらさんと、いろはと静香は乾杯した。
「どっぺるー!」
ヤバい、これただの屠蘇じゃない。飲み干してすぐ、いきなり壊れた静香を見たいろはは平静を取り戻していった。
赤い銚子の屠蘇の味は良い、何杯でも飲めそうだ。しかしその衝動に身を任せたらどうなるか。
「どっぺるー! どっぺるー!」
静香は完全に理性が吹っ飛んでいた。背中からいろはに二人羽織のように抱きついては離れ、抱きついては離れ、おそらくは形態模写と思われる動きを繰り返している。
麻か絹か、よく分からないが着物越し、肌であると分かる胸が当たっては離れ当たっては離れ。喉をうなじにこすりつけられるくすぐったさに肩が震え、髪にあたるおでこの暖かさが脳に感染る。
屠蘇以上に、静香で理性が融解しかかっていた。
「おいしいですねいろはしゃん」
「え、はい」
崩れた着物をそのままに盃からもう一杯、口の端から胸元に露が零れるままに飲み干す。いつもの静香からは想像もつかない品性を欠いた振る舞いに、いろはは困惑と興奮が押し寄せてくる。
(人を呼んだほうが良いんじゃないか)
揺れ動く視界の中でいろははようやく察した、どう考えても静香は正気ではない。
ちはるかすなおを呼んだほうが良いだろう。
というか、そもそも屠蘇ってなんなのだ。やちよさんの反応と味からおめでたい時に飲む漢方薬の類と思っていたが、もしかして違ったのか?
結実しないままに流れていく思考を一つでも片付けるため、スマートフォンの力を借りようとポケットに手を伸ばす。
その瞬間手を取られていろはの体が引き寄せられる。壁にもたれかかった静香が足まで使って抱き枕のようにいろはを正面から抱きしめてしまった。
「え、ちょっと静香さん!?」
「じつはききらいころがあんれすけどいいですか」
肩に太ももの付け根と四肢の起点を抑えられてしまい、体を動かせない。正気を失ってなお静香の体に染み付いた武術は活きていた。
「あの、後でもいいですか、僕ちょっと外の空気を……」
「といいち、すこしまえおおむかしの仏蘭西にいかれたのはほんろう?」
「え、はい、中世フランス、夢経由でとんでもない魔女が攻めてきたから撃退に行きました。あの、離して……」
必死に身をよじって逃れようとしたが出来なかった、猫のようにこすりつけられる匂いと吐息でいろはは力を奪われていた。
「といに、そこでですね、こう、しんじらんないのをちょうせーやーーさんからおききしたすが、どうなんすか」
「はい?」
激闘でズタボロになった体を治して貰う時は、どうしても入院の形をとらなければならないので調整屋に泊まる。
そこで確かに報告をまとめるため見聞きしたものをそのまま伝えたが、静香は何が気になったのか、さっぱり思いつかない。
「ええっと、何のことです?」
「だーかーらーですね!」
からだを締め上げられて肺からぐえっと空気が漏れる。服越しに、素肌になった静香の肩の感触が伝わってくる。
「ややこ(稚児)をこしらえたまほうしょうじょがいたってほんとうですか!」
紅潮した静香の顔を覗き込んで、いろははゾッとした。自分は食べられようとしているのだ。静香の笑みはそういう笑いだった。
「ほんとうですか、まほうしょうじょでもははになれるんですか」
服と服が擦れ、壁とセーターが擦れ、静電気の音を放つ、静香の手が畳に倒れ込んだ自分の体を這い回る。
「ではこのとうしゅがじきじきにてほんとしてさとにはびこるみこしばのうすぎたないちををうすめるとしましょう」
口と口が合わさる、いろはの屠蘇と静香の屠蘇が混ざり合う。乱暴に口づけされた味が、いろはに赤の正体を示していた。
「ぐえっ」
「おいおい、そんな風に焦って飲むもんじゃないよ」
ゲホゲホと必死に咳き込む少女の背中を擦る。
潰されたカエルのようなゲップで飲んだものを吐き出したちはるに、涼子は冷たい水を差し出した。
「どうも……あの、これ何?」
「何って」
聞かれてもこうとしか答えようがない、困り顔もせず悠々としたままで涼子は床にぶちまけられた飲み残しを指差した。
「屠蘇だよ屠蘇、時女の集落でも飲むんじゃないのかい?」
「いやこれどう考えでも…………何で割ったの?」
「みりんと果実水」
「探偵モードじゃなくても分かるよ、“どんなみりんと果実水”っすか? ちゃんと答えてくださいね」
そこまで詰め寄られるとは涼子は思っていなかった。そもそも、自分用に残しておいたコレをちはるが手を付けたのが予定外だった。
こうなったちはるを誤魔化すことは出来ない。座椅子にもたれてスマホで正月番組を見ながら知らぬ存ぜぬの態度をとる言い出しっぺのすなおを睨めつけてから、涼子は気まずそうに語りだした。
「その、氷砂糖で作った自家製“みりん梅酒”と、九州の時女から屠蘇とセットで年末寺宛てに送られてきた“フルーティーな赤酒”だ。それをシロップとかで割って飲みやすくした」
「神妙にお縄に付きやがれ!!」
ちはるの絶叫が響く。思わず魔法少女に変身して十手を取り出した少女を迎え撃つべく構えた瞬間、涼子たちの耳にバリバリと何かが裂ける音が届いた。
火照った様子の半裸のいろはだった。ぐでんぐでんになった同じく半裸の静香を抱えて障子戸ごと廊下に倒れてきた。
「すいません、静香さんが目を回して気絶したんですけど!?」
あーあーと顔を覆う寸前、ちはるは見た。涼子の笑い、すなおの微笑。涼子のしたり顔、すなおの薄眼。
「ふしだらです、助平です」とか言いながらも一番いろはにくっついて周りを牽制する時女は静香。
会を開いていろはさんを静香におもてなししてもらおうと言った時女はすなおで、静香が肝心な時にダウンするような屠蘇を用意した時女は涼子。
ごく自然に、予定調和の足取りでいろはのもとに駆け寄るすなおを見送って、さてと立ち上がった涼子にちはるは冷たい目を向けた。
「涼子ちゃんってば煩悩が溢れてるよ」
「いやあ、あたしは早寝早起きが自慢でね。去年の暮れは大晦日に鐘の音を聞かないまま寝ちまったのさ」
オン・マカラギャと愛染明王の真言を唱えながら悠々と歩いていく。
ご当主様はお休みだ。それなら私達がご当主様に替わって火照った客人をもてなそうではないか。終わった後に怒られるのを分かっていながら馬鹿な真似を企んだ二人を見送って、ちはるはため息を付いた。
「三千世界の烏を騙し、桜の木の下一眠り、烏が眠りゃあ昼も夜……」
ポケットに入れた探偵等々力に出た都々逸を変えて高らかに歌う。悪人なら捕まえてやるが、男と女はそうはいかないのが困りものだと一人等々力の物真似をして、ちはるは曇り空を仰いだ。