いろはくん短編置き場   作:放浪するモキュ侍X

9 / 10
某所でリクエストされた品、同時にろくなプロットを用意せず書くと冗長になって暴走するという戒め
一気に書き上げるのではなく、毎日ちまちまとノルマ決めて書いたのでいつもより全体の整合性は低いかも。余裕ができた頃に徐々に修正しておく予定。

一部表現がある勢力に対するアンチ・ヘイト表現と感じる可能性がありますのでご容赦願います


鏡の国のいろは

「こんなこともあるのねえ」

 

 古びた映画館の一室、美しく清掃の行き届いた部屋、整えられたテーブルセットと茶器。そして鎮座し客人を迎えたのは無断占拠の見目麗しき女主人。

 部屋を飾る美を冒涜するようにチリソースとケチャップとあと兎に角赤いのをぶちまけられたベリーケーキを食しながら、八雲みたまは環いろはをまじまじと見つめた。

 

「良かった、本当にみたまさんなんですね……」

 

 少女はみたまの悪食に安堵し、横の少年はこれが世界を超えた普遍的な事象であることに恐怖した。全ての世界で一体どれほどの食が虐待を受けたのか。

 

「それで、その、私はどうすれば帰れるんですか?」

 

 少女は不安げに尋ねた、環いろはという少女であった。

 

「ミラーズに帰るための鏡があると思うんだけど……」

 

 少年は思案して答えた、環いろはという少年であった。

 二人の間にはさまれ、環ういは困惑した。義理のお姉ちゃんができるのはもう少し、あるいはそこそこ先だと思っていたからだ。

 

 

「うい!」

 

 ういが己の鏡像を打ち砕いた瞬間、思わずいろはは叫んだ。床に散らばる硬貨がこちらをあざ笑うが、それでも心配せずには居られないのが兄心だ。

 そうさせる鏡だった、ひたすら臆病なふりをしてわざとらしく媚を売り、ごめんごめんと下手に出てこちらの命を奪わんとする小悪魔だったのだ。

 

「平気だよ、お兄ちゃん……?」

 

 きらきらと輝く鏡であった破片の粒子越しに、ういは不審がった。

 いろはの背後、先程まであったカーテンが戦闘の余波で切り裂かれ、隠されていた鏡が自分たちを捉える。

 その中にもう一人いろはが居た。

 すわ連戦かとツバメを呼び戻し、いろはもういの視線に気付き慌ててクロスボウを向ける。

 

(うい、うい!)

 

 鏡のいろはは叫んでいた。唯ういを見つめ、いや見つけ、弓ではなく手を向けた。

 いろはも異変に気付いた。偶像の魔法少女は何もかも逆しまだが、鏡の自分は同じように左手にクロスボウがあった。

 おかしい、入り口まで引き返そう、そう言おうとういの方に向き直る。いろはは見た、自分たちに向けられた大きすぎる鏡を。

 トリックアートと言うべきか、“そちらの壁は全て鏡”だったのだ。

 

「合わせ鏡……」

 

 呟くと同時、鏡に映る真の壁で使用人たちが動き出す。思わずういをマントの内側に庇ったいろはの周囲の全てが早回しされた星図のように幾何学の陣を描く。

 

「うい!」

 

 はたしてその叫び声はどちらだったのか、秘められし力全てを吐き出すように砕け散った鏡の残骸の中、少年と少女は向かい合った。

 環いろはと、環いろはだった。

 

 

 日が真上に届く前、フェリシアはリビングで宿題をしていた。

 今日は土曜なので日がなゲームセンターとフライドチキン屋の往復で時間を潰すつもりだったのだが、玄関で待ち構えていたやちよに捕まった。

 一週間かけて宿題を溜め込んだのがバレたのだ。

 仕方なし、説教された後さなとやちよに見張られてみっちりと勉強させられる羽目になった。

 爪と消しゴムの汚れに途切れた集中力を奪われながらも、更に残された集中力で宿題を終わらせ、ない。鼻をくんくんとやちよの背中に向けて昼御飯までの時間を探る。

 きゅるきゅると鳴り始めた腹がやかましい。炒めものか、焼きものか。これが揚げ物ならいいが違うようだ。

 残念そうに筆箱と消しゴムで積み木遊びをして気を紛らわせながら、訓練に行ったいろはたちのことを考えだした。

 

「もう……いろはくんとういちゃん遅いね」

 

 さなも二人のことを気にかけていたようだ。

 手を抑えてフェリシアの遊びを咎めながら、自分は宿題ではなく予習をしているさなは心配そうに時計を見た。

 昼までに帰ると言っていたが、連絡がないままご飯の前になった。ミラーズにいるはずだが何かあったのか。

 

「また女絡みのトラブルならいいよなあ」

「え、どうして?」

 

 不謹慎なコトを言い放ったフェリシアにさなが驚きの声を上げる。

 

「いろはが女絡みの事件に巻き込まれると、やちよの飯の味付けが濃くなるんだよ」

 

 ストレス解消なのだろう。さなやういには不評だが、フェリシアには何故か懐かしく好きな味だった。欠点は、気を遣ってくれるのか、毎度自分たちの見えないところでいろはとやちよが喧嘩になることか。

 喧嘩は深夜に及ぶらしく、少し前のこと、夜中にトイレに行った帰り道でいろはの部屋から互いを呼ぶ声がしていた。

 柔らかにもののぶつかる音も収まった頃、やちよのすがるような好きという声を聞いて仲直りしたのだと分かり、その日は快眠出来たのを覚えている。

 

「…………」

「おいおい、どうしたんだよ?」

 

 急に自分を抱きしめたさなを頑張って剥がそうとするが、あまりに慈愛のこもった圧力に力の返しようがない。

 そのまま「フェリシアちゃんはそのままでいいと思う」とワケのわからないことを言われてフェリシアは困惑するしかなかった。

 さなとやちよのソウルジェムがテレパシーか何かで明滅してるのを感じながら、フェリシアは明日までに終わりそうにない宿題を枕にして勉強以外のために教科書を一瞥した。

 

 玄関のベルが鳴ったのはそんな時だ。いろはだろうか、と思って立ち上がる。さなも立ち、やちよはエプロンを置いて髪を解いた。全員で迎えに出る流れだ。

 ただフェリシアから見て二人の様子がおかしい。絶妙に顔がひきつっている。

 魔力を探ると反応は4つ、うち二人はこの距離でもいろはとういだと分かった。一人は調整屋、そしてもうひとりは魔法少女だから、間違いなく女だろう。

 

(よっし、フライパンに醤油とバター追加だ)

 

 この後の食事に期待しながら足早に二人の跡を追う。遅れて玄関に着くと予想だにしない光景が広がっていた。

 いろはがいる、ういがいる、みたまがいる。そしてもう一人は……

 

「……何が起こったの?」

 

 唖然としたやちよに留守組は全員同意した。最後の少女もいろはだったのだ。

 

 

 

 困惑の続く中、勝手知ったる手付きで菓子などを用意しようとするみたまを必死に抑え込み、急遽呼び出された鶴乃が合流してから会議は始まった。

 家族会議は久々だ。フェリシアとしては、議題以上に宿題が流れたことが有り難い。

 自分が間違えてやちよ用のシャンプーを使った時のような白けた緊張感に身を委ねながら、フェリシアは出されたジュースのお代わりはいつねだればいいかを窺っていた。

 

「平行世界のいろはくんはいろはちゃんかー」

 

 鶴乃のまとめ方は簡潔だった。つまりはそう、現状を理屈抜きで認識すれば一言「女のいろはが増えた」で済む。

 問題は“これからどうするか”だった。

 

「いろは、ミラーズに使えそうな合わせ鏡はなかったの?」

「はい、ミラーズに戻って見回ったんですが……」

「あ、ありがとう……」

 

 やちよは男のいろはに話しかけたつもりだが、返事が帰ってきたのは女の方だ。

 声変わりの始まっている時期なせいか声は意外と似ていないが、無意識に判別出来るほどの差異ではない。

 

「ええと……ごめんなさい、環さんって呼んでいいかしら?」

「構いません、こっちのやちよさんにもご迷惑をおかけして……」

「私もそっちにはいるのね」

「はい、フェリシアもさなちゃんも鶴乃さんも、みかづき荘の皆は変わりありませんね」

「僕だけが違うのか……」

「うん、何でだろうね?」

 

 二人して考えても、別に分かる理由も無い。同じような顔で同じ仕草、違う性別。鏡写しになった二人を周りは物珍しそうに見つめるだけだ。

 それで、と今後の話を切り出したのはみたまだ。彼女はミラーズの管理者として早急に事態を収束させる必要があった。

 

「平行世界の人間が近くに居続けてどうなるかなんてキュウベエに聞いても答えが帰ってくるか分からないし、今日明日には決着を付けたいの。みんな今すぐ動けそう?」

「問題ないわ。明日は夜からラジオの仕事があるけど、終わり次第合流するわね」

「仕事の時間以外は大丈夫かなー? 今も仕込み終わったところだから一旦帰らないといけないんだけど……」

「私は、学校のお勉強は終わりましたから……」

 

 大学生と実家の手伝いは仕事の時間以外は手伝うつもりだった。さなも勤勉さの発露で行っていた自主学習なので大いに時間がある。

 

「オレもいけるぜ、今回の代金はまけといてやる」

 

 フェリシアの発言で全員が机を見た。手つかずの英単語と数学の教科書とノートが見事な砦を作っていた。

 

「……フェリシアは宿題ね。浅い鏡層に皆で行っても手狭なだけだし、他の待機組に見張りを任せるわ」

「えええーーーー!?」

「フェリシアちゃん、私のことはいいからお勉強頑張って、ね?」

 

 がっくりと膝をついたフェリシアの背中を環が撫でる。その手の暖かさはまぎれもなくいろはと一緒で、えもしれぬ安心感があった。

 これでかけてくれる言葉も暖かければなあ、と思いフェリシアはいろはを覗き込む。

 

「……いろは?」

「どうしたの?」

 

 やちよは無理だろう。鶴乃も、さなもういも、いろはさえ。

 フェリシアだから気付いたことがある。少女のいろはは自分に似ていた。みかづき荘に住む前、鏡を見てしまうと否応なく目に入った昔の自分を見ているようだった。

 

「なあ、じゃあまずはいろはとういが宿題手伝ってくれよ」

 

 ホワイトボードにシフト表を書き出したやちよに声をかける。どちらのと聞き返すまでもなく、フェリシアは“環さん”の手を握りしめてブンブンと振りまわした。

 

 

 

◯1日目(土)、午後

 待機、フェリシア・環・うい

~ういの報告~

「環さんだと他人行儀すぎるし……でもお姉ちゃんって呼んだら、鏡の向こうの私の居場所を取っちゃうことにならないかな」

 

 

 昼も過ぎて、やちよたちをミラーズに送り出した後のみかづき荘のこと。

 付き合いの長くないういから見ても、今のフェリシアは様子がおかしかった。勉強こそ大人しくしてみせるが、何かと理由を付けては離席する。

 そうするとういは環と二人きりになってしまう。後から考えると、これはフェリシアなりの環への気遣いだったのかもしれない。

 初対面の時から、二人の間には何とも言い難い空気があった。ういは環のことを知らない、しかし環はういのことを知っている。

 灯花とねむが居たらこの説明のつかない気持ちを整理してくれただろうか。だが、例えばジャンヌ・ダルクたちのように、あらざる因果を過度に紡ぐのは時空に対して良くない結果を与えると身を持って理解している。

 これ以上彼女の存在を知る人を増やすのは良くないというのがみたまの見解に、時空間や因果の知識などチンプンカンプンな皆は唯々諾々とするしかなかった。

 午前の疲れで会議からずっとうとうとしているういはこの程度の考えしか浮かばない。では環はどうしているか。

 

「授業の進み具合まで同じだなんて変な感じ……」

 

 フェリシアの教科書を見ながら口を抑える彼女はごく自然体だった。

 教えられるでもなく茶器や茶葉の場所を知り、やちよの手伝いで作った料理はやはり――いや兄よりも少々味が薄く、今のようにペンをもつ仕草は兄にそっくりだった。

 もし兄が双子で、自分に姉が居たらこういう既視感と共に育ったのかなと、そういう物語のような妄想にふけるくらいしか今のういには遣ることがなかった。

 ただ少し変なところもある。

 玄関の横にある花、ゲームセンターのぬいぐるみ、商店街の景品、家政婦さんにプレゼントされたまな板、都さんがくれた化学の入門書、自分とフェリシアとさなは断じて近寄ってはならないと厳命された来客向けの棚、他にも多くの雑貨。

 そういったモノを見る時、環さんは急にほうっとして瞳が揺らいでいた。その後にあれは何と聞かれるそれらは主に兄のものであった。

 ういから見た兄というのは、言いづらいが、きっと父母が仔細を聞くと卒倒するかもしれないプレイボーイの類ではある。そのせいか、家主(やちよ)が機嫌が悪くならないギリギリのラインで多くの贈り物をされている。

 生花の先生から貰ったというアネモネの花とやちよさん宛のタンジーの造花、まなかさんの料理教室に参加して貰った計量カップ、レナさんたちとゲームセンターで掴んだ景品、そうした女性たちと紡いだ因果の記念(イベント報酬)だ。

 すいません家主のラインはたぶん越えてます。

 内心で申し訳ない気持ちを抱きながらも、色々と省略して魔法少女からの感謝の贈り物だと環さんに伝えると、彼女はそっけなくふうんとつぶやいた。

 何故か不安になる。

 彼女の表情が、まさしく兄の我慢強いという悪癖が発露した時そのものだったからだろうか。

 

「……ねえういちゃん、変なこと聞いていい?」

「なんですか?」

 

 自然と他人行儀のようになってしまう返事は、もしかすると環を傷つけやしないかという不安がよぎる。しかし気にした様子もなく、環はういを見つめて言った。奇妙な質問だった。

 

「この世界の私ってどんな人?」

「わたし、きっと答えられるほど今のお兄ちゃんのこと知りません」

「そうなの?」

「友達は多いみたいなんですけど……離れてる間に違う人になっちゃったように感じることがあって」

 

 自分が魔女になりかけている時間は客観的には短かったが、その間を神浜で過ごした兄にとっては非常に濃密な時間だったようだ。仲の良かった二人以外に義姉の候補がたくさん増えて、まだまだ声変わりも終わらず愛らしいだけだった兄は多少なり男性的になった。

 兄とマギウスの3人だけで出来た狭い世界は、起きてみると途端に広がっていて、兄は見知らぬ人たちと過ごす時間も増え、一部ではねむがブックカバーで誤魔化してバレていないつもりでいる小説のような関係になっているらしい。

 そうやって、一年と少しで人間としての奥行きが急激に広がった兄のことをまだ自分は全然知らない。

 

「でも、たぶんこれからは離れることもありませんから、もう一度自慢のお兄ちゃんって言える日も近い気がします」

「そっか」

 

 環さんの顔は笑っていた。でも、ういの見るその眼差しはちっとも笑っているように見えなかった。かといって怒っているわけではない、悲しんでいる様子ではない。ただ耐えている、まるで兄のように。

 

「ういが幸せそうで良かったよ」

「お姉ちゃん」

 

 ういがそう呼ぶと、一瞬環の目の色が抜け落ちた。ういにはそう見えた。

 

「お姉ちゃんは向こうでどんな人だったの?」

「ういちゃんのお兄ちゃんとあまり変わらないよ、私もお姉ちゃんだったんだから」

 

 そう言って彼女は困ったように微笑んだ。ういの知らない環いろはの顔だった。こっそりと様子を窺っていたフェリシアはただため息をつくしかなかった。

 

 

~フェリシアの報告~

「勉強しろってうるさい、料理の味は薄い、わざわざしなくてもいいガマンしやがる……やっぱり、女になってもいろははいろはなんだな」

 

 

 

◯1日目(土) 夜

 探索、やちよ・みたま・鶴乃・環

~環の報告~

「みたまさんが凄いもの食べてて、やちよさんの料理もいつも通りだから、万々歳の料理はこちらでも50点だって思ってたんですけど……違っていた物もあったんですね」

 

 

 月がくっきりと光る様になった頃、あくびが目立つようになったさなをいろはがエスコートしてみかづき荘に帰ってきた。

 それと交代で、時間を作ってみかづき荘に待機してくれた鶴乃が環とともにミラーズへ向かい、みたまたちに合流することとなった。

 念には念を入れ、環はみたまが用立てた羽根のローブだったものを被っている。環にしてみればここまで隠さなくてもいいと思うのだが、やちよの警戒は尋常ではなかった。

 

「でも似合ってるからいいんじゃないかな~?」

 

 大荷物を抱えた鶴乃は呑気そうに鼻歌交じりの返答をした。お揃いの格好だ、一人だけいつもと違う服を着せるのも悪いと言って自分も羽根のローブを纏ってくれた。

 

「いつも気になってたんだけど、あの鉤爪ってローブに仕込んであったんだね」

「鎖が伸びる理由が分からないんですけど……」

 

 空いた手をひょいと降ってみれば金切り音を立てて鉤爪が飛び出した、他にも色々と仕掛けが施してある。これも着るウワサの一種なのだろう。

 夜食用の手作り中華弁当を抱えながらも、鼻歌まじりで器用に遊んで見せる鶴乃は実に楽しそうだ。

 その鼻歌はいろはの知らない曲だった。例えば親が懐かしがっていたような、そういう90年代の曲調。

 

「鶴乃さんのその歌初めて聞きますけど、なんていう曲なんです?」

「これ? やちよししょーの持ち歌だよ」

 

 環は声を上げて驚いた。環の知る七海やちよはモデル業をやっていたはずだが、こちらの世界では歌手なんだろうか。

 そう聞くと鶴乃は軽く違うよと答えた。

 

「ジュニアアイドル時代にししょーがテレビのカラオケ大会で歌ってたの、実家にあった古いラジカセの中に音だけ残ってたんだ」

「やちよさん、歌うんですね」

「違う曲のCDも出してたらしいよ、機会があれば聞いてみたいよね」

「今度おねだりしてみましょうか」

「いいねえ~!」

 

 鶴乃の歌に一つ遅れて輪唱しながら夜道を行くと不思議と温かい気持ちになった。

 やや急な斜面の坂もなんのそのと登っていくと、鏡屋敷の大きい屋根が見下ろせる下り坂へと続く。ミラーズまではもうすぐだ。

 

「疲れてきたでしょ、はいこれ」

 

 風で汗を拭う環のために鶴乃は包みを一つ解いた。中にあったのは月餅やアーモンドクッキーといった中華の菓子だった。

 

「うちの新商品、道中お腹が空くと思って余ったのを持ってきたんだ」

「あ、ありがとうございます」

 

 鶴乃の気遣いは嬉しかった、事実、軽い夕食を済ませた後とはいえ、この後に戦闘を行うことを思うと口が寂しい。

 二人して菓子をかじる。鶴乃は出来に満足したがいろははその味に瞠目した。

 

「どうしちゃったんですか……!?」

「え、なにが? ひょっとして苦手な味だった?」

「美味しいんです、万々歳のお料理なのに!」

「酷いよ!!」

 

 思わず立ち止まった鶴乃は涙目だが、環に言わせればこれほど衝撃的なことはない。この世界に来た時と同じレベルの動揺が環を襲っていた。

 

「どうしたんです鶴乃さん? もしかしてこの世界の鶴乃さんはキュウベエにこれを願ったんですか?」

「さらっと辛辣なとこまでそっくりなんだ……違うよ、あのね、よく聞いて?」

 

 このお料理は皆が開発を手伝ってくれたんだよと、そういう鶴乃の微笑みは環の知らない鶴乃のものだった。

 女性的というのか、自分には向けてくれないと自然に察する事のできる表情だ。

 

「西から東まで、いろはくんと神浜を飛び回って色んな魔法少女と知り合うことになったからね。弟子入りして監修してもらったの!」

 

『味付けもですが、まず店内の整頓からですね、 お安めの町中華でも限度がありますよ! 厨房と客席こそ最大の調理器具です!』

『今以上の食材を揃えられなくても大丈夫! スーパーで買えるお野菜も、商店街のお魚も、もう少し下ごしらえすればみんな美味しくなるんだよ!』

 

 たとえサイキョーでも料理は上がいるし、過度な向上心を抱くと果てを見失う。

 自分一人でそこにたどり着けなかったことは悔しいが、胡桃まなかの心得と若葉つむぎの舌を頼って美味しいと言ってくれる人を少しでも増やすことを選んだ鶴乃はクッキーを口に放り込んで坂を駆け下りて行く。

 いろはは少し間を置いてから下り坂へと一歩踏み出した。知っているはずの眼下の景色がまるで見知らぬ街であるかのような不安さを抱えたまま。

 

 

~鶴乃の報告~

「笑顔は満点! 料理はそろそろ60点! 万々歳をよろしくね! ……宣伝じゃなくて報告?」

「といっても、あの後ししょーたちとミラーズを見て回っても何もなかったし」

「うーん、環ちゃんの帰り道って本当にあそこにあるのかなあ」

 

 

 

◯2日目(日) 早朝

全員準備期間

 

 目を覚ましたやちよは鳴る寸前だった目覚ましを止めた。一人分には大きい寝床に今日は自分だけ。

 いつもどおり夜明けより少し前に起きたが、鏡の屋敷で夜ふかしをしていたせいで少し眠気が強い。体温とベッドのぬくもりが磁場になって引き合っている。

 それでも、のそりのそりと部屋を離れ、洗面所で最低限の身だしなみを終えられるのだから、習慣の持つ力とは不思議なものだ。

 いろはと暮らす前は誰か居る時も気を抜いてだらりとしてしまうことがあったが、異性の目があると少し緊張しているのか、悪くない刺激になっている。

 結婚した後なら、もしかするとスッピンを見せてしまうことがあるかもしれないなと、かってに未来図を考えながら居間に出る。そこには鼻歌が流れていた。

 ――いろはの声だ。曲は、何故だろう思い出したくない。

 卵黄に熱が通る匂いに添えて、包丁がまな板を叩く音と鍋で湧かすお湯の音の伴奏がとても心地よい休日の朝だった。

 

(なのにどうしてかしら、いたずらしたくなるわね)

 

 エプロンを付けたいろはの背中を見ているとそういう気分になった。子供でもあるまいし、らしくもなく浮かれているのだろうか。包丁を持っているのだから流石に本当にやるつもりはないが、足が勝手にそろりそろりと動いてしまう。

 時に自分の素肌にしてくれるように背中や耳裏を指ですすと撫で付けてみたい――そういう指先を作って遊んでいると背後から階段を降りる足音がした。

 

「ふぁぁ……お早うございますやちよさん」

 

 背後から急に聞こえてきたいろはの声を聞いて、やちよは気が動転しなかった自分を褒めてやりたくなった。

 昨日の今日なのにうっかりしていた、今は二人いろはが居るのだ。洗面所に向かったのが男のいろはだから、料理をしていたのは女のいろはか。

 やちよは今日の朝の家事担当が誰であるかを忘れていた、シフト表まで組んであるのに――カウンター越しで肩までしか見えなかったからに違いない。

 

「あ、おはようございますやちよさん。起きてらしたんですね」

「ええ、おはよう」

 

 危うく客人に取り返しのつかないセクハラをやりかけたにも関わらず、やちよは至って平静を装っていた。内心、この演技力ならCMやドラマの仕事を増やせるかもしれないと自惚れる余裕さえあった。

 厨房に入ってみると環は自分が貸した服の上からいろはのエプロンを付けていた。それさえ見ていれば間違えることはなかっただろう。

 

「環さんはいつもと違う部屋だけどよく眠れたかしら?」

「はい、客間を使わせてもらったのは初めてですけど、みかづき荘にあんな大きくてふかふかしたベッドがおいてあるなんて知りませんでした!」

 

 それはそう、ゲストルームの寝具類はみふゆやレナ等が来た時に合意の上なら一緒に寝る用にと、各人と費用を出し合って購入したものだ。何処までも告げられない真実をごくっと飲み込む。

 だからこそ常日頃の清掃がどの部屋よりも行き届いていて、こうして即座に貸し出せたのだし怪我の功名と称えるべきか。

 

「向こうに帰れたらやちよさんに使わせてもらおうかなあ……」

「それは私が答えるわけにもいかないわね」

 

 同じ寝具が置いてあると限らない。まして向こうの自分が断片的にこのことを聞いてどう考えるかなんて、自分でも想像がつかない。

 環が今作ってくれている朝餉はいろはが作る料理に似ているように、鏡ごしであっても同じ面を見られる事はあるのかもしれない。

 

「あなたも昨日夜中まで戦っていたけど調子はどう? 私も手伝えるけれど」

「いえ、まだまだ元気ですよ。今日の朝ごはんは私に任せてください」

「お皿くらいは並べておくわよ」

「え、もう並べ終わりましたよ?」

「いいえ」

 

 カウンターの上には不揃いな皿とマグカップがそれぞれ6つ。

 棚にある食器の中で動物柄はさなとフェリシア、寒色はやちよで暖色は鶴乃、髪の色のような桜色はういと分かりやすいが、対していろはのものは良い品だが少々地味で来客用と間違えそうになるし、普段遣いには割ってしまわないかと不安になる。

 案の定、いろはの食器類が来客用のと女物になっていた。

 こういうこともあるから、やちよは何度かいろはにもう少し食器もおしゃれをしたらと言ってみるが、どうもそこで頭が固くなる男性性を発揮してしまうのだ。

 

「あっ」

「いろはは食器も女の子じゃないから、見ただけだとどれか分かりにくいのよね。だから私達でも選んであげたんだけど……」

 

 笑って終われる単純なミスだった。代わりにフェリシアがいろはに買ってきた模様入りの皿を取り出しながら、少なくともやちよはそうだと思って指摘した。しかし環の反応は想像よりも顕著だった。

 

「す、すいません……」

「環さん?」

「やっぱり私、ごめんなさい、ごめん」

 

 環の顔色が目に見えて変わる。今にも泣き出しそうな、怯えていると一目で伝わってくる様相だ。

 やちよは躊躇った。

 あまりに唐突な変化に、どう対応すればいいのか迷いが先んじる。眼前で打ちひしがれた環いろはと同じ顔の少女に何と声をかければいいのか。

 狼狽えるやちよの救いの手は背後から伸ばされた。冷たい環の手を握った、朝の支度を終えたいろはの手だった。

 

「大丈夫だよいろはちゃん」

「でも」

 

 名字ではなく名前を、怯えには余裕を以て安堵を。マギウスの二人が泣くまで癇癪を起こした時を思い出しながら、まず包丁を取り上げ火を消した。

 手の平であやすように背筋を擦ると緩やかに環の怯えが消えていく。少し落ち着くのを見計らって、やちよはさっと食器を加えて並べ直した。

 自分の隣に二人が来るように、そして環とういが隣り合うように。

 

「そうよ、これだけで済むことなんだから、こんなの失敗にも入らないわ」

「あ……」

 

 いろはの手の平が暖かさを取り戻す、環の感情が急速に回復していくのが分かる。ほうっと大きく息を吐き出した環は完全に平静を取り戻していた。

 

「ごめんなさい、私急に、どうしたんだろう……」

「きっと心に疲れが溜まっていたのよ、無理をせずもう少し休むといいわ」

 

 そう言ってやちよは環をゲストルームで休ませた。

 一方出来上がったスクランブルエッグはともかく、茹で上がったほうれん草は炒めるかお浸しかどっちのつもりだったのかなと悩むいろはの横に立ち、では自分がと言って彼を手伝う。

 おそらく些細ではないトラブルがあったが、朝ごはんはつつがなく用意出来そうな事に安堵しながらも、やちよはいろはに礼を言った。

 

「ありがとういろは、頼っちゃったわね」

「平気です、真里愛さんのお手伝いで習ったことですし……すいません」

「なあに?」

 

 やちよは自然な動きで由貴真里愛の名前を出したいろはの口を塞いだ。そういう関係ではないが、次違う女性の名前を出そうものなら多分もっと大変なことになるんだろうなと察して濡れた唇をつぐむ。

 途端に静かになった台所で、手を動かしながらやちよは環の心が負の位置へと傾いた理由を考えていた。

 しかし思いつく理由は乏しく、やはり自分ひとりでは限界があるなと、やちよはためらうことなく隠し事を切り出した。

 

「いろは、これはあの二人の見立てだけど、環さんはどうすれば帰れるか知っているんじゃないかしら」

 

 そう、昨日の夜。いろは達が帰路についてすぐ、鶴乃達と合流する前、みたまとやちよは鏡の屋敷で柊ねむと里見灯花の二人と邂逅していた。

 

 

◯一日目、夕刻

 鏡の屋敷門前にて

~里見灯花の推察~

 

 鏡の屋敷の門前で、夕日避けの傘に隠れた美幼女は与えられた情報を迅速に咀嚼し、その頭脳で以て現状の全てを理解していた。

 

「褒めてあげるね、初動のアドリブはみたまにしてはほぼ完璧な判断じゃないかにゃ。あり得ざる因果は迂闊に紡がないほうがいいし、シフトで違和感なくお兄様とお姉様を二人っきりにするのを防いでくれた」

 

 少女はまるでそれ自体が元凶だと言わんばかりの愉快そうな手付きで鏡屋敷の門をガンガンと強く叩いた。屋敷の扉から何事かと恐る恐る使用人がこちらを伺うが、それすら一瞥するだけで追い返してしまう。

 その態度がなっていないといわんばかりに鼻を鳴らして次は蹴りを入れると、ようやく満足したのか少女はやちよ達に向き直った。

 

「みかづき荘の盗聴器で件のお姉さまの様子を窺ってみた結果だけ言うね、あのお姉さまはわたくしたちの見立てでは本当に“環いろは”だよ。でも決定的に何かが違っていて、お兄様には無い傷がある。たぶん私達は迂闊に会っちゃダメだにゃ」

「そう……みかづき荘にあなたが付けてくれた傷は後で全部粉々にしておくわね」

「あれれれれえ? くふっ、ひょっとして見つけられると思ってるのかにゃあ~?」

 

 こんな時でさえ環兄妹以外を見下しクスクスとあざ笑う幼女の煩わしさに苛立ちながら、同じく発振器や盗聴器の類を仕込んでいる身として強く言い返せないやちよは押し黙った。

 次に口を開いたのはその隣のみたまだ。

 

「それは分かったけど、これから私達はどうすればいいの?」

「うーん、いっちばん簡単なのはお姉さまをカンキンして別人格になるまで心と体を徹底調教しちゃうことかにゃあ?」

 

 みたまの目が据わった。灯花が冗談で言っていると付き合いから察したのだ。

 少しドキリとして提案に惹かれ、もし出来るならいろはといろはの間に挟まりたいと邪なことを少し考えたやちよに視線だけで釘を刺しながら、一言一句怒気を込めて言い放つ。

 

「あのねえ里見のお嬢さま、あなたのやりたいことじゃなくて、お姉さんたちにできることを言ってくれないかな~?」

「ふんだっ」

 

 駄々っ子に言い聞かせるような態度に、つまらなそうに舌打ちして灯花はそっぽを向いた。代わりに応えたのは先程から筆を走らせていたねむだ。

 

「この駄目な子はさておき、ボクの見解を述べさせてもらうね。あなた達でも理解できるように状況を整理しようか」

 

 ひとつ、ういの複製が砕けた後、鏡屋敷の使用人たちに合わせ鏡で挟まれた

 ひとつ、鏡の先に環さんがいて、目が合った次の瞬間鏡が不可思議な現象を起こして砕け散った

 ひとつ、そして二人の目の前には環さんが現れた

 

「ここまで聞いてまず思いつくのは、今やっていたようにいろはお姉さんが通ってきた鏡を探すこと。ただしこの手法には問題があるんだけど、七海やちよ、あなたは分かるかい?」

「そうね……そもそも“本当にミラーズの中に帰り道があるのか”かしら?」

「ある程度正解」

 

 灯花はまだるっこしそうにこっちを見て「そんな消去法じゃないと答えにたどり着けないんだ?」と口を挟むが無視された。

 不機嫌そうに喚き散らす幼女を視界から追い出して二人は推理を紡ぐ。

 

「鏡が外に出現してしまったなら因果をたどって探せばいずれ見つかるさ。けどボクはこの事件について物語的な視点から推理してみた。そして真っ先に浮かんだ疑念が、今起こっている現象は本当に転移なのか、帰り道はボクたちが探し出せる場所にあるのかってこと」

「そこから疑っていくのね」

「本当に彼女が平行世界から転移してきたのか、その瞬間をお兄さん含めて誰も見ていないからね。七海やちよは他に気になったことあるかい?」

 

 やちよもその事は疑問に思っていた。だがそれは悪魔の証明だ、疑い出したらキリがない。

 ねむがことの経緯を疑ったように、やちよは環そのものについて疑問があった。

 

「そうね……環さんはこちらに来る前、どこで何をしていたのかしら?」

 

 彼女はこちらに来る前はどこにいたのか。現れた場所がミラーズであったからそうだと勘違いしてしまいそうだったが、彼女は何も言っていない。

 

「ええ、私もそれは気になったからこっそり覗き見するつもりで調整させてほしいって言ったんだけど、断られちゃったのよ」

 

 みたまの供述を聞いて、やちよはますます疑念を深めた。環いろはという少女は信用できる。だが、状況の何もかもが疑わしい。

 だからといって出来ることが増えるわけではないのだが。

 あの少女はどういうわけか心が傷ついている、それでいてやはりいろはなのだから、マギウスの二人も彼女を邪険に扱えない。

 

「ひとまず今夜は鏡の屋敷を探すだけでいいだろうね、それでも帰り道が見つからなかったら」

「全ての鍵はお姉さまにあり、ってことだにゃあ。もしかして最初から答えを知ってるかもねえ?」

 

 彼女らにしては無難な選択肢を提示してから、鶴乃といろはが家を出たようだと言って二人は帰っていった。

 

「やっぱわたくしもお姉さまに会ってはぐはぐしてみたいにゃ~………ねむ、抜け道ないの?」

「理解は示すが今回はさすがに我慢しなよ、終わった後でお兄様にお姉さまになってもらえばいいのさ、ムフフフフ」

 

 不気味な笑い声を見送ってから、やちよは手頃な探偵か魔法少女を雇ってみかづき荘の一斉捜査をやるべきか真剣に悩み始めた。

 

「たぶんまた仕掛けられていたちごっこになっちゃうわね、ご愁傷さま」

 

 みたまがそう指摘すると、さながら老婆のようなため息を吐いて壁にもたれかかる。やちよはいろはと二人きりの国に行きたくなった。

 

 

◯2日目(日) 早朝

 

 カウンターで二人して朝のお茶を飲みながら、主にやちよのアレコレと蠱惑的なプランなどが徹底して隠匿された説明にいろはは驚いて目を見開いた。

 

「灯花ちゃんたちには伝えていたんですね」

「たぶん私達だけだと解決出来ない事だから、どうしても彼女たちの知恵が必要だと思ったのよ」

 

 全てはみたまの謀だ。

 みかづき荘に訪れる前から密かにねむに連絡し、自分の電話を遠隔操作させて現状を伝えていた。

 そしてテレパシーでやちよと連携し、「二人きりにするのは危ない気がする」という灯花の指示を受けてアドリブでシフトを作り、結果今まで環といろはの接触を最小限にとどめ続けた。

 みたまの通話代が少々被害を被ったが、それ以外はスマートと評すべき連携だ。

 だがここに至り手詰まりとなった。

 鏡の屋敷の浅層はくまなく調べた。それでおかしな鏡が見つからなかった以上、マギウスたちの言う通り環に隠し事を問うしかない。

 だが、誰が聞く? 誰であれば答えてくれる? ういではダメだ、フェリシアは躊躇いがある。やちよも隠し事をしている後ろめたさがあり、鶴乃も昨日別れ際に「何か変なこと言っちゃたかな」と環との距離感を測りかねていた。

 残されたのはさなか、いろはか。即断即決を旨とするやちよにしては決めかねていた。

 

「やちよさん」

 

 今度は自分から椅子一つの距離を詰めて手を重ねる。やちよが迷う時、代わりに決めるのはいろはの役目だった。

 

「皆で聞きましょう」

「怖がらせないかしら」

 

 その考えはやちよも脳の片隅にあった。ただそれも不安だった、秘密を抱えたものに皆で詰め寄るというのは客観的に見て脅す構図だ。

 

「いろはちゃんがよその子だったらそうなるかもしれません。でも、世界が違っていてもいろはちゃんは僕で、みかづき荘の仲間なんです」

 

 一人で無理なことは皆で協力する。嫌なことはある程度分け合う。みかづき荘の決して記述されないルールに従うことがいろはの答えだった。

 やちよの答えはいろはの手を握る事だった。

 

「状況は何もかも疑わしいけど……“環いろは”なら信じられるわね」

 

 返事をしていろはを抱き寄せる。そしてコトリと椅子が揺れて――居間の電話が鳴ったのはその時だった。

 

「えーっと、僕が出ましょうか?」

「…………いいえ、私が出るわ」

 

 怖いほど静かな足取りで電話機に向かう。誰からの電話か、番号を確かめるまでもなかった。

 

「何の用かしら里見さん」

「くふふ、お話は纏まったみたいだね。じゃあわたくし達もさいきょーさん拾ってそっちに向かうから」

「気が利くわね、手間が省けて助かるわ。それでわざわざこのタイミングで電話した理由は?」

「一々雰囲気作っていい気にならないでよこの青鬼ババ」

 

 やちよはまったく優しくない自然落下で受話器を戻す。なんだなんだと朝の身支度を整えたフェリシアたちが居間に入って目撃したのは、やちよの背に浮かぶ修羅の形相だった。

 

 

◯2日目 午前 ゲストルーム

 

 焦燥を以てすら抑えきれない空腹感が意識を呼び戻す、少女いろはは生理的に覚醒させられた。

 小さなテーブルには卵をはさんだパンと温かいお茶。優しい香りだ。

 しかしいろはの目はそちらへ向かなかった、ソレよりも尚懐かしい香りが鼻孔をくすぐった。

 正常な病室の中では一層目立った少女たちの香、心を引き裂く思い出の味。

 

「やあ、目を覚ましたんだねお姉さん」

 

 あの頃とは逆の立場、寝台で眠るいろはの横には柊ねむ、里見灯花、環ういがいた。

 

「くふふ、やっぱりお姉様でも可愛らしいにゃあ」

「灯花ちゃん、お兄ちゃんが聞いたらたぶん泣きそうになるよ?」

「それもまた善きかな……うわっぷ」

 

 ずっと我慢していた、この世界にいるなら少しでも早くこうして抱きしめたかったが、それを確かめることさえ口に出すのもはばかられた。

 自分の弱さで失ったものへ浅ましい態度を見せるのが嫌だった。でも、もう耐えることは出来ない。

 三人が揃っているさまを見てしまうと、とめどなく滂沱の涙を流し嗚咽が漏れた。

 

「ごめん、ごめんなさい、ごめんなさい……」

 

 三人娘を抱きしめながら、自分たちと自分たち以外の誰かに必死に謝るいろはを見て、ねむは己の推測が正しいことを理解した。

 環いろはがここまで打ちひしがれることなどこの世に一つしかない、鏡の向こうの私たちは死んでしまったのだ。

 

 

 まず灯花が当然のように不満をぶちまけた。結局会いに来るならもっと早くから、なるべく長い間一緒にいられるようにしてほしいとねむに文句をつけた。

 

「そもそもさあ、わたくしたちが生きてたら今頃お姉様を迎えに来てるに決まってるじゃない。そんな証明する必要ない事項を一々確認しなきゃいけないなんて、文学脳こじらせたせいで脳みそ老けちゃったんじゃない?」

「おや、胸のように平坦な道ですっころんで這いつくばる人間からは一歩一歩着実に高みを目指す者がそう見えるんだね。ボクでは得られそうにない見解だ」

「はー!?」

「はいはい、ここ今は狭いんだから落ち着こうね」

 

 天気の話題を出すような気軽さで煽るくせに、煽られると瞬間湯沸かし器のごとく沸騰する猫っかぶりを鶴乃がどうにか抑え込む。

 環いろはの泊まるゲストルームには思い思いの8つの椅子が置かれ、みかづき荘の仲間たちが詰めかけていた。

 祖母が老人会の打ち合わせをする時でさえこんなに人は集まらなったなと、この家の歴史に思いを馳せていたやちよはまず突然人を呼んだことを環に侘びた。

 

「ごめんなさいねいろは、休んでるところにこんな大人数で押しかけて」

「いえ、いいんです、いいんですやちよさん」

 

 環はやちよが予想していたよりもリラックスした様子だった。泣き腫らして目尻が少し荒れてしまったが、少し枯れた声は皆の知るいろはのような余裕を取り戻していた。

 

「凄いなあ、オレならまだ寝るフリしてゲームしてるぞ」

「またゲーム機のコード没収されたい?」

「だーかーらーそういうのやめろよ!」

 

 いろはに叱られて体全体でイヤイヤと主張するフェリシアに押されて皆がつんのめる。狭く感じる部屋で慌てふためく皆の様子を見て、環は少し笑った。さなが初めて見る環の自然な笑顔だった。

 そして彼女は紅茶を一口含んでから、乞われるままに話しだした。自分は何故、ういに手を伸ばしたのか。

 

「私は、逃げてしまったんです」

 

 

(環さん視点でアニメ後半のお話)

 

 

「ふむ、興味深いね。そういう可能性もあるのか。とても面白かったよお姉さん」

 

 壮絶な滅びの記憶、コネクトの万能すぎる可能性、いきなり出てきた全人類魔法少女化計画という謎の言葉、いろは以外が抱いた「ところで黒江って誰だ」という疑念。

 適宜休憩を入れながら少女が辿った数ヶ月を振り返ると、ねむと灯花以外は言葉を失ってしまっていた。

 

「うわあ、わたくしたち大暴れだね。強すぎるっていうのも罪かにゃ」

「ちょっと、そんな他人事みたいに」

「死んで止まっている以上、日々進歩し生きている僕らにとっては他人さ」

「ふたりとも、それ以上はダメだよ」

 

 鶴乃がスキあらば環のベッドにもたれかかろうとする二人を抑えながら咎めるが、聞く耳をもたない様子だった。

 仕方なく環兄妹がブレーキになると二人して大人しくなる。

 そしていろはが申し訳無さそうに環に謝ると、環は二人が元気であることが嬉しいようでなんとも言えない顔をする。話している間ずっとこんな調子だ。

 黒江のことを思い出して気落ちする環を慰めていたいろはは、そういえばずっと地元の魔法少女たちと出会っていないことを思い出した。

 

「黒江さん……一度連絡取ってたまには帰ろうかな」

 

 いろはの呟きを聞き逃さず、警戒リストに名前を加えるやちよ。

 今度知り合いも集めてコネクトで色々試してみようかとはしゃぐ鶴乃とフェリシア。

 自爆特攻の様子を聞いて二人だけで話し合っている灯花とねむ。

 

 それでも皆、思い思いに咀嚼した情報を取り入れてありえる可能性に向かい合おうとしている。皆悲劇を聞かされてなお心は萎えていなかった。

 ただ、ういは複雑な心情だった。姉が自分を覚えていてくれた事が嬉しい、しかし同時に、幸せになってほしいという願いは呪いではないか。

 ういの顔を覗き込んで、いろはは微笑んだまま顔を横に振った。

 

「最後までお姉ちゃんの幸せを願ってくれて、私は本当に嬉しかったんだよ」

 

 ならいいのかなと、やるせない気持ちを抱えながらもういは環の言葉を否定することはない。

 そして、一人沈黙を貫いていたさなが口を開くと、皆一様に静かになった。

 

「いろはさん……それで、その、この後はどうなったんですか。逃げたって」

 

 環にとってさなの問いは重かった。

 戦いを越えたはずのいろはたちを待ち受けていたのは、より壮絶な戦いだったからだ。

 

「……全ては羽根の子たちが次々殺されていったのが始まりでした」

 

 

◯いろは(アニメVer)after、マギウスもドッペルもいない最悪の開幕

 

 ある日を堺に、災害復興中の神浜で少女の死体が見つかるようになった。彼女たちには一様に白か黒の布切れと蛾の死体を載せてあったことから、警察は異常者による儀式殺人と断定して動く。

 死者が魔法少女だと気づいたのは同じ魔法少女だけだった。

 

『マギウスの翼たちが狙われている……?』

 

 みたまを筆頭に一体誰がと疑念を抱いた者たちはいたが、誰もが自分の暮らしと縄張りを守ることに精一杯で一向に犯行が収まる気配がない。

 自衛のための集団行動が徹底されるようになってなお、犯行は連日行われた。

 そしてこんなウワサが流れ始める。

 

『西の魔法少女たちがこの機に乗じて東の魔法少女たちを滅ぼそうとしているぞ』

 

 マギウスの翼には西側の魔法少女も所属していたが、多くは東側出身者であったことで生じたウワサだった。

 マギウスの三人娘とみふゆ亡き後を中央の都ひなのと東の和泉十七夜が必死に統制したが、それでも歯止めがきかず、とうとう10人目の犠牲者が出たことで羽根達の暴走が始まった。

 

 真っ先に槍玉に挙げられたのはやちよ達みかづき荘だった。

 時雨とはぐむの二人を仮の代表として纏まったネオマギウスという後継団体は調整屋の仲介でやちよたちに直談判した。

 

 ――自分たちのリーダーを殺した責任をとれ

 ――犯人が捕まらないなら私達がお前ら含め西の魔法少女たちを無差別に襲う

 

 調整屋の映画館で提出されたその意見に、当然レナやフェリシアは憤り、東の代表として彼女たちを連れてきた十七夜さえ苦言を呈す。

 しかし、どれほど十七夜が難色を示そうと、極限まで追い詰められた彼女たちは吐いたツバを飲み込まない。明日にも同じ魔法少女に殺されるかも知れないという恐怖が後退を許さなかった。

 やむおえず、ウワサ探しで捜査慣れしたやちよがこの事件を預かる運びとなる。

 

『仕方ないわ……犯人の標的がいつ羽根以外に移るかも分からないのだし、今後のためにも彼女たちを受け入れましょう』

 

 ももことみふゆの力を受け継いだその時から、いつか代償でこういう時が来ると覚悟はしていた。そう言って自分が責任を持つと宣言した。

 そしてマギウスたちが安堵で胸を撫で下ろしたその時、乱入者が姿を表した。

 

『つまりあなたがマギウスの新しい頭ってわけねぇ』

 

 唐突に流れた言葉と共に古びた映画館の一室が炎に包まれる。

 その名はプロミストブラッド、羽根狩り事件の真犯人たちだった。

 

 彼女たちの言い分はネオマギウス以上に理不尽なものだ。

 

 ――私達はお前らのせいで殺し合ったのだ

 ――それ以上の死体を神浜に並べてやる

 

 一方的にそう通告して、燃え盛る映画館の中で死闘が始まった。

 まず倒れたのは戦う力を失っていたレナだった。チェーンソーからみたまを庇い、二の腕と背中に治る保証のない傷を作った。

 それを皮切りにかえで、かりんと次々に仲間が倒れていくのを見て、先に皆を連れて逃げようといろはが止めるのも聞かずフェリシアが飛び出した。

 何人かを殴り倒し、勇んで敵の幹部らしき火炎放射機の使い手に打ち掛かるが、彼女らは魔女以上に魔法少女を殺す術に長けていた。いろはに向けて咄嗟にソウルジェムを投げ飛ばしていなければ即死の大やけどを負わされた。

 そして羽根を守ろうと奮戦していた鶴乃への不意打ちに割り込んださなが頭蓋を割られて、とうとうやちよの怒りが爆発した。

 

『らんか! さくやぁ!』

 

 ただ一振りで幹部二人を仕留める。

 やちよはマギウスの本拠地を探していた時を除き、好んで魔法少女に槍を向けたことは無かった。それでも、ここで死んた少女たちと、これまでに殺された魔法少女の無念を継承して得た力は対人戦の経験の差を覆すほどだった。

 死んでしまったのか、生きているのか。突如もたらされた沈黙の中、槍から放たれた波涛が一切の火を飲み干していく。

 火で焼かれ、水で冷やされミシミシと悲鳴を上げる映画館の片隅で、もはやプロミストブラッドを人と見なしていないやちよはためらうこと無く倒れた二人を召喚した無数の槍で串刺しにした。

 

『あなたたちが鬼を名乗るなら、私が一匹残らずここで退治してあげるわ。生きて帰れると思わないことね』

『っあああああ!!!』

『やめろ姉貴! こいつ強……ぐあっ!』

『樹里ぃ! よくも、よくもやったわねえぇ!!』

 

 やちよの力は圧倒的だが、敵の首魁も負けてはいなかった。

 火炎放射を持った少女が四肢を根本から苅り取られて絶叫し、姉と呼ばれた少女が捨て鉢になってやちよのソウルジェムを狙う。

 幹部を失ったことで統率が乱れ、戦線が膠着する。怯えるしか無かった魔法少女達に光明がさした瞬間だった。

 

『ねえいろはさん! 今のうちに逃げようよ!』

 

 いろはの袖を引いたのは時雨だった。

 いっそ振り切ってやちよの下へ向かえたら良かった、しかしいろはは冷静になってしまった。

 時雨とはぐむは必死に生き残った魔法少女達をかき集め、レナのような重症者も燃え残ったカーテンなどで作った即席の担架に乗せて救助していた。今すぐ逃げなければ戦いの余波で死んでしまうのは火を見るより明らかだ。

 今ここで自分が逃げずに向かって行ったら、戦えない少女達を見捨てたらどうなる。だが、今も戦っているやちよと鶴乃、そして他の魔法少女達を置いてはいけない。

 

『君は逃げるんだ、環君』

 

 傷ついた魔法少女たちの中から一人が立ち上がった。雑兵に数で押され、早々に眼帯ごと片目をやられた十七夜だ。

 

『やちよたちの面倒は私が見る。だから今は迷うな、私の代わりにこの子達を安全な場所に逃してくれ』

『……せめてその目は治させてください』

 

 開かれた目でいろはを見つめ、ありがとうと手短に礼を言って、十七夜は血路を開かんと敵陣深くに切り込んでいった。いろはは振り返ることはなかったし、気遣う余裕はすぐ霧散した。

 映画館を出ても地獄は続いていた、プロミストブラッドは映画館の周りにも火を放っていたのだ。消防と救急隊が来ているが、とても人手が足りない。

 例えば自動浄化システムのように神浜から得るものがあれば神浜にも気を使っただろう。しかしプロミストブラッドにとって今の神浜は何の価値も持たない街だった。

 

『ねえ、ちょっといいかな』

 

 どうにか魔法で応急処置を施しながら、重傷者を優先して火の勢いが少ない場所かサイレンの鳴る方へと逃がすいろはに声をかけたのは斧を持った少女だった。

 見覚えがない、なにより雰囲気でプロミストブラッドの一員だと分かる。

 

『ここまで逃げてきたってことは、姉さんたちは返り討ちにあったのかなあ』

 

 あなたのお姉さんが誰か分からない。でもきっと重症だろうから、あなた達も早く怪我した人を助けて引き上げるべきだ。無我夢中でここまで来たいろははそう答えるしか無かった。

 少女たちを庇うように立ついろはがそう言うと、彼女は愉快そうに笑い出した。

 

『いやさあ、私ね、ずうっと姉さんたちに謝ってほしかったんだ。でもあの人達は強くて怖いから、絶対にそんなコト言えないし聞いてくれない』

 

 この人はどうしてしまったんだ、気がつけば自分たち以外はいなくなってしまった映画館前の路上で哄笑を上げる斧の少女は愉快そうに電話を鳴らす。

 

『だから、これはチャンスだったんだ。神浜で一人になる時間がたくさんあったから、上手くいけばいいなって魔が差しただけなの』

 

 鳴り響いたそれは映画館に仕掛けられた発火、いや起爆装置のスイッチだった。

 

『神浜ってこんなのも安く手に入るんだね』

 

 もはや原型をとどめていない映画館、やちよたちが中に残っていた映画館。

 愕然とするいろはの横を通り抜けて、その少女は自らが崩壊の引き金を引いたその場所へと歩いていく。

 慌てて肩を掴んで制止したいろはの手を振りほどき、崩落する瓦礫へと歩く。

 

『だってさあ、不安なんだよ。あの人がここで死んでなかったらきっと明日にも私は殺されるから、こんなに頑張ったのに台無しにされるから……姉さんたちはこの手で確実に殺さないと』

 

 少女の鼻歌が、フェリシアやレナと遊びに行ったゲームセンターで流れていた曲が途絶える。

 理不尽に、わけのわからない理由で大勢の人が死んで、もう耐えきれなかった。誰もいない方向へ、いろはは無我夢中で逃げ出した。 

 

『うい、うい、うい、助けて……』

 

 環いろははひたすら走り続けた、魔法少女のまま、幸せ(うい)の名を呼び続けて。

 そして彼女は――気がつけばこの世界からの逃げ道、鏡の屋敷の前にいた。

 

 

◯そして少女はみかづき荘へ

 

 話し終わったから外の空気を吸いたいと言って、少女は少年に手を引かれていった。

 夕日を見ながら、二人のいろはは家庭菜園がある裏庭のベンチでたそがれていた。

 

「お皿がダメだったの?」

「うん……」

 

 やちよが手にとった皿はフェリシアからプレゼントされた品、フェリシアが大好きなアニメの男の子向けグッズだ。

 斧を持った鬼。

 使える時に使わなければ不満を言われるので扱いに困る一品だが、その絵が環の心にとっては致命的だった。

 

「燃える火は怖かったよ。あの鬼みたいな人も、ためらいなく人を刺したやちよさんも。でも……一番怖いのはあの人だった」

 

 斧を向けられたらまだ抗おうと思っただろう、だがあの少女はいろはに目をくれること無く、自分が姉と呼んだ人をほんの思いつきで死地へと追い込んだ。

 いったいどんな地獄を見てきたんだろうか。

 思い返すと間違いなく血は繋がっていなかったと分かる。しかし、それでもあの時は「ためらいなく姉を殺そうとする妹」が恐ろしかった。

 

「ういが、そんなこと言わないなんて分かる。分かるよ、分かるけど……」

 

 いろはは無言で空を見上げた。そんなことはこれ以上言わなくてもいいと思った。

 代わりに、一応我が事なのだから“こんなこと”を言えばどうなるか分かりきったことを言う。

 

「……そんなに怖い世界なら、無理に帰らなくてもいいんじゃない?」

 

 理不尽に憎まれ、理不尽に殺され、理不尽な者たちが自滅する。少女の語った神浜はまさしく地獄だった。

 しかし、それでもいろはは「いいえ」と否定した。

 

「ここにはういも、灯花ちゃんも、ねむちゃんもいる……でも」

「でも?」

「いろはくんはやちよさんを独りにできる?」

 

 いろはは同じように「いいや」と否定した。

 向かい合えば言わずとも分かる。やちよ以外にも自分を愛してくれた、環いろはという人間が世界を超えて根源的に抱える空洞を埋めてくれた人たちを手放したくないと、そういう欲求が互いにある。

 鏡が反射せず、ありのままの自分をさかしまにすること無く写し合っているようだった。

 だから環いろはは帰るしかない。例えその先に不条理が待ち受けていようと、自分を待つ人の元へ帰らなければならない。

 

「もし逆の立場だったとしても、僕はみかづき荘に帰ろうとしたよ」

「ありがとう」

 

 薄っすらと流れる風の音が消えたその時、いろはは魔法少女に変わっていた。

 短いスカートに薄手のタイツ、よく見たら自分は男なのにほぼ毎日これより凄い格好に変わっているんだなと自戒する。

 

「ういを救ってくれた人が、やちよさんの隣にいる人があなたでよかった」

「君は……」

「でも好きな人はもっと減らした方がいいと思うな」

「あ、それは分かっちゃうんだ」

 

 女の人って本当に鋭い――そう思って、君は何をしようというのかと聞きそびれた瞬間、少女はクロスボウの穂先を自らのコメカミに押し当てる。

 

「さよなら、私ももう少し頑張ってみるから、あなたも頑張って」

「え、ちょっと!」

 

 いろはが手を伸ばすより早く、ピンと鋭い音を立てて放たれた矢が少女の頭を貫くと……そこには何も残っていなかった。

 空を切った手をそのままに辺りを見回すが、まるで幻であったように一つの痕跡も残さず少女は消えてしまった。

 まるで幽霊のような――いずれ来るプロミストブラッドの対策を話し合ってる皆になんて説明すればいいんだろう――悩みながら動かした足が何かを蹴飛ばした。

 慌てて追いかけた先、花壇に咲くアネモネに埋もれていたのは一枚の硬貨だった。

 

 

◯かがみのいろは

 

 割れた鏡の真ん中で、痛みさえなく目が覚める。

 だまし絵のような階段と扉が張り巡らされた異質な秩序が支配する空間の一角で、少女はひび割れた鏡の棺を開けて体を起こす。

 果てなしのミラーズの、おそらく誰も到達したことがない深い鏡層、少女の体は数日ぶりに魂を取り戻した。

 

「これで、これで良かった」

「本当に?」

 

 天井の鏡から、少女の眠りを見守っていた魔女が降り立つ。瀬奈みことの姿をしたもの、皆が鏡の魔女と呼ぶ存在だ。

 

「あそこでいろは君を撃てばよかったのに」

 

 ――少女は魔女に導かれた。

 鏡に映されたういの姿を追い求め、鏡屋敷の奥へ奥へと誘われて、落っこちた先は魔女の巣だ。

 そこで魔女は少女にお願いをした。

 

『どうかあの小憎らしい男の子を始末してくれない?』

 

 正攻法ではアリナ・グレイにさえ勝ったあの子に勝てるか分からない。だから不意打ちであの子を殺してしまい、ドッペルでも魔女でもいいから絶望の相転移で生じるエネルギーを掠め取り、魔女の本体を完成させる材料にするつもりだった。

 臆病で不完全な魔女の本体はいまだに鏡の屋敷から出ることが出来ない。勝手に作られる魔法少女の模造品たちも同様だ。

 ゆえに魔女の心は別の宇宙からこぼれ落ちた少女の協力を求めた。何ヶ月もかけて生身の体と変身能力まで完備した特性の器を用意して、中身に少女の魂と繋がった鏡を入れれば完成だ。

 

『私は、人殺しなんて嫌です。出来ません……』

 

 当然いろはは拒絶した。

 しかし鏡の魔女は言葉巧みだった。

 

『私はキュウベエほどじゃないけど、中々万能なのよ。もし私のお願いを聞いてくれたら、プロミストブラッドが攻めてこないし妹さんも生きている平行世界に飛ばしてあげる』

『……それでも』

『愛する人と再会したくないの? 私はしたいけど』

 

 ――うい

 

 ガラス片のモザイク画で表されたういの姿で、いろはの心に迷いが生じた。身勝手と思われてもいいから、今すぐにでも妹に会いたいと。

 

『はい、決まりね』

 

 そうして生じた心のスキで十分だった。少女は使用人たちの手で棺に押し込まれ、意識を取り戻した時には鏡の向こうの妹に手を伸ばしていた。

 ある程度、ねむの推理は外れていた。転移は行われたのだ、鏡屋敷の中から中へと、鏡の体を運ぶために。

 そしてやはり、みことの目論見通りいろはは鏡屋敷の外に出ることが出来た。この宇宙にないはずの魂を使って、屋敷の中でしか活動できないという制約を踏み倒すことに成功したのだ。

 後はいろはがいろはを殺せばいい。

 だが、少女は自分の頭を撃ち抜いた。

 

「どうして?」

「出来るわけ、ないでしょう」

 

 魔女は心底不思議だった。自分なら、叶うのであれば今すぐ彼女に逢いに行きたい。この世にしがみつく怨霊はどこまでも自分本意な考えだった。

 いろはもその思念に染まりかけていた。

 もし、もしこの世界の自分が自分と同じくらい弱かったら、少しでもダメなところがあったら。

 そういう邪念を抱えながらもみかづき荘に行き――皆の顔を見ているうちに何もできなくなった。

 

 ういの様子で分かる、あの人はいい兄なのだと。

 フェリシアは懐いていた、自然と人を気遣う心を育めたのはみなのおかげだ。

 鶴乃さんの態度は一目瞭然だ。きっとあの人がいなくなったら泣いてしまう。

 さなも同様だ、食事の時に彼を見つめる表情が、手を握って帰ってきたあの顔が教えてくれた。この時点でちょっと待て何人と付き合ってるんだとは思ったけれど。

 極め付き、やちよさんが思った以上にあからさまだった。あの距離感はクラスに居たバカップルのそれとしか言えない。 

 

 そして何より――自分と違って、灯花とねむを、最愛の妹たちを守り通した。

 だから自分には出来ない。

 

「ういからお兄ちゃんを奪うなんて、私はできません」

「そっかあ、いろはちゃんは優しいんだね!」

 

 いろはが驚くくらい、魔女は我が事のように喜んだ。

 優しい人が好きだ、自分が好きだった彼女はいつも自分には優しく、美しい思い出をくれた。

 だからこそ残念だ。今からいろはを殺して魔女の餌にしなければならない。

 

「ごめんね。痛くないようにしたいけど、この子たちはあまり私の言うこと聞いてくれないから」

 

 使用人が、魔法された少女たちがいろはに武器を向けている。

 誰でも分かる。次の瞬間自分は死ぬと。

 だが、死の間際にあっていろはは何もかもを諦めていなかった。

 

(帰りたい)

 

 魔女に惑わされ見失っていた、自分の居場所はあのみかづき荘だ。

 もしかすると、帰ったらプロミストブラッドが全てを焼き尽くしていて、さな、フェリシア、鶴乃、やちよ、皆は死んでしまっているかもしれない。

 それでも、いろははみかづき荘に帰りたかった。たとえ絶望が待っていたとしても、奇跡を代価に地の底にあるかすかな幸せのために懸命に戦うのが魔法少女だ。

 ずっとソウルジェムを浄化していなかったせいだろうか、もうクロスボウの矢が残っていない。

 ナイフを抜いて両手で構える。魔女は悲しそうに目を伏せた。

 

「いろはちゃん、あなたのことずっと覚えておくね」

 

 さようなら、その言葉を引き金にカンッと硬い音が鳴って使用人たちと複製がいろはを視界から覆い隠してしまう。

 当たり前だけど、あっけない終わりだった。

 でも苦しむ少女の姿を見なくて済んだことだけは救いだろうか――背を向けた鏡の魔女は足を滑らせ、何もない場所ですっ転んだ。

 

「うぇっ? きゃあああああ!?」

 

 壁で止まれば幸運だったろうに。壁も扉もすり抜けて、不幸にもこの部屋から続く一番長い階段を転げ落ちていく。

 回る視界の中、魔女は自分の使用人たちが宙を舞うのを目撃した。

 

 

 ――痛みはまだ来ない

 使用人たちの持つ武器の冷たい輝きが食い込む様を想像して震えるいろはにその時は訪れ無かった。代わりに彼女を取り囲んだのはモクモクと漂う煙だ。

 

「……ケホッ」

「ごめんね、煙たい武器で……」

 

 咳き込んで顔を上げると、そこに居たはずの敵は皆倒れ伏し、自分の前には少女が居た。拙い語彙で表すなら、ロッケンローラーとかギターを持っている不良とか、そういう風情の少女だった。

 使用人の一人が起き上がろうとするのを見ると、左手のパイプを振り抜いていとも簡単に砕いてしまう。

 使用人たちを踏み越え魔法少女たちが包囲してこようと、ただ面倒そうだという態度で余裕を崩さない。

 

「まだ煙たくなるから……」

「かなえさん、こっちの準備は整いましたー!」

 

 包囲の向こう、壁の中央にある一枚のドアからまた別の少女が顔を覗かせた。その顔を見て、いろはは思い出した。

 雪野かなえと安名メル――やちよの仲間だった魔法少女、かつてのみかづき荘の仲間たちだ。

 

「あの、もしかして雪野かなえさんですか?」

「…………うん、まあ」

 

 名前を呼ばれただけなのに、かなえは気まずそうに目をそらす。いろはが怯えたが、何か気に食わないというわけではない。初対面の相手に名前を知られていたのが怖くて挙動不審になっただけだ。

 

「かーなーえさーん!?」

 

 メルの悲鳴が二人をはっとさせる。メルは開けた扉を守ろうとタロットだのトランプだのを必死に投げつけているところだった。

 

「急がないとね……じゃあ」

「あ、ちょっとまっ」

 

 いろはが言い返すより早く、かなえはパイプにいろはを引っ掛けると一飛びで包囲を抜け出した。

 

「いやかなえさん早」

 

 何か言おうとしたメルも片手に引っ掴んで、扉をくぐると強引に蹴り閉める。そして続く無数に伸びた廊下から一つを選び迷うこと無く駆け出した。

 

 

「あの、かなえさん! メルさん!」

「なんですかいろはさん!」

「お二人はなんでここに!」

 

 廊下を抜けた先の空中へと躊躇なく飛び、かと思えば急に生えてきた階段に飛び乗って手すりを滑り落ちる。装甲無視の固有魔法で空気の層を突き抜けて走るかなえに追いつけるものはいない。

 もはや何処へ向かっているのか、先程からナビを務めるメル以外に誰も分からぬまま、かなえに背負われたいろはは鏡の屋敷を探検していた。

 

「そこの左のドア壊してから右折です! ……えー! 話すと事情は複雑なんですが、死人なんですけど実は女神様にスカウトされちゃいまして!」

「女神……?」

「円環とかそういうのを司ってる女神様だそうです! それで私達の宇宙から攫われたあなたを迎えに来ました! あ、このまま上に向かって落ちてえええ!」

 

 重力の天地が入れ替わる奇妙な感覚にさらされた先、ようやくまっすぐな廊下へと着地した。

 

「うっぷ、ここは……」

 

 ここだけはいろはにも見覚えがある、鏡屋敷に入ってすぐ迷い込んだ道だ。

 

「じゃ、後はこの道をまっすぐですから」

「急いで……」

「え、でもお二人は」

『逃さないわ』

 

 今落ちてきた道が使用人の敷き詰める平坦な部屋に変わる。このようなことが出来るものは一人しか居ない。

 鏡の魔女、瀬奈みことが必死に部屋を組み替えてダウンした部下たちを踏みにじりながら現れた。

 

「そう、あの女神ってこんなにお節介なのね……虫酸が走るわ」

 

 ――あれは誰だろう

 いろはは見た。魔女の顔に誰かが混じるのを、手や足の長ささえ変えながらも、必死に今の形に押し留めている黒いモヤを。

 

「あなたたち三人まとめて鏡の魔女に…ってああああ!?」

 

 またもカンッという硬い音が鳴り、人が多すぎたのか魔女の居た部屋の床が抜けた。そんな魔女たちの様子を見てメルがせせら笑う。

 

「残念ですけどね、ボクは今日! あなた対策に占い師のプライドを捨てて!! “大凶しか出ないおみくじ”を何箱もたっっっっっっっぷりと用意してきたんですよ!」

 

 何のことかいろはにはさっぱりだったが、一振りで消し炭になったおみくじ箱を投げ捨てたメルの態度にかなえと魔女は心当たりがあるのだろう。かたや「あー…」と気まずそうな声を出し、かたや「インチキ!」と吠えた。

 

「ではまたいつか、ハロウィンあたりでお会いしましょう! 今日のあなたは末吉です!」

「大吉にしてあげなよ…………やちよによろしくね」

 

 呆気にとられるいろはの背中を押して、二人は憤怒の形相で迫りくる魔女へと飛びかかっていく。

 

「……ありがとうございます!」

 

 いろはは振り返ること無く、またあの時のように走り出した。逃げるためではない、ただ帰るために。

 

 

 廊下は本当に一本道だった。

 弱った足を奮い立たせて、いろはは必死に走っている。

 スキマを抜けてきたのだろう、背後からは数体の使い魔が迫る音。

 脇目も振らず、疲れさえ忘却して無我夢中で走る。

 鏡に追いつかれないように、また皆に出会うために。

 

「鶴乃さん、さなちゃん、フェリシアちゃん、やちよさん……!」

 

 息も絶え絶えだというのに、皆の名前を呼ぶとそれだけで力がみなぎってくる。まるでコネクトした時のように、心がつながったような気になる。

 それでも、一歩一歩と速度は落ちる。一歩ごとに使い魔の音が近寄る。

 

 ハサミが首筋を撫でる、フォークが脇腹の横を通り過ぎる。

 振り返る力も残っていないが、振り返れば顔の横に使い魔がいるんじゃないかという恐怖を皆の名前で押し殺し、いろははただメルたちの言ったことを信じて突き進むしか無かった。

 

「あ……!」

 

 出口、なのだろう。廊下の端から登るように視界の先に入ってくる扉がある。

 その瞬間、足が乱れた。

 

(駄目っ!)

 

 勢いのまま体が中に浮かび、使い魔の凶器が無慈悲に突き刺さる。

 傷だらけのまま前乗りに倒れながら、せめて、昔テレビで見た野球のヘッドスライディングのように滑りながらでも、少し、あと少しと。

 

「帰りたい……帰るんだ、わたしのみかづき荘に……!」

 

 全身に突き刺さったナイフは冷たく、吹き出した血はぬるい。それでも心は燃えたままに、全身を押さえつけられながら走った道へと足が千切れそうな力で引っ張られようと、肩が外れそうなほどに手をのばす。

 そして少女の手は掴まれた。

 

「なあいろはちゃん。帰ったらレナたちの傷、綺麗に治してやってよ」

「あ――」

 

 ギィと音を立てて開いた扉の先、星が瞬く宇宙を背に、十咎ももこはようやく最高のタイミングに間に合った。

 大剣を振るって使い魔をなぎ倒すと、廊下の奥からとんでもない速度で走ってきたメルとかなえと呼吸を合わせ、いろはを抱え扉に飛び込む。

 鏡の魔女が駆けつけた時、そこには何も残っていなかった。

 

 

 

(ウェヒヒヒ、お帰りなさい。頑張ったねいろはちゃん)

 

 いろはは巨大な掌の上にいる。

 柔らかなぬるま湯で体を洗われ、湯上がりの嗜みと言わんばかりにミルクの匂いのベビーパウダーに包まれると、傷は癒え、疲れがすっと抜け落ちていく。

 午睡のような微睡みに心を委ねながら、いろはは童話のような夢を見ていた。

 

(じゃあ、さやかちゃんが運んであげてね)

(あんた人使い荒いよ……神浜ってどこだったかなあ)

 

 不思議な夢だった。自分は蒼い人魚の背に乗って宇宙を旅しているのだ。

 多くの人とすれ違う。

 聖女、女海賊、巫女、背教者、女王、騎士、侍、盗賊、人、あらゆる宿命に翻弄された少女たちの安らぐこの世界を抜けて、いろはは地獄へと舞い戻る。

 そこに不安は無く、ただ愛する人がいる幸福があった。

 

 

◯かがみのくにのいろは

 

「やちよさん、本当に本番いけるの?」

「大丈夫よ、さっきのリハーサルだって成功して褒められたじゃない。何か変よ鶴乃」

「そっちこそ……じゃあ、また後でね。遅れちゃ駄目だよ、主役はやちよさんなんだから」

 

 赤い着物の裾を翻して林の中のテントに戻っていく鶴乃を見送って、やちよは初夏の日差しできらめく海を見つめた。

 今日は死ぬにはいい日だ。

 鶴乃は賢く、とても鋭い。ひょっとすると自分の気持ちを見抜かれているのかも知れない。

 

「……ごめんなさいね」

 

 いろはが消えて数ヶ月、あの襲撃以来ようやく心が休まる日が訪れた。

 戦いは爆発とともに終わった。

 崩れ行く映画館の中、やちよは十七夜に殴られて無理やり運び出された。結菜という少女はアオという少女の斧を何度も体に受け入れながら呆然と天井を見上げていた。

 数日経って、負傷した女子で満員御礼となった里見クリニックの一階で新聞を読むと、警察はかつてあった猟銃事件のように異常者による大規模な集団殺人が行われたと発表した。

 死亡者名簿を確かめてもネオマギウスの少女たちの遺体しか見つかっていない。プロミストブラッドたちは何処に行ってしまったのだろう。

 そんな疑問こそあったが、やちよたちには息つく暇もなく新たな試練が降り掛かった。

 

 忽然と魔女が消えてしまったのだ。

 

 安堵以上にグリーフシードが尽きることへの恐れで魔法少女たちはおののいたが、それは杞憂だった。

 新たに現れた敵は魔獣といった。

 キュウベエによると、いつの間にか世界を乗っ取った魔女の生まれない新たなシステムがもたらした歪み、らしい。

 では魔法少女は魔女にならないのだとするとどうなるか、やちよは光線に貫かれた少女を見送ったが「導かれた」と表現する他にない現象だった。

 最も重要なのは魔獣はソウルジェムを浄化するグリーフシードのようなものを落とすということ。つまり魔法少女の日常は変わっていないわけだ。

 

 鶴乃は幸運にも無事だった。フェリシアは寝たきりだったが時間をかけて徐々に火傷が治り始めた。病院に通えないさなはみたまの紹介でリヴィアという人の預かりになっていたが、もう少しで頭の包帯が取れると連絡があった。

 結局十七夜と連名で世話をすることになったネオマギウスの皆も、徐々に自分を慕ってくれるようになった。みかづき荘には定期的にいろんな魔法少女が訪れて自分を一人にしないでくれている。

 それでもなお、やちよは孤独だった。いくら探してもいろはだけがどこにも居ない。ただそれだけが耐え難い。

 もしかするといろはも導かれてしまったのか、そういう考えが浮かぶ度にソウルジェムが軋む。

 そして梶の葉伝説に出る露という少女の衣装に身を包んで海を見た今日、やちよはふと死のうと思ったのだ。

 

 貸してもらったサンダルを脱いで、すっと素足で濡れた砂に指を入れる。このまま波の方へ進めば、苦しみながら自分は死んでしまうだろう。

 その次の一歩を踏み出そうとすると、みかづき荘に取り残されたフェリシアとさなの顔が浮かぶ。すると砂に埋れた指先で書いた無作為な円さえ彼女たちの顔に見えてしまって、足を引っこ抜いてしまう。

 鶴乃に見つかるまでそんな遊びを繰り返し続けていた。こんな光景を目にすれば、鶴乃でなくとも訝しむだろう。

 きっとやちよの気分が落ち込んでいるのは先週十七夜にこう言われたからだ。

 

『やちよ、そんなざまでどうする。お前がいろはくんの帰ってくる場所だというのに、お前が居なくなったら彼女はどこに帰ればいいんだ?』

 

 一度目を砕かれてからというもの、調整屋で治療は続けているが魔法少女にならずとも読心能力が暴発するようになってしまったらしい。

 たまたま今のような気分になった時に心を読まれてしまって、売り言葉に買い言葉で喧嘩になった。

 

「あんなこと、わざわざ言わなくてもいいじゃない……」

 

 十七夜の実直で無遠慮な強さが恨めしい。

 別に慰めてほしいわけじゃない。ただあんな言われ方をしたからやちよは怒るしかなかった。

 向こうも悪いと思ったのだろう、みかづき荘に電話ではなく直筆の手紙が送られ、手短だが丁寧な謝罪を伝えられた。

 やちよはそれにまだ何も返信していない。机に紙を置いてペンを持つものの、こっちとしてはどう返事をすればいいか分からないままドラマの撮影が始まってしまったのだ。

 

 そして脚本の合わせで露を演じるうちに段々と気分が落ち込んで、時間が出来る度に役作りと言い訳してこの海岸に佇む時間が増えた。

 (成果はあった、感情移入しすぎているのか苦手なはずのやちよが演技に花丸をもらう異常事態だ)

 伝説には詳しくないが、彼女たちはどうなったのかなど、今日まで続く東西対立の歴史を顧みれば調べるまでもない。

 例え出会いが劇的で、関係が運命であったとして、結末が絶望だと言うなら何のために彼女たちは巡り合ったのだろう。

 空を見上げたやちよの顔を影が遮る、海鳥たちが群れをなして飛んでいくのが見えた。

 

「カササギは……今は見当たらないわね」

 

 七夕に流すドラマの撮影だから、七夕の鳥はあと一月は待たなければいけないし、そもそもやちよは神浜で野生のカササギを見たことがない。

 つまり自分を“千鶴”に引き合わせてくれる親切な鳥はどこにもいないのだと、また自分を苛んでしまう怯懦に溺れながら、やちよはぼんやりと沖を眺めた。

 

 ――大きな魚が跳ねた。

 

 ワルプルギスに巻き込まれて浜に打ち上げられたクジラのように、また遠洋の魚でも迷い込んだのかと目を凝らす。

 次は砂浜から見ても巨大と分かる尾が水面に打ち付けられ、大しぶきを起こしてそのまま沈んでいくのが見えた。

 もしや本当に群れからはぐれたクジラだろうかと気まぐれを起こし、好奇心に負けて一歩一歩、着物を汚さないようにゆっくりと沖へと歩いていく。

 

 ――ぬちょりとした“何か”が強い力でやちよの足をがしりと掴んだのはその時だった。

 

「いやああああ!?」

「やちよさんどうしたの! ……あっ!?」

 

 予想だにせぬ不意打ちで、やちよは柳の下の幽霊と目が合ったかのような悲鳴を上げて尻餅をついた。

 その声を聞き、やちよを呼びに近くまで来ていた鶴乃が慌てて走り寄る。今度は彼女が悲鳴を上げる番だった。

 

「離して! 離しなさい!」

「待ってやちよさん! あたっ、足元よく見て! 足!」 

「へ……?」

 

 目尻に涙を浮かべながら必死に足首を掴んだ何かを蹴りつけるやちよを、鶴乃は体を張って制止することになった。

 鶴乃に羽交い締めにされ、怯えながらも恐る恐る足元をみると、そこには再会待ち望んでいた白いローブ姿の少女が居た。

 海草や藻に絡まれて見た目は感動の再会にとても適さないものになっているが、紛れもなくそれは環いろはだった。

 

「……ただいま、やちよさん」

「い、いろは!? いろはあああ!!!」

 

 着物が汚れることも気に留めず、やちよはいろはを抱きしめて鶴乃ごと濡れた砂浜に倒れ込んだ。

 3人揃って砂まみれになり、そのことを泣きながら笑い飛ばしてハツラツと笑い転げる。

 その笑顔は彼女が見た海よりも輝いている。やちよはもう死のうという気にはならなかった。

 

 

 ――沖合でカササギの代わりに異形の人魚が泣いている。

 案の定道に迷って観光名所に寄り道した挙げ句、たった今浅瀬に挫傷した勢いで乗客を放り出した人魚はコブを作った痛みで情けない嗚咽を漏らしながら海中へと沈んでいった。

 

 

 

◯少年は今日も頑張っている

 

 あっけなく奇妙な遭遇が終わって、皆はまた彼女が居ない日常へと戻っていった。

 やちよは水の結界で電波を阻害する高等テクを身に着けて灯花をせせら笑い、激しく言い争った二人は協定を結んだ。

 フェリシアはまた宿題を溜め込まないようにと当分のあいだ他の魔法少女と遊ぶ時勉強させられる事が増えた。

 さなはこの事を絵本のネタにしようと絵筆を走らせている。

 鶴乃は姉にも電話で相談し、環に好評だったお菓子をレジ横で売り出したようだ。

 マギウスは東西の重鎮と調整屋を集め、今後来るであろうプロミストブラッドという災厄に先手を打たんと策動を始めた。

 ういは数日だけ居た姉のことを思い出して物思いにふけっていたが、今は全てを日記に収めて変わらぬ日々を過ごしている。

 最後に環いろはは……

 

「うーん、やっぱりこの格好も似合うわね」

「あのー、これ丈が短すぎませんか?」

「はいスカートから手を離す!」

 

 今度は桃と白の布で明るい装飾を施された調整屋で、いろはは着せ替え人形になっていた。

 ソウルジェムに干渉されたと思ったら、変身してみると衣装が中性的な水着だったり、環さんのものに変えられていたりと朝からみたまのオモチャにされている。

 

『はいはいどーせ私はみかづき荘の一員じゃありませんよーだ』

 

 この場を整えたねむによると、最後の話し合いでハブられたことを根に持って拗ねてしまったので、いろはが生贄になることで機嫌を良くしてもらう運びとなったそうだ。

 

『ごめんねお兄さん、ボクは金銭収受やグリーフシードのやりとりが発生するよりは後腐れがないと思ったんだ。無理を承知でお願いするよ、むふ、お兄さんには似合うだろうなあ』

 

 きっと彼女なりに頑張ってくれたのだろうと気遣いを有り難く受け入れ、用意ができたという知らせを受けて調整屋を訪れたらこの有様だ。

 即物的な消費こそ無いが、精神と尊厳がゴリゴリと削られていくのを必死に耐えることになった。

 

「まだ終わらないんですかあ?」

 

 げんなりとして着替え疲れを訴えるが、みたまはまだまだ満足しない。こんな日がいつか来ることを願って魔法少女たちに着せたがっていた衣装の草案と実物が飾り棚に所狭しと詰め込まれている。

 カメラのフィルムを入れ替えて、少女の時間はこれからが本番だった。

 

「さあ、撮影会が終わったら休憩入れて続きよ~」

「もうそろそろ夕方だから帰りたいんですけど……」

「……早く着替えないとお姉さんがここでお着替えさせちゃうわよお?」

 

 慌てて衣装を引っ掴んで更衣室に駆け込むいろはを笑って見送る。もう少し距離が縮まったなら、いつか自分も彼と同じ部屋で一緒に着替える日が来るだろうか。

 望む未来を待ちかねるみたまの足元で、どこで手に入れたのだろう、ハワイ産のマカダミアナッツ缶詰に顔を突っ込んだ小さなキュウベエがもきゅと鳴いた。

 その獣だけが、誰も知らぬ女神の痕跡をしっかりと噛み締めていた。




《制作後期》
1.元は某所で《いろは×いろは》の同一人物CP書いてというリクエストを気軽に受注したことがスタート。当初は「まあアニメ時空の子がみかづき荘に迷い込んでのんびりして帰るでいいだろ」と何も考えず書き出す。
2.趣味に走り、最後に帰ってきたいろは(幽霊)がやちよと再会して心中。一人残された鶴乃が遺物(二人のソウルジェムの残骸)を砂浜で発見するエンドが完成。当然即刻破棄。
3.「そもそも何でこの子来たの」といらんことを考え出して詰まる。
4.まずどうにかしてハッピーエンドにしろと自分に言い聞かせる。その上で「アニメ後だからアニメ時空の第二部が始まった」ことを前提に変更。
5.脳内でフェリシアやさなが樹里に焼き殺されたので一旦塩漬け。くたばれ狂犬。
6.ミラーズに囚われたいろはを助けるのは誰だ→アニメ時空のももこたち死者→それならメルとかなえも加勢するか→ところで誰が送ってきたんだ→アルまど様
7.アニメ時空はあの後まど神さまの管轄になったと想定、魔獣が出たことにして完成
8.耐えきれなくなっていらんコメディを端々に入れる

 結論、創作は計画性がないとダメだゾ

Q.フェリシアの教科書で「今同じくらいの時期」みたいな発言あったけどこっちはなんでまだPB来てないの?
A.自分はアニメを「最速ノーマルエンド到達RTA」みたいな印象で見てて、たぶんソシャゲ特有の季節イベントをほぼ発生させず最速でワルプルギスまで撃破したんだと解釈したから。その分時限イベントが前倒しされ、自動浄化システム奪う必要のないPBが時間経過していないせいで恨みが全然消えていないまま来たと設定しました。
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