するするとふたりの言葉が耳に入ってくる。寝不足の頭には少々堪えるが、それでも脳細胞を無理やり動かして思考をつなげていく。報告書の無機質な文字からは決してわからない、彼らが対峙した「組織」の姿。
組織とは言え、それに所属しているのはやはり人間だ。彼らをただの「犯罪者」としてみるのではなく、ひとりの「人間」として捉えれば見えてくるものもある。彼らには彼らの思想と、思考と、感情がある。策を練るならまずその部分を押さえなければ、彼らと言う「人間」を理解しなければ、肝心なところでしくじるというものだ。
ジン、ウォッカ、キャンティ、コルン、ベルモット、そしてラムと、正体不明の組織のボス。彼らという人間を辿っていく。失敗は出来ない。
だから、現状における最適解を―――最適解を?
思考がぴたりと止まり、目の前に文字の波が押し寄せた。脳内を流れていく情報、これは丸一日かけて見た、これまでの組織に関わる全て。組織の情報だけではない、どうやってその情報を手に入れたのか、その手法もすべて。
そこにあったのは、公安警察の「正義」。時には倫理も道徳も踏みにじり、その罪の重さを知りながら、それでもなお日本国家の秩序と安寧のために。
その報告書の最後、最新の報告。来葉峠での一件、そこで結ばれた協定と新たに得た情報、そして「保護対象」と、「協力者」。
「……ごめん、新一くん、ちょっと待って」
「え?」
「降谷」
記憶をたどりながら組織の話をしてくれていた新一くんを片手で制した。そう、報告書のその部分を読んだとき、俺は確かに疑問に思った。そして後からちゃんと、降谷に確かめなければならないと、そう思って。
ぐるぐるとめぐる思考に頭を押さえながら、視線を降谷にうつした。相変わらずそいつの瞳は一切の動揺を示さない。凪いだ海のようだ。
「宮野さんが『保護対象』で、―――新一くんが『協力者』なのは、何故だ?」
そいつはいつもの笑みなど一切浮かべていない。ただただ無表情で、まるで俺がそう問うのをわかっていたかのように、あっさりと答えた。
「お前がどんな策を練るのかわからなかったが、彼が必要になる可能性もあると踏んだからだ。本人の許可も取っている」
「? 降谷さんにそう言われて、はい」
そうだろう、と降谷が新一くんに目線をやると、新一くんは特に考えた風もなく頷いた。
つい眉間を指で押さえた。落ち着け、ここで降谷を怒鳴りつけたところでどうにもならない。降谷はただ、公安捜査官として職務を果たしているだけ。そう、目的のためなら「何でもやる」、公安の正義を執行しているだけ。だから降谷を責めるのはお門違いだ。
いや、本来なら、俺だって。ゼロに配属されたいま、―――やるべきことは。
「……新一くん、最初で最後の忠告だ。協力者を降りろ」
強い声でそう言うと、まだまだ世の中を知らないその子供は、目を大きくした。本当にこれはわかっちゃいない。わかるはずもない、本来ならわからなくていいことだ。
公安の協力者になるということが、どういうことかなんて。
「保護対象ならまだいい。協力者になるのがどういうことか君はわかっていない。今ならまだ引き返せる」
「……柊木さん、」
「ああ、こう言っても君は引かないだろうな。今までいろいろやらかした罪悪感も含め、協力者になることで少しでも役に立てるならと君は考える」
降谷がそう誘導したのだと、気づくこともなく。
何で誰も止めねえんだ、何で誰も指摘しなかったんだ。公安の人間はまだしも、彼の父親やFBIのアンタは何で止めない。この子どもは知恵を絞って生命を救った恩人じゃねえのかよ。―――わかっている。こんな思考、ただの八つ当たりだ。おそらくは協力者になるという意味を公安以外の人間はちゃんと理解していない。
何よりも
「……新一くん、俺はこの案件の指揮官になったんだ。だから、組織壊滅に向けてあらゆる策を練り、手を打たなくてはならない。それも公安として、『ゼロ』としてだ。この意味、わかるか」
困惑した顔で新一くんは俺を見る。視界の端で赤井さんが少しだけ眉をひそめたのがわかった。
「君が『協力者』であるなら、俺は君を使うぞ。君の存在もその身体の秘密も、君の周囲も含めて。最低な手段で『工藤新一』と『江戸川コナン』を利用する。一切の容赦なくだ」
それが公安の正義だ。日本国家の秩序と安寧のため、使えるものは躊躇なく、容赦なく、それでこの国が守れるのであれば。
初めて新一くんは少し顔色悪くし、それでも何とか口を開いた。
「……具体的には?」
「言えない」
「……俺のことは構いません。けど、俺の周囲はやめてほしい」
「聞けないね。相手は君の存在を知った瞬間に君の周囲ごと始末するような奴らだ。君の存在を利用することは、君の周囲を利用することと同義だと考えてくれ。何より、君の大事な人も、とっくに存在を知られているんだろう?」
ベルモット、魔女と評される幹部に。
そう付け加えると、さっと新一くんの顔色が変わった。
「蘭に手を出すな!」
「だから協力者を降りろと言ってんだ!」
思わず声が大きくなる。ぐ、と拳を握りしめて平静を保つ。だから降りろと言っているんだよと、内心で同じ言葉を繰り返した。
公安は協力者を可能な限り守るが、それはつまり同じだけ、いやそれ以上に危険に晒すということだ。それでも守り抜くと約束して協力者になってもらうのだ。
「……この事件に関わるからには、君ひとりのことでは済まない。極力守るつもりはあるが、当然危険にも晒すし、……胸糞悪い使われ方をすることも覚悟してもらうことになる」
引き返すなら、今のうちだ。そう言って、俺は立ち上がった。
未だ一切の感情を示さない降谷に向かって言う。
「お前らよく徹夜で泊まり込みしてるならシャワールームくらいあるよな?」
「ああ。使うか?」
こくりと頷くと、降谷は風見さんを見た。風見さんは案内します、と言ってドアを指す。
「少し席を外すよ。一時間かからず戻るから少し冷静になって考えろ」
それだけ言って、俺は風見さんの後に続いてその陰気な部屋を出た。
どうか、賢明な判断をしてほしい。俺に、君を使わせないでほしい。俺が祈るのはそれだけだった。
*
冷たいシャワーを浴びて頭を冷やす。わずかに残っていた眠気は消え去り、頭に残ったのはあの報告書の山にあった組織の情報と、ふたりから得た組織の姿、「工藤新一」、そして「毛利蘭」。何度考えてもはじき出される最適解は変わらない。
「さっぱりしたか?」
タオルで水気をぬぐっている最中に聞こえたのは、姿が見えないと思っていた奴の声。
「何だお前、いたのか」
「酷い言われようだな。いたよ」
振り向いた先にいた諸伏は、いつぞや一緒に選んだネイビーのスーツを着て、いつもと変わらない顔で笑っていた。そのままゆっくりとした歩みで、近づいてくる。
「本当なら俺もお前たちと一緒に話をする予定だったんだけどな。降谷の雑務の片づけと、お前がこれから使うデスクの片づけしてたんだ」
「そりゃご苦労さん」
「ああ。ちなみに新しい盗聴器の性能テストも兼ねてばっちり盗聴してた」
「盗聴が日常的に行われる職場とか本当に嫌なんだけど」
まあそう言うなよ、と諸伏は朗らかに笑う。
俺は構わずに風見さんが用意してくれた着替えを身にまとい、短い髪をざっと乾かした。それを待っていたのか、諸伏はちょいちょいと手招き。
「何だよ」
「いーからいーから」
そう言って連れてこられたのは、透明なガラスで囲まれた喫煙室だった。シャワーを浴びたばかりだというのに、煙草の匂いが蔓延したそこに引きずりこまれる。
そのままほい、と渡されたのは煙草の箱と安っぽいライターだった。
「……俺吸わないんだけど」
「知ってる。……俺ももともと吸わなかったんだけどさ、潜入決まってから吸うようになった」
煙草って、頭の切り替えにちょうどいいんだよな。
そう言って、喫煙室の壁にとん、と寄りかかる。
「組織の一員『スコッチ』に頭を切り替えるのに重宝してた。ちゃんと切り替えないと精神やられちまいそうでさ。だからまあ、潜入が終わってからは吸ってないんだ。使ってないし、そのライターあげるよ。あ、煙草はちゃんと買いなおしたから湿気ってないぞ」
頭を切り替えろと暗に言われているのがわかる。
手の中にある小さな箱とライターを、まとめて握りしめた。
「珍しく私情を交えたな」
さっきの忠告は、私情だろ?
そう言った諸伏は、これまでと何ら変わりのない笑顔だった。
わかっている。公安として職務を全うするのなら、あれは言う必要のない言葉だった。彼が自分の意志で協力者になったのだと思わせたまま、ただ利用してやればよかった。降谷がそうしたように、本当はそうすべきだった。
「……あれが、最初で最後だ」
「ん、心配はしてない。柊木はちゃんと職務を果たせる奴だから」
俺はその言葉に応えることなく、無言で煙草を一本取り出し、口にくわえる。煙草の残った箱はポケットに入れ、ライターに火をともした。すっと息を吸いながら、煙草にその火を近づける。慣れない煙に少し咳き込んだ。
「……まずい」
「はは、俺もそう思う」
「よくこんなもん吸えるな」
「だよなあ」
けらけらと笑う諸伏は本当にいつも通りで、相変わらず取り繕いの上手い奴だと感心する。―――心配をかけたことくらい、わかっていた。きっと諸伏だけでなく、降谷にも。あいつは誰より職務に忠実だが、根は本当に情に厚い奴だから。
「……諸伏」
「ん?」
「戻ったら、ちゃんと『指揮官』やるから」
「ああ、よろしく頼むよ」
これから俺がお前の補佐やるからよろしくなと笑う諸伏に、そりゃこき使わせてもらおうと笑い返す。すっと真顔になってお手柔らかにと宣った諸伏に、そういえばいつぞやこいつは俺を暴君と呼んだことがあったなと思い出す。その期待には応えてやろう。
「そういや柊木、シャワーの間にスマホ震えてたぞ」
先に行くわ、と喫煙室を出ようとした諸伏が思い出したように言う。
そういえば昨日から一度もスマホを確認してなかったことを思い出し、すっと胸ポケットに手を入れた。
「今の状況について、あいつらには言っても大丈夫。それ以外はダメかな」
そう言った諸伏を見送り、スマホの画面を見た。
案の定というか、メッセージをくれたのはあいつらだった。
『急な出向だって? お疲れ~』
『出向ってどこ行ってんだ? 土産買って来いよ』
『急すぎて驚いたわ 気を付けてな』
萩原、松田、伊達。
数日前に会ったばっかりだってのに、まるでもうずいぶんと会っていないかのように感じられる。どうやら俺は表向きには出向ということになっているらしい。土産と言われても、残念ながら俺がいるのは隣の建物だ。
『出向じゃない 詳細は顔面詐欺ゴリラに聞いてくれ そしてあいつ殴ってくれ』
最早説明もめんどくさくて、全てを降谷に丸投げする。
話してもいいとは言われたが、どこまでセーフなのか俺には匙加減がわからない。それならわかっている奴からちゃんと説明させた方がいい。
ぴろん、とメッセージが返ってきた。相変わらずこいつは誰よりも返信が早い。
『察した 自分で殴れ 鼻骨折ってイケメンを男前にしてやれ』
思わず喉の奥が揺れた。何とも松田らしい。
そうか、イケメンを男前に。最初の拳は読まれていたし、あいつの顔面に一発くれてやるにはさすがの俺も隙を狙わないと難しい。もう一度狙ってみよう。
『ありゃ~ 俺は奥歯もらっちゃうのがおすすめ♡』
さらっと物騒な返信しやがったのは萩原。こいつは地味に怒っている。
前歯じゃないだけ優しいよね、とか言ってるけどどの辺が優しいんだそれは。そしてやっぱり自分で殴れってか、お前ら加勢はしてくれねえのかよと思う。
『そういうことかよ…… あんまり無理するなよ とりあえず夜は寝ろ』
ごめん、もう徹夜したわ。唯一優しい言葉をくれる伊達に内心遠い目をしながら、今後の自分の生活を思うと寒気がした。俺も夜はちゃんと寝たい。作業効率が落ちる。せめて飯は食えよ、と言葉を続けられるが、そういやまともに飯も食ってねえ。この後ちゃんと食べよう。ありがとう伊達、俺の身体の心配してくれんのお前だけだわ。
『また連絡する』
そう一言だけ返して、俺はスマホを再度ポケットにしまい込んだ。
ずっとくわえていた煙草の煙を最後にもう一度すっと吸い込むと、短くなったそれを灰皿に押し付ける。舌に残る煙草の味は苦いし、吸い終わった今でも何となく煙たくて肺と喉に違和感がある。吸い続ければ、いつか慣れる日も来るのだろうか。
まあ、―――これに慣れることがいいことなのかはわからないけれど。そんなことを思いながら、俺は喫煙室を後にした。
*
「答えを聞こうか、新一くん」
部屋に戻ると、さっきよりも部屋の中はどことなく荒れた雰囲気だった。丸一日かけて荒らしたのは俺だが、これは俺がいない間にひと悶着でもあったのか。降谷も赤井さんもまるで表情は変わっていないが、宮野さんだけは眉間にくっきりとしわを寄せている。
新一くんは覚悟を決めた顔で、口を開いた。
「柊木さん、確認させてください。……柊木さんは、もしかしてすでに、俺や俺の周囲を利用する作戦、思いついているんじゃないですか?」
「……そうだね」
「その作戦において、俺や俺の周囲が実際に危険に巻き込まれるのは、柊木さんの策がうまくいかなかった場合の話?」
「まあ、そうだな。ただし積極的に利用はする。胸糞悪い方向でな」
嘘をつく必要もないので、ありのまま答える。俺の思いついた策は、失敗に終われば彼が破滅すると言っていい。身体の安全こそ守ることは出来ても、彼は一生平穏な生活に戻れなくなる。彼も、おそらくは彼の周囲も。それだけのリスクのある策だ。
成功すれば問題ないといえばそうだが、最低のやり方には違いない。自覚している。
「……その作戦が失敗すれば危ないけど、得るものは大きい?」
「ああ。組織壊滅への大きな一歩になる」
部屋にいた全員がぴくりと反応した。別に大袈裟に言ったつもりはない。
何故今まで組織相手にここまで手こずったのか。今までの捜査で欠けていたものは何なのか。組織を壊滅に追いやるために何が必要なのか。そう考えたとき、この策の意義は非常に大きい。
「柊木さん」
彼の瞳は、澄んでいた。
「俺は降りません。利用してください」
「……覚悟があって言ってるね? 言っておくが、倫理と道徳投げ捨てた俺はひとでなしだぞ」
「俺たちを使うことが柊木さんの思う最良の選択なら、それで構いません」
俺は、俺より頭のいい警察官が、作戦を成功させてくれると信じます。
そう言った彼の声に、表情に、瞳に、一切の迷いはなかった。俺は洗ったばかりの髪をくしゃりとかきあげる。
「……何てタチの悪い脅し方だ。脅迫罪でしょっぴいてやりたい」
「え~僕子どもだからわかんな~い」
「クソガキ」
たぶん今日初めて、彼の前で笑みを見せる。苦い笑みだっただろうが、それでも彼は俺に笑い返してくれた。
「必ず成功させる」
「貴方を信じます」
俺はその小さな手と、堅い握手をかわした。