事実上、組織が壊滅した。長い、長い戦いだった、らしい。
俺にとっては数か月のことであったが、思うところのある人は多かったようだ。どこから情報が漏れたのか、こっそりとお褒めの言葉や、差し入れを賜ることがあった。それだけ組織に煮え湯を飲まされた人が多かったということなのだろう。有難く受け取りつつ、今日も今日とて事後処理に精を出している。
「いやあ本当、案件の本番は逮捕じゃなくて事後処理だよな」
「わかる。刑事ドラマで描かれない部分が一番きつい」
執務室に響くタイプ音。カタカタカタカタ、そろそろ気が狂いそうだ。
作戦だ交渉だよりは頭を使わなくていいので楽と言えば楽なのだが、如何せん量が多い。俺と諸伏だけでなく、降谷と風見さんも端末を持ち込んで作業をしている。止まることのない四人分のタイプ音はそこそこ精神を削っていた。
「降谷、珍しいな、誤字あるぞ」
「本当か、すまない。すぐ修正する」
「ああ」
誤字にチェックを入れて降谷に送り返す。その様子に、諸伏が苦笑して口を挟んだ。
「柊木って、事務作業強いよなぁ。ミスもないし」
「もともと俺はデスクワークの人間だから。監察官業務だって仕事の八割は書類だぞ。前の上司はそういうミスにやたら厳しい人だったしな」
ふと、脳裏にあのしかめっ面が浮かんだ。監察官の業務そのものはまだ半人前でもいい、だが誰でも防げるミスはするなと最初に俺に言ったあの人はお元気だろうか。なんだかんだといい人であったから、心配してくれているかもしれない。こちらが落ち着いたら顔を見せに行きたいものだ。
「ついでに言うと、心底めんどくさかった仕事をやらずに済んでとても気分がいい」
思わず本音を漏らすと、三人は揃って苦笑した。降谷の苦笑だけ少し苦みが強い。またお前はそういうことを、と言わんばかりの表情だ。
「……手柄を取られたも同然だぞ?」
「手柄と心の平穏どっち取る? 俺は後者だね」
「……ある意味柊木さんらしいというか」
「あ、風見さんもわかってきましたね、そうです柊木は合理主義という名のめんどくさがりです」
笑顔のまま諸伏に追加の仕事を送りつける。それに気づいた諸伏はうわっと悲鳴をあげた。この暴君、と叫ばれるがそれがどうした、暴君相手に喧嘩を売る方が悪い。
一番面倒な他国との交渉という仕事を官房長が担ってくれている。これはある意味案件の責任者の仕事なので、これを官房長に任せるということは官房長がこの案件の最終的な責任を担うということだ。そして案件の手柄というのは、基本的に責任者のものになる。
しかし別に手柄目的でこの案件に飛び込んだわけではない俺としては、はっきり言ってどうでもいいことだった。合衆国のお偉いさん相手に腹芸やるくらいなら手柄のひとつふたつ喜んで捧げるというものだ。
その交渉の結果がどうなるかはまだわからない。捕まえた組織の構成員がどう裁かれるのかも。だがそれも、俺にとってはどうでもいいことだ。
俺はただ、俺の手にあるものが守れればそれでいい。
「だいたいボス逮捕の花形であるMr.ブラックを見てみろ、完全なる気疲れでげっそりしてただろうが」
俺がそう付け加えると、三人は確かに……と揃って遠い目をした。
もちろんFBIのリーダーとして交渉の舞台にも立っている彼は、合衆国に背中を蹴っ飛ばされながら官房長と対峙するという地獄を強いられている。あの海千山千の官房長を相手にするというだけで気の毒なのに、そこに「CIAの暴走」という弱みまであるときた。
CIAの暴走は直接Mr.ブラックに関係しているわけではないが、それでも同じ国に属する組織がやらかした不祥事にかわりはない。官房長のことだからそれも上手く使ってちくちくと彼を苛めていることだろう。本当に気の毒というほかない。
作戦を終えた後、東都に戻ってきたMr.ブラックは、作戦の報告をするよりも先に口を開いた。
『何を言うよりまず、言わせてほしい。……無事でよかった……!』
FBIの面々も、誰一人としてCIAの企みを知らなかった。共謀の可能性も考えなかったわけではないが、その可能性は限りなく低いと判断して思考から消した。俺がミスターの立場なら、間違いなく彼らを巻き込むことはしない。
彼らは彼らの、いや、彼ら「個人」の正義で動く傾向が強いからだ。Mr.ブラックだって基本的には私情を殺して任務にあたる人ではあるけれど、それでもやはり己自身の正義で動く人であるように思う。だから彼らはきっと、俺たちを殺す作戦に賛同などしない。そんな命令には従わない。他の手はないのかと、最後まで訴え続ける。場合によっては己の正義に従って俺たちに警告をし、守ろうさえするだろう。そんな敵か味方かもわからない不確定な駒は、最初から計算に入れない方がいい。俺ならそう考えるし、きっとミスターもそうだろうと踏んだ。
だからこそ俺は、赤井さんを「こちら側の人間」として計算に入れたのだ。
『彼らは彼らの職務を果たし、俺達は俺達の職務を果たしました。それだけのことです』
『柊木くん、』
『実際、かすり傷ひとつありません』
日本警察、舐めてもらっちゃ困ります。
そう言って無事を証明するように両手を開くと、Mr.ブラックは苦笑した。その後ろにいるFBIの面々も、これだからこの人は、と言わんばかりの表情で。
『赤井さんにはいい仕事をして頂きましたし、FBIにどうこうという気持ちはありませんよ。むしろ感謝しています。赤井さん、貴方を信頼して良かった』
『……まさか君の言う信頼がそういう意味だとは思わなかったぞ』
『諸伏曰く、俺の言う信頼は脅迫と同義らしいです』
違いない、と赤井さんはニヒルに口元を歪めた。
あの状況ならこの人は間違いなく降谷を守ってくれると確信していた。たとえ合衆国が降谷を殺そうとしても、絶対に彼はその指示に従わない。何せこの人は
『……もし君の信頼を裏切っていたらと思うとゾッとするな』
『やだなぁそんな』
俺の信頼を裏切っていたら、なんて。
『せいぜい赤井秀一という存在をFBIごと消すくらいですよ』
場の空気が凍った。後ろから諸伏のため息が聞こえる。にこにこと笑いながら冗談ですよと続ければ、そういうことにしておこうと赤井さんはゆるく首を振った。
俺の信頼を裏切るということは、降谷を見捨てるということだ。その時はまあ、俺だってそれなりのことをさせてもらうだろう。
『まあ所詮イフの話です。貴方が降谷を見捨てるはずがないとわかっていましたから。ほら降谷、命を助けてもらったんだ、ちゃんと礼を言え』
『……』
『構わんよ。降谷くんの口から礼なんて聞いた日には地球が終わってしまいそうだ』
そう笑う赤井さんに、ぐぬぬと降谷は歯噛みする。やれやれ、この二人が和解する日は遠そうだと、苦笑した。同じことを考えていたらしいMr.ブラックと目が合い、互いに肩を竦める。
別に仲良くなれとは言わないが、この二人はこの二人でいいライバルになると思うのだが。
『改めて柊木くん、任務は達成したよ』
『ええ。ボスとラムの逮捕、お見事です』
ありがとう、と彼は微笑み、そっと右手を差し出された。その手のひらを見て俺は微笑み、そして。
「……あの時本当に柊木さんは鬼だと思いました」
回想の最中に口を挟んできたのは胃が痛そうな風見さん。いやだなぁ鬼だなんて、もはや今更だろうに。
「俺はナイスだと思った」
「俺は愉快と同情が半々かな」
別に大したことはしていない。差し出された手のひらに、ごっそりと隠し持っていたものを乗せただけだ。とんでもない桁の数字が印刷された、請求書の束を。
『何もう大団円みたいな空気出してるんですか』
大団円は、やっぱり遺恨をなくしてからでしょう?
そういうと、すっとMr.ブラックの頬に冷や汗が伝う。
『いえ、別に違法捜査のことはもういいんですよ、もちろん。書類上貴方がたは正式に捜査協力を依頼したことになってますし、その辺のことを今更ぐちぐち言うようなことはしません。けど、ちょっとはしゃぎすぎましたよね? たくさんものを壊して損害を与えましたよね? それ全部誰が頭下げたと思います? 日本警察なんだな、これが。いや本当に今から頭下げろだなんてそんな一銭にもならないことは言いませんよ。でもね、』
払うものは払って、誠意を見せてもらわないと。
そう続けたあとの彼らの顔は、それはそれは見ものだった。
「鬼だと思いました」
「いやほら、舐められちゃダメだと思って。二度と日本で好き勝手やる気が起きないように、心だけは折っておこうと思って」
「鬼だと思いました」
「……風見さん本当に言うようになりましたね」
失礼しました、と眼鏡のブリッジをあげるその人が欠片も悪いと思ってないことはよくわかる。この人俺に遠慮しなくなったな。いいけど。
「……後から交渉の場で官房長に言われるよりはいいと思うんだけどなぁ」
「ゼロならどっちがマシ? 俺はどっちも嫌だ」
「そりゃあヒロ、どっちも嫌だろ」
「やった俺官房長と同列だ、ちっとも嬉しくねえ」
はははははと三人で笑う。その水面下では仕事の押し付け合いという攻防が繰り広げられたが、まあ俺に勝てるはずもない。降谷はひとつ舌打ちをし、諸伏はまたも顔を引き攣らせた。
「……天敵呼ぶか……?」
「殺すぞ」
降谷の言葉に思わず物騒な言葉が出た。イケメンが壊れてるぞと諸伏に笑われるが余計なお世話だ。
降谷の言う
そう、ベルモットである。
『それで? まずは言い訳から聞こうかしら』
作戦終了から数日後、俺は降谷と諸伏を連れてベルモットに会いに行った。相変わらず例のバーの椅子に座り、ベルモットだけがその手にグラスを持っている。営業時間前なので他に人はいない。
『何の話です?』
『やっぱりNOCだったんじゃないの。それに貴方、スコッチね? リストの写真を見たわよ』
『ああ、そのことですか』
そういえば結局言わないまま作戦に突入したんだった、と笑った。降谷も「降谷」として不敵に笑い、諸伏は誤魔化すように苦笑している。
『嘘はついていませんよ』
『へえ?』
『バーボン、そして安室透は協力者ですが、ここにいるのは俺の同僚である降谷零です。あとスコッチとかいう奴は死んだらしいですが、彼は諸伏景光と言いまして』
『改めて初めまして、安室透でもバーボンでもない降谷零だ』
『どーも、もうスコッチじゃない諸伏景光です』
『……それが通用すると思ってるの?』
にこ、と笑って答えない。ベルモットは忌々しそうに眉をひそめた。まあ細かいことは言わないでもらおう、どちらにしろベルモットにとってはさして関係のないことだ。
『貴方は約束を果たしてくれました。貴方の宝物の身柄は、今後も含めて守り通します。例の薬のデータも宮野志保に渡され、今解毒薬の開発を進めているそうですよ』
そう、とベルモットは小さく呟いた。すぐにとは言わなくても、そう遠くない未来に新一くんは元の身体を取り戻すだろう。そして元通りの、大切な人と共に過ごす平穏な生活に戻るのだ。
『貴方のこれまでの罪も不問とします。好きなように生きればいい。ただし、あくまでも見逃すのはこの国と合衆国における今までの罪についてのみ。その他の国の対処は保証しませんし、どちらにしろ今後貴方が問題行動を起こせば、』
『捕まえるの? この私を?』
不敵に笑う彼女に、俺も笑顔を返した。そんなもの、答えは決まっている。
『捕まえますよ。俺たちの手で、必ず』
俺の後ろで、二人も笑っているのが気配でわかる。ああ、決して逃がしはしないとも。俺たちの国を荒らす輩は、例外なく捕まえるべき敵なのだから。
彼女はふっと微笑み、右手を差し出した。意外だ、彼女がこういうことを求めてくるとは。うわ正直やめて欲しい無理と心底思ったけれど、ここで断るのも無粋というもの。
手の震えをおさえつけ、握手に応える。きゅっと握られただけでも怖気がたったというのに、あれ、引っ張られて、え?
『あ、』
『うわ、』
後ろの二人からそんな声が聞こえたのと同時に、彼女の顔が間近に迫り、口元に柔らかい感触。そう、ちょうど顎の左横、小さな黒子がある辺り。女性ものの香水がかすかに鼻腔をくすぐり、さらりとプラチナブロンドが流れる音が聞こえた。―――え?
『……う、』
視界が揺れる。涙が込み上げ、脚の力が抜けた。胃からものが逆流しようとするのを感じ、必死に口元をおさえつける。背中を支えてくれたのは諸伏だろうか。俺の半歩前で、庇うように立つ降谷の背中が見える。
『あら、本当だったのね、女性恐怖症!』
愉快そうに笑った彼女は、まさしく魔女というに相応しい。今の俺にはこの世のどんな化け物より恐ろしい生き物に見える。
確かに俺の事を少々調べればわかることだが、それをここで持ち出してくるとは思わなかった。
『美人のキスで卒倒なんてとんだバンビね? 可愛いじゃない』
『……ク、ソババア……!』
『あーら言うわね、次は唇にキスが欲しいのかしら?』
『その顔で俺の吐瀉物を受け止めたいと? とんだ悪趣味だな!』
女性に対してこんな口を聞いたのは生まれて初めてかもしれない。だが構わない、この悪趣味なクソババアはたった今俺にとって人生の天敵になった。その罪を不問にすると言った過去の俺を殴ってやりたい。ムショに叩き込んだ方が絶対に世のためで俺のためだ。
『ふふ、唇へのキスは再会の挨拶にとっておくことにするわね』
『ぜったいにもうあわないにほんからでてけくそばばあ』
『柊木、どうどう、口が回ってないぞ』
『……失神しないだけマシになったな、柊木』
諸伏はともかく、本気で感心したように言う降谷、てめーは後で殴る。何でお前はそう、たまに変なところで天然な台詞をかますのだろうか。
涙目の俺をくすくすと笑いながら、美しくも性悪な魔女はするりと背を向ける。
『グッドラック、可愛いバンビたち』
そう言って彼女は、振り向くことなく去って行った。コツコツと品良くヒールの音を響かせて、颯爽と。
その背を見送った俺達はとりあえず。
『……お前らもバンビだってよ』
『嘘だろ……』
『俺は童顔じゃない!』
そんな、彼女との別れだった。できれば本当にもう会いたくないが、何となく彼女の連絡先を消せずにいる。いや本当にもう絶対に会いたくないのだが。
そんな思い出したくもない回想に胃を痛めていると、唐突にノックの音が響く。反射的にはい、と返事をすると、入ってきたのは案件の責任者になったその人だった。
「官房長……!」
ざっと全員が立ち上がり敬礼をする。楽にして、と言われて右手を下ろした。
「一応、この件も片付いてきたから話をしておこうと思ってね。事後処理はどう?」
「進捗で言うなら七割といったところです」
「そう、それなら問題ないかな」
問題ない、その言葉に少しだけ眉をひそめるが、官房長は特に気にした風もなく言葉を続けた。世間話でもするように、声の調子は全く変わらない。
「合衆国との交渉も大筋は合意が得られてね。まあ細かいことは省くけど、日本警察としてはそう悪くない落とし所に落ち着いたと僕は考えています。君がうるさかった協力者たちについても、他国に口を出されることはありません」
「ありがとうございます」
「ただし」
きた、と思わず身構える。約束を反故されるとは思っていないが、何かしらの条件を出されるとは思っていた。下手なことは言えない。少し身構えて官房長を見た。
「そんなに構えないでよ。僕だって鬼じゃありません、そんなにひどいことを要求するつもりはありませんよ」
「……」
「君、結構顔が正直だね。……宮野志保さんには、どこか国立の研究所に所属してもらえるよう伝えといてくれる?」
研究内容は問わないし、別に住み込みで研究しろとも言わないらしい。
条件としては悪くはないが、何せ相手は古狸。一応と思い念を押しておく。
「所属さえすればいいんですね?」
「うん」
「彼女の行動や交友を制限するようなことは?」
「そんなことしたら君たち怒るでしょ」
当たり前だ。俺はもちろん、彼女に対して思うところが多大にあるらしい降谷が決して黙っていないだろう。
そっと降谷に目をやると、目線が交わる。こくりと降谷が頷くのを確認して、俺は官房長に目線を戻した。
「わかりました。そのように」
「よろしく。あとは君たちについてだけど」
ぐるり、と官房長は改めて俺たちを見渡した。
「正式なことはもう少し先になるけど、まあ大きい案件を片付けてくれたからね。それぞれ階級はひとつずつ昇進。降谷くん、君は課長補佐あたりのポストで、前線よりは人を動かす立場に行ってもらうから」
「! はい!」
「風見くんは引き続きゼロとの繋ぎ役」
「はい!」
「諸伏くん、君もサポート側ね。柊木くんの補佐役、評価されていますよ」
「ありがとうございます!」
「それで、柊木くん」
はい、と答えた。何で俺一番最後、と少し首を捻りつつ、腹の底を読ませてくれない狸と向かい合った。
「君の今後についてはね、それは揉めました。頭使える人間はどこも足りてないからね。人気者だよ、君」
「……はあ、光栄です」
「困っちゃったから、とりあえず僕が一番困ってるところに行ってもらうことにしました」
つまり、また異動か。
そう思ったとき、心の中の何かがきしりと音を立てる。―――あれ、なんだ、これ。
官房長はそのままの調子で続けた。
「ちょっと監察官戻って、警視庁の掃除をしてきてくれる?」
「……はい?」
「君がいなくなったあと、また叩けば埃がでる輩が大きい顔をするようになってね。大河内くんたちも頑張ってくれてるんだけど、人手が足りないらしくて」
それも、どんな妨害にも屈せず、あらゆる不正を暴き立てて上層にも平気で喧嘩を売っちゃうような
官房長の言葉に一瞬考えた。もしかしなくてもそれは俺のことなのだろうか。そっと俺以外の三人が視線を外す。お前ら笑いを堪えてるのバレてるからな。
「僕も、警察官の不正には思うところがないわけではなくてね。彼らがいるとやりにくいことがたくさんあるんですよ。だからちょっと片付けをお願いします」
「部屋の掃除のように言わないんで欲しいんですが」
「君にとっては大して変わらないんじゃない?」
この人、俺をなんだと。さらに言い返しそうになるのをぐっと抑えて、はい、と頷いた。どうせ人事に口を出す権利なんか俺にはない。もうなるようになればいい。
「数年である程度綺麗にしてね。またすぐ異動になるかもしれないし」
「……というと?」
「君、目立つし有名になっちゃったから。どこかの人事が動く度に引き抜きを虎視眈々と狙われるよ。公安はもちろんだけど、刑事部とかもね」
なるほど、便利屋と認識されたらしい。内心で遠い目をする。どこの部署に配属されようがベストを尽くすだけだが、なんだろうこの複雑な気持ち。いや、職務はちゃんと果たすけども。
「とりあえず、来月付で戻すから。それまでに後処理片付けてね」
「はい」
来月なら事後処理もぎりぎり何とかなるだろう。改めて敬礼を返すと、官房長はよろしく、と一言だけ置いて去って行った。
一気に執務室の空気が緩み、それぞれ自分の椅子に座り込む。俺の椅子もぎしりと音を立てた。息を吐く。身体の力が抜ける。ああ、俺もう公安じゃなくなるのか。
「……これはとりあえず昇進を喜ぶべき?」
「まあ、そうだな。おめでとう、風見、ヒロも」
「ありがとうございます降谷さん。そちらこそ課長補佐とはおめでたいですね」
「何がいいんだ風見、現場に出られなくなる」
「お前は柊木を見習って人を使うことを覚えろよ。……柊木?」
どこか遠くに聞こえていた三人の会話。諸伏に名前を呼ばれてようやく、現実に引き戻される。
「え?」
大きな感情のうねりが、静かに襲いかかる。頬に、冷たい水が流れるのを感じた。
***
柊木さんの陶器のような頬に、涙が伝った。当の本人はその事実に気づいていないのか、不思議そうな顔をしている。俺たちの視線に気づき頬に手をやって、ようやく自覚したらしい。
気づいた瞬間に何かが溢れ出たのか、顔を歪めて思い切り机を殴った。
「ひ、柊木?」
諸伏の叫びなど聞こえていないかのように、柊木さんはああくそ、と悪態をつき頭を掻きむしる。ちらりと見えたその右手は赤く腫れていた。
「何どうした監察官戻りたくなかったか?」
「うるせえそこはどうでもいいんだよ!」
「落ち着け柊木」
あわあわと諸伏が駆け寄り、思わずと言ったように降谷さんも立ち上がる。俺はどうすることもできず、腰を浮かせたところで固まった。
「俺は、……俺は!」
「柊木?」
自分でも混乱しているらしい柊木さんの口からは、次の言葉が出てこない。言葉を探すように、涙で濡れた瞳が忙しなく動く。
この人がこんな風に取り乱すところは初めて見た。自分に拳銃を向けられた時だって平気な顔をしていたと聞いているのに、いったい何が琴線に触れたというのか。
「……くやしい、んだ」
絞り出した言葉は、あまりにも弱々しい。ひくり、と小さい嗚咽が追いかけてくる。
悔しい、と彼は言うが腑に落ちない。柊木さんは十二分にその職務を果たし、完全な勝利を掴んだはずだ。降谷さんや諸伏も同じことを考えたのか、怪訝な顔をしている。
「……何が悔しいんだ。完全な勝利だっただろう」
戸惑ったように降谷さんが言うと、柊木さんはきっと降谷さんを睨みつける。その勢いにおされたのか、降谷さんは珍しくぎくりと肩を揺らした。
「お前を危険に晒した!」
「……は?」
「お前を囮にした! 他にもたくさん、やっちゃいけないことを、」
「待て待て柊木、」
「俺は!」
お前たちを、完璧に守りたかったんだ!
そう叫んだ柊木さんは、まるで駄々をこねる子どものようだ。
「手段を選ばず完全勝利なんか当たり前なんだよちくしょう! だって何やったっていいし反則とかねえんだからな! 俺は、『手段を選んだ上で』完全勝利に繋げたかったんだ! 俺が俺に許せる方法の中で策を考えて、そんで完璧に勝ちたかったんだよ! 俺ならそれができたはずなんだ!」
―――できなかったけど。
ずび、と鼻を啜りながら彼は傲慢を言葉に乗せる。
「……は、」
思わず、息の音が漏れた。
何を唐突に泣き出したのかと思ったら、全くこの人は。そう続けてしまいそうな言葉を呑み込む。しかし口の端に浮かんだ苦笑までは呑み込めない。
その気持ちはどうやらふたりも同じらしく、俺よりもずっとこの人を知る同期で悪友のふたりも仕方ないなと言いたげな顔で苦笑していた。
「お前、あいっかわらず馬鹿だなぁ」
「ああ、それも特大のな。全く、俺よりずっと傲慢で自信家だ」
「うっせえ実力が伴ってりゃいいんだ!!」
ぐすぐすと涙を流す彼は、―――何と表現したらいいのだろう、本当にただの子どもに見えた。純粋で、傲慢な綺麗事を吐き、俺ならそれができたはずだと本気で悔しがるその様は、ひどく滑稽で人間的だ。
かみさまのように多くを思い通りに転がしてきたこの人の、こんな姿が拝めるとは。
「風見さんまで笑って! ……ああくそ、諸伏!」
「っと」
スーツのポケットを探った柊木さんは、そのまま小さな何かを諸伏の顔目がけて投げつける。すんでのところでキャッチした諸伏は、掴んだ手を開いて呟いた。
「……ライター?」
「それはお前に預ける! いいか、やるんでも返すんでもねえ、『預ける』からな!お前の判断で必要だと思ったら俺に返せ! そしたら、そんときは、」
またぐっと息を飲み込んで、傲慢な子どもは勢いのままに叫んだ。
「そんときは絶対、誰のことも危険に晒さない、無関係なやつを巻き込んだりしない、安心安全で効率の良い、労力を最低限ですます作戦考えてやる! いいか、絶対に誰も傷つけたりしねえし、その可能性だって許さねえ作戦考えてやるからな!!」
高らかで優しい叫びは、執務室に吸い込まれて消えた。ぜいぜいと肩で息をする柊木さんに、堪えきれなくなった降谷さんと諸伏が同時に噴き出す。
「あっお前ら、何を笑って、わ、」
「よーしよしよーし、お前は相変わらず可愛いなぁ。知ってた知ってた、お前しっかりしてるのに一番精神年齢低くて弟気質なんだよなぁ」
「だれが、ぶ、こら、やめ、」
わしゃわしゃと両手で上司の頭を撫でる諸伏。その顔はにやけきっていて、全く、公安らしさの欠片もない。
降谷さんもやれやれという様子で彼の横に立ち、ぽんぽんとその肩を叩いた。
「次も期待してるぞ、指揮官殿」
「何で上からなんだよ、こら、いい加減やめろ諸伏!」
柊木さんは楽しそうに笑う諸伏の手を払い除ける。完全に拗ねた子どもというか、むしろ三人まとめてじゃれ合う小動物のよう。そういえばこの三人は全員歳下なのだと唐突に思い出した。
何だかおかしくなってきた俺は、柊木さんに近づいてハンカチを差し出した。
「ひどい顔してますよ。三歳の子どもよりひどい泣き方だ」
「本当に言うようになりましたね風見さん」
いいけど、と盛大に拗ねてしまった彼は、俺の愛用のハンカチを荒っぽく奪い取る。涙はともかく鼻をかむのは勘弁して頂きたいのだが、聞いてもらえないだろうか。