32
昔から虫の知らせと言うのだろうか、嫌な予感は何となく当たる方だった。
いつも通り目を覚まし、いつも通り朝食を食べ、いつも通り出勤する。嫌な予感が消えないくせにいつも通りに警視庁に到着してしまったものだからむしろ気味が悪い。
抱えていた案件もある程度ひと段落したし、今そんなに危惧しなければならないような案件はないはずだ。それなのに首の後ろは何だかぞわぞわして油断するなと訴えてくる。仕事場のドアを開けようとした瞬間には、ぞっと寒気がした。
いったい何だってんだと、やけになって勢いよくドアを開ける。
「……あれ、おはようございます」
そこに立っていたのは、直属の上司である大河内さんだった。いつもと変わらないしかめっ面で、ああ、と一言声を出す。いつも俺が一番乗りなのに、まさか大河内さんが先に来ているとは思わなかった。本当に嫌な予感しかしない。
「……柊木くん」
それなりに親しく話せるようになったこの人が俺を「くん」付けで呼ぶのは、決まって仕事の話をする、それも改まったとき。何だよ特に大きな失敗をした覚えはないんだけど。おそるおそる何でしょうか、と答えると、大河内さんはぐっと眼鏡のブリッジを上げた。
「今すぐ最低限の荷物をもって警察庁に向かいなさい。すでに警察庁のロビーに迎えがいるそうだ。そのあとは迎えの指示に従うように」
「……大河内さん?」
「君には質問も拒否も許されていない。すぐに向かいたまえ」
切り捨てるような口調に、大河内さんよりさらに上からの命令であることを察した。今朝からの嫌な予感はどうやらこれだったらしい。
警察庁に呼び出されるなんて訳がわからないが、大河内さんに問いただしても困らせるだけで何も答えてはくれないだろう。ならば今は、従うしかない。
「……承知しました。すぐに向かいます」
最低限の荷物でいいと言うのなら、今持っている手荷物だけで十分だ。そもそもデスクには持ち出し禁止の資料と、本当に必要最低限のものしか置いていない。
大河内さんに一礼して背を向けると、背後から声が飛んできた。はい、と首だけ振り返ると、大河内さんもすでに俺に背を向けていた。
「……健闘を祈る」
そういうフラグ立てるの本当にやめてほしい。
そう内心で苦笑しながら、はい、と答えて俺は警視庁の隣の建物へと向かった。
*
警察庁のロビーに足を踏み入れると、まだ早い時間であるせいか閑散としている。迎えと言うのは誰のことかと周囲を見渡すと、こちらに向かって歩いてくるスーツの男性が目に入った。
「失礼、柊木旭さんとお見受けいたします」
短髪に眼鏡をかけた少し神経質そうな男性。年は同じくらいだろうか。丁寧な物言いに頷くと、彼は懐から警察手帳を取り出した。
「警視庁公安部の風見と申します。どうぞこちらへ」
ああ、例の降谷の部下で毎日こき使われてる公安部の可哀想な人ってこの人か。確かに何か疲れた顔してるわ、お気の毒に。そう遠い目で現実逃避をしながら、左手に持っていた鞄がみしりと音を立てた。この人が俺を迎えに来るということは、つまり。
連れられた先は、警察庁にいたころでもあまり来る機会のなかったエリアにある小部屋だった。手前には簡単な応接用にテーブルとソファ、部屋の真ん中にデスクがあり、そこにはPC端末がひとつ。それから壁際にぎっしり分厚いファイルの詰まった本棚がいくつか。誰かの個室だろうか。
「詳細の説明は明日、この時間にこの部屋で、とのことです。それまでにここにあるすべてのファイルの内容と、この端末に保存されているすべての情報を把握しておくように、と」
「……明日の、この時間」
「はい。ちょうど二十四時間後ですね」
端末にどれだけのデータが保存されているのかは見てみないとわからないが、少なくとも壁にあるファイルの資料だけでも相当な量だ。これを、二十四時間。とりあえず睡眠時間や休憩時間が考慮されていないことだけは確かだった。
「先ほどの廊下の突き当りがトイレ、そちらの冷蔵庫には簡単ですが飲み物と食べ物を用意してあります。どうぞご自由に」
そのまま風見さんは静かに一礼して退室し、その小部屋には俺と大量の資料だけが残された。何が何だかよくわからんがとりあえず、しなければならないことだけはわかった。
「―――降谷を殴ろう」
そんな決意を胸に、俺は荒々しく鞄を投げ捨てた。
***
初めてゼロからその話を聞いたときは、さすがに冷静ではいられなかった。
確かに、確かにあいつは有能だ。今回の案件もあいつのおかげで成功したと言ってもいい。群を抜いた作戦立案能力、それは俺たちに欠けていたものでもある。喉から手が出るほどあいつの能力は欲しい。だけど。
「……向いて、ないだろ、どう考えても……!」
思わずゼロの胸倉をつかみ上げると、唸るような声が出た。ゼロは一切の抵抗をすることもなく、ただ静かな目で俺を見返した。
「そうだな。だが、必要だ」
そう静かに告げる。
わかっている。俺も痛いほどよくわかっている。俺たちは公安だ、日本国家の秩序と安寧のためなら、何だって。―――そう、何だって。
「……わかってるよ。俺たちに、あいつは、必要だ」
けど、それでも。俺の脳裏に、へらりと笑うあいつの顔が浮かんだ。優しくて、努力家で、穏やかで、いつだって迷いなく行動し、俺の命だって救ってくれた。
本当に、いい奴だ。感謝もしてる。だから、日の当たる場所に、いてほしかった。
「……ヒロ。お前にはアイツの補佐についてもらう」
ぽつ、と表情を変えずにゼロは言った。首元にあった俺の腕を外し、きゅっと手首を掴む。
その青みがかった瞳がまっすぐ俺を捉えた。
「支えてやってくれ」
その言葉は、懺悔のようにも聞こえた。
***
ちょうどあれから、二十四時間。
あんな無茶ぶりを伝えたのは自分だが、正直なところ普通に無理だと思う。あのファイルと端末に詰め込まれているのは、これまでの組織に関わる全ての捜査の資料だ。数年どころじゃない、もっと長い時間をかけた捜査のすべてがまとめられている。
壁の本棚のファイルだけでもすべてチェックするのには数日かかるし、さらに端末にはその数倍のデータが入っているのだ。徹夜しようが何だろうが無理なものは無理だろう。そう思いつつ、降谷さんに続いて部屋に入る。すでに正体を聞いた工藤新一くん、宮野志保さん、そして赤井秀一も俺に続いた。傍から見れば何という不可思議な集団だろうか。
「入るぞ」
軽くノックをし、降谷さんがドアを開ける。そしてドアが開ききるか開ききらないかと言うその瞬間、中から飛び出してきたのは硬く握られた拳だった。
予測していたのか、すんでのところで降谷さんは顔面に向かっていた拳を止める。
「……そこは素直に殴られるところじゃねえのか降谷ァ……!」
「何のことだかわからないな。おはよう柊木」
ぎりぎりと拳から力を抜かない柊木さんと、力負けすまいとこちらも腕を震わせつつ、それでもにっこりと笑顔で挨拶をしてみせる降谷さん。何だこれ。思わず顔を引きつらせたところで、後ろにいたFBIがヒュウと口笛を吹いてみせた。
「とりあえず部屋に入れてくれ。紹介したい人たちもいるんだ」
そう言われてちらりと自分を含む数名を見た柊木さんは、諦めたように溜息をついて拳を下げた。がしがしと頭をかき、応接用のテーブルに積んでいたファイルを適当にどける。昨日よりも少し荒れた雰囲気の部屋は、柊木さんの努力を物語っていた。
「柊木、全て頭に入ってるな?」
「ああ」
おかげで久しぶりに徹夜した、と不機嫌そうに言う柊木さんに、えっと声が出そうになる。この部屋にあるすべての資料を読んだというのか、たった二十四時間で? しかも全部暗記したと? それをやってのけたという柊木さんも、やってのけることを確信していた降谷さんも、本当に人間なんだろうか。いや、おそらく違う。
「とりあえず降谷、何の説明よりまず俺に見せるべきもんがあんだろが」
「見せるべきもの?」
「工藤新一君、宮野志保さん、それからFBIの赤井秀一さんだろ。そっちにいるのはお前の部下の風見さん。俺は何て自己紹介すればいいんだよ」
本気で不機嫌そうに言い捨てた柊木さんに苦笑して、降谷さんは忘れるところだったと懐から書類を出した。印鑑つきの、正式書類。そこに書かれていたのは。
「え、……異動、辞令……?」
思わず言葉を漏らしたのは工藤君だ。そう、そこには確かに、「異動」の二文字が書かれている。異動先は警察庁警備局警備企画課、日付は昨日、そして名前は当然「柊木旭」。
警視庁警務部監察官室監察官だったのは一昨日まで、昨日からこの人は正式にゼロの一員となり、降谷さんの同僚となったのだ。
「……ということらしいので、昨日から警察庁警備局警備企画課の人間になりました、柊木旭です。赤井さんは初めましてですね、どうぞよろしく」
眉間のしわを取り繕うこともせず、柊木さんは赤井に右手を差し出した。特に気を悪くした様子も見せず、いっそ面白そうに彼はその握手に応える。
「FBIの赤井秀一だ。よろしく頼む」
「どうも。随分と日本で好き勝手してくれたそうで」
「それについて言い訳はせんよ。かわりにどうぞ好きに使ってくれ」
いい度胸です、とそう言って柊木さんは視線を工藤くんにうつした。工藤くんはぎくりと肩を震わせつつ、覚悟したように頭を下げた。
「……すみませんでした」
「それは何について謝ってんだ、新一君」
「危ないことをする前に頼って、相談しろって言ってくれたのに、……俺は」
「そうだな」
そうため息交じりに柊木さんが同意すると、工藤くんはまたぎくりと肩を震わせる。
「俺がそう言ったときにはすでに、危ないことの渦中にいたんだろ」
「それは……」
「しかも、降谷の……『安室透』の正体を半分しか知らなかった。途中でうすうす察したのかもしれないけど、確証はなかったんだろ。つまり君から見れば俺は組織の一員と繋がってる可能性だってあったわけだ。そんな相手に他の事件のことは相談できても組織絡みのことなんて相談出来ないだろ、当たり前だよ。むしろその状況で俺に相談してきたらもっとよく考えろって説教するところだわ」
え、と工藤君は顔を上げた。柊木さんの顔は相変わらず不機嫌そうだが、それでも工藤君を責めているような気配は見えない。むしろほんの少しだけ、その瞳には優しさの色があった。
「君は匿っていたFBI捜査官を守ろうと最善を尽くした。確かに褒められたもんじゃないやり方だが、誰かを守ろうとするその姿勢を否定は出来ないよ。命のかかった場面だ、必死にもなる。……前にも言ったろ」
君の正義を、否定するつもりはないよ。
柊木さんがそう言った瞬間、じわりと工藤君の瞳に涙が浮かんだ。それを何とか押しとどめようと、彼はぐ、と歯を噛みしめる。
「まあ今回もやり方が悪かったのは事実だ。その辺はしっかり反省して今後繰り返さないように努めてくれ。見逃してもらえるのは今だけだと心に刻んでおくように」
「は、い……!」
「それはそうと、俺は君のおかげで降谷に巻き込まれたのでとりあえずデコピンな。顔上げろ」
「え」
ガッといい音がした。いやこれデコピンでしていい音じゃない。
額をおさえて悶絶する工藤君をよそに、しれっと柊木さんは言い放った。
「ガキが泣くの我慢してんなバーカ」
そしてその頭にティッシュの箱を落とす。工藤くんはうつむいたまま、ティッシュを数枚掴んで鼻をかんだ。その様子を横目に見つつ、赤井が口を開いた。
「坊やのおかげで巻き込まれた、ということは、君が『ブレイン』か?」
「ブレイン?」
「俺たちを見事に捕まえてくれた、来葉峠の一件だよ。降谷君に助言をした『ブレイン』が別にいると聞いていた。君じゃないのか」
ああ、と柊木さんは思い出したように頷いた。そう、その件の成功をもって柊木さんはゼロへと引き抜かれた。降谷さんの強い推挙と、その助言で例の計画を成功へと導いた功績によって決まった異動。そうでなければ、さすがにここまで急な異動は有り得ない。
「俺はそんなつもりなかったんですがね」
やれやれと、柊木さんは首を振る。「俺は! 越権行為を! しない!」と言い張る柊木さんに説き伏せて話を聞いてもらったと聞いている。いやいやでも話を聞いて、その結果これだけの成果をあげるのだから恐ろしい人だ。
「では俺を組織に売るのはやめるよう言ってくれたのも君だろう。おかげで命拾いをしたよ、感謝する」
「俺は売るのはいつでも出来るから他の使い道がなくなるまで使いつぶせと言ったんですが」
「使い道がなくなる前に組織を潰せるよう尽力するまでだ」
「なるほどポジティブ。降谷と相性が悪いわけだ」
そういうものか、と不思議そうに言う赤井に、柊木さんは降谷ですからね、と頷く。話題の人物はひくりと頬を引きつらせた。
「柊木、おしゃべりはそこまでだ。……引き抜かれた理由はわかってるな?」
「作戦たてるのが下手な降谷のせい」
「……ああ、もうそれでいい。この案件、例の組織に関わる全ての捜査の指揮を、お前に任せる」
部屋に沈黙が下りた。
その話はすでに降谷さんから聞いている。組織に潜入し最前線で戦う降谷さんには、全体を俯瞰で捉え指示を出す役割は物理的に難しい。特に今後、合衆国勢との合同捜査になるなかで、せっかく得た指揮権を潜入中の降谷さんは生かせない。
指揮官が必要だった。優秀で、FBIとも渡り合いこき使う胆力があり、何より最前線を走る降谷さんが心から信頼できるような指揮官が。それを出来るのは、柊木さんをおいて他にいない。降谷さんはそう断言した。
「……お前は俺を買いかぶりすぎなんだよ」
「過小評価してるくらいだと思っているが?」
しれっと言い返されて、柊木さんはため息をつく。また髪をがしがしとかいて、手近にあったミネラルウォーターのペットボトルを煽った。
「わかってるよ、正式な人事異動だ。拒否権はねえんだろ」
「そういうことだ」
「職務は果たす。仕事だからな」
事実上の敗北宣言に、降谷さんは満足そうに頷いた。
改めて降谷さんは笑顔で工藤君、宮野さん、赤井に向き直る。
「と言うわけで、本案件の指揮官になった柊木だ。今後皆さんの身柄の一切は彼が持つので、柊木の言うことにはきちんと従うように。柊木、現状から何か変更は?」
「新一くん、宮野さんは今も普通に学校行ってるって話だったよな」
こくりとふたりは頷いた。必ず学校外では監視と言う名の警護をひとり付けている。今のところふたりは特に不審な行動はとっていないし、ふたりに近づく不審な人物もいない。
「念には念をいれさせてもらおう。ふたりとも、宮野さんは降谷に、新一くんは俺に、家から出るとき、学校に到着した時、学校から出るとき、家に帰ったときに一言報告を寄越すこと。遊びに行くのも自由だが、どこか遠出する際にも必ず報告。なるべくこちらが居所を把握できるようにしてほしい。面倒だろうがサボらないでくれ」
ふたりは真剣な顔でまたひとつ頷いた。こちらから言わせてもらえばかなり甘いというか、自由度の高い生活を許している。それくらいの報告はしっかり行ってほしい。
「赤井さんについてはまた他のFBI捜査官とも交えて今後の話をしましょう。詳細は後程ということで」
「了解」
赤井が短く返すと、柊木さんはまたやれやれと頭をかいた。
「それ以外は特になし。……この後の予定は何かあるのか?」
「他の捜査官にお前の紹介をするつもりではあるが、何かあるなら柊木の意向優先で構わない」
それなら、と柊木さんはソファに座りなおす。
「新一くん、宮野さん、ふたりが組織とどんな接触があったのか、おおよそは降谷からの報告書で把握している。そのうえで申し訳ないんだが、もう一度話をしてほしい。どんなにわずかでも構わない、組織に関わったすべての事柄について話してくれ。君たちが受けた印象なんかも省略せずに、主観的な見方で構わない、思い出せる限り全部だ」
そのうえで、今後の捜査方針を考えたい。
そう言った柊木さんは、すでに「指揮官」の顔をしていた。
ようやく本番。