高く飛び跳ねたサッカーボールが、俺の遙か頭上を越えていく。
上を向いた瞬間、太陽の光が目に飛び込んで、少し眩しい。
「何やってんだよ元太!」
「悪い悪い」
えへへ、と笑うそいつに背を向けて、俺はサッカーボールを追いかける。
今日は少年探偵団の奴らと一緒に、少し大きな公園にサッカーをしに来ていた。力任せにボールを蹴りがちな元太のおかげで、さっきから走り回ってばかりだ。
「お、あった」
少し離れた植え込みに、ボールが転がっているのを見つけた。周囲に人影はないし、植え込みも傷ついた様子はない。よかった。
ボールを拾って戻ろうとしたとき、よろよろとベンチに近づき、どっかりと腰を下ろした男性の姿が目に入った。顔は見えなかったが、あの動き方からして体調が悪そうだ。しかし周囲に連れらしき人は見えない。気になってその人に駆け寄った。
「お兄さん、大丈夫……柊木さん?」
「ん……? コナンくんか……?」
そっと顔を上げると、ずっともう一度会いたいと思っていたその人だった。顔色は真っ青で、指先が少し震えているのがわかる。
「柊木さん、体調悪いの? 顔真っ青だよ」
「ああ、いや、……ちょっと人に酔ってね。心配して声をかけてくれたのか、ありがとう」
柊木さんはそう弱弱しく微笑むが、人に酔ったってこのあたりそんなにひと気があるわけでもないのに。飲み物でも買ってきたほうがいいかと周囲を見渡すと、顔に影がかかった。
「あれ、知り合い?」
「萩原」
いつのまにか傍にいたのは、柊木さんと同じくらいの年齢の男の人だった。ゆるく下がった垂れ目は優し気で、少し長い髪が良く似合っている。ほい、と柊木さんにペットボトルを渡したその人は、どうやら柊木さんの連れらしい。
「お兄さん、柊木さんのお友達?」
「そうだよ~。柊木のこと知ってんだ」
「うん。ねえ、柊木さんすごく体調悪そうだけど、病院に連れて行かなくて大丈夫?」
「ん~とりあえず貧血起こしただけみたいだから」
「ああ、少し休めば大丈夫だよ。ありがとう、コナンくん」
柊木さんの言葉に萩原さんはひとつ瞬きをして、まじまじと俺を見つめた。
「そっか、君が江戸川コナンくんか。噂は聞いてる、事件現場うろちょろしちゃだめだぞ~」
「僕のこと知ってるの?」
「伊達や松田知ってるでしょ? おにーさんこれでも刑事でね、奴らの同期なんだ」
そう言って萩原さんはぐしゃぐしゃと俺の髪をかき回した。手つきは優しいがその腕は力強くて、しっかり鍛えている人なんだと感じられる。
「伊達刑事や松田刑事の同期?」
「そ。俺は萩原研二、よろしくね。あ、ちなみに柊木も同期だよ」
つまり、柊木さんが前言っていた「捜査一課にいる同期」というのは伊達刑事や松田刑事のことだったのか。
そういえば、伊達刑事と松田刑事が同期というのは誰かに聞いた気がする。正直なところ、老け顔気味の伊達刑事と童顔気味の松田刑事が同期で同年というのは結構驚いた。
「お休みの日に一緒にいるなんて、仲が良いんだね」
「腐れ縁って奴かな~。お、ちょっと顔色マシになってきたな」
「ん……悪い、いつも」
申し訳なさそうに言う柊木さんに、いーからと軽く笑って流す萩原さん。「いつも」という言葉がひっかかって聞き返した。
「柊木さん、貧血気味なの?」
「貧血気味というか……」
「んー、コナンくんって、柊木の女苦手知ってる?」
そういえば柊木さんは、「人に酔った」と言った。「人ごみに酔った」ではなく。
まさかと思いつつ、安室さんからちょっとだけ聞いたと答えると、柊木さんがあの野郎と力なくつぶやいた。
「いやぁ、柊木の結構重症だから、近づきすぎると貧血起こしちゃうんだよね~」
「そ、そんなにひどいの?」
「や、貧血で済んだからむしろ良かったんだけど。よく堪えたね旭ちゃ~ん、リハビリの甲斐あってマシになってんじゃない?」
「そもそもお前が待ち合わせに遅刻しなきゃ逆ナンなんて来なかったんだよ……!」
「ごめんて」
歯噛みするように言う柊木さんに、けろっとした様子で萩原さんは謝った。どうしよう、これは本当に園子に会わせてはいけない。
「そういうわけだから病院は大丈夫。コナンくんも柊木が女の子に声かけられてたら助けてやってくれな~?」
「う、うん……?」
困ったように頷くと、だいぶ顔色の戻った柊木さんが、萩原の言うことは気にしなくていいから、とため息をついた。
そのとき、後ろから俺を呼ぶ声を足音が聞こえてきた。
「あ、いたいた! どうしたのコナンくん」
「こんなところにいたのかよ~おせぇぞコナン!」
「なかなか戻ってこないから探しに来たんですよ」
「ああ悪い悪い、体調悪そうな人を見つけたから、ついな」
そう言うと、そいつらの視線がすっと俺の後ろに移る。ぱっと歩美の顔が輝いた。
「わあ、お兄さんすっごくかっこいいね! 芸能人みたい!」
そういえば、柊木さんの苦手とする「女性」は子どもも含まれるのだろうか。歩美や灰原は大丈夫なのかと、そっと後ろを窺う。
「えーと、ありがとう」
柊木さんは特に辛い様子も見せず、困ったように笑うだけ。
これは大丈夫なのかと萩原さんに視線を移すと、俺の視線に気づいた萩原さんはぱちりとウインクをしてくれた。どうやら女性は女性でも子どもは大丈夫らしい。
「体調悪いっていうのはお兄さんですか?」
「うん、少し貧血を起こしてね。もうだいぶ良くなったから大丈夫だよ。コナンくんを引き止めてしまってごめんね」
「まだ少し手が震えてるわ。動かない方がいいわよ」
灰原がそう言うと柊木さんは自分の手に目をやり、ぐっと握り込む。ちょっと恥ずかしそうな顔で言った。
「うん、もう少し休んでるよ。皆は公園に遊びに来たんだろう? 俺のことは気にしなくていいから、遊んでおいで。連れもいるし、大丈夫だから」
せっかくの偶然だ、この機会を逃したくはない。が、柊木さんは体調不良、萩原さんもいるし、こっちには少年探偵団もいる。探りを入れるのはまた日を改めるしかないかと思ったそのとき、空気を割くような悲鳴が公園に響いた。
***
悲鳴を聞いた萩原とコナンくんは反射的に走り出し、俺も子供たちにここを動かないように、と声をかけて地面を蹴った。というか待てコナンくん、君はダメだろ。
悲鳴の元はどうやら公園に併設されていたカフェ。今日は天気がいいから窓を開けていたのだろう、そこから悲鳴が届いたらしい。何があったのかと驚いた顔をした客たちを尻目に、バックヤードへ飛び込んだ。
「警察です、何かありましたか?」
ばっと一番乗りの萩原が警察手帳を出して声をかけた。
追い付いてみるとそこには真っ青な顔で座り込む女性。彼女が震えながら指さした先には、苦しんだ表情のまま動かない男性が倒れていた。
「っ……!」
俺はすぐに駆け寄って脈拍と瞳孔を確認する。
「……柊木、どう?」
「……亡くなってる。蘇生は……無理だろうな」
そう言うと女性がひっと悲鳴をあげて、さらに震えが大きくなる。おそらくこの女性が悲鳴の主で、第一発見者だ。
「萩原、その人連れて行って落ち着かせてやって。俺は本庁に連絡する。……コナンくん、この部屋に一歩でも入ったら怒るぞ」
「う、」
「了解。さ、いったん離れましょうか。コナンくんもおいで、そこのイケメン怒るとマジで怖いから」
悔しそうに詰まるコナンくんと女性を連れて、萩原は離れていった。
俺もものに触れないようにそっと部屋の入り口に戻る。事件か事故か、それとも病気かは現状わからないが、とにかく人を呼ぶしかない。
できれば殺人でない事を祈りながら、俺はスマホを取り出した。
*
「で、何でお前らがいるんだよ……」
先遣隊である機動捜査隊が到着し捜査を始めて間もなく、捜査一課からも刑事が到着した。やはりというか、臨場したのは目暮警部を始めとする目暮班。昇任後目暮班から外れたという松田も、今日は人手が足りないとかで目暮班のフォローに来たらしい。俺たちを見て苦い顔をする松田に、苦笑を返した。
「やだ陣平ちゃん顔こわーい」
「残念なことにというか、偶然ですよ」
お前も職務中なら切り替えろ、という思いを込めて敬語で返すと、松田はさらに苦い顔。俺はともかくお前は職務中なのだから敬語を使え。
店のフロアに従業員や店にいた客たちが集められ、それぞれ事情聴取に入る。
被害者はこの店の店長。従業員は第一発見者の女性を含めて四名、それに常連と言える客が二名に、今日初めて来たという客が数名。何気なくそれぞれの話を聞きつつ、犯行現場を思い返した。
事件でなければいいとは思ったが、遺体の様子を見る限り多分あれは薬物による中毒死。毒殺の可能性が高い。それなら、毒あるいは毒をいれてきた容器をもっているひとが犯人だ。外部犯の可能性も否めないが、ここにいる人の中に犯人がいるのなら身体検査をすればはっきりするだろう。
「では、誰か現場に入った人は?」
「私が。悲鳴を聞いて駆けつけ、脈拍と瞳孔の確認をするために入りました。すでに手遅れでしたので、そのまま部屋を出ましたが」
「では、状況を詳しくお聞かせ願えますかな?」
「もちろんです。しかしその前に」
ん、という顔をする目暮警部を前に、背後でうずうずしている子供たちの方を振り返った。やれやれと苦笑してみせる。
「どこか空いている部屋はありませんか? この子たちをこのままここにいさせるのはさすがに気が引けます。現時点で殺人の可能性も否めない以上、家まで送ってあげたいので、どこかで別室で待っていてもらいたいのですが」
結局コナンくんの友人たちも我慢が利かなかったらしく、気づいたときには店の中に入り込んでいた。俺たちで犯人を見つけるぞ、なんて息巻いていて、その横でコナンくんがため息をついている。いや、君も同じ穴の狢だと気づいてほしい。
「あ、そ、それなら、そちらに、従業員用の休憩室が……」
第一発見者の女性が、今だ震える手をおさえながら手を上げてくれた。
「では、そちらをお借りします。ありがとうございます」
「ああ、じゃあ俺がこの子らについてますよ。俺は現場に入ってないし、ずっと彼と一緒にいたので証言できる内容も同じになるでしょうから」
じゃあ皆行こうな~と萩原が朗らかに声をかけると、えー、と子供たちのブーイング。
そういえば少年探偵団を名乗っている子たちがいるという話も聞いていたが、どうやらこの子たちのことらしい。
「歩美達も手伝う!」
「俺たちも犯人捕まえるぞ!」
「捜査に参加します!」
なるほど、これはめんどくさい。
人当たりはいいが別に子供好きではない萩原も、うーん、と困ったように笑った。
「ダメよ」
そこに、ぴしゃりとした声が響く。ずっと彼らの後ろの方で黙っていた茶髪の女の子が、無表情のまま切り捨てた。
「貴方たち、刑事さんの言うことを聞きなさい」
「えー……」
「だってぇ……」
「行くぞ、おめーら」
コナンくんがダメ押しをして、ようやくしぶしぶといった感じで子供たちは歩き出した。萩原はあきらかにほっとした顔で、やれやれと歩き出した。
「萩原」
何、と振り返った萩原に、にこりと笑いかける。
その瞬間、萩原の笑顔が盛大に引きつった。
「よろしく」
「……えー……」
「よろしく」
「……はーい」
俺の意図を正しく理解してくれたらしい萩原は、そういうの苦手なんだけどな……とぶちぶち文句を言いつつ、子どもたちを連れて休憩室に向かっていった。
「……柊木監察官、今のは……?」
「子どもたちの面倒をよろしく、という意味ですが?」
不思議そうに聞いてきた高木刑事にそう答えると、ああ、そういうことですか、と頷いた。うーん、君はもう少し人を疑うことを覚えた方がいいかもしれない。
「では、悲鳴を聞いたときからの説明を」
「わかりました」
簡単に説明をすると、フム、と目暮警部は頷いた。
俺や萩原が悲鳴を聞いて駆けつけたことは防犯カメラの映像からはっきりしている。警察官だということを差し引いても、俺たちに疑いがかかることはないだろう。
「では、貴方もしばらく子供たちと一緒に待機していただきたいのですが、よろしいですかな?」
「もちろんです。では、失礼しますね」
横目に、松田が警部を始め捜査員を現場に呼んでいるのを見る。何か現場で気になることがあったらしい。
休憩室に向かって歩きながら、俺の耳が捜査員たちの会話から漏れ出る情報を拾っていく。毒殺で確定、やはり殺人。そして店内からは毒物を持ち込んだ容器が見つからない、と。これは捜査が難航するかもしれない、と思ったとき、この店の常連客だという女性の姿を視界の端にかすめ、一瞬違和感を覚えた。
ふと、ひとつ仮説が浮かんだ。つい足を止めかけたが、まあ松田なら気づくだろう。そう思い直して休憩室に向かう角を曲がれば、何故かそこにいるのは休憩室にいるはずの彼。
あきらかにやばい、なんて顔はしないでほしい。やれやれと思いながら、にこりと笑顔を作った。
「どこに行くんだ? コナンくん」
「ぼ、僕、ちょっとトイレ!」
「そのわりに君の足が向いていたのは現場の方だな。トイレは向こうらしいよ」
「そ、そうだっけ?」
間違うところだった~と冷や汗を流す小さな探偵くん。確かにトイレと言われれば引き止めるわけにもいかないが、何やってんだ萩原の奴。
おそらくこうやって普段から事件現場に飛び込んでいたのだろう、松田や伊達が嘆くはずだ。頭の回転が小学生離れしているのは事実であるだけに、子どもが捜査に関わるなとか危険だからやめなさいとか言っても聞かないのだろう。実際、本人も遊んでいるつもりではないのだろうし。
いいだろう、それならもう少し上の子どもに対する扱いで、君に接することにしよう。
「じゃあ、行こうか」
「……え?」
「事件現場。行きたいんだろ?」
*
コナンくんの手を引いて、事件現場となった部屋の入口前に来る。
ドア横にいた捜査員にえっという顔をされたが、笑顔で黙らせた。いや本当に申し訳ない、お仕事ご苦労様です。
現場にはすでにご遺体はなく、目暮警部や松田をはじめとする刑事がそろって現場検証を行っていた。いち早くこちらを見咎めた松田が、眉を吊り上げる。
「……何やってんですかね、柊木監察官」
その声で皆俺たちの存在に気付いたのか、皆ぎょっとした顔でこちらを見る。俺はいつもの笑顔を崩さずに答えた。
「社会科見学の付き添いですかね。ああ、こちらのことはお気遣いなく、ここから動きませんから」
「しゃ、社会科見学って……」
「……柊木監察官」
「お気遣いなく」
重ねて言うと、ものすごく嫌そうな顔の松田はちゃんと捕まえといてくださいよ、と言って目線を現場に戻した。俺が引かないことを察してくれたらしい。
他の刑事たちも戸惑っていたが、松田にならって意識を現場検証に戻した。
「っ……!」
繋いだ彼の右手から、焦る思いが伝わってくる。
そっと目線だけでその顔を盗み見ると、その瞳はまるで燃えているようだった。捜査をしたい、調べたい、話を聞きたい。事件に対する好奇心以上に感じられるのは、どこか使命感に似たもの。
俺はコナンくんの手を一旦離し、目線を合わせるようにしゃがみこんだ。現場の方を見つめていたコナンくんがはっと驚いた顔でこちらを見る。
「前から話は聞いてたよ。毛利探偵の後ろにくっついて事件現場に入り込んでくる小さな探偵くん」
「え、」
「とても頭のいい子で目の付け所も良く、大人顔負けの推理力を発揮して事件を解決に導いているってね。正直、その話を聞いたときはどんな問題児なのかと思ったんだ。事件をゲームのように思っている子なんじゃないかってね」
「そ、んなこと思ってない!」
反射的に叫んだコナンくんに、頷いた。
そう、君はちゃんとわかっている。犯罪事件にまとわりつく苦しみや哀しみも、人の命の重みも、わかっている。むしろ
だが、俺はそれを止めなければならない。法的な理由、職務上の理由、もちろん俺個人の主義としての理由で、俺はそれを見過ごすことはできない。
だから俺は、こういう言い方をしよう。
「……何を言うよりまず、君に謝らなくちゃいけないな。俺を含め、全警察官が」
「……え?」
「君、自分より頭のいい警察官に会ったことないんだろ」
場の空気が、凍った。
***
「君、自分より頭のいい警察官に会ったことないんだろ」
一瞬、何を言われているのかわからなかった。にこやかな表情とは裏腹に、まっすぐに突き刺さってきたナイフのような言葉。よりにもよって大勢の警察官がいる前で、その言葉はあまりに無慈悲につきつけられた。
「な、……そんな、」
「遠慮しなくていいんだよ? 情けないよな、同じものを見ているはずなのに、君はその違和感に気づいて、大の大人は気づかない。しかも警察学校でちゃんと捜査手法を学んできているにも関わらず、だ。そりゃ口を出したくもなるよ」
な、と笑う柊木さんの笑顔は、ポアロで俺に笑いかけてくれた時の笑顔とは全く違っていた。あんなに優しかった笑顔が、今はとてつもなく怖い。慈しみの色は一切なく、その瞳には何の感情も宿っていなかった。
「俺が代表するのもおかしな話だけど、日本警察を代表して謝るよ。警察に任せておいたら事件は解決しない。犯人は捕まらないし、被害者の無念も晴らせない。だから君は危険を冒してでも捜査をしたがるんだろう? 本当に申し訳ない」
そう言ってしゃがんだまま頭を下げる柊木さんに、頭を上げて、と叫んだ。まさかそんなことを言われるとは思わなくて、混乱で頭が回らない。
「そ、そんなこと、思ってないよ! 刑事さんたちは優秀な人ばかりなんでしょ?」
「そうかな? じゃあ何で、君は事件の捜査に関わろうとするの?」
探偵小説によく出てくる「名探偵」に頼りっぱなしの「警察官」みたいに、日本の警察も事件は解決できないと思ってるからじゃないのか?
そう問われるが、俺の口はうまく音を紡いでくれない。
そんなことはない、と言いたかった。だってあれは、小説の中での話だ。日本警察は世界的に見ても優秀なのは間違いなく、日本の平和は彼らの尽力の賜物だ。
しかし、同時に「でも」と頭のどこかで叫ぶ声がある。事件に行き詰まれば小説家の父さんのところに連絡が来た。父さんが海外に出るようになってからは、俺のところにも。あまりに明白なことを指摘すれば感謝され、さすが新一君だと讃えられる。
いや、でも、とぐるぐると思考がまわりはじめた俺を見て、柊木さんは面白そうに言葉を続けた。
「……まあ、どういう理由であれ、ダメなんだけどね。ところで話は変わるがコナンくん、俺の仕事の話、したよな」
「え、……監察官?」
「そう、ダメなことをした警察官を叱る仕事だ。君が事件現場に一歩でも足を踏み入れ、現場にいる警察官が君の存在を黙認したら。俺が何をしなければいけないか、わかるかな」
賢い君なら、わかると思うんだけど。
そうにっこりと微笑まれて、文字通り血の気が引いた。監察官は「ダメなことをした警察官を叱る仕事」、間違ってはいないがそんな生易しい言葉では表現するのは相応しくない。服務規程違反など、内部罰則を犯した警察官を調べ上げ、処罰することが監察官の仕事だ。
つまり、俺がここで動けば。
「君の行動で叱られるのはね、君じゃないんだよ」
俺は自分が休みだからって見逃したりはしない。
そう笑顔で言いきった柊木さんを前に、俺の口はもう動かなかった。そんな俺の様子を見てまた柊木さんはにこりと笑い、わしゃわしゃと俺の頭をなでた。
「……信用ならないかもしれないけど、とりあえずこの事件については心配しないで。今日来てくれている刑事さんたちは皆優秀な人たちだ。これくらいの事件、すぐ解決してくれるよ。……ねえ?」
言葉の最後は、柊木さんと俺の話を聞いていた全員に向けて。
笑顔は崩していないが、その瞳は欠片も笑っていない。今になってようやくわかった、きっとこれが、柊木さんの「監察官」としての顔。
高木刑事も言っていたじゃないか、穏やかで謙虚だが、しっかり筋は通す人柄だと。職務に忠実で、たとえ警察上層が相手だろうが何だろうが、決して不正を見逃しはしない人だと。そう言った本人も今、真っ青な顔で冷や汗をかいている。
そのとき、ひとりだけ平然としていた松田刑事が、ふん、と鼻を鳴らした。
「言われるまでもねえよ」
「ま、松田くん?」
「高木、常連客だっていう女連れてこい」
***
そこから先は鮮やかだった。
松田が指名したのは、俺も違和感を覚えたあの女性。この事件のキーになる毒の持ち運び方法。耳に入った限り、毒はほんの少量で十分で、おそらく粉末状。それを、人目をかいくぐって持ち込み、持ち出す方法は。
明らかと言えば明らかだ。きちんと身なりに気を遣い、むしろファッションに拘っていることが見て取れるのに、ひとつだけ不釣り合いな男物の時計。時計の針は動いておらず、裏には真新しいいくつもの傷。
俺ならこんな傷は残さねえけどな、と松田は現場の戸棚に残されていた工具を手に取った。聞けばこの女性、かつてはこの店で働いていた経験があるらしい。自分が犯行のために持ち込んだ工具も、もともとこの店にあった工具類に紛れ込ませれば目立たないと思ったのだろう。
松田の器用な指がくるくると動く。外された時計の裏蓋に、細工された形跡のある内部と、明らかに
犯行の流れを松田の明瞭な言葉が辿っていく。言葉が重ねられるたびに女性の顔色が蒼白に近づいていき、もはや事実は明白だった。
松田はかけていたサングラスを外し、女性の目をまっすぐ見つめて言った。
「時計の中まで調べねえだろうと高をくくってたか? 悪いな、
蒼白になった女性は、そのまま膝をついた。
さすが松田と目線をやれば、同じく目線で当たり前だと返される。どこか戸惑った様子の刑事たちは手錠をかけた被疑者をパトカーに連れていき、とりあえず事件はひと段落。
それなら今度は俺の出番と、現場に残る刑事たちに笑顔を向けた。それぞれぎくりとした顔で姿勢を正す。わかっているようで何よりだ。
「事件解決、お疲れ様です。ところで、私が皆さんにも聞こえるようにコナンくんとお話した理由、わかりますね?」
呆然と松田の推理を聞いていたコナンくんが、ぴくりと肩を揺らした。
青い顔をしたその人たちは、誰ひとり口を開かない。
「返事」
短く投げつけた言葉に、びくっと肩を揺らしてはい、と声を揃えた。
「今日のところは何も見ていません。コナンくんが現場に入ることはなかったし、事件は松田警部補が解決してくれました。しかし、どこかの警察官が事件捜査に積極的に民間人を巻き込んでいるという噂はすでにこちらの耳にも届いています」
誰のことかわかってんだろうな、と言外に告げればもはや返事をすることも出来ない様子の彼らはただただ硬直していた。
「心得ておいてください。今後の職務態度によっては、我々も仕事をしなくてなりません」
それは決して本人たちだけの話ではない。上官には、指導力不足という責任を。同僚には、止められなかった責任を。
俺が職務を果たすなら、誰ひとりとして見逃しはしない。
「仮にこの案件を私が担当することになれば、個人でも班でもなく、課全体の問題として捉え、然るべき処罰をくだします。……ああ、ご心配なく。松田だろうが伊達だろうが萩原だろうが、等しく容赦はしませんから」
そう言って、もうひとつ呼吸を置いた。職務としての説教はこんなもんだろう。だから、あとは。
俺の中で何かが切り替わり、笑顔を作っていた顔の力が抜ける。
「……監察官として申し上げるべきことは、以上です。そしてここからは、私個人として……いや、俺個人の意見として捉えていただきたい」
俺の言いたいことも、少しだけ。
今日は休みだ。職務中じゃないんだから、少しくらい言ったっていいだろう。これは監察官である以上に、警察官として。
「犯罪事件の捜査に関わることは、少なからず犯人及びその周囲から恨みを買う可能性は否めない。職務として捜査にあたる刑事はそれを覚悟してしかるべきだが、それに民間人を巻き込むのは、違うだろ」
そういう職業だと理解したうえで警察官の職務にあたる人間と、民間人は違う。
俺たち警察は「守る側」で、民間人は「守られる側」だ。決して民間人を「守る側」にしてはならない。そのために警察はあると、俺は思う。
「捜査に参加させることは危険に巻き込むことと同義だ。その責任を理解しているか? 百歩譲って知恵を借りること自体はわかるよ、自身に足りない知識や知恵をもった専門家に教えを乞うことが必要な時もあるだろう。だがその時は力を借りると同時に協力者の身を護る手段も考えて然るべきだ。そこまで考慮したことがあったか?」
たとえば知恵を借りた専門家の顔や名前が外に出ないよう情報を統制したり。たとえば捜査に協力することの危険性をきちんと説明し、協力者本人がその事実を大声で言わないように求めたり。状況によっては警備をつける必要さえあるかもしれない。
それを、理解しているか。
「協力させるだけさせてあとの危険は知りませんなんて、あまりにも無責任だと思わないか?」
俺たちの仕事は、罪を犯した人間を捕まえることだ。
それ以上に、罪のない善良な人々を守ることだ。
「民間人を守るどころか危険に晒してるんだぞ。少しは警察官としてのプライド持てよ」
それだけ言い捨てると、またひとつ呼吸をおき、俺はにこっと笑った。切り替えについてこれないのか、また皆びくっと震える。
「とまあ、その噂の方々に会えたらそう言いたいなと思っていました。まさか皆さんのことではないと思いますが、一応心に留めておいてくださいね」
そして松田の方を向き直り私の聴取は必要ですかと朗らかに尋ねれば、すっかり呆れた様子の松田はハイハイと頭を掻いた。
「聴取は受けてもらいますが、ガキどもを送っていった後で構いませんよ。パトカーと俺の車を出します。ガキどもを送っていって、そのまま本庁に向かうってことで」
「それは助かります。行こうか、コナンくん」
まだどこかぼんやりしているコナンくんの手を引いて、俺は松田とその場を離れた。
言わなくちゃいけないこと、言いたいことはちゃんと言った。この先のことは、彼ら自身が考えるべきことだろう。
これでも変わらないようなら、本当に容赦はしてやれない。
*
萩原と少年探偵団たちが待つ、休憩室に向かう廊下。
松田に一声かけて、足を止める。俺はもう一度、コナンくんと視線を合わせた。
「!」
びくりと彼の肩が震える。いじめすぎたかなと苦笑しながら、俺は口を開いた。
「もう少しだけ話そうか、コナンくん」
「ひ、いらぎさん」
「俺が言いたいことはわかってくれたと思う。何であの場にいた刑事さんたちに、あんなふうに言ったのかも」
コナンくんへの説教を彼らに聞かせ、彼らへの説教をコナンくんに聞かせた。
ちゃんと人のことを考えられる人間なら、「自分のことで怒られる」ことよりも「自分のせいで誰かが怒られる」ことの方が精神的に辛い。それをわかっていて、あえて聞かせた。我ながら性格の悪いやり方だと思うが、効果的なのは事実だ。
思いつめた顔をしたコナンくんは、小さく頷く。
「やっぱり君は賢い子だな。……君の根底にあるのは、強い正義感だ。それはとても尊いものだし、否定するつもりはないよ。ちょっと発揮の仕方に問題があるけどね」
「!」
「だから、妥協点を見つけよう」
妥協、とコナンくんは繰り返した。
そう、俺は決して君の幼い正義を否定したいわけではない。
「君はきっと何か事件があったとき、他の誰も気づかないようなことに気づくことができたんだろう。……これは俺の勝手な想像だけど、そういうときに気づいたことを警察に伝えようとしても、『子どもは引っ込んでろ』とか言われることもあったんじゃない?」
少し考えたコナンくんは、こくりと俺の言葉に頷いた。やはり、と苦笑する。
そうして言葉を聞いてもらえなかったことが、無茶な行動をとるようになった原因のひとつなのではないかと思う。現場に乗り込むことはどうしても許してやれないけど、せめてそれくらいなら。
「子どもだろうと誰だろうと、善良な民間人の貴重な意見を聞こうともしないなんて、警察官としてあるまじきだと思わないか? なあ松田」
「……ソウデスネ」
頷けよ、と言外に伝えつつ松田に話を振ると、しぶしぶ同意してくれた。
「もし今後そんな警察官に出会ったら、連絡してほしい。ちゃーんと俺から言って聞かせるよ。はいこれ俺の名刺。メールはあんまり見れないけど、電話は基本いつでも出るから」
え、と慌てるコナンくんの手に、名刺を握らせる。
名刺と俺の顔を交互に見るコナンくんは、もしかしたら初めて小学一年生の子供らしく見えたかもしれない。
「これでも俺はたいていの現場の刑事さんよりは偉いからね。権力使ってでも頭の堅い刑事さんに君の言葉を聞くように言い聞かせると約束するよ。もちろんそれ以外の時に電話してくれても構わない。内勤とは言え俺も警察官だから、何か役に立てることもあるかもしれないし」
最終的に俺の顔を見てぽかんとしたコナンくんの頭に、ぽんと手を置いた。
「その代わり、事件現場に入ったり、危ないことに首を突っ込んだりするのはなしだ。何かあったら、まず警察に連絡すること。俺でもいいし、松田や、伊達や、萩原だっていいよ」
俺たちは君の言葉をちゃんと聞くし、疑わない。困っていたり、危ない目にあっていたりしたら、絶対に助けてみせる。頼りないかもしれないけど、それが俺たちの仕事だから。
「これが俺にできる精一杯の妥協だ。聞いてくれるかな、コナンくん」
少し唇を震わせたコナンくんは、一度口を開いて、閉じた。そしてもう一度口を開いて、しっかりとした口調で言い切った。
「よろしく、お願いします」
―――やっぱり君は、賢い子だね。
そう言って頭を撫でてやると、少しだけ目を潤ませたコナンくんは、初めて年相応の笑顔を見せてくれた気がした。