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『心理的に揺さぶって、プレッシャーをかけた後に一旦油断させる。そんで情報を守り切ったと相手が安心した時に罠を張るかな』
同感だよ、柊木。僕でもそうする。
そうやって「楠田陸道」の情報を手に入れた。FBIのちょろさは好都合だが、ここまで来ると呆れを通り越して同情する。そういえば「あの男」の潜入がバレたのもFBIの失態だったと聞いた。ああ、本当に同情するよ。
今回もまた仲間の失態のために、お前は僕たちに捕まるんだから。
*
目の前に座る、ピンクブラウンの髪に眼鏡をかけた男。
夜分の客にも関わらず僕を招き入れ、お茶まで振舞ってみせたのだから驚きだ。よほど自分たちの策に自信があるらしい。……ああ、舐められたものだ。
「ミステリーは、お好きですか?」
確信をもって並べていく、死体すり替えのトリック。単純だが効果的で、現場を確認した日本警察の目を欺いてみせた。誰がこの策を考えたのかも予測はついている。
おそらくはあの男本人ではなく、彼の小さな協力者。
「『まさかここまでとはな……』ですか……。私には自分の不運を嘆いているようにしか聞こえませんが……」
「ええ……当たり前にとらえるとね……。だが、これにある言葉を加えると……その意味は一変する……」
君の頭脳には本当に驚かされるばかりだよ、小さな探偵くん。ただの子どもではないことは察していたが、こうも踊らされるとはね。だが、それもここまでだ。
「まさかここまで……『読んで』いたとはな。……そう、この計画を企てたある少年を、賞賛する言葉だったというわけですよ……」
目の前の男はそれでも顔色を変えない。マスクの下の表情も、変わった様子はなかった。言葉を重ねながら、そっと自分のスマホをテーブルに置く。
「連絡待ちです……」
俺の読みが正しければ、そろそろカーチェイスに突入しているだろう、来葉峠にいる彼ら。人員は十分に配置してあるし、何より「保険」も用意してある。
「現在、私の連れが貴方のお仲間を拘束すべく追跡中……さすがの貴方もお仲間の生死がかかれば、素直になってくれると思いまして。でもできれば、連絡が来る前にそのマスクを取ってくれませんかねぇ……沖矢昴さん。いや……」
目前の人物を、まっすぐに見据えた。
「FBI捜査官……赤井秀一‼」
目の前の人物は、表情を変えることはない。白いマスクと、その『沖矢昴』のマスク、二重に重ねた仮面の下で、いったい彼はどんな表情を浮かべているのだろう。
わかっている。きっとおそらくは、策が成功したという、勝利の表情。
「……と、言うと思ったでしょう?」
しかし、そうは問屋が卸さない。
***
ああ、来た来た。
俺はただの保険のはずだったが、どうやら出番がやってきたらしい。手入れの行き届いた愛用のライフルを改めて構える。たとえ警視庁に缶詰めになって書類の相手ばかりをしていようとも、こいつの訓練だけは欠かしたことがない。
俺が唯一、あの超人たちに勝るもの。鈍らせるわけにはいかなかった。
「……おおっと、こいつは驚いた」
対象の車をスコープ越しに見つめる。見えた人影は三つ。運転席と助手席に見える影は予測通り、驚いたのは後部座席にいるあの目つきの悪い男。
これは好都合だ。どうやら運まで俺たちに味方しているらしい。
彼がその場に姿を現す可能性も想定はしていたが、それはあくまで天が味方した場合、FBI捜査官たちが自分の車に彼を乗せていることにも気づかないほど鈍かった場合、そして、それだけ赤井とその協力者が俺たちを舐めていた場合だと、そう考えていた。
「……相変わらずの悪人面だ」
スコープ越しに見る顔にそう笑いながら、耳につけていたイヤホンマイクのスイッチを入れる。そして改めて狙いを定めた。
「裏をかいたつもりなんだろうが、悪いな、ライ」
お前んとこの小さな探偵よりも、うちの策士の方が上のようだぜ?
俺は照準を合わせ、ためらいなく引き金を引いた。
***
僕は改めて、目の前に座る男に笑って見せる。ほんの少し、その眉元が動いた気がした。
ここまで来てもその程度にしか動揺を表に出さないとは、さすがと言っておこう。どうやら奥様と同じく、俳優の才能までおありになるようだ。
「マカデミー賞の授賞式はよろしいのですか? 工藤先生」
彼の背後にあるテレビの中で、最優秀脚本賞が発表される。スポットライトを浴びたのは、工藤優作の姿だった。ふふふ、と堪えきれずに笑ってしまう。
「受賞おめでとうございます、先生。今回の映画は拝見していませんが、僕、ナイトバロンシリーズ好きなんですよ。こんな出会い方でなければ、本や色紙を用意してサインをお願いしたかったんですが」
「僕が工藤優作? 何を言っているんですか、彼なら今テレビに映っているでしょう」
「奥様は変装がお得意だそうですね? あまり舐めないでください、いくら世界的に著名な貴方でも、出入国の記録までは誤魔化せない」
記録によれば、工藤夫妻は昨日日本に帰国し、その後すぐに工藤有希子さんのみがアメリカへ飛び立っている。そう、工藤優作氏は日本を出ていない。マカデミー賞の授賞式に出られるわけがないのだ。
「それからこの家……ざっと見ただけでも玄関先に二台、廊下に三台、この部屋には五台の監視カメラがありますね? 目的は録画か……いえ、おそらくは今この状況を、別室で見ている誰かがいるのではありませんか?」
状況と事情をすべて把握している「誰か」が、ともすれば貴方に指示を出すために。そしてその「誰か」、僕の読みが正しいならばおそらく。
「江戸川コナンくん。見ているんじゃないかい?」
監視カメラのひとつに向かって、笑いかける。カメラの向こうのことなどわかりはしないが、向こうの焦りが伝わってくる気がした。
すまないね、コナン君。君の策は本当に見事だった。もし僕が独りだったなら、間違いなく君に裏をかかれていただろう。
そのとき、テーブルの上のスマホが震えだした。
「すみません、失礼します。……はい」
『カモがネギしょってきたよ』
「……状況報告は端的にわかりやすく」
『ははは、……例のFBI捜査官二名および、赤井秀一を来葉峠にて確保』
く、と唇の端が持ち上がった。まさか、奴のほうから来てくれるとは。
「被害は?」
『こちら側は特になし』
「わかった。後は手筈通りに」
『了解』
おそらく、コナン君にはすでに赤井が捕まったという連絡は入っているだろう。目の前の彼は特にイヤホンを付けている様子もなく、状況をどこまで理解しているかわからない。だが、その頭脳のほどが評判通りなら、ある程度察してはいるだろう。いったい、どちらに軍配が上がったのか。
僕は改めて、未だ変装を解かない目の前の男に向き合った。
「貴方がたが庇おうとした男は、すでにこちらで確保しました。大人しくこちらの指示に従っていただければ、決して危害を加えることも、もちろん先生の名声を貶めることはしないとお約束しましょう。しかし、こちらの指示に従っていただけないようであれば、ファンとして非常に心苦しく思いますが、相応の対処を取らせていただきます」
まずはその変装を解いていただけますか、工藤先生?
そこまで言って初めて、目の前の男は白いマスクを外し、微笑んだ。その穏やかな微笑みは決して赤井のものでも、もちろん沖矢昴のものでもない。
「なるほど、確かにこちらの敗北のようだ。恐れ入ったよ」
そして眼鏡を外し、首元からいっきにマスクをはがす。
現れたのは、よく書籍やテレビでも拝見する、世界的有名な小説家の顔。
「確かに私は工藤優作だ。コナン、お前も来なさい」
すまないね、あの子は上の階にいるから待たせてしまうが、と微笑む工藤先生に、構いませんよ、と僕も笑った。
「しかし、完全に裏をかかれたよ。こちらの計画もなかなかだと思ったんだがね」
「ええ、よくできた計画でした。こちらに優秀なブレインがいなければ裏をかかれていたのは僕たちの方だったでしょう」
「ほう?」
ということは、我々の裏をかいた人物は他にいるのかな?
そう面白そうに言う工藤先生に、にっこりと笑って見せた。
「さて、どうでしょうか」
小さな足音が階段をおりる音が聞こえてきた。ゆっくりとこの部屋に近づいてきて、ドアをノックする。先生が入りなさい、と声をかけると、躊躇いがちにドアが開かれた。
「こんばんは、コナン君」
「……こんばんは、安室さん。……ううん、……降谷零さん」
なるほど、そこまでたどり着いていたか。いや、名前にまでたどり着いたのは赤井の方だろう。病院で「ゼロ」の言葉に反応してしまったこと、FBI捜査官との関わり方、……いくつもヒントを落としてしまった。あれは失態だった。
「僕のこと、わかっているようだね?」
「……日本警察に、『ゼロ』という俗称で呼ばれるところがあるのは知ってる。降谷零さんの名前を調べだしたのは、赤井さん。貴方の本当の名前は『降谷零』さんで……降谷さんは、『ゼロ』、公安警察の人だよね?」
「やれやれ、反省しないといけないな。君の前でヒントを落としすぎた」
「確かに降谷さんが『ゼロ』だって思ったのは病院の事件やジョディ先生のお友達の事件のときだけど、その前から降谷さんのことは悪い人じゃないかもしれないと思ってたよ」
「へえ? どうしてだい?」
硬い表情をしていたコナン君が、少しだけ頬を緩めた。きゅっと握りしめていたその両手を、少しだけ緩める。
「柊木さんだよ」
「……柊木?」
唐突に出てきた名前に、少し驚く。
確かにアイツは俺の本名や所属を知っているが、どんな状況で誰が相手だろうと僕のことを漏らすはずがない。うっかりヒントを落とすようなことだって、柊木に限ってあるとは思えない。
「ミステリートレインの一件で、『安室透』さんが『バーボン』……悪い奴らの仲間だってことを知った。だから柊木さんが『安室』さんの友達だって聞いたとき、柊木さんのことも疑った」
悪い奴の友人で、しかも警察関係者。「降谷零」を知らない者から見れば、「バーボン」が情報を抜き取るために近づいたか、それとも「バーボン」と協力関係にあるか、考えられるのはそんなところだろう。
「だけど、……柊木さんのことを知れば知るほど、違うと思ったんだ。柊木さんは決して口の軽い人じゃないし、監察官として重要機密を漏らすことの危険性は誰より知っているはずだ。たとえどんなに親しい友人だろうと情報を漏らすとは思えない。『バーボン』だって、情報が目的ならもっと口の軽そうな相手を選ぶよね? ……それに」
あんなに潔癖な正義を掲げる人が、民間人の平和と安全を守ることこそ警察の仕事だと言い切った人が「組織」の仲間だなんて、どうしても思えなかった。
そう強い瞳で言い切ったコナン君に、思わず笑みを漏らす。―――その通りだ。そんなこと、絶対にあるわけがない。
「でも、実際に『バーボン』と柊木さんは友達だってふたりとも断言した。だから最初は混乱したけど、……逆なのかもしれないって、考えた」
柊木を「安室の友達」と考えるのではなく、安室を「柊木の友達」だと考えるべきなのではないだろうか。つまり、柊木を「黒」だと疑うのではなく、むしろ「安室」が「白」だと疑うべきなのではないかと考えたと、コナン君は言う。
「だから安室さんは、本当は悪い人の敵なんじゃないかって、そう思ったんだ」
推理と言うよりは、まるで願望のようなそれ。さすがに参ったな、と前髪をかき上げた。まさか柊木の存在からそんな風に疑われるとは。
「……言っただろう? 柊木は本当に……僕の友人なんだよ」
「うん。……柊木さんは僕に言ったんだ。俺『たち』は、君の言葉を聞くし、疑わないって」
その「たち」には、降谷さんも含まれてる?
少しだけ不安そうな色をその大きな瞳に浮かべて、コナン君は言った。そんなことを言ったのかアイツ、と少し苦笑しながら、頷く。
「もちろん。というより、君が嫌だと言っても聞かせてもらうし、それが君の真実だというのなら信じるさ。だからコナン君、君も、来てくれるね?」
確保した三人はすでに連行しているはずだ。
君と工藤先生にも、俺たちの巣まで来てもらわなくてはならない。
「……全部、話します。だから降谷さん、もうひとり紹介したい奴がいるんだけど」
貴方を信用するから、そいつのこと守ってほしいんだ。間違いなく貴方たちにとっても、必要な奴だから。
真剣な顔でそう言った小さな探偵に、僕もしっかりと頷いた。
*
「……久しぶりですね、赤井秀一」
警察庁の、あまり人が立ち寄らないエリアの一室。深夜と言うこともあり、警察庁内はひどく静かだった。目の前に座るそいつの息遣いが聞こえる程度には。
FBIの三人は後ろ手を手錠で拘束され、椅子に座らせている。もちろん周囲には見張りとして公安の人間を配備。険しい顔でこちらを睨みつけるふたりとは打って変わって、赤井自身はいつもと変わらずすました顔をしていた。
「ああ、久しぶりだな。……今は降谷零くんと呼ぶべきかな?」
「どうぞ、お好きなように」
「工藤優作氏と江戸川コナン君は、無事か」
「ええもちろん、……今はね」
僕がそう言葉を付け加えた瞬間、アンドレ・キャメルは立ち上がろうして周囲に押さえつけられ、ジョディ・スターリングは動かない手を必死に暴れさせ、激高した。
「あのふたりは一般人よ? 何をする気なの!」
「やめろジョディ」
「しかし赤井さん!」
「黙れと言っている、キャメル」
やはりというか、まともに話ができそうなのは赤井だけらしい。FBIの人材不足には本当に同情しよう。そんな思いを込めてひとつ溜息をつくと、もう一度睨まれた。僕を睨む暇があるなら、自分たちの無能ぶりを嘆いたらどうだろうか。
「今は、ということは、交渉の余地はあるということか?」
「ええ、交渉の相手は貴方の上司になるでしょう」
「そうか、ならばいい。ジェイムズは彼らを見捨てるような真似はせんだろう」
現在ジェイムズ・ブラックには迎えを寄越している。もう一時間とかからず警察庁に到着するだろう、交渉はそれからだ。
「俺の身柄も、その交渉次第か?」
こうして拘束されたら、さっさと組織に売られるものと思っていたんだが。
そうかすかに笑って見せる赤井に、少し眉を寄せた。
「僕としても、そのつもりだったんですがね」
いかにも残念、と言わんばかりに、首を振ってみせた。赤井の身柄を組織に売り渡せば、組織における僕の地位はもっと確固たるものになる。「あの方」や「ラム」にももっと近づけるかもしれない大手柄になるというのに。
「もったいない、と言われまして」
「……もったいない?」
「ええ」
そいつを敵方に売ることがその案件の決定打になるっていうんなら話は別だけど、そういうわけじゃないんだろ?
不思議そうな顔で言い放った我らが「ブレイン」の顔が、脳裏に浮かぶ。
『お前の生活から察するに人手足りてないんだろ? 敵に売る以外の使い方ができるんならひとまず手元に置くべきじゃないか? とりあえず情報搾り取って走らせるだけ走らせろよ。使えるもんは使っとけ。そんで他に使い道がなくなったら売ればいいんじゃねえの? 俺ならそうするけど』
何の気なしにそう言い放ったあいつは、本当に恐ろしい。あいつが味方であったことは、もしかしたら僕たちにとって最大の幸福だったかもしれない。もし敵だったらと考えると、それだけで寒気がする。
目の前の「人間」相手にはどこまでも慈悲深いのに、頭を仕事モードに切り替えて人を「駒」としてしか見なくなった時のあいつは、人のことは言えないが本当に「ひとでなし」、まさに合理主義の鬼だ。
「コナン君も貴方のことを気にしていましたしね。ここで貴方を組織に売ったら、彼の協力も得られなくなりそうだ」
彼は工藤先生、そして一緒に連れてきた二名とともに別室で待機してもらっている。一応監視はつけているが犯罪者のように扱うつもりはない。とりあえず明日は学校を休んでもらうことになるだろうが、できる限りは元の生活に早く戻れるよう考えるつもりでいる。もっとも、彼が話してくれるという「真実」によっては、そうもいかないだろうけれど。
「……君に助言をした『ブレイン』と、あの距離から俺の手にあった拳銃を弾き飛ばし、車をパンクさせた『凄腕のスナイパー』には、是非お目にかかりたいものだ」
く、と赤井は不敵に笑ってみせる。ああ憎たらしい、組織にいるときからコイツのことは気にくわなかった。FBIだとかそういうことを抜きにしても、多分コイツとは仲良くなれないし、なりたくもない。生理的に無理というのはこういうことを言うのだろう。
「それも交渉次第でしょうね。貴方の上司がこちらの不興を買わないことを祈っていますよ」
「せいぜい楽しみにしているさ。ところで降谷君、煙草が吸いたいんだが」
「一生禁煙してろヤニ中毒」
緊張感のない赤井に苛立ちを抱えたまま、もうすぐ到着するであろうジェイムズ・ブラックを出迎えるべく部屋をあとにした。
さあ、これから忙しくなる。
ここから緋色編。