ガラス張りの喫煙室の中で、煙草に火をつける前にスマホを取り出す。俺が連絡を取り合う人なんて限られているので、奴らの名前は常に目に付くところにあった。詳細を説明する気はない。送信したのは、たった一言。
『ごめん 巻き込むかもしれない』
いくら俺に親しい人間が少ないとはいえ友人にまで手を伸ばしてくるかは微妙だが、可能性がないとは言えない。少々危険に巻き込まれたところでどうこうなる奴らじゃないことも知っているが、危険に晒すかもしれない事実は重かった。
喫煙室の壁にとん、と寄りかかったとき、返信が届いた。
『好きにしろよ むしろ庇おうとしたらぶっ飛ばす』
『もともと旭ちゃんに助けられた命だし気にしなくていーよ 健闘を祈る♡』
『彼女は巻き込むなよ 俺のことは気にすんな』
相変わらずの返信の早さと、それぞれらしい返信に苦笑を漏らす。これで、言質をもらったということにしておこう。お前らがいいと言ったんだ、今後何があっても文句は聞かない。そう自分に強がって、俺は煙草に火をつけた。
「……感傷に浸るのはここまでだ」
思考を切り替え、そっと目を閉じる。
失敗は出来ない。失敗はしない。俺だけじゃない、新一くんや、彼の周囲の平穏もかかっている。そして成功すれば組織の壊滅に一気に近づける。新たな潜入捜査官を考える必要もない。
「柊木、時間だよ」
喫煙室に入ってきた諸伏に声をかけられる。その声にぱちりと目を開けた。
俺よりも諸伏の方が緊張した面持ちであることに少し笑う。
「……余裕だな。俺は胃が痛い」
「余裕じゃねえよ。行かなくていいなら本当に行きたくない」
「ああ……まあそうだろうな」
俺の言いたいことをわかっているのだろう、諸伏は遠い目をした。言うなれば「対象」は、トラウマドストライクの年上の美女だ。策を考えたのは俺だけど逃げたい。
「まあ、やるんだけどな」
何だろう、全力で逃げたいのに全力で楽しくなってきた。くつくつと笑う俺を、諸伏が呆れたように見る。
「初めて知ったけど、俺、追い込まれると燃えるのかも」
そんなこと俺たちは警察学校の時から知ってたぞ、とぼやく諸伏の言葉に、俺はもうひとつ噴き出して煙草を灰皿に押し付けた。
*
さて、バーボンからの密告によるとこの辺りのはずなんだが。くるりと周囲を見渡すと、綺麗なブロンドの髪が見えた。
まさか人生初のナンパがこれとは、と苦笑しつつその隣に追い付いて声をかけた。
「あれ、お姉さん、ハリウッド女優のクリス・ヴィンヤードさんによく似てますね。もしかしてご本人?」
「人違いよ」
こういう風に声をかけられるのには慣れているのだろうか、こちらを見もせずにその人はばっさりと切り捨てた。なるほど、ナンパってこうやって断るのか。
「これは失礼、シャロン・ヴィンヤードさんの間違いでしたか」
ひるむことなく言葉を続ければ、彼女は僅かに肩を揺らす。
「それとも、ベルモットとお呼びした方が?」
そこで初めて、彼女は俺に視線を向けた。表情こそ変えていないがその瞳には明確な警戒心と敵意が見え隠れしている。俺はにっこりと微笑んで見せた。
「誘われていただけますか? ふたりきりでお話したいのですが」
「……いいわ」
―――さて、ここからだ。
*
「まずはこの席に座ってくださったことに感謝します、ベルモット」
「御託はいいわ。……随分見晴らしがいいのね、ここ」
彼女を案内したのは近くの大型の公園の四阿だった。緑に囲まれて見晴らしも良く、人が近寄ればすぐにわかる。もちろん民間人も含め、誰も入ってこられないように手配済みだ。
「捜査員が近くにいないことを証明しようと思いまして。貴方の座っている位置は柱の死角でスナイプも無理ですし、こちらなりに貴方の身の安全を保証したまでです」
「でも、盗聴器はあるんでしょう?」
「よくおわかりで。これです」
ことりと身に着けていた盗聴器をテーブルの上に置いた。
あまりにあっさり取り出したことに驚いたのか、ベルモットは何も言わず俺を見据える。それににこりと笑顔を返して、俺は懐に手を入れた。
「……ふうん。それで、私に何の用かしら」
「率直に申し上げますと、こちらに寝返ってほしいんです。ちなみに俺はこういうものです」
取り出して見せたのは、正真正銘俺の警察手帳だ。本名も階級も嘘偽りなく、もちろん手帳の表紙には「警察庁」。もちろん本物ですよ、と微笑みかけると、さすがにベルモットもひとつ瞬きをした。
「……呆れた、本名と所属まで晒すなんて。よほど私を仲間に引き入れる自信があるのかしら」
「貴方が俺の思っている通りの人なら、おそらく」
「ふふ、いいわ、強気なバンビは嫌いじゃなくてよ? 話だけでも聞いてあげる」
誰がバンビだ。内心そう思ったがもちろん顔には出さない。
俺は警察手帳を懐にしまいなおし、改めて口を開いた。
「こちらが求めるのは貴方が持つ限りの組織についての情報、ならびに作戦への協力です。見返りは、貴方の身の安全と今後の生活の保証と言ったところですかね。何かご希望があるようであれば交渉には乗ります」
「……それだけ?」
拍子抜けしたように言うベルモットに、ええ、と笑いかけた。そしてただし、と前置きして鞄からタブレットを取り出す。画面を照らし、ベルモットに向ける。
「この取引に乗って頂けない場合、彼についての情報を公開します」
その画面の人物を見た瞬間、ベルモットの顔色が変わった。
「随分ご執心のようですね? 貴方が陰ながら守っている江戸川コナン、―――いえ、」
工藤新一。その名前を出した瞬間、額に黒く堅いものを押し付けられた。まったく、銃がご法度のこの国でよくもまあこんな物騒なもんを持ち歩いてくれるものだ。
「ポーカーフェイスが崩れていますよ、貴方らしくもない」
「……日本警察も堕ちたものね。民間人を巻き込むなんて」
「自ら危険に飛び込んできたのは彼の方ですよ。今や彼は我々の『協力者』、どんな形で協力してもらおうとこちらの勝手というものです」
公安警察のやり方、少しはご存知でしょう?
そう薄く笑って見せると、彼女は少しだけ眉間のしわを濃くした。やはり、彼女にとって工藤新一は特別な存在らしい。友人の息子と言う以上の何かがあるように思えてならない。そしてそれは、工藤新一に対してだけでない。
「彼の情報が組織に流れれば、真っ先に命を狙われるでしょうね。もちろん彼は『協力者』、その身の安全は全力で守らせていただきますよ? まあ、今まで通りの普通の生活はもう無理でしょうけれど。……ああ、でも貴方の所属する組織は、こういうとき新一くんの周囲ごと抹殺しようとするんでしたっけ?」
たとえば彼の家族。
たとえば「江戸川コナン」に関わったすべての人々。
「たとえば、貴方の大切な『エンジェル』も」
突きつけられた拳銃の先が揺れた。
何故毛利蘭をエンジェルと呼んで守ろうとするのか、詳細は知らない。だが、バーボンにはふたりに手を出さないように釘を刺し、毛利蘭が宮野志保を庇った際にはどけと叫びながら最後まで彼女に銃口は向けなかったと聞いた。
ベルモットは非情な犯罪者だが、それでも確かに彼らに対して何らかの特別な感情を抱いている。それだけは確証があった。
「……警察が民間人を人質に取って犯罪者を脅すとは思わなかったわ」
「秘密主義だと名高い貴方が見せてくれたせっかくの弱みです、利用しない方が失礼でしょう?」
芝居がかったように両手を広げてみせると、彼女は動揺をしまい込んで余裕の笑みを浮かべてみせた。さすが世界的な銀幕のスター、取り繕いが上手いし早い。
「それでも私がこの取引に乗らないと言ったらどうするの? 貴方、本名まで晒して、殺されるわよ。貴方の周囲ごとね」
「生憎と周囲と呼べるような人もいない身の上でしてね。もしこのまま貴方が引き金を引くというのなら殺人の現行犯で逮捕、逃亡しても国際指名手配をかける手筈は整っています。また、この場で貴方が手を下さないというのなら、つまり俺自身が組織の人員をおびき寄せる餌になれるわけですね? 願ったりですよ」
そして俺を殺そうとのこのこやってきた奴らを片っ端から捕まえ、どんな手段を用いてでも情報を吐かせる。仮に情報を持っていなくてもいい、欠片でも組織と関わっているのならどんな末端でも使い道はある。無駄にするなんてそんなもったいないことはしない。
「ちなみに、工藤新一の情報を公にするというのもはったりではありません」
全世界に流すような真似はしませんが、と前置きをして笑顔のまま続けた。
「組織に情報を流すのはもちろんですが、そうですね、世界各国の諜報機関にも流しましょう。肉体の幼児化なんて不老長寿につながる人類の夢だ、それがもたらす利益は計り知れない。多くの国々が幼児化する薬を作った天才的科学者と、その薬を服用したサンプルという切り札をもつ日本警察に協力を持ち掛けてくるでしょう」
だが、ただでこの案件には関わらせてやらない。それまで組織の捜査を行っていればその情報を提供してもらうし、行っていなければそれなりの情報を用意してもらう。そうでなければこの「美味しい話」には乗らせない。
「彼らと言う餌に釣られた各国の諜報機関は連携し、本気になって貴方方の秘密を暴きにかかる」
容赦のない魔女狩りが始まるだろう、組織の構成員の居場所はこの世界のどこにもなくなる。それでも組織は、その秘密主義を守り抜けるだろうか?
「国益が絡んだ『国』は、それはそれは恐ろしいと思いますよ」
国のためという大義名分は、時として人を狂わせる。それこそどんなことも、きっとやってのけるだろう。俺たち公安警察のやり方すら生ぬるく思えるくらいに。
そこまで言って、俺は少し肩の力を抜いた。すっと息を吐いた俺を警戒するように、ベルモットは少しだけ目を細める。
「まあ、出来ればそんなことはしたくないんですけどね」
苦笑してそういうと、ベルモットは鼻で笑った。そりゃそうだ、ここまで言っておいて「やりたくない」とかどの口が、ということだろう。俺もそう思う。
「俺たちの目的はあくまでもこの日本国家の秩序と安寧、そして国益です。だから本来は、宮野志保と工藤新一を確保した時点で貴方に取引なんぞ持ち掛けず、今言ったことをしても良かった。そちらの方が手っ取り早いですしね」
他国との連携は面倒だが、日本が有利に立ち回れるだけの材料は揃っている。組織の幹部に協力を求めるなんてリスキーなこともする必要はなかった。
「ですが、俺の欠片程度の良心が、民間人を生贄にするような真似は避けたいと叫んでましてね。あえて自分の顔と本名を晒して、こうして交渉の場を設けました。あ、ちなみに俺、公安警察におけるこの案件の責任者です」
「良心なんて笑わせるじゃない、単に他国にその薬の利益をわけてやるのが癪なだけでしょう?」
「ああさすがにバレてますか、否定しませんよ」
ははっと笑うと、彼女は撃鉄を起こした。それでも俺は笑顔を保つ。そして少しだけ声色を落とし、ゆっくりと彼女に言った。
「守ってくれませんか?」
笑顔のまま、少しだけ首を傾ける。
脳裏に浮かんだ、俺を信じると言った新一くんの顔。彼女が取引に乗らなければ、俺は今言ったことをそのまま実行する。俺自身の手で、彼と彼の周囲から平穏を奪う。それが、個人よりも国家を優先する俺の職務だ。
良心が痛まないかって? 痛むに決まっている。それでも、やるんだ。
「ひとでなしの俺から、貴方の宝物を。貴方自身の手で、守ってくれませんか」
俺を悪魔と呼ぶなら呼べばいい。
*
ベルモットとの交渉を終え、俺はその足で警察庁に向かった。
部屋に入ってすぐ、金髪を短くそろえた眼鏡の女性に掴みかかられる。ああ、この人がジョディ・スターリング捜査官か。後ろにはアンドレ・キャメル捜査官もいる。まったく最悪なタイミングでの顔合わせだ。
「貴方……っ!」
怒りをにじませたその瞳に、無感情な視線を返す。
そういえば彼女は工藤新一やその周囲と親しいだけでなく、ベルモットとも因縁があったはずだ。確か親の仇だったっけ、冷静でいられないのも無理はないのかもしれない。まあ、俺には関係のないことだ。
「やめたまえ、ジョディ君」
「ジョディ、その手を離せ」
Mr.ブラックが制止し、赤井さんが彼女の手を掴んで離させた。そのまま彼女をその腕で押しのけて下がらせる。
「すまない、柊木くん」
「お気になさらず」
気にした風もなく笑顔を返した。それを見て、赤井さんは何か言いたげに口を開いたが、そのまま口を閉ざした。本当は彼も同じことをやりたいのだろう。
「アンドレ・キャメル捜査官にジョディ・スターリング捜査官ですね。改めて初めまして、柊木旭と申します。今後ともよろしく」
その挨拶に、案の定返事はない。そしてそのままFBI捜査官の前を通り過ぎ、彼らの前に立った。今日彼らを呼ぶように指示したのは俺だ。
「……新一くん」
俺がそう呼ぶと、彼はぴくりと反応し、顔をあげた。彼の後ろには、工藤優作氏も静かな顔をして立っている。
「……さすが柊木さんですね! ベルモットを寝返らせるなんて……これでベルモットから組織の情報をもらえれば、捜査は格段に進みますね!」
いつも通りの顔を取り繕っても、震えるその手は隠せていない。まあ、こういう反応してくるだろうとは思ったけど、やっぱりこの子はクソガキだ。
俺は下手な笑顔を浮かべる彼の脳天に、拳骨を叩き落した。
*
ごっといい音が部屋に響いた。
誰もが驚いた顔で息をのみ、当人は頭を抱えて悶絶している。一応手加減はしたが、それでも相当痛かったと思う。俺の拳も痛い。
「いいか、俺がやったことや言ったことを考えれば本当にお前が言うなって感じだけど、誰も言ってくれないようだから全部棚に上げて俺が言ってやる。物わかりが良すぎんだよクソガキ」
ぷるぷると震えながら、涙目の新一くんが俺を見上げた。
何で拳骨食らったのかまるでわかっていないという顔だ。本当にそう、何でこの子はこうもたやすく危険や恐怖を乗り越えようとするのか。
「俺は確かに君を利用すると言い、君はそれを承諾した。だがその詳細も伝えることなく俺は君を人質に使ったんだ、駒として物として扱った。俺はそれに対して文句を言うなとまで言ったつもりはねえぞ」
「……え」
わかるか、と。そう言ってその瞳をまっすぐに見つめた。
俺はこの案件の責任者だ、だから他の捜査官に文句を言われる筋合いはない。俺が決めたことだから従え、そうでなければもっと良い策を持って来いと言うだけだ。
だが彼は違う。彼は「協力者」であって俺の「部下」じゃない。まして彼は脅されて協力者になったわけでもなく、ただ善意から俺たちに力を貸してくれる「協力者」だ。
俺に使われるにしてもせめて事前に詳細を教えてほしかったと、もっと他の方法はなかったのかと、そう喚いていい立場なのだ。
「たとえどんな状況であろうと、自分や自分の大切な人の平穏を脅かした相手を許すな。それらしい理屈に踊らされて仕方のないことだと諦めるな。弁えることが大人になることじゃない、恐怖を乗り越えることが勇気じゃない」
乗り越えちゃダメな恐怖だって、あるんだ。
俺がそういうと、その大きな瞳から涙がひとつ零れた。
「そんな風に利口ぶってるから俺みたいな奴に利用されるんだ。せっかく出来のいい頭持ってんだ、もっと賢く立ち回れ。状況がどう転んでも自分の守りたいもん守れるように頭使えよ。恐怖を乗り越えて危険に飛び込もうとするな、研ぎ澄ませて危険を回避するくらいしてみせろ」
怖がれ。怖がって、その恐れる展開を避けられるように頭を使え。あえて危険に挑むな、挑むならその勝算を数えて最悪の事態を避けられる手を打ってからにしろ。
自分を、大切なものを、その行く末を、そう簡単に人に預けるな。
「あんたもですよ、工藤先生。何てめえの息子を危険に晒されてすました顔してんだ。まず彼女よりもあんたが俺に掴みかかってくるべきだろ。頭が良かろうが所詮は十七のガキだぞ、自己責任求めるにはまだ早い未成年に、なんて事件に関わらせてんだ。あんたはもっと早く、この事態を避けられたはずじゃねえのかよ」
本当に俺が言うことじゃない。だけど俺の口は止まらなかった。ずっと、言いたかった。
「息子さん、頭は切れるか知らんが少なくとも俺には及ばねえし、まだまだ大人の世界をわかっちゃいない。だから俺みたいなこずるい奴にいいように利用される。……ちゃんと近くで、見守ってやれよ」
せめて、成人して独り立ちするくらいまでは。俺に子供はいないけど、それが親の役割だってことくらい、わかる。少なくとも俺のクソ親父は、そうしてくれたから。
「……柊木くん」
そこで初めて工藤先生は、口を開いた。その声はあくまでも静かで、しかし何かを抑え込んでいるような圧があった。
「今回の作戦を成功させてくれて、心から感謝する。息子を、『世界』から……『君』から守ってくれて、本当にありがとう」
そして、深く頭を下げた。まっすぐで、綺麗で、誠実だった。頭を下げたまま、言葉を続ける。
「この案件の指揮官が、君で、……本当に良かった」
「……今その発言します? 俺が言ってること伝わってますかね」
「伝わっているとも。だからこそだ」
そっと工藤先生は頭を上げて、苦笑を漏らした。そして息子に目線をやる。
「新一」
励ますように、促すように声をかけた。
新一くんは涙にぬれた顔を袖でごしごしと拭き、真っ赤な目で俺を見た。
「……柊木さん、言ってることめちゃくちゃじゃなかったですか? ていうか俺、少し前に貴方を信じますってかっこつけたんですけど」
「まあ、俺も途中から自分が何言ってんのかわかんなくなったよね、ニュアンスで理解して。あの握手の時、もうこの子一回危険に晒してわからせるしかないなとは思ったよ。君を利用しますなんて言ってる相手を何で信じるんだよ馬鹿だろ」
あの雰囲気に流されるなんて君も大概ロマンチストだなと鼻で笑ってやると、新一くんはむ、と頬を膨らませる。真っ赤な頬が大きく膨らんで林檎のようだ。
「二度とこんな大人を信用するんじゃねーぞ」
そう言って、涙で濡れた顔にハンカチを押し付けた。
*
工藤親子とFBI捜査官が部屋を出た後、実は同じくその部屋でじっと話を聞いていたそいつがようやく口を開いた。
「よし柊木お疲れ! トイレ行く? エチケット袋? それともシャワー? あ、ベッドも今空いてるよ」
「何を言ってるんだ諸伏」
は、と声を漏らした風見さんが諸伏を見たとき、ずるりと膝の力が抜けるのを感じた。あ、これ無理だ、久々に来た。倒れ込みそうになったときすぐさま肩を支えてくれた、力強い腕。
「やっぱり限界来たか。よく堪えたよ」
「ふるや……」
「とりあえずソファに横になるか。吐き気は?」
「だいじょうぶ……」
もはや力も入らず、降谷に引きずられるままにソファに転がる。ぐるぐると視界が回り、手足が冷たくなっていくのがわかる。ぶるりと寒気に震えたとき、諸伏がばさりと毛布を掛けてくれた。手が届く位置にペットボトルを置かれる。
「ああ風見さん、話してませんでしたね。完全無欠に見える柊木ですが、唯一の弱点がありまして。何と女性全般アウト。特にベルモットみたいな年上美人は一番苦手。下手に接触するとこうなります」
「……は?」
「まったく、ベルモットとの交渉中もいつ倒れるかとひやひやしてたぞ。さっき掴みかかられたのも実は危なかっただろ」
「おもいださせないでくれ……」
まだ世界が回っている。まだマシになったとは言え、さすがにトラウマ直撃レベルのベルモットは無理だ。むしろ俺はよく堪えた。一応顔には出さなかったつもりだが、隠し通せただろうか。
「……冗談では……ないんですよね……」
「お恥ずかしながら……」
今後ベルモットと接触を持っていくことを考えると真剣に気が重い。でも、あの役は俺にしか務まらない。まだ降谷のことはバラせないし、諸伏のことももちろんだ。風見さんは交渉役には向かない。そして合衆国勢には任せられない。
「そういや、ベルモットが寝返ったことまだキールに伝えないよう念を押しといて……あと降谷もまだ正体バラさないでくれ……出来ることならお前のことは最後まで隠し通したい……」
「了解。わかったからお前は一回休め。……まさか本当に、あの魔女を引き入れるとはな」
油断はできないが、本当に寝返ったなら大きすぎる収穫だ。
そう続けた降谷に、かすかに頷いた。ベルモットは多分、俺たちが知りたいことをほぼすべて知っている。ラムやボスの正体、組織の全体図、もしかしたらボスの目的も。まだ詳細は聞けていないが、約束だけは取り付けた。
脳裏に、彼女との最後の会話が蘇る。盗聴器では拾えない距離でかわされたあの会話は、たぶん誰にも聞こえていない。
その場を去ろうと俺に背を向けたベルモットは、首だけで俺のほうを振り返って言った。自分が裏切るとは思わないのかと。それに対して俺はゆるく首を振る。
彼女は裏切らない。何故なら彼女は、きっと俺と同じだと思うから。
『……これは本当に、俺個人としての勝手な想像ですけど』
闇の中で見つけた光は、眩しかったでしょう?
そう言うと、ベルモットは初めてわかりやすく動揺した。
『貴方は裏切りませんよ。少なくとも、彼らを危険に晒すことはしない』
『……わかったように言うじゃない』
『眩しいものなら俺も知っていますから』
貴方が言う「天使」のように、綺麗な奴らではないけれど。
『そういう存在って、裏切れませんよね』
苦笑してそう言うと、ベルモットは何だか複雑な顔をした後、ひとつ溜息をついて、くるりと俺に背を向けた。
『変な子ね、貴方』
さっきと今と、どちらの顔が本物なのかしら。
その言葉に、くすりと俺は笑う。
『もちろんどちらも、俺ですよ』
また連絡しますね、とそう言った俺の言葉に、彼女は答えなかった。
あの反応はきっと図星だと思っていいだろう。彼女は絶対に、自分が見つけた光を守ろうとする。だから組織ではなく、こちらにつく。
「……眩しいんだよなぁ」
何か言ったかと聞き返した諸伏に何でもないと言って俺は目を閉じた。
瞼の裏に浮かんだのは、底抜けに明るく笑うそれぞれの笑顔。今でも俺の部屋に飾られている、六人で撮ったあの記念写真だった。