始めた頃は欠伸を連発していた俺も、最近は目覚ましがなくても起きられるようになった。
鳴り響く前にアラームを切り、ひとつ伸び。顔を洗い、警察官にしては少し長い髪を軽くゴムでまとめた。簡単に胃に水とエネルギーを放り込んで、トレーニングウェアに着替える。同じくトレーニング用のシューズを履き、軽くストレッチをして走り始めた。
早朝の空気は気持ちがいい。柔らかく冷えた空気が肌を撫で、わずかに残っていた眠気を奪ってくれる。ペースよく走りながら、よくランニングコースに使っている公園に向かった。
ただでさえ激務に就いているというのに、誰に言われるでもなく早朝に走るだなんて。毎朝そう自分に苦笑しながら、なんだかんだと結構長い間続いている習慣だ。
俺は自他ともに認めるマイペースである。頑張るときはもちろん頑張るが、人と自分を比べて成果に焦るようなことは決してなかったし、俺は俺としてやっていけばいいと思っていた。だから周囲にいるやつらがどれだけすごいやつらでいようと、俺は俺のペースを乱すこともなかったし、頑張りすぎることもなかった。
それがほんの少しだけ変わったのは、いつからだろう。
やはりきっかけはあの爆弾処理の失敗だろうか。公安組を除いた三人が、揃いも揃って泣きそうな顔をしていたのにはさすがに驚いた。
『心配、かけやがって……!』
『この馬鹿、治ったらまず正座で説教三時間は聞いてもらうからな』
『そのあとは俺から鉄拳だこの野郎……本当に、良かった……!』
心配、かけちゃったな、と。三人の声で自分が生きていることを実感し、俺までちょっと泣きそうになったのはばれていないと思いたい。
それに、誰にも言ってないことだが、深夜にこっそり病室を覗き込んでくる奴がふたりいたことを俺は知っている。俺が寝たふりをしていたことに気づかなっただろうそいつらは、小さな呟きだけを落としていった。
『……堂々と見舞いに来れなくてごめんな』
『無事でよかった……』
そのころはその音信不通だった友人ふたりの事情なんて知らなかったが、きっと面倒な仕事をしているであろうことだけは予測していた。そんな中でも俺の顔見に来てくれるって、俺ちょっと愛されすぎでは。お前ら本当に俺のこと大好きね。
そりゃ仲は良いし気が合う自覚もある。けど、ここまで俺のこと気にかけてくれるなんて、とさすがに胸がくすぐったかった。
そのあとももう大変、この事件のせいで陣平ちゃんは荒れるし、刑事部来て馬鹿やろうとするし、俺はまた爆弾とデートする羽目になったし、解決したと思ったら今度は何か諸伏が危ない目にあったらしいし、柊木は査問で魔王発揮して出世するし、公安組とまた会えるようになるし、……いや俺の警察官人生、十年もたってないのに激動過ぎでは。俺もうちょっと平和的に警察官やるはずだったような、と思ってももう後の祭り。
きっと今後もさらなる騒動に巻き込まれたりするのだろう。けどやっぱり、気の良いあいつらと縁を切る気になんてさらさらなれなくて。
それならせめて、生き残るためにも少しくらいは対策をしておいた方がいいだろう、と。俺に出来ることは限られているかもしれないが、せめて鈍らない程度には身体を鍛え、気晴らしも含めて人付き合いちゃんとして人脈作って、柊木の防波堤も兼ねつつ合コン行ってコミュニケーション能力も鍛えて。
自分にできるちょっとしたことくらいは、やっておこうと思った。何かが起きたとき、少しでも力になれるように。自分にできることを、増やしておきたかった。
まーそれで朝練なんて安直だけど、なんて自分に苦笑しながら走り続けていると、視界の端に見知った顔が見えた。
「……あれ、伊達班長に高木くん?」
「おお、萩原じゃねえか」
「萩原さん、おはようございます」
どうやら張り込み帰りらしいふたりは、明け方にも関わらず元気な顔をしている。
「お前こそ走り込みか? 珍しいことしてるじゃねえか」
「俺だって身体が鈍らないように考えてるんです~。機動隊に比べたら全然運動量足りないし、三十路を前に太ったら嫌じゃん?」
いつものようにへらっと笑って言って見せると、そりゃ確かに、と伊達も苦笑した。
さすがに素直に頑張ってるのだというのは気恥ずかしくて、そうそう俺たち、もう今年二十八だかんね、いつまでも若いと思ってると急に太りだすからね、と続けると伊達も納得したようだった。
「毎日走ってるんですか? 激務の最中にトレーニングまで……すごいですね」
「気が向いたときだけだって~。高木くんもあと数年たったらわかるよ、三十路近づいたら身体鈍るのすぐだから」
「おい悲しくなるからやめろ」
その渋い顔の後ろに、随分とスピードを出して走る車が見えた。あれはどう見てもスピード違反―――というか、おいちょっと待て、何でこっちに、
「危ねえ!!」
ブレーキ音は最後まで聞こえなかった。
***
「……居眠り運転の車が突っ込んできて交通事故」
「しかも例の婚約者さんの両親にご挨拶に行くその朝に……」
「どうする伊達、お祓い行く?」
「うるせえんだよお前ら!」
もはや若干涙目の伊達は、その左足に大きなギプスを付けていた。病室で騒ぐなと窘めるが、これはさすがに気の毒だ。伊達は泣いていい。
車が突っ込んできたところを萩原に助けられたという伊達は、かろうじて直撃は免れたものの躱しきれず、数か所の打撲と骨折。命にこそ別状はないものの、しばらくの入院を強いられた。いや、これは運が良かったと言うべきだろう。
「大したことなくて良かったな。珍しい萩原のファインプレー」
「珍しいってひどくない? いやぁさすがにびびったわ~」
「伊達の部下だっていう刑事は無事だったのか?」
「うん、高木くんは避けたときにできた擦り傷程度だって」
高木くんと言えば前に握手求めてきた彼のことだろう。実直そうな顔が脳裏に浮かぶ。
あれ以来彼はすれ違うたびにしっかりと挨拶をしてくれる。そしてそのたびに伊達がひどく微妙な顔をしているのが非常に面白い。大した怪我がないのなら良かった。
「ま、命があっただけ良かっただろ」
「それはそうなんだけどな……」
松田の言葉に、伊達は暗いまま声を返した。
「何だよ、どうかしたのか?」
「……彼女のご両親が」
「ご両親が?」
伊達がぼそぼそと言うところによると、彼女のご両親はさすがにこのタイミングで起きた事故に不安を抱いたらしい。しかも伊達は、張り込み帰りとは言え半分勤務中に事故に遭ったようなもの。大事な娘を預けるのに、刑事と言う危険の大きい職に就いている人はどうなのか、と。
とはいえ、その人格は娘からも聞いているし、娘も結婚をやめる気はないと言っている。ならば、と条件が付けられた。
「……俺が現場復帰して、三年間大きな怪我無く刑事として務められたら、結婚を許すと」
「……事故は仕事と直接関係はないが、まあ不安に思う気持ちはわからなくないか。危険が多いのは事実だし」
とにかくタイミングが悪かったなと降谷が言うと、伊達はがっくりと肩を落とした。その肩を萩原がにまにま笑いながら叩く。
「あと三年は独身だねえ。ドンマイ」
「萩原ァ……!」
「え~命の恩人にそういう態度とっちゃう~?」
「ぐっ……!」
歯噛みする伊達に苦笑して俺は言った。
「まあ、逆に言えば三年無事に仕事してれば結婚許してくれるんだろ? 真面目に働いてりゃ三年くらいすぐだよ」
別れるつもりはないんだろと付け加えれば、伊達は当然だと頷いた。それなら何も問題はない。
「なら大人しく、その美人の婚約者に看病でもしてもらえよ」
「あ、急に同情する気が失せた」
すっと真顔になった諸伏の言葉に、俺も、とそれぞれしらけた声が零れる。お前らな、と伊達が言うとまた皆で笑った。
「そういやその婚約者さんは?」
「仕事行ってる」
「え~俺ご挨拶したかったなぁ」
誰が会わせるか、と伊達が不貞腐れたように言う。なんでだよ、と松田が言うと、さらに伊達は渋い顔をした。
「お前ら絶対あることないこと彼女に吹き込むだろ」
「何言ってんだお前、嘘は言わねえよ」
「そうそう、あったことしか言わないって、お前の警察学校時代の話とか」
「だから嫌なんだろうが!」
萩原や松田ほどではないとはいえ、伊達だって過去何もやらかしてないわけじゃない。さすがに彼女にそれを知られるのは嫌なのだろう。
そしてそう言われればやりたくなるのが俺たちだ。
「伊達の婚約者さんなら俺も話せるかなぁ」
「お、柊木チャレンジすんの?」
「だって俺しか詳細話せない伊達の黒歴史とかあるだろ?」
「頑張れ柊木、応援してる」
「お前ら本当にやめろ」
伊達の大事な人なら、俺だって挨拶くらいはしたい。きっといい人だろうから、他の女性よりは大丈夫。多分。正直自信があるわけではないが、話す努力くらいはしたいと思う。もちろん、どうやらべた惚れらしい伊達が許してくれるならだが。
「止めたかったらさっさと退院しないとね。このまま入院してたらいつ俺たちと彼女が鉢合わせするかわかんないぞ?」
面白そうに諸伏が言うと、伊達は苦笑して頷く。ふと思いついたように萩原が口を開いた。
「というかお前ら顔見せていいの?」
「俺は大丈夫。所属の話さえしないでくれれば」
「紹介の必要ができたら俺のことは『安室透』で頼む。警察関係者だとは言わないように。適当に『友人』くらいで誤魔化してくれ」
お前らもな、と降谷に言われ、了解とそれぞれ頷いた。すると諸伏が面白そうに言葉を続ける。
「『安室透』の性格はゼロとは全く違うから、その辺も気をつけて」
「何、潜入用の性格?」
「敬語で物腰柔らかいふりして、本性は嫌味ったらしく性格が悪いっていう設定」
「つまり猫かぶりの時の柊木と、魔王の時の柊木みたいな感じか」
「よーし松田その喧嘩買うぞ」
「ヒロもな」
俺は松田の、降谷は諸伏の頭を掴み力を籠める。誰が魔王だ。いででででと悲鳴をあげるふたりをよそに、伊達と萩原は愉快そうに肩を揺らす。
「ま、早く退院しろよ、伊達」
「仕事は山積みなんだ、休んでる暇はねえぞ」
入院中もくわえ楊枝をやめないタフな友人は、すぐ復帰してやるよ、といつものように頼もしい笑顔を見せた。