おっちゃんが俺や蘭を仕事に連れて行かないようになってから、ポアロで食事をすることが増えた。部活で忙しい蘭は申し訳なさそうにしていたが、俺は特に気にしていない。おっちゃんがなるべく俺たちが学校に行っている間に仕事を片付けようと努力していることも知っている。むしろ気を遣わせてしまうことを申し訳ないと思いながら、今日も軽快なドアベルに迎えられた。
今日は休日だが、ランチタイムを少し過ぎているためか店内はそれほど混み合っていない。いらっしゃいませ、という声に迎えられてカウンターの方へ目をやると、見知った顔がカップを傾けていた。
「お、坊主じゃねえか」
カウンターを挟んで安室さんと向かい合っていたのは、くわえた楊枝がトレードマークの伊達刑事だった。にかっと人好きのする笑みをこちらに向けてくれている。
「伊達刑事、こんにちは」
「おお、こんにちは。今日はひとりか?」
うん、と頷いて伊達刑事の隣に座ると、安室さんがさっとお冷を出してくれる。
「注文はどうする? コナン君」
「じゃあハムサンドとアイスコーヒーで」
かしこまりました、と安室さんは笑った。伊達刑事はコーヒー飲めるのか、すげえな、とぽすぽす頭を撫でてくれた。
伊達刑事は俺のことを子ども扱いしつつも、以前からよく話を聞いてくれるひとだった。怪しいものを見た、思いついたことがある、そんなことを耳打ちすればちゃんと考えて動いてくれる、数少ない大人だ。よくよく思い出してみれば、なんだかんだと松田刑事も俺の言葉を聞いてくれる。
今更にしてようやく気付いた事実に、ちくりと胸が罪悪感で痛んだ。
「そういや坊主、柊木に手酷く叱られたんだと?」
ぎくり、と肩を震わせる。俺の気まずげな顔を見て取ったのか、伊達刑事は変わらない笑顔でからからと笑って見せた。
「まああいつの説教怖えからなぁ。一応あいつなりに手加減はしたつもりらしいぞ」
「て、手加減……?」
つまりあの追い詰め方は本気ではなかったと。
あまり知りたくなかった事実にごくりと喉が鳴る。絶対に受けたくないけど柊木さんの本気の説教とはどういうものなのだろうか。
「柊木のマジ説教気になるなら松田か萩原にでも聞くといいぞ。あいつら警察学校時代から死ぬほど柊木に説教されてきてるからな。まあそれでも懲りねえんだからすげえんだが」
「えっ松田刑事も?」
萩原刑事はまださほど話したことないのでひととなりはわからないが、松田刑事ならそれなりに付き合いはある。少々柄は悪く見えるがとても真面目で頭のいいひとだ。そんな彼でも説教を受けるようなことがあったのだろうか。想像ができない。
「はは、コナン君、意外と松田はやらかすタイプだよ?」
ハムサンドを俺の前に置いた安室さんが笑う。
「松田も萩原も柊木を通して友達になったけど、なかなか面白いひとたちでね。さすがに勤務中は真面目だと思うけど、プライベートでは結構ぶっ飛んでるというか。伊達とも柊木を通して知り合ったんだ」
「そうなんだ」
「安室、ぶっ飛び具合についてはお前もひとのこと言えねえだろ」
「ひどいな。皆よりはずっとマシだと思うんだけど」
よく言うぜ、と伊達刑事は苦笑する。親しげに話すふたりに、少し違和感を覚える。柊木さんを通して知り合ったと言うが、そのわりには付き合いの長さを感じさせるような。
少し首を傾げていると、そうだ、と伊達刑事が思いついたように言った。
「坊主、少し時間あるか?」
「時間? 大丈夫だよ」
そうかそうかと頷いて、伊達刑事は安室さんに目線をやった。
「安室、少し長居しても構わねえか? 混んできたら出るからよ」
「構わないけど、何をするんだい?」
その言葉を受けて、伊達刑事は再び俺を見てにんまりと笑った。
「ちと前に、車道をスケボーで爆走してた命知らずがいるって話を聞いてなぁ」
ハムサンドを頬張っていた手が、ぴたりと止まる。
「何、メシ食ったあとで構わねえからよ。少しばかり交通安全教室ってやつをやってみようと思ってな」
とりあえず交通ルールから確認しような?
いい笑顔でそう言った伊達刑事。背筋に冷たい汗が流れるのを感じた。
*
正直、道路交通法を含む諸々の法律はほぼ諳んじられるレベルで把握している。
危ないことをしていたのは事実だし、様々な反省も兼ねて大人しく伊達刑事の講義を受けていた。最新の法律事情や実例を踏まえてくれたので非常にわかりやすくはあったが、申し訳ないことにほとんどのことを知っていた。
それが顔に出てしまったのか、伊達刑事は少し苦笑して言う。
「もう知ってるって顔だな」
「! あ、ええと……」
「まあだろうとは思ったぜ。下手したら坊主、俺より法律詳しいんじゃねえか?」
そうにかっと笑う伊達刑事に申し訳なさが込み上げる。挙動不審になってしまった俺の頭を、まあ気にするなとぐしゃぐしゃかきなでた。
「だがな坊主、お前は法律を知ってはいるが、理解してはいないんだよ」
思わぬセリフに、え、と固まる。視界の端で、安室さんが少し笑ったのが見えた。
だってそうだろ、と伊達刑事は言葉を続ける。
「理解してるなら、何で法律を破るんだ?」
う、と言葉に詰まる。一刻を争う状況であったから、と言いたいところだが、柊木さんの言葉を聞いた今なら取るべき選択肢が他にもあったことはわかる。
そんな俺を見て、ひとくち水を飲んだ伊達刑事は優しい声で言った。
「もちろん、坊主には坊主の思うところがあったんだろうけどな。……そうだな、何つったらいいのか……坊主、法律ってのは、何のためにあると思う?」
「え……」
何のために、法律があるのか。
突然の問いに、ぱっと答えが浮かばない。何のため、といえば、それは。
「……皆が平和に暮らすため?」
同じ国、同じ社会で、より平和に、より安全に、共に生きていくために定められたルール。多くの法学者が頭を悩ませながら築いてきた、人類の偉大な発明のひとつ。
俺の答えを聞いて、伊達刑事は満足そうに頷いた。
「そうだな。皆が笑って暮らせるように、人間としてよりよく、正しく生きられるように定められているものだ。何せ作っているのは人間だから完璧なものではねえが、それでも完璧に近づこうと皆が頭捻って考えてる」
じゃあそれを踏まえて、と伊達刑事は続けた。
「道路交通法、いや交通ルールがあるのは何のためだ?」
今度は自然と、口から言葉が漏れた。
「……皆が安全に外を歩くため」
「だな。わかるか? 坊主。お前は法律を知ってはいるが、何のためにある法律なのかを理解できていなかった。だからスケボーでとんでもねえスピードで危険な走行を繰り返した。違うか?」
今度こそぐうの音も出ない言葉に、俯くしかなかった。
法律は知っている。文言も諳んじられる。けれど、本質を理解していないからいざというときは軽んじてしまう。そう言われては反論などできるはずもない。
「ルールってのは内容も大事だが、何故そういうルールがあるのかを考えることも大事ってことだな。……これは俺の持論だがな、ルールはただ守ればいいってもんじゃねえと思うんだよ」
俯いた俺の後頭部に、ぽん、とあたたかい大きな手が置かれる。
「ルールを守るのはもちろん大前提なんだが、ルールで禁じられていないことはしてもいいのかっつったら、別問題だろ? まあゲームとかなら『ルールを利用する』ってこともあるんだろうが、法律っていうルールではそう考えてほしくはねえな」
法律というルールの本質を理解しないまま文言の表面だけを辿り、ルールで禁止されていない部分でそれぞれが勝手に動き始めてしまったら。
法律の穴をついて、自分のことだけを考えて動くようになってしまったら。
「それは、犯罪者の発想に限りなく近いもんだ」
数々の犯罪を相手に日夜戦っている刑事の言葉が、重くのしかかる。
「とまあ、ちっと脱線しちまったな。もちろんあくまで俺の意見だ。世間にゃ反論もあるだろうし、これが正しいってわけじゃねえ。だが、気が向いたら考えてみてくれ」
頭の上の手のひらが、慰めるように優しく動いた。
うん、と小さく頷くと、よし、と頭上から声が降ってくる。その声に励まされて顔を上げると、伊達刑事の瞳は優しく微笑んでいた。
「長々話しちまったな。安室、ブレンドおかわり頼むわ。坊主にも何かやってくれ」
「えっ」
「かしこまりました。コナン君はアイスコーヒーおかわりでいいかな? 試作品のケーキもあるから是非食べてみてほしいんだけど」
「あ、安室さん!」
別にいいよ、と言おうとするも、俺の奢りだから気にすんなと伊達刑事に止められる。いや、奢りだと申し訳ないから止めようとしているのだが。
と、思ったところで背後から予想外の声。
「きゃーやっだ航クン男前~♡ 俺ブレンドとカルボナーラね」
「こっちもブレンドとミックスサンドな。伊達の伝票につけとけよ」
「萩原刑事に松田刑事!」
「お前らどっから湧いたァ!」
いつのまにやら俺たちの後ろにいた二人は、にやりと笑って手をあげた。驚く俺たちに構う様子もなくカウンター席に座って、まあ気にするなと軽く言う。
「ちなみにふたりとも結構最初から話を聞いてたよ?」
「言えよ安室……!」
「せっかくの法律講座に水を差すのも悪いと思って」
にこにことパスタをゆで始めた安室さんは、どう見ても愉快犯の顔をしていた。
「いやーいい話だったね、伊達先生の法律講座!」
「うるせえ」
「照れんなよ。まあまあの教師っぷりだったぞ」
にやにやにやにやと伊達刑事を見つめるふたりはそれはそれは愉しそうで、そういえば松田刑事のこんな顔は初めて見たかもしれないとふと思った。プライベートではぶっ飛んでいると言っていたが、なるほどこういう顔もするひとなのか。
「んだよ坊主、俺の顔に何かついてるか?」
「あ、ううん、ごめんなさい」
「あーあれでしょ、陣平ちゃん仕事中いっつも仏頂面だから違和感あるよね! だけどホントは普通に喋るし普通に笑ういい子だから、怖がらないで仲良くしてあげてね!」
「よしハギ面貸せテメェ」
わあわあと騒ぎが始まりそうになったところで、安室さんがにっこりと微笑む。
「ここ、お店だってわかってるよね?」
はい、すみません。声を揃えたふたりに、思わず伊達刑事と同時に噴き出した。
あまりに自然であまりに愉快な流れに笑いが止まらず、震える肩を何とか止めようとするがおさまらない。
このひとたち、いつもこんな会話をしているのだろうか。そのあたたかさが、伝わってくる信頼感が、傍から見ているだけでもひどく心地いい。
「安室、ちゃんと伝票わけといてくれよ」
「えーっ伊達ってばそんなけち臭いこと言っちゃうの」
「昼飯代くらいで細かいこと言うなよ伊達、男を見せろ」
「お前らが言うな」
軽く交わされるテンポのいい会話に、沈んでいた心が少し軽くなる。
罪の意識も、申し訳なさも、これから自分がやると決めたことへの決意も、俺の心には強く残っている。けれどどうか今だけは。今だけは、この心地のいい空間に浸っていたい。
しかしどうしても、安室さんの顔を見て笑うことだけはできなかった。
本にしたときの書き下ろし①