六花、欠けることなく   作:ふみどり

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▼あったかもしれないif話
▼時系列的には景光くんと再会後、かつ組織壊滅前。柊木さんは監察官
▼原作コミックス86、87巻にありました「啄木鳥」の話をもとにしています。その内容を知っていないとわかりにくい部分がかなりあります
▼オリ主柊木さんのほかにオリジナルキャラが登場します。そのうち一名は名前アリでかなり出張ります。
▼個人的に書きたかったのは前半の事件部分じゃなくて後半なので、事件はふわっと読んでいただけると。
▼解釈については本当に好き勝手書きました。見逃してください。


春を待つ

 珍しい人からの連絡というものは、たいてい面倒ごとである。

 スマホの画面に表示されたその人の名前を見て、俺は思わず眉根を寄せた。

 

 

 *

 

 

 俺にとっては初めての長野という土地、東都とは違う空気の匂いに少し首を傾げた。

 待ち合わせの駅の駐車場に車を停め、外に出てひとつ伸びをする。さすがに長時間の運転は身体が強張った。肩を回しつつ改めて駅へ向かおうとしたとき、背後から見知った声が聞こえた。

 

「よ、柊木」

 

 にっこりといい笑顔で俺を迎えてくれたその人の名前は白樺正樹。警察学校のひとつ年上の先輩で、俺たちの前の代の首席だった優秀な人だ。

 何かと面白がりながら俺たちの面倒を見てくれて……と言えば聞こえはいいが、警察組織における上下関係は絶対である。面倒をみてもらった以上にこき使われた覚えが多大にある。悪い人ではないのだが、多分いい人でもない。

 

「お久しぶりです、先輩」

「よく来てくれたな。本当に車で来たのか」

「新幹線苦手で」

 

 毎日地下鉄で通勤してリハビリをしているとはいえ、長時間女性もいるだろう密室に閉じ込められるのは俺にとって非常に苦痛である。せっかく指定席を取っても、隣や近くの席が女性だったら座ってはいられない。

 俺の女性苦手を知っている先輩は相変わらずか、と面白そうに笑った。そう、俺の深刻な悩みをさらっと見抜いた上に指さして笑うような素敵な性格の先輩なのだ。

 

「結局いつまで長野にいられるんだ?」

「二泊三日のつもりでいます」

「そっか。むしろよく休みもらえたな」

「……上司に恵まれまして」

 

 行くからには得られるものは得てこい、と言った大河内さんは本当に抜け目のない人だと思う。人脈をつくれる機会を捨てるものではない、と会うべき人のリストをその場で渡された。一応有給をとって長野に向かうというのに、どこまでもうちの上司は仕事人間だ。

 

「今日はさすがに疲れたろ。県警に顔出すのは明日にするか?」

「いえ、言うほど時間もありませんし、先輩さえよろしければ今日のうちに」

「お、やる気だな」

「呼び出した本人がよく言いますね」

 

 とびきりの面倒ごとを持ち込んだのはアンタだろうに。

 呆れ顔でそう返すと、先輩は警察学校の時と何ら変わりのない悪戯っぽい笑顔で笑った。ぺしぺしと俺の肩を叩き、朗らかに言う。

 

「頼りにしてるぜ、後輩♡」

 

 この人は降谷や俺のことを色眼鏡で見るようなことはなく、他の先輩が少なからず見せたような嫉妬や羨望の色を示したこともない。ただただにこにこと他の奴らと同じように俺たちを扱い、しごき、世話を焼いてくれた。

 素直な伊達なんかは先輩のそういうところを見て「いい人だな」なんて零していたが、当事者だった俺たちはよくわかっている。この人はただ、先々役に立ってくれそうな後輩に恩を売っていただけなのだということを。

 いい笑顔の先輩に、俺は引きつった笑顔で頷くことしか出来なかった。

 

 

 *

 

 

 ホテルに荷物を置き、仕方なしにスーツに着替えた。オフとはいえ、挨拶まわりをするのに私服では行く勇気はない。

 助手席に乗った先輩のナビに従いながら、長野県警に向かう。

 

「お前の上司抜け目ないな。紹介しようと思ってた人全員リストに載ってるわ」

「そういう人なので」

「とりあえずこの人たちは紹介するよ。あとそれからもう一人、ついでに」

「ついで?」

 

 ああ、と先輩は楽しそうに笑った。出世云々には関係ないけど、と前置きして続ける。

 

「一目でわかったよ。そっくりでな」

「誰がですか」

「会えばわかるって。向こうも挨拶したいって言ってたよ」

「?」

 

 もったいぶった物言いに、少し眉を顰める。まあまあ気にするなと笑う先輩に、はあ、とため息まじりに頷く。

 ところで、と横目で先輩を見た。

 

「本題の方は?」

 

 先輩は笑顔を崩すことなく、しかしほんの少しだけ声のトーンを下げて、挨拶まわりの後でな、と呟いた。

 

 

 

 

 白樺先輩が長野県警に出向してきたのは数ヶ月前だという。所属は刑事部捜査三課、おもに窃盗事件を扱う部署で指揮を執っているらしい。

 

「特に大した仕事はしてないけどな。三課にはベテランが揃ってるし、勝手に成果はあげてくれる。有難いよ」

 

 しれっと先輩は言うが、県警の廊下を歩くだけで方々からお声がかかるところを見ると、相当に上手くやっているのだろう。よく馴染んでいることが見て取れる。

 

「……さすが人心掌握はお手の物ですか」

「人聞きが悪いな柊木。まるで俺が打算で動いているような言い方をするなよ」

 

 打算以外の何でアンタが動くというのか。

 そんな言葉を丁寧にしまい込み、失礼しましたと棒読みを返す。

 先輩の後ろに続いて県警の廊下を歩きつつ、挨拶すべきと言われた人に笑顔と名刺を置いていった。しちめんどくさい作業だが、やれと言われた以上は仕方がない。

 どこかで役に立てばいいけどと思いつつ、ここが最後だと連れてこられたのは捜査一課。特有のぴりりとした空気が肌を刺す。

 

「白樺か」

「すみません黒田捜査一課長。お取り込み中でしたかね?」

 

 構わん、と書類を片手に立っていたのは大柄な隻眼の男性。なるほど、事故の後遺症がどうとは伺っていたがそういうことか。

 

「ちょうどヤマがひとつ片付いたところだ。何かあったか?」

「警察学校の後輩が長野観光に来てまして。どうせならと思って挨拶に連れ回してるんです。柊木」

「職務中に恐れ入ります。警視庁警務部監察官室監察官の柊木と申します」

 

 監察官、というと部屋の空気が一瞬止まった気がした。監察官という立場上珍しいことではないが、どうも過剰反応する人が多い気がしている。穿った見方をしているだけなら良いのだが。

 そんな気持ちを微塵も見せず、俺は笑って名刺を差し出した。

 

「ああ、聞いた覚えがある。若くして監察官に引き抜かれ、警視庁で派手にやっているとか」

「これでも随分大人しくしてるつもりなんですがね」

 

 面白そうに言う黒田捜査一課長に、軽口を返した。それでも彼は、俺を警戒する様子もなければ気を悪くした様子もない。なるほど、外見よりずっと柔らかい方のようだ。

 

「黒田兵衛だ。うちの悪事でも暴きに来たのか、監察官」

「長野県警には長野県警の監察の方がおられるでしょう。本当に観光ですよ、……いえ、観光のつもりだったんですよ、先輩にスーツを持ってこいと言われるまでは」

「せっかく来るならいろんな人を紹介してやろうという先輩の優しさに何という言い草かな、柊木クン」

 

 大変失礼致しました、と目を逸らすと捜査一課長はまた面白そうに笑った。周囲にいた刑事たちにもどこか気の毒そうな苦笑を向けられる。

 

「それに、諸伏警部にも是非挨拶をと」

「諸伏に?」

「白樺管理官、そちらが?」

 

 すっと前に出た、涼やかな眼差しの細身の男性。綺麗に手入れをされた口髭に品を感じる。何よりその顔の造形、見覚えがあった。

 

「ええ。柊木、わかるか?」

「……恐れ入りますが『諸伏景光』という名前に聞き覚えは……?」

「実の弟です」

 

 つまり諸伏のお兄さん。

 驚きに目を見開いた俺に先輩は企みが成功したように笑い、諸伏警部もまた口元に笑みを浮かべた。

 

「改めまして、長野県警捜査一課の諸伏高明と申します。弟とは警察学校の同期で同班と伺いましたが」

「ええ。諸伏にはお世話になりました。本当によく似ておられますね」

 

 そうですかと彼は首をひねるが、その仕草すら諸伏によく似ている。長野県警に兄がいるとは確かに言っていたが、こんなによく似ているとは。わざわざ挨拶をと言ってくれるくらいだ、仲の悪い兄弟ではないのだろう。

 とはいえ、諸伏警部が「今」の諸伏の状況を知っているとは思えない。

 

「……今も、弟とは連絡を?」

 

 ほら、来た。

 おそらくそれを尋ねたかったのだろう、警部の瞳には心配と探りの色が見えた。彼には申し訳ないが、諸伏には諸伏の事情がある。俺がそれを漏らすわけにはいかない。

 

「いえ、それが……警察学校を出て以来、連絡が取れていなくて。諸伏、元気にしていますか?」

 

 俺は知らないけど貴方の方こそ家族なら知っているでしょう、とそんな風に受け取ってもらえるように、少し心配げな笑顔を作る。

 信じてくれたかはわからないが、諸伏警部は少し残念そうに眉尻を下げた。

 

「……実は、警察学校の卒業の直後から私も連絡が取れなくなっています。風の噂で警察を辞めたと聞いたのですが、今もどこで何をしているやら」

「! ……そうだったんですか」

「あれも子供ではありません。どこかで元気にしているだろうとは思うのですが、些か心配でして」

 

 本当ですねと頷くと、彼は何か弟の噂を聞いたらご連絡頂けませんか、と名刺を差し出してきた。有難く交換して、名刺入れにそっとしまう。

 嘘をつくのは心苦しいが、俺が諸伏の邪魔をする訳にはいかない。ほかの同期にも話を聞いてみますと口にすれば、諸伏警部は少し申し訳なさそうにお気遣いなく、と微笑んだ。

 

「失礼、話し込んでしまいましたね」

「いえ、こちらこそ職務中に大変失礼いたしました」

 

 その場はそれで終わったが、気のせいでなければ最後まで諸伏警部の瞳の探る色は消えなかった気がする。余計なことは言わなかったつもりだが、俺はそんなに嘘が下手なのだろうか。

 捜査一課を離れ、先輩について廊下を進んでいく。何の気なしと言った風に先輩は口を開いた。

 

「お前本当に諸伏のこと知らねえの?」

「メール送ったりはしてるんですけどね。一向に返信が来ないんですよ」

 

 エラーにはなってないので届いてはいると思うのですが、と一言付け加える。俺の前を歩く先輩の顔は見えないが、ふーん、といつも通りの返事が聞こえてきた。

 さて、信じてくれたか、どうか。腹芸に関してはどうあがいても先輩の方が上だ。その心の内を読む努力すら放棄し、俺は窓の外に目をやる。長野についたときには真上近くにあった太陽が、少し傾いていた。

 

「……挨拶まわりは終わりですね?先輩」

「ああ」

 

 かちゃりとノックもせずに先輩は扉を開ける。

 小さなその部屋には真ん中にテーブルがひとつ。その上にはいくつかのファイルが乗っていた。

 

「それじゃあ、本題といこうか」

 

 にこやかだったその笑みが、瞬時に消えた。

 

 

 ***

 

 

 本庁の監察官だというその優男。白樺管理官は「観光のついで」と言ったが、どこまで本当なのか。

 気になって聞けば、本庁では上層相手だろうと何であろうと、不正という不正を暴き出している怖いもの知らずなのだと言う。やはり、楽観視すべきではない。

 もし、彼が長野県警の闇を暴きにここまで来たのだとしたら。

 

「……邪魔はさせない」

 

 計画の実行を、早めなくては。

 

 

 ***

 

 

 先輩がひそかに集めたというその証拠の数々。

 軽く振舞うこの人も、一皮むけば俺たちの前の代の首席、しかもすでに多方面から高い評価を得ている非常に優秀な人だ。そんな人が揃えたそれらに、不備などあるはずもなく。

 

「……真っ黒じゃないですか」

「やっぱそうかー」

 

 だよなー、と先輩はあっけらかんと言った。

 感心したくなるほどに資料も報告書も隙が無い。これが公になれば、監察は動かざるを得ないだろう。あまりにも明白な不正の証拠があるのに、それをわざわざ俺に見せた理由は何なのか。おおよそ見当はついた。

 先輩が揃えたこれらは、「不正があったという事実」こそ明確になっているが、「誰が」の部分については決定打に欠けている。組織的に行われた不正であるがゆえに、実行犯が不明瞭だ。

 

「根が深すぎますね。もはや県警全体の不正と言っていいレベルだ」

「そうなんだよな~。もちろん全員じゃないが、これを公にするのを阻止できるレベルのお偉いさんは絡んでるらしい。残念なことに監察にもな」

「つまり、俺は伝令役ですか?」

 

 この証拠を、警察庁あるいは警視庁の、信頼のできる人に流すために。

 とりあえず不正があったという事実さえ明るみに出れば、本格的な監査が入る。誰がどう不正に関わったかは、その調査の中で明確になっていくだろう。

 俺がそう言うと、先輩はにこにこと変わらぬ笑みを浮かべた。明確な返事はなかったが、その笑みは答えを物語っている。

 

「うちの上司は話のわかる人ですし、お偉方にも顔が利きます。動いてくれると思いますよ」

 

 そうか、とその人は一言だけ呟いた。何となくまだ何かあるような気がして、先輩の様子を伺いつつまた資料に目を通す。

 不正の実態、関連する事件の捜査資料。それに関わった警察関係者のリスト。ひとつひとつの情報を繋ぎ合わせながら、見落としがないか頭を働かせた。

 そして気づく、リストにあった警察関係者のひとりに付け加えられた注意書き。加えて捜査資料にあった、不幸にも巻き込まれた一般人の名前。

 

「……先輩」

「ん?」

「この拳銃乱射事件の被害者」

「お前にしては気づくのが遅かったな」

 

 まさか、と先輩の顔を見る。その笑顔に変化はない。

 

「先輩、このやり方は」

「俺はお前に説教されるつもりはねえよ」

 

 笑顔のまま、言い募ろうとした俺の言葉をばっさりと切り捨てる。ぐ、と黙ると、いっそ楽しそうに先輩は口を開いた。

 

「柊木、お前まだアレ言えるか」

「アレ?」

「警察の服務の宣誓」

 

 突然の話題に瞬きをひとつ。

 警察学校に通った者なら、必ず暗記したであろうその心得。促されるままに、俺の口は動いた。

 

「―――私は、日本国憲法及び法律を忠実に擁護し、命令を遵守し、警察職務に優先してその規律に従うべきことを要求する団体又は組織に加入せず、何ものにもとらわれず、何ものをも恐れず、何ものをも憎まず、良心のみに従い、不偏不党且つ公平中正に警察職務の遂行に当ることを固く誓います」

 

 はいよく出来ました、と先輩は笑った。

 そして言う。俺、結構これ大事だと思ってるんだよな、と。

 

「警察官だって人間だ、憎しみをもつなとは言わねえよ」

 

 だが、その感情をもって動こうとしてしまった時点で、俺はそいつを警察官として認めない。

 

「相手が一般人であったなら俺もこんな手段は択ばない。だがそいつは警察官だ。どんな理由があろうとそいつがその道を選ぶなら、俺はとっとと刑務所にぶち込んで頭を冷やさせるべきだと考える」

 

 犯罪に立ち向かう職務に就く以上、警察官は人を守る術を教え込まれる。それは同時に、人を傷つける術を知ってしまうということでもあった。そんな立場だからこそ、犯罪に手を染めることなどあってはならない。罪を犯すという発想すら、持ってはならない。

 

「それを、警察官になったときに俺たちは誓う。だろ?」

 

 先輩がそう言ったとき、スマホの着信音が響く。

 俺に構うことなく電話に出ると、先輩は二、三会話をしてすぐに通話を終えた。そして改めて俺の方を見て、笑う。

 

「柊木、お前はもうホテル帰れ。また改めて連絡する」

「……動いてしまったんですか、そいつ」

「残念なことにな」

 

 全く残念ではなさそうに言った先輩に、言いたいことが腹の底からせりあがってくる。しかし、そのすべてを呑み込んだ。

 先輩のやったことを全肯定は出来ない。しかし全否定も出来ない。そして、現状俺に出来ることは何もない。ならば俺は、せめて最悪の事態に陥らないように祈るだけだ。

 

「……ちゃんと止めてくださいよ」

 

 そう絞り出した俺に、一瞬だけ先輩は申し訳なさそうな顔をした、気がした。しかし、そんな殊勝な顔をするところを見たことがないので気のせいだったのかもしれない。

 

「当然だろ」

 

 そう言った先輩の顔には、やはり迷いは見られなかった。

 

 

 ***

 

 

「例の本庁の監察官、随分長いこと白樺と話してたようだ」

 

 挨拶回りだけが目的なら、会議室にあれほど長く居座る必要はない。しかも、普段から腹の底が読めない白樺が突然連れてきたのだ。そこに何も意味がないとは到底思えない。そして、この長野県警に、監察官を呼ぶ意味があるとすれば。

 

「……あのふたりが話していた会議室にPC端末はない。白樺も持ち込んだのはいくらかの紙の資料だけのようだ。あの監察官も、会議室に入る前は持っていなかった資料ケースを持って出て来たらしい」

「そうか、そりゃあ好都合だ」

 

 その資料を頂くついでに、少しばかり痛い目を見てもらえばいい。

 

「相手は現場も知らねえエリート様だ。それで十分だろうぜ」

 

 まずは、そいつが泊っているというホテルを特定しなければ。

 こういうとき、警察官という肩書は何とも便利なものだ。内ポケットに入っている警察官の証を取り出して、皮肉気に笑った。

 

 

 ***

 

 

 監察官である柊木の存在をちらつかせればきっと動くだろうと思っていた。しかし、こんなに早く動いてくれるとは。

 柊木と別れた俺は、再びその部屋に足を踏み入れる。

 

「……何だ、今度はひとりか、白樺」

 

 たびたび失礼します、と礼をする。

 隻眼の捜査一課長は、何かの捜査資料を片手にデスクで仕事をしていた。最近出向してきたばかりのこの人は、どう考えても例の不正には無関係だ。そして、相手が誰であろうとその言葉に耳を傾けてくれる人だということは知っている。

 そのうえで、口を開いた。

 

「貴方の部下が、罪を犯そうとしているかもしれません」

 

 片方だけの瞳が、鋭く細められた。

 

 

 ***

 

 

 今関わっている強盗事件について重要な証言があったという体で、俺はその人を連れて妻女山に来ていた。

 日も暮れつつあるこの時間、わざわざ山中に入るような馬鹿はいない。誰にも見られずにことを為すには最適な状況だ。

 

「本当なんだろうな油川、ここに強盗犯が潜伏してるってタレコミがあったのは」

「本当ですよ、もう少し先です。それから油川じゃなくて秋山だって言ってるじゃないですか」

 

 細かいことをぐちぐち言うなとぼやかれるが、俺にとっては細かいことではなかった。両親の離婚で姓が「秋山」になったからこそ、俺は「啄木鳥会」の真実を知ることが出来たのだから。

 

「……竹田班長」

「あん?」

「九年前にあった拳銃乱射事件、覚えてます?」

「九年前……?」

 

 突然なんだ、とでも言いたげな表情で班長は記憶を探っている。数秒経ってああ、と思い出した。

 

「あれか、ヤクでラリった野郎が街中で拳銃を乱射した事件」

「ええ。あれって啄木鳥会が流した拳銃ですよね」

「そうだったかもな。それがどうした」

 

 それがどうした、と。

 自分たちが金目当てで売り払った拳銃によって事件が起きたというのに、そんな一言で済ませるのか。良心の呵責というものを欠片も持ち合わせていないというのか。ならばやはり、こうするしかない。

 

「妹です」

「……あ?」

「その事件で命を落としたのは、当時中学生だった、俺の妹です」

 

 懐から取り出したのは、押収物からくすね、これから啄木鳥会が売りさばくはずだった拳銃。それを見た班長がさっと顔色を変える。見せつけるようにゆっくりと、その銃口を班長へと向けた。

 おい、冗談はやめろ、と私腹を肥やし続けた罪人は後ずさる。

 

「冗談だと思いますか?」

 

 艶子、今、仇を取ってやる。

 脳裏に浮かんだのは、額から血を流して地面に横たわる、可愛い妹の姿だった。

 

 

 ***

 

 

 警察手帳をチラつかせて証言を得た。

 あのエリートの優男が泊まってるホテルの部屋。何故かは知らないが、本人はひと気の少ない場所にある静かな部屋を希望したらしい。これは好都合だ。決行は深夜まで待つつもりでいたが、この分ならその必要もあるまい。

 フロントのスタッフに適当な口実を作って奴が泊っている部屋に電話を掛けさせ、部屋にいることを確認させる。

 

「……お部屋におられるようですが」

「こりゃどうも、捜査にご協力感謝します。すいませんね、急に変なこと頼んじまって」

 

 へらりと笑ってフロントを後にする。

 刑事として何年も務めていれば、捜査令状がなくとも人を一般市民を言いくるめて言うことを聞かせることくらい出来る。警察手帳にはそれだけの威力があるのだ。そのうえ甘い汁も吸えるとあっては、これだから警察は辞められない。

 

「三枝さん、部屋わかったぞ」

「そうか」

 

 では行こう、と同班の細身の警部補は言う。

 その手に持つバッグには、押収品からくすねてきたスタンガンが入っていた。

 

 

 ***

 

 

 引き金に指をかけたその時、どこかからその声が聞こえた。

 

「では、現行犯で確保」

 

 はっとしたその瞬間、拳銃を持った腕をひねりあげられる。肩と腕に鈍い痛みが走り、思わず拳銃を取り落とした。ばっと顔を上げると、俺の腕をひねりあげていたのは。

 

「……何で、三課の……!?」

「おうクソガキ、あぶねーことしやがるじゃねえか」

 

 その傍でやれやれと拳銃を拾い上げたのもまた、長野県警捜査三課のベテラン刑事。何故、彼らがここに。

 はっとして声が聞こえた方に顔を向けると、そこにいたのは、やはり。

 

「白樺管理官……!!」

「はいどうも。しかし、俺だけじゃありませんよ」

 

 次々と顔を出す、捜査一課の面々。それぞれ怒りと無念さを露わにした表情を示す中、無表情のその人はすっと前に進み出て、口を開いた。

 

「竹田にも手錠を掛けろ。みっちりと事情聴取をせねばならん」

「黒田捜査一課長……!」

 

 捜査一課長の指示で竹田の腕にも手錠が掛けられる。

 放心していたそいつは、その手錠の重みでようやく我に返ったらしい。逆上して一課長に食って掛かった。

 

「一課長、俺は被害者です!何で俺にまで手錠を……!」

「竹田ァ、いい加減年貢を納めろ、みっともねえ」

 

 口を開こうとした一課長に先じてそう言ったのは、手の中で俺が持っていた拳銃を弄ぶ三課のベテランだった。相変わらずの皮肉気な笑みをたたえながら、その瞳には明確な侮蔑が見える。

 

「何かやってるだろうとは思ってたんだよ、何せ刑事の安月給の割にやけに派手に遊んでたしなァ? しかも大した手柄もねえのにとっとと昇進しちまうと来たもんだ。どうせ繋がってるお上に口でも利いてもらってたんだろ?」

「お前のいる、『啄木鳥会』だったか? もう終わりだぜ、証拠は全部揃ってんだそうだ」

 

 なあ管理官、と俺の腕をひねりあげる刑事は白樺管理官に顔を向けた。そこでようやく管理官はその無表情にいつもの笑顔を乗せる。しかしやはり、目は少しも笑っていなかった。

 

「もう、さんざん甘い汁は吸ったでしょう?」

 

 その報いを受ける時が来ただけですよ、とさらりと宣う。そして、と俺のほうにも顔を向ける。視線が絡んだその瞬間、背筋にぞくりと冷たいものが走った。

 

「どんな理由があろうが、憎しみに負けた貴方に警察官たる資格はありません」

 

 何の感情も含まれていない言葉だった。ただ事実を、淡々と述べるような。俺に、何の興味もないとそれだけでわかるような。何故か、俺は何も言えなかった。その言葉以外の何も、俺の耳には入らなかった。何かが、壊れたような気がした。

 ひどく遠い場所で、連行しろ、という声が聞こえたような気がした。

 

 

 ***

 

 

「いやあすみませんね、身内を張らせるような真似させて」

 

 そう朗らかに言う少し前に来たばかりの若い上司は、どうやら少しも悪いとは思っていなさそうだった。

 全責任は自分がとるから油川―――秋山をマークしてほしいと言われた時には、何を考えているのだろうと思ったが。ケチな泥棒を追いかけるのが仕事の俺たちにまっすぐに頭を下げるその姿勢は、認めてもいいと思った。上層から駒扱いされるのにはとっくに慣れっこの俺たちも、貴方方の力が必要ですなんて言われたら、そりゃあ若造の言うことでも少しは聞いてやるかという気にはなるわけで。

 

「俺たちは上司の命令に従っただけなんでね」

 

 そう言うと、白樺管理官はまた人好きのする笑みを見せた。この笑顔に騙されてはいけないと思いつつも、なんだかんだで三課の刑事は皆、最終的には彼の言うことに従っている。お偉いエリートのくせに、変な奴だ。

 

「そういや管理官、別の奴らの方は大丈夫なんです?」

 

 思い出したように、今回タッグを組んで秋山を張っていたそいつが言う。

 

「管理官の後輩とかいうの、見張らせといたんでしょう?」

「ああ、そっちの方は……っと、ナイスタイミング」

 

 鳴り響いたスマホは、どうやらその後輩くんからのようだった。随分と顔のいい優男だったが、見るからにこの管理官に振り回されているように見えた。警察学校における上下関係が絶対なことを知っているだけに、同情しかない。どうせこの男に会ったときからこき使われているのだろう。気の毒に。

 はい、と笑顔で電話に出た腹黒管理官は、終わったかの一言。電話口からは気の毒な彼の声が漏れ聞こえる。

 

『はいはい終わりましたよ、というか俺が狙われるのも読んでたでしょ。一言くらい心配の声があってもいいと思いません?』

「俺の自慢の後輩ならきっと大丈夫だろうと思って。どうせ傷一つないんだろ?」

 

 そうですけど、と不満げな声が聞こえる。

 柊木さんに何か、と諸伏が口を挟んだ。すると管理官はそれに応えるように通話をスピーカーモードに切り替える。

 

「三枝警部、鹿野警部補両名がホテルに乗り込んで柊木を襲撃したようです」

 

 そう言うと、その場に残っていた捜査一課の連中が息をのむ。あいつら、そこまで腐ってやがったか、と大和が言い捨てた。

 そのまま一課長がスマホに向けて話しかけた。

 

「柊木君、黒田だ。本当に怪我はないのか」

『ああ、黒田一課長、恐れ入ります。ええ、予想はしていましたし、無傷です。ホテルの部屋のドアを開けたところを襲い掛かられましたが、取り押さえました。鹿野警部補がスタンガンを所持しておりましたので、気絶させてどこかに連れ去るつもりだったようです』

「……取り押さえた?」

 

 思わずと言ったように一課長が繰り返す。俺を含めた皆も目を丸くしていた。まるで鍛えているようには見えない優男だったが、歳を重ねたとはいえ現場を走る刑事二人を相手に「取り押さえた」とは。

 それを察したのか、管理官は面白そうに言う。

 

「あいつ細身に見えますが、脱いだらすごいんですよ」

『ちょっと言い方考えてもらえますか、先輩』

「本当のことだろ。投げ飛ばしでもしたのか?」

『投げ飛ばしついでに肘鉄入れて気を失ってもらいました』

 

 さすがだな~と管理官はさらりと言い、後輩君は警察関係者なら自分の身くらい守れて当然でしょうと当たり前のように宣う。なるほど、管理官が便利に使いたくなるくらいには優秀な後輩のようだと苦笑する。何にせよ、怪我がないならそれに越したことはない。

 

『とりあえず俺を見張っててくれた三課の方々に引き渡しましたので』

「ああ、無事でよかったよ」

『よく言いますね、人を餌にしておいて』

 

 秋山巡査部長が動かなかった場合のことも考えて俺という「監察官」を連れまわして喧伝し、啄木鳥会の「誰か」をあぶり出そうとしたんでしょう?

 そう言われても、管理官の笑顔は揺らがない。むしろさらに濃くなった。

 

「そう拗ねるなよ柊木、ちゃんと警護つけといてやっただろ?」

『俺を張ってた三課の皆さん、俺が危なくても手を出すなと厳命されてたって話なんですけど』

「いやあ持つべきものは有能な後輩だよな! じゃ、また聴取でな!」

 

 さっと言い捨て、管理官はぷつっと通話を切った。

 数秒の沈黙が流れた後、大和がアンタなあ、と口火を切った。

 

「啄木鳥会のあぶりだしにしたって、もっと方法があったんじゃねえのか! わざわざ東都から後輩連れてきて危険に晒す必要まであったのか!?」

 

 何より、と勢いのまま大和は管理官に詰め寄る。

 

「確かに秋山のしたことは許されることじゃねえ! だが、監察官を連れまわして今回の犯行を煽ったのはアンタだろ! 罪を犯させる前に秋山を止めることだってできたんじゃねえのか!? なあ、エリートの管理官さんよ、違ェのか!?」

 

 よせ大和、と一課長が大和を制する。

 鼻息の荒い大和を前にしても、管理官は一切の顔色を変えなかった。ただ、いつも通りの口調で言う。

 

「何と思っていただいても結構です。認められたいとも思いません。俺は啄木鳥会に入り押収した拳銃を横流しして私腹を肥やした罪だけでなく、」

 

 警察官でありながらその心に殺意を抱いたという罪を、見逃したくなかっただけです。

 そう言った管理官の声には、言葉に表現できない重みがあったような気がした。

 

 

 ***

 

 

 さんざんな長野旅行だったと、旅行鞄を車に詰め込む。いやもうこれは旅行じゃねえか、と一人ため息をついた。

 

「何だお前、やけに辛気臭い顔してるな」

 

 と、思ったら後ろから聞こえてきた、その元凶の声。心底嫌な顔を作って振り向いた。

 

「……先輩、どうも」

「おう。何だよお前、見送りに来てやった先輩に対してその顔は」

「むしろ何で笑顔で迎えられると思ったんですか」

 

 お陰様でさんざんな長野でしたよ、と恨み言を吐けば、長野に罪はないだろと正論を返された。そうですね罪があるのは貴方です、とそうも言えずに、ハイハイと適当に流した。

 先輩は俺のそんな態度にも構わず、ほい、と紙袋を差し出す。

 

「何です?」

「俺と、三課の人たちと、それに一課の人たちから土産。それぞれおすすめの長野の特産入れてくれたらしいから期待できると思うぞ」

 

 紙袋を覗き込むと、ぎっしりと地元名産であろうお菓子や総菜、お酒が詰め込まれていた。もはや紙袋が破れそうなほどに詰めこまれたそれはさすがに重い。この分だと用意してくれたのはひとりやふたりではないのだろう。有難く受け取りつつお礼を言った。

 

「皆さんにもよろしくお伝えください」

「ああ。……柊木」

「はい?」

 

 改めて顔を上げると、先輩は警察学校時代から変わらない、いつも通りの笑みを浮かべていた。

 

「これに懲りずにせいぜい俺の役に立ってくれよ、後輩♡」

 

 その分、俺もお前らを助けてやるから。

 相変わらずの言葉の裏にそんな意味を感じて、苦笑する。

 本当に、この人は。

 

「……何で警察学校の上下関係って、こんなに面倒なんでしょうね」

 

 次にこき使うのは俺以外の奴でお願いします。

 そう言うと、先輩は声を上げて笑った。

 

 

 *****

 

 

 襲撃のあと県警に向かい、ようやく一通りの聴取がひと段落したとき。やれやれと聴取室を後にすると、諸伏さんが声を掛けてきた。

 

「お疲れさまでした、柊木さん」

「諸伏さん。お疲れ様です」

 

 さすがに眠そうですね、と言われ、隈でも出来ているのだろうかと目元をこする。

 早朝から車を飛ばして長野に入り、そこから県警の挨拶回りを終えて今度は「啄木鳥会」について。そして最終的に闇討ちされかけて撃退し、事情聴取を終えればもう夜が明けている。確かにさすがに寝たい。もともと俺は朝型の人間で徹夜は得意ではないのだ。

 

「ええ、お許しが出たのでホテルに戻って仮眠を取ろうかと」

「そうでしたか。……そのあとは、すぐ東都に?」

「いえ、もう一泊してから帰る予定です」

 

 そのつもりで予定も組んでいる。日程に余裕があるのに体調を万全に整えることもなく長時間運転には挑みたくない。

 俺の言葉を聞き、では、と彼は口を開いた。

 

「今夜、一杯付き合っていただけませんか」

 

 

 *

 

 

 指定された先は、少々お高めに見える個室のある飲み屋だった。飲み屋といっても小料理屋や料亭と言った方が近いかもしれない。諸伏さんがいても何ら違和感のないほど、上品で落ち着いた店だった。

 

「お酒は?」

「では、少し」

 

 日本酒は平気ですか、と聞かれ、大丈夫ですと頷く。

 運ばれてきたのは長野の地酒らしい。どうぞ、と諸伏さんのおちょこに注ぎいれると、貴方も、とお酌を返された。

 

「ここは地元の特産品を使った料理が美味しいんです。これも長野の地酒ですよ」

「そうだったんですか。お気遣いありがとうございます」

 

 はるばる東都から来た俺に気を遣ってくれたのだろう。長野に来てから慌ただしくてろくに観光も出来ていない。せめて近場の名所や美味しいものくらいは食べて帰ろうと思っていたのでその心遣いが嬉しい。

 喉を流れる地酒は爽やかで、飲みなれない俺でも美味しく感じた。料理との相性もとてもいい。これは飲みすぎないように気をつけなければ。旅先で、しかも友人のお兄さんの前で酔いつぶれるような醜態は晒せない。

 

「今回の件はお疲れさまでした。貴方は長野に呼ばれてから詳細を聞かされたと伺いましたが」

「ええ」

 

 事前に聞かされていたのは、長野県警で監査すら巻き込んだ不正が行われている可能性があるということだけだった。可能な限り証拠資料を揃えるから監察官としての意見を聞かせてほしい、そう言われて長野まで来た。

 データでやり取りすればいいのではとも思ったが、先輩は「とにかく来い」の一点張り。思えばその時点でもっと警戒すべきだった。白樺先輩の傍若無人に慣れすぎて違和感すら持たなかった自分が悔しい。

 

「体よく利用された形になりましたね。まさか餌にされるとまでは思っていませんでしたが」

 

 あの人のやることですからもう諦めてますけど、と溜息とともに言うと、諸伏さんは苦笑と共に言った。

 

「白樺管理官は昔からその調子なのですか?」

「ええ。それはもう理不尽に振り回されこき使われ……俺のいた班は特にですね。そのくせ、他の人が俺たちを理不尽に扱うのは許さなかったんですが」

 

 俺たちに向けられた嫌味は先輩が百にして返していた。

 俺たちに向けられた嫉妬は先輩が鼻で笑って切り捨てていた。

 俺たちに向けられた悪意は、俺たちが知らないうちにその芽を摘まれていた。

 否応なしに目立つ立ち位置にいた俺たちを、少なからず守っていてくれたことはわかっている。たとえその理由が「将来的に自分のため」という先輩の言葉通りであったとしても。

 確かに俺たちは、助けられていた。

 

「良い人ではないですが、悪い人でもないんですよ。多分」

 

 多分とつくのが哀しいところ。

 だが、きっとあの人に声を掛けられて動くのは俺だけではない。少なくとも同班だった連中は皆、先輩から声を掛けられたらなんだかんだ言いながらも動くのだろう。まーたあの人か、と諦めてその言葉に従ってしまう程度には、俺たちも手懐けられている。

 諸伏さんは小さく笑い、わかる気がしますと頷いた。

 

「ベテラン揃いの三課の皆さんをまとめあげた手腕は見事と言うほかありません」

「昔っから人を使うのが上手い人なんですよ」

 

 ぽつぽつと世間話を続けながら目の前の皿を空にしていく。

 ときどき美味い、と言葉を漏らすと諸伏さんによる地元の食べ物事情の解説が飛んできたり。地元愛というのもあるのだろうが、もともとが博識な人なのだろう。節々にその広く深い知性が感じられて、ただの世間話でも興味深い。

 物静かな人かと思ったけど結構喋るなこの人、と思ったとき、空のおちょこに気づいた諸伏さんはまた徳利を掲げた。

 

「いかがです?」

「恐縮です」

 

 大丈夫だ、まだいける。自分の酒量を計算しつつ、俺もおちょこを手に取った。

 ゆっくりと酒を注ぎながら、おもむろに諸伏さんが口を開いた。

 

「君に勧む金屈卮

 満酌辞するを須いず

 花発けば風雨多し 

 ―――人生別離足る」

 

 聞き覚えがあった。日本でも非常に有名な、于武陵による漢詩「勧酒」。

 別れをテーマにしたこの詩は、井伏鱒二が現代語訳をしたことでも知られている。むしろ日本では、その現代語訳の方が有名かもしれない。

 つい、諸伏さんに応えるように俺の口をついて出た。

 

「この杯を受けてくれ、

 どうぞなみなみ注がしておくれ。

 花に嵐の例えもあるぞ、

 さよならだけが人生だ」

 

 特に最後の「さよならだけが人生だ」、この文句は一度くらい聞いたことがあるだろう。俺も詳しい方ではないが、多分学校の授業か何かでも聞いたような気がする。今でも諳んじられる程度には気に入っていたのかもしれない。

 

「失礼、ふと思い出しただけなのですが」

 

 少しだけ瞳に寂しさを滲ませた諸伏さんは、苦笑して言った。いえ、と相槌を打つと、少し重い沈黙が流れる。

 この食事が始まってから一度も、諸伏さんの口から諸伏のことは出てこない。何となく諸伏のことを出そうとした雰囲気は何度か感じ取ったが、そのたびに彼は別の話題を口にした。その複雑な胸中は、俺にはわからない。

 もしかしたら彼は、諸伏の状況を察しているのかもしれない。「警察を辞めた」という風の噂、不自然な音信不通、それ以外にもきっと得られる情報はわずかながらにあっただろう。これだけ頭の良い人なら、それらを繋ぎ合わせて「潜入」という答えを導き出してもおかしくはない。それを確かめる術が存在しないということもまた、わかるはずだ。

 仮に俺が諸伏の現状を知っていても、決してそれを口に出来ないということも。

 

「……さよならだけが人生だ、というのは、何とも的を射た訳ですね」

 

 その一言には、いったいどれだけの想いが込められているのだろうか。

 何と返したらいいのかわからなかった俺は、少し黙った後、少し躊躇いつつ口を開いた。

 

「……確か、さよならだけが人生ならばまた来る春は何だろう、と書いた人もいましたよね」

「寺山修司ですね」

 

 さすがは博識、さらりと答えが返ってきた。俺はそういうものに詳しくないので、解釈がどうのと議論することは出来ない。

 だがまあ、詩や言葉というものはそもそも解釈など自由だろう。

 

「……さよなら、という言葉は『左様なら』から来ていると聞いたことがあります」

「そう言われていますね。左様なら、つまり、『そういうことなら』別れましょう、というところでしょうか」

「ええ。『そういうことなら』別れましょう、残念ですね、と言ってるようで、さよならという言葉自体に別れを惜しむ感情が込められていると俺は解釈してます。日本語って面白いなとこれを知った時は思ったんですけど」

 

 浅学を晒しているようで、自分が詳しくない話は正直あまりしたくない。その気持ちを上手く隠せず、何となくしどろもどろな話し方になる。

 しかし諸伏さんは、笑うことなくじっと俺の言葉に耳を傾けてくれた。

 

「……個人的に、この解釈にはもうひとつ言葉を添えたいなと」

「というと?」

「さよなら……『そういうことなら』、残念ですがお別れしましょう。でもきっと、」

 

 いつかまた、再会を。

 そこまで言うと、諸伏さんの手が一瞬止まった。

 

「別れを惜しみ、再会を願う……いえ、もしかしたら、再会を『誓う』。俺はさよならを、そういう言葉だと思ってるんです」

 

 さよならだけが人生かもしれない。別れを積み重ね、それでも生きていくのが人間なのかもしれない。だけどその別れはきっと、辛いだけのものでも、苦しいだけのものでもない。またきっとどこかで出会いましょうと、希望を積み重ねて生きていくのだと。俺はそう思いたい。

 つまり俺が何を言いたいのかと言うと。

 

「さよならしたからって、もう会えないとは限らないでしょう?」

 

 どうか、再会を諦めないで欲しい。

 貴方の弟は、五体満足で生きている。危険を乗り越え、立派に職務を果たしている。今はまだ、貴方にそれを知らせることは出来ないけれど。聡いこの人ならきっと言葉にしなくてもわかってくれると信じて、俺はじっと諸伏さんの瞳を見つめた。

 じっとこちらを見つめていた、猫目がやわく細められる。

 

「……ええ、そうですね」

 

 僕としたことが、少々感傷的になりました。

 彼はそう言って手元のお猪口に口をつける。一息に飲み干し、微笑んだ。

 

「では僕は、また来る春を待つとしましょう」

 

 せめてそう遠くないことを祈りますよと言ったその人の笑い方は、やはり例の同期にそっくりだった。

 

 

 *

 

 

 長野から戻り、その事件がすっかり思い出になったころ。

 珍しく、諸伏から集合のメッセージが飛んできた。しかもどうも飲み会ではなく、もらいものの消費を手伝ってほしいらしい。珍しいこともあるものだといつも通りの五人を迎えてみれば、諸伏の手には何やら大きな箱入りの紙袋。

 

「調理が必要なものか?」

「ああ、湯がかないといけないから鍋貸してくれ」

「湯がく?」

 

 諸伏はやけに嬉しそうに箱をあけて、じゃーんと俺たちに見せた。お、これは。

 

「長野特産高級蕎麦セット六人前!」

 

 おおっと歓声が上がる。特に食に対して貪欲なグラサンと和食が大好きなガングロは子どものように目を輝かせた。いや、これは正直俺も嬉しい。以前長野で食べた信州蕎麦は本当に美味しかった。

 

「えっこれどうしたの、貰い物って」

「ほら、長野に兄がいるって話はしたことあっただろ? 潜入してからはずっと連絡とってなかったんだけど、全部片付いたし久しぶりに電話してみたんだ」

 

 少し恥ずかしそうにしつつも嬉しさを隠せていない諸伏。実を言うと、気を遣わせるだけになるだろうと思って諸伏さんと会ったことは諸伏に話していない。心配していたと伝えたところでどうすることもできない諸伏にとっては負担になるだけだろうと思ったし、その時が来たら諸伏が自分から連絡を取るだろうと思ったからだ。

 きっと諸伏さんも喜んでいるだろう。嬉しそうな顔の諸伏が微笑ましい。

 

「そんで話の中で、久々に蕎麦が食べたいって言ったら送られてきてさ。お前らの話もしたから六人前なんだと思うんだ。だから皆で食おう」

 

 そう満面の笑みで言う諸伏に、よっしゃ湯がくか、と袖をまくった。

 

 

 ***

 

 

 いただきます、といつも通り三十路の集まりとは思えない声が響く柊木の家。続いて「なにこれ美味い」「蕎麦の味が濃い……」「えっ蕎麦ってこんな美味いの?」「このつゆも美味いな……」そんな声がぽんぽんと飛んでくる。そして止まらない景気のいい蕎麦をすする音に、不思議なくらい笑えてきた。

 俺はさっとスマホを取り出しカメラを起動する。そして全員の顔と蕎麦が入るようにスマホを構えた。

 

「はい一旦スマホ見てー。いやちょっとスマホ見ろって言ってるだろ松田。あっコラ隠れるな柊木、ほら、ちゃんと全員入って」

 

 かしゃりと音を立てて、そんな一場面を記録する。相変わらず馬鹿面で、何人かは蕎麦をすする途中のまま。あまりにもいつも通りの俺たちだが、いつも通りだからこれでいい。

 

「何だよいきなり写真撮って」

「そりゃ蕎麦の送り主にちゃんと美味しく頂きましたってお礼言わなきゃだろ?」

 

 メール画面を起動し、写真を添付。そして何か一言―――何がいいだろう。

 ただお礼を言うだけでは、何か違うような気がした。少し考えたとき、ふと幼いころの記憶がよみがえる。そういえば東都に引越しして、ゼロと友達になって、それが嬉しくて兄さんに電話をしたことがあった。

 ああ、そうだ。確かあの時、兄さんにこう言ったんだ。兄さん、覚えてるかな。

 

『高明兄さん 俺、東京で友達ができたよ』

 

 ゼロだけじゃなくて、こんなにも。ずっと俺と一緒に笑ってくれる、友達が。

 

 

 ***

 

 

 スマホがメールの着信を告げる。

 ポケットに手を伸ばして届いたメールを確認すると、最近数年ぶりに連絡をしてきた弟からだった。一言のメッセージと、送った蕎麦を頬張る彼ら。

 思わず少しだけ笑みを漏らして、そっと携帯をしまう。今は勤務中だ、私用のメールの返信は後でゆっくりするとしよう。

 

「……んだよコウメイ、何かあったか?」

「何です? 何もありませんが」

 

 もはや腐れ縁の男は、失礼にも不審そうに私の顔をまじまじと見る。

 

「やけに浮かれてるじゃねえか」

 

 そう指摘され、少々面食らう。浮かれてなどいただろうか。そんなつもりはなかったのだが、改めて表情を引き締め直す。

 

「何でもありません。……が、そうですね」

「あん?」

「管鮑の交わり」

「……あ?」

 

 この数年、弟に何があったのかは知らない。ある程度の予測がつかないこともないが、それは兄として、警察官として、尋ねるべきではないことだ。そして、その予測が正しければこの数年相当に苦労をしただろう弟が、友人に囲まれてあんなにも気の抜けた顔で笑っている。それはきっと、彼らの存在のおかげなのだろう。

 立場も関係のない親しい友人というものは、非常に得難いものだ。それを景光が得ているという事実。それが何よりも、喜ばしい。

 

「……いえ、ひとりごとです」

 

 今度はおやきの詰め合わせでも送ってやるとしようか。

 そう思ったとき、再度スマホがメールの着信を告げる。今度は何だと画面を見ると、先ほどの写真には隠れるようにひっそりと映っていた彼から、ひとことだけ。

 

『春、来たでしょう?』

 

 ええ、来ましたよ。

 待っていた甲斐があったというものです。

 

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