今日は解散だと背中を押され、そろって部屋を出る。一言では言えない感情と思考が頭をぐるぐると回った。煙草を吸いたい。
廊下に出た新一は一度立ち止まり、また涙をぬぐった。柊木くんから押し付けられたハンカチには涙のシミが出来ている。
「涙は止まったかい、新一」
「……うっせえ」
からかうように優作が言うと、拗ねたように新一は言った。目は赤くなっていたがもう涙の気配はない。
彼の涙を見るのはこれで二回目だ。そのどちらもトリガーは柊木くんの言葉だ。それだけで、柊木くんの言葉が新一にどれだけ影響を与えているのか察せられる。
新一は唇をきゅっと結んでからジョディを見上げ、改めて口を開いた。
「……ジョディ先生、ありがとう」
「新一……」
「心配してくれたことはわかってます。ジョディ先生だけじゃなくて、皆さんも。……だけど、できればこの件で柊木さんを責めるのはやめてください」
柊木さんの言葉でわかってくれたと思うけど、と前置きして新一は続けた。
「……柊木さんは、何度も忠告してくれた。この件だけじゃなくて、他のことについても、ずっと。それでも、―――公安の仕事や、この事件に協力することの意味を今日まで理解しなかったのは俺なんです。柊木さんに『俺』を使わせてしまったのは、俺だから」
本当はすごく優しい人だから、あの作戦に罪悪感がなかったはずがないのに。それでも職務を全うして、そのくせ俺がちゃんと自分や自分の守りたいものを守れるよう、俺の足りないところや甘いところまで教えてくれた。
そう言った新一は、確かに微笑んでいた。
「……多分こんなこと言ったら柊木さんに『お前馬鹿じゃないのか』ってまた説教食らう気がするけど、やっぱり俺は、……柊木さんに感謝しかない」
言いそうだ、とつい内心で頷いた。何で自分を危険に晒した相手に感謝するんだと、心底呆れた顔をする柊木くんが容易に想像できて少し笑う。
今回の柊木くんの策は、やはり全面的な賛同は出来ない。得るものがどれだけ大きかったとしても、結果的に誰も傷つかなかったとしても、どうしても。だが、決して否定も出来なかった。それが彼の職務であり、俺が思うよりずっと彼は考え、悩み、苦しみ、そのうえであの交渉に挑んだことくらいはわかる。
正しくないとわかっていても、やらなければならないことはある。俺が明美を利用して組織に潜入したのも、そうだった。
「……そうだな。彼の言葉には、私も身につまされたよ」
ぽつりと優作も言葉をもらす。少し目を伏せたその姿には確かな哀愁が感じられる。子どもを守るべき父として、大人として、思うところがあったのだろう。新一が協力者になることを止めなかったのは俺も同じだ。確かに軽率だった。
「……ええ、私も冷静じゃなかったわ。明日、ちゃんと彼に謝罪する」
「自分もです。……失礼な態度をとってしまった」
ジョディとキャメルが言葉を漏らすと、ジェイムズも頷いた。俺たちの中で唯一、ジェイムズだけがあの交渉を最後まで落ち着いて聞いていた。
「彼は彼のやるべきことをやったのだ、相応の信念と覚悟をもって。だからこそ彼は、一言の言い訳も漏らさなかった。そして君たちの態度を責めることもしなかった」
何と批判されようとも、どれだけ責められようとも、やるべきだと思ったから断行したし、かと言ってそれを認められたいとも、正当化したいとも考えなかったから。
長年あらゆる捜査に携わってきたジェイムズの言葉が、重く響く。
「柊木くんの交渉もそうだが、私としては他の公安の捜査官たちも見事だと思ったよ」
降谷くん、諸伏くん、風見くんも同じ部屋で交渉の内容を聞いていた。彼らは俺たちの動揺など気にすることもなく、交渉の流れを聞きつつ周囲を見張る捜査員に指示を出し、必要とあらばベルモット確保のために動員する準備を完璧に整えて。友人として柊木くんを案ずる気持ちもあっただろうに、おくびにも見せなかった。
彼らは柊木くんの覚悟に全力をもって応えているように見えた。その姿勢に、敬意をもたずにはいられない。
「学ぶべき点は多そうだな。我々も、君も」
そうジェイムズが新一に笑いかけると、新一も苦笑して頷いた。
「俺はまだ、協力者なことに変わりないから……俺は俺のできることを考えて、……できることがないならそれはそれで今の俺の力量なんだと納得して、……できることを増やせるように頑張ります」
いつか俺も、俺の頭で考えて、柊木さんや誰かの役に立てるように。ただ利用されるのではなくて、対等な立場で「協力」ができるように。
そう言った新一の瞳には、燃えるような決意が見えた。
「あの彼と対等か。なかなか大きく出たじゃないか、新一」
からかうように言ってやると、新一は楽しそうに笑った。
「目標は高い方が燃えるでしょ?」
「違いない」
子どもがひとつ階段を上る姿を、目の当たりにした気がした。
***
翌日、出会い頭にFBIの捜査官たちに頭を下げられたことにはさすがに面食らった。失礼な態度をとってすまなかったと言われても、別に俺は全く気にしていないし謝罪を求めたつもりもない。というかどういう心境の変化だ。
背後で予想外が過ぎて慌てる俺を笑っている気配がする。諸伏、後で覚えてろ。
「……さてはあのガキなんか言いました?」
「どうかな。当面の新一の目標は君と対等になることだそうだ」
「何で止めないんですか」
目標にするならもっと健全なものがたくさんあるだろう。よりにもよってこんなこずるい大人を引き合いに出すこともない。そう言っても赤井さんはただ唇を歪めるばかり。いや本当に止めてやってほしい。
苦笑したMr.ブラックが、改めて尋ねる。
「それで、ベルモットとの今後の接触については?」
「数日後、直接会う手筈をつけました。さすがにいきなり核心を聞いても答えてくれないかもしれないので、初回はボスやラムのことよりもスナイパーや情報網のことをデータにまとめてきてもらうつもりです」
ふむ、とMr.ブラックは思案するように目線を浮かせる。
何事にも段階というものは必要だ。重要度の高い情報を聞くのは回数を重ねてある程度こちらのことを知ってもらった後の方がいい。距離感が定まらないうちから核心を聞くと、嘘は言わずとも真実を言わない可能性が高い。言葉遊びが上手い相手には特に用心がいる。
「ベルモットから得る情報にもよりますが、その後は組織に対する忠誠心の強いスナイパーを確保する作戦に進もうと思います」
おそらく対象はキャンティとコルンになるだろう。まずは彼らを確実に、捕まえる。
作戦の段取りの大枠は考えてある。あいつらは怒るかもしれないが、お叱りは甘んじて受けるとしよう。何なら拳の少しくらいは受け入れるつもりでいる。と言ってもあいつらはあいつらで俺に甘いところがあるので、メシでも作ってやればそれで手を打ってくれるとも思う。ちょろくて助かる。
「ああ、降谷、ベルモットと会うとき、お前も同席してもらう。予定調整よろしく」
「構わないが……俺のことは最後まで隠したいと言っていなかったか?」
「だから『降谷』じゃなくて『バーボン』で来てくれ」
「!」
察した降谷が驚いたように瞬きをしたあと、にやりと笑った。楽しい悪戯を思いついたような、「降谷」の笑い方だった。
「つまり俺はベルモットと同じように、寝返った人間として動けばいいんだな?」
今後の作戦においてベルモットと降谷に協力してもらわなければならない場合もあるだろう。ベルモットへの信頼を示す意図も含め、バーボンがこちら側の人間であることは早めに伝えておいた方がいい。かと言って、情報のすべてを晒す必要はない。
万が一俺の策が崩れたとき、降谷が逃げのびる可能性をわずかでも上げるためにも、降谷が公安だということは極力漏らしたくなかった。これまでも、これからも、降谷以上に組織に深く潜り込める人間が現れるとは思えない。降谷を失うことだけは絶対に避けなければならないのだ。
「バーボンがこっちに寝返った理由は適当に考えといてくれ。俺も適当に話を合わせる」
「了解」
楽しそうに降谷は笑った。相手がかの大女優でも、嘘と本当を織り交ぜた降谷の言葉なら誤魔化せるだろう。
「言うまでもないことですが、皆さんも特に外で降谷と接するときは今まで以上に細心の注意を払ってください。決して降谷が公安の人間だということが露見しないように」
俺が皆を見まわしてそう言うと、皆はしっかりと頷いた。
そこでさっと赤井さんが手を上げる。
「キールについては?」
ベルモットの寝がえりの話は指示通りまだ伝えていないがと続けられ、少し考える。
俺はまだ彼女に会ったことはないし、その特性もよくわからない。CIAからの潜入捜査官なら相応に優秀だということはわかるが、俺の指示に従ってくれるとも思わないのでむしろその存在はある意味危険だ。
さすがに邪魔をしてくるとまでは思わないが、彼女は彼女の、CIAとしての思惑で動くだろう。いずれ協力を頼むことがあるとしても、今はまだ早い。
「……ええ、ベルモットの寝返りのことはまだ伝えないでください。もちろんバーボンのこともです。他はこれまで通りで構いません。向こうが何か言ってきたら共有をお願いします」
「了解した」
じゃあ後はそれぞれの捜査にと言いかけたところで、先ほど頭を下げてくれた実直な捜査官に声をかけた。
「そういえばキャメル捜査官」
「、はい!」
「確かFBIでも有数のドライビングテクニックの持ち主だと伺いましたが」
「は、そのように自負していますが」
下手な謙遜をしないあたり、逆に有難い。そう思いつつ、俺は満足げに頷いてみせた。なるほど、運転が得意。とても助かる。
「この近辺を中心に、出来る限りの道路情報を頭に入れておいてください。最近は工事も多いです、常に最新の情報を頭に入れておくようにお願いします。いつそのテクニックを発揮してもらうとも限りませんから」
「了解しました」
しっかり頷いてくれたのを確認し、笑顔を返す。
いつというか、すぐに発揮してもらうことになるので是非とも頑張ってほしい。次の作戦は楽しいことになりそうだなあと内心笑いつつ、俺は改めてそれぞれに指示を飛ばした。