六花、欠けることなく   作:ふみどり

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 柊木にヒロを任せた次の日、いつものように警視庁で端末と向かい合う幼馴染みは久しぶりにすっきりとした顔をしていた。

 

「おはよう」

「ああ、おはよ。あれ、今日はこっちに来る日だったか?」

「少し書類の確認がしたくてな」

「そっか、お疲れ」

 

 にっと笑うヒロの顔に、陰りはない。じわじわと安堵が胸に広がっていく。

 

「昨日は気晴らしになったか?」

「おかげさまで。けどひどいんだぜ柊木の奴、俺の用事が済んだ後どっか行きたいかって聞いたらすげえいい笑顔で『スーパー』っつって」

「……さては荷物持ちか」

「正解、腕痛くなるくらい持たされた。料理酒だの醤油だの、果ては米まで買ったんだぜあいつ! しかも十キロ! そのうえにさらに塩に砂糖に小麦粉まで乗せて!」

 

 手があるうちにまとめ買いしとかないとなと笑う柊木は紛れもなく魔王だったとヒロは切々と訴える。容易に想像ができて笑えた。柊木は気を許した相手に対して良くも悪くも遠慮をしない。最初の猫かぶりが嘘だろと言うくらい堂々と手伝わせるので、もはや一周回って許せてしまう。

 なんだかんだと楽しそうに昨日の話をするヒロを見て、いい気晴らしになったようだとそっと息をついた。

 組織から離脱して以降、ヒロの消耗具合は本当にひどかった。何の経験もない俺たちが例外も例外として潜入任務に送られたときからずっと、無茶ばかりしてきた。常に命の危険と隣り合わせ、目的のためならばと罪を重ねる。ましてヒロはスナイパーとして潜入したのだ、俺よりもずっとやりたくもない罪を重ねただろう。それでも任務のために、公安のために、日本国家のためにと尽くしてきたというのに、任務は失敗に終わった。

 決して「スコッチ」がミスをしたわけではない。俺も、公安の仲間たちもよくわかっている。情報の扱いには細心の注意を払っていたのに、まさか全く関係のない部署の人間から情報が洩れるとは誰も想定していなかった。厳格で知られる彼の上司さえ、悔しさと安堵に身を震わせてヒロを迎えた。

 

『すまない、……すまない! よく、……生きて帰ってくれた……!』

 

 絞り出すように響いた上司の言葉は、今でも耳に残っている。しかしそれにも、ヒロは上手く応えられていなかった。声をかければ反応はするし会話もするが、どこか上の空で地に足がついていないような。きっと時間が解決してくれるだろうとは思いつつ、俺はとにかく声をかけ続けた。

 柊木が元凶の罪をすべて暴き、さんざんいたぶって懲戒どころか送検まで持って行ったと聞いたときは、公安の関係者が皆歓声を上げた。ちなみにこの一件のおかげで公安内でも柊木の評価は非常に高い。接触が許されるのもそれゆえだ。

 その後はヒロもだいぶ元の明るさを取り戻し、久しぶりに同期たちと再会した時には昔のように笑っていた。

 もう大丈夫だと、そのときは思っていた。甘かったと言わざるを得ない。

 

『……ヒロ?』

『うん? どうかしたか、ゼロ』

『大丈夫か』

『……何がだ? 強いて言うならお前の器物損壊のおかげで寝不足だけど』

『それについては本当にすまん』

 

 表面上は元通りだ。よく笑うし、よく喋る。要領よく仕事をこなし、自分のペースを見失わない。だが、これでも長い付き合いだ。他の誰にわからなくても、俺にはわかる。

 ヒロの灰色の瞳が、ずっと空虚なままだということに。

 もともと人一倍忍耐力に優れ、取り繕うことも上手い男だ。心に抱えるものがあってもそう簡単に口にはしないし、まして弱音を吐くタイプでもない。いまだ潜入を続けている俺に対して引け目を感じていることも察していた。きっと俺では、何もしてやれない。

 それならばと、買い出しと気晴らしだと言って柊木にヒロを連れ出してもらった。ひとの機微に敏い柊木なら何か察してくれるかもしれないし、ヒロも柊木にだったら少しくらい心の内を吐露するかもしれない。そつのない柊木だ、少なくとも悪化はしないだろうと踏んで。

 そして今、実際にヒロの瞳に光が戻っている。きっと何かあったのだろう。さすが柊木、期待以上の成果だ。……幼馴染としては、ちょっと悔しい。

 

「……何だよゼロ、にやけた顔で。いいことでもあったのか?」

 

 それは、お前の方だろ。

 そう思いつつも口には出さず、何でもないと答えた。

 

 

 ***

 

 

 心理状態は身体機能にも影響を及ぼすというが、こうも顕著だとは。

 柊木と気晴らしに出てからしばらく、俺は今日も気持ちのいい目覚めを迎えた。

 

「……こうも極端だと我ながら呆れるというか……俺も単純だな」

 

 誰も聞いていない独り言と苦笑を零して、俺はベッドからおりた。

 言うつもりは全くなかった、かねてからの疑問を口にしてしまったときは本当に失敗したと思った。あんなのはただの八つ当たりだ。だというのに、柊木ときたら。

 

「……あいつ、わりと恥ずかしいこと普通に言うんだよな」

 

 生来の素直さなのか、柊木は人を褒めることにも、自分が思ったそのままを口に出すことにも抵抗がない。好意は素直に示すし、照れることも意地を張ることもほとんどない。

 当分ない話だろうが、もし柊木の女性恐怖症が治って恋人でもできれば、一切照れることなく惚気るのだろう。それも多分、無意識で。

 珈琲を淹れ、簡単に朝食の支度をする。近頃味をあまり感じなかった食事も、ようやく味わう余裕ができた。いったいどれだけ消耗していたのかと自分で呆れる。

 

『―――長年何をやってもトップレベルの結果を示す奴の隣にいながら、腐ることなくずっと努力を続けてきたお前以上に公安に相応しい奴、どこにいるっていうんだよ』

 

 そんなことを言われたのは初めてだった。確かにゼロと一緒にいれば比べられることもよくあったし、一緒に何をやっても俺よりずっといい結果を出すのがゼロだ。誰かに褒められるのも、認めてもらうのも、全て。

 嫉妬がなかったとは言わないが、そんなすごい奴が俺のことを幼馴染だ親友だと言ってくれるのは嬉しかったし、俺は俺として頑張ればいいと思っていた。ゼロに勝つために努力をするわけでもないし、誰に評価されなくてもいいと。だけど。

 

「……あれは失態だ……」

 

 いくら仕事中ではないとは言え、平常心を失って表情のコントロールも全くできなかった。職場であんな姿見せたら間違いなく異動待ったなし。

 柊木は必要のない嘘はつかない。あれもただ、心から思っていることを口にしただけ。表情と声色から、それくらいはわかる。わかるからこそタチが悪いんだと言いたいあのタラシめ。

 悔しさ半分恥ずかしさ半分で内心叫びながら、ぬるくなった珈琲を喉の奥に流し込む。そろそろ身支度を整えて家を出なければいけない。

 潜入の失敗は、正直だいぶ堪えた。しくじった覚えもないのに俺の身分が明らかになり、自決を考えながらもとにかくスマホを処分しなければとただ走った。俺は誰を、何を信じていいのかわからなかった。

 何があった? 俺が失敗をしたのか?

 それとも誰かが俺の情報を? ―――誰、が?

 頭の中に疑問符が飛び、混乱が過ぎてそれまで俺のサポートをしてくれていた公安の仲間さえ疑った。経験に乏しい俺を、あんなに支えてくれていたのに。

 俺の情報を流した奴が捕まり、これでひと安心だなと同僚に肩を叩かれても心は晴れず、俺はそんな自分自身に絶望すら感じていた。

 

『外的要因があったとは言え、重要な潜入任務に失敗した』

『きっとよく組んでいたバーボンにもNOCの疑いがかかっただろう。俺はゼロの任務遂行の邪魔をしてしまった』

『命がけで任務にあたる公安の仲間意識は強い。その仲間に、疑いを抱いてしまった。俺の生存をあんなに喜んでくれた仲間を疑ったなんて』

『こんな俺は、公安にいていいのだろうか』

 

 そんな暗い思考があれ以来ずっと俺の中で渦巻いていた。たぶん、もともとそんなに持っていなかった自信というものを根こそぎなくしていたのだと思う。

 そんな俺に、気遣いでも何でもない、柊木の心のままの言葉は響いた。

 

『人を見る目が確かなお前が、そう言ってくれるなら』

『俺はまだ、公安で頑張れるかもしれない』

 

 我ながら本当に単純だ。ずっと抱えていた黒いものがこんなに簡単に消えてしまったのだから。そんな自分自身に苦笑を零しながら、ジャケットを羽織る。柊木に選ぶのを手伝ってもらったネイビーのスーツは、ひどく身体に馴染んだ。

 

「……あ、また柊木にお好み焼き作ってもらおう」

 

 いまいち味の分からない状態で美味いとわかっているものを食うほどむなしく、悔しいことはない。先日の荷物持ちの代金がわりにたかりに行こう。ゼロに相談して予定を調整しなくては。

 支度を終えて鞄を持った俺は、いつものように玄関のドアを開け、一歩を踏み出す。さて、今日も火が付きやすい幼馴染の補佐に励むとしようか。

 

 

 ***

 

 

 ようやく今日の分の仕事を終え一息ついたとき、スマホの着信音が自室に鳴り響く。手に取り相手を確認すると、柊木だった。

 

『ああ降谷、今いいか?』

「大丈夫だ。どうした?」

 

 柊木とは定期的に連絡をとっている。もちろん他の奴らとも雑談のようなやり取りを交わしたりしているが、頻度は柊木がダントツに多かった。

 

『悪ガキどもが変なもん見たらしい。杞憂かもしれないが、ちょっと気になってる』

「詳細頼む」

 

 柊木の言う「悪ガキ」、仲間内ではふざけて「非行少年ネットワーク」なんて呼んでいるが、彼らの存在はまったく馬鹿にできない。その働きはまさにホームズの手足であり目や耳となった「ベイカーストリートイレギュラーズ」そのもの。偶然とはいえヒロの逃走を助けただけでなく、柊木がため息をつく程度には優秀な諜報員になりつつあった。

 彼らは街に溶け込み、どこにいても特に怪しまれることはなく、常にそっと耳をそばだてている。まあたいていは伊達がどこそこで仲睦まじくデートしていたとか、伊達が照れくさそうに結婚情報誌を購入していたとか、そういった情報らしいのだが(伊達は真剣に頭を抱えていた)、たまに妙に引っかかる情報を持ってくることがあるらしい。柊木としては協力者のような使い方はしたくないようだが、せっかく得た情報を渡さないのもどうかということで、こうして報告を上げてくれている。

 その情報の精度と量は現役捜査員顔負けのレベルで、いっそ全員公安に引き抜くかと言ったら冗談でもやめろと怖い顔をされた。

 

「……なるほど。確かにそれは妙だ」

『もうその近辺には近づかないよう釘刺してあるから』

「ああ、その方がいいな。わかった、後はこっちで調べる」

『よろしく』

 

 いつもながら優秀だなと笑いながら言うと、優秀すぎて困ってんだよと心底困った声で柊木が返した。

 

『何なのあいつら、街で迷子見つけたら保護者のとこまで送り届けてやってるし、大荷物抱えたご老人がいたら家まで運んでやってるし、こないだなんかコンビニで万引き犯捕まえやがったんだぞ。凶器持ってるかもしれねえのに喧嘩のやり方も知らない奴らが手ェ出すなって締め上げたけど。今や近所でも評判のいい子たちだよ』

「……それはもう不良と言っていいのか?」

『俺もそう思う』

 

 怒っていいか褒めていいかわからなくなっているらしい柊木に、つい噴き出す。どう考えても柊木の影響だろうに、本人にその自覚がないのだから面白い。

 

「そういえば柊木、ヒロと出かけた日、何かあったか?」

『何かって? 特に何もなかったけど。俺が諸伏をこき使ったくらいで』

「こき使った自覚はあるんだな。……いや、ヒロの顔色が良くなっていたから」

 

 そう言うと柊木は、あー……と声を漏らした。何か心当たりがあるらしい。

 

「いや、無理には聞かないが。……良かったと思って」

『……まあ、もう大丈夫なんじゃないか、たぶん。俺もよくわかってないけど』

 

 本当に柊木もよくわかっていないらしい。無意識にひとを立ち直らせるなら、お前のそれはもう才能だ。苦笑するしかない。

 まあ、と柊木は軽い声で続けた。

 

『ひとにメシたかれるようになったらだいたいもう大丈夫だよ。萩原や松田もそうだった』

「何だそれ」

『あいつら皆してお好み焼きとたこ焼き食べたがるんだよ。気に入ってくれんのは嬉しいんだけど、またあの量焼くのかと思うとちょっと気が遠くなる』

 

 何でもないようにそう言う柊木に、そういえば前のお好み焼きは松田の事件の直後だったな、と少し遠い目をした。

 僕の同期たち、わりと大変なことに巻き込まれているわりに少々呑気すぎやしないだろうか。いや、確かに柊木のお好み焼きは美味いけど。うん、……食べたいな。

 

「……柊木」

『うん?』

「今僕が取り組んでいる、大きい仕事」

『うん』

「それが無事片付いたら、そのときもまたお好み焼き頼む」

『お前もかよ』

 

 仕方ねえなあ、と呆れたように言うその声を聞いていると、不思議と安心した。本当に柊木は、変な奴だ。お前がそうやって笑ってるうちは、大抵のことは何とかなるような気がしてくるのだから。

 

『降谷』

「何だ?」

『お好み焼きくらいいつでも焼いてやるから、早く外でも降谷って呼べるようになってくれよ』

「……ああ」

 

 柊木の柔らかい言葉は、耳に心地いい。……ああ、ダメだ、瞼が下がってきた。

 

『……降谷? 起きてるか?』

「おきてる……」

『ほとんど寝てんじゃねーか。疲れてたんだろ、長話して悪かったな』

「ひいらぎ……」

『何だよ』

 

 お前がいてくれて、よかったよ。

 そう口を動かし、そのまま()は眠りについた。

 

 

 *

 

 

「……え、何寝たの降谷……?」

 

 あんな最大級のデレを投下しといて寝落ちとは。

 本当に寝落ちしているなら多分最後の言葉は覚えていないだろう。録音していなかったことを心から悔やみつつ、通話を切った。

 

「……諸伏のことばっか心配してたけど、お前だって精神やられてたんだろうに」

 

 諸伏といい降谷といい、公安組は顔に出にくいから厄介だ。

 松田くらいわかりやすく荒れてくれればフォローもしやすいというのに、全く可愛げがない。思うところがあるなら少しくらいは何かしてやりたいと思うのに、なかなか隙を見せてくれないというか何というか。

 俺がこれだけ堂々と迷惑を掛けにいっているのだから、あいつらも同じくらい堂々と迷惑を掛けにくればいい。……こういうことも言わないと伝わらないのか。我ながら人付き合いの経験値がたりなすぎて手探り感が否めない。こういうことが得意なのは萩原だ、そのうち話を聞いてもらおう。

 まだまだ努力しなきゃいけないことだらけだな、と苦笑してスマホをベッドサイドに置いた。といっても、別に悲観はしていない。

 今できないなら、これからできるように努力すればいい。今できることのなかから、やるべきことを見つければいい。たいていのことはこのふたつに尽きる。

 とりあえず、お好み焼きでもたこ焼きでも、あいつらのためにできることがあるのは誇らしく思えた。大学時代に作り方を叩き込んでくれたバイト先のおっさんたちに感謝をしつつ、電気を消してベッドに潜り込む。

 

「……頑張ろ」

 

 ふと口から零れた小さなつぶやきは、ベッドの中でほどけて消えた。

 

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