六花、欠けることなく   作:ふみどり

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その鏡が映すもの

「チェスを、ご教授いただけないかなと」

 

 久しぶりに特命係でひとりの時間を楽しんでいた、昼下がり。正午を告げる鐘が鳴ると同時に、彼はひょっこりと顔を出した。その顔は少しばかり恥ずかしげな色があり、人見知りをする子どもが話しかけてきたような微笑ましさを覚える。

 幼いころを知っているとはいえ、彼ももう三十路をすぎた成人男性だというのに。そんな自分に苦笑をしながら、かまいませんよ、と席を勧めた。

 

 

 *

 

 

「今日は神戸さんおやすみですか?」

「ええ、今日は僕だけです」

 

 彼は有給を取っていましてね、とポーンをひとつ進めた。そうなんですか、と生返事をしながらも彼はむっと眉間にしわを寄せる。

 駒の動かし方を知っているだけでゲームをしたことはないという彼だが、なかなか筋のいい駒運びを見せてくれていた。もともと理屈だてて物事を考えられる彼だ、こういったゲームは得意なのだろう。

 ゆっくり考えていいですよ、と僕が言うよりも早く、柊木くんはナイトを動かす。なるほど、やはり筋がいい。

 

「柊木くんは本当にチェスは初めてですか? ずいぶん手慣れているように見えますが」

「チェスは初めてです。あ、でも最近将棋はやってます」

 

 ほう、と相づちをうつと、柊木君は顔をあげて楽しそうに続けた。

 

「最近すごいひとと知り合ったんですよ。ご存じでしょう? 将棋の太閤名人!」

「それはそれは! では彼に指南を?」

「贅沢なことに。忙しいひとなので滅多にないんですが、たまーに一局打ってもらうんです。これでもようやくちょっと褒められるようになったんですよ」

 

 少しだけ自慢げにいう彼が微笑ましい。それは名人に褒められたことの自慢なのか、かのひとと知り合いだという事実への自慢なのか。それとも、―――純粋に新しい友人が出来たことへの自慢だろうか。楽しそうな彼を見て、僕もひとつ頷きを返す。

 

「駒こそ違えど、ゲーム自体はよく似ていますからね。なるほど、君が手慣れているように見えたのはそういうことでしたか」

「といっても、今かなり必死なんですけど。やっぱり勝手も違いますし……あっ」

 

 僕がビショップを動かすと、柊木君はしまったと言わんばかりに声を上げる。にっこりと笑いかけると、その顔が悔しそうにしかめられた。気を抜いているときの彼の表情筋はわりと素直だと言ったのは、彼の同期のなかの誰だったか。

 

「……じゃあ、こう」

「では、こうしましょう」

 

 さらにナイトを動かした彼の手が終わると同時に、こちらのナイトも一手進める。

 うっ、とまた声が漏れた。むむむ、と彼は長考する姿勢にはいる。その眉間のしわを眺めながら、手元に置いておいたティーカップに口をつけた。少しぬるくなってしまった紅茶に、おっと、と立ち上がる。改めて湯を沸かしながら、おかわりはどうですか、と尋ねると、今いいです、と食い気味に返された。その返事にふふ、と笑いながら、ティーポットを温める。

 

「……次の手考えるのにちょっと時間もらってもいいですか、杉下さん」

「かまいませんよ。ごゆっくり」

 

 そう返すと、彼は大きく息をついて椅子に座り直す。五手前が失敗だったかな、と小さくつぶやきながら、虚空のチェス盤をたどっていた。残念ながら悪手だったのはその前だ、と指摘してやるのはこのゲームを終えてからにしておこうか。

 そう思いながら、紅茶の用意を進めていく。

 

「あー……杉下さん」

「ええ、君の分のおかわりも今淹れているところですよ」

「……ありがとうございます」

 

 その恥ずかしそうな顔にまた笑みを返して、それで、と僕は続けた。

 

「何か心境の変化でもあったのですか?」

「……というと?」

「君、わかっていて言っているでしょう」

 

 さらにそう重ねると、少し視線をうろつかせた彼は、諦めたように肩を落とした。

 

「……別に、心境の変化というほどのことでは」

「そうですか? 少し前までの君なら、将棋やチェスを楽しむようにはあまり見えなかったのですがねえ」

 

 目的をもって、覚悟をもって、そして今までの人生のすべてをかけて警察という道を志した彼。それもかなり極端というか、《警察》に必要のないものは極力切り捨ててきたかのような。彼の今までの言動からの予測に過ぎないが、おそらくそう間違ってはいないだろう。

 いつだったか、特殊犯係の彼が笑顔で堂々と言っていたのが思い出される。

 

『旭ちゃん、俺らしかまともに友達いないんで!』

 

 そんな本当のことをと松田刑事は笑い、おまえらなぁと伊達刑事は苦笑した。

 

『いやだから俺たちがいろいろ連れ出してやらなきゃじゃん? 俺聞くだけで泣いちゃったよあのさみしすぎる青春時代』

『あの顔面で生まれたばかりにな……。いや絶対アイツの性格もあるだろうけど』

『友達はほしいけど勉強やトレーニングが最優先って感じで生きてたんだろうしなぁ……誰か止めてやれってんだよ全く』

 

 いや旭ちゃんは止めてもとまんない、と萩原刑事は手を軽く振り、それな、と松田刑事は頷いた。

 

『杉下さんくらいのひとが言わないと止まんなかったんじゃない?』

 

 おやおや、と僕が言うと、ほんとですよ、と萩原刑事は笑った。

 

『あいつ、杉下さんのこと大好きですからね』

 

 その言葉に、僕は何て言葉を返したのだったか。思わず、小さな笑みが漏れる。

 

「……杉下さん?」

「何ですか?」

「いえ、ぼうっとされてたので。もしかしてお疲れでした?」

 

 大丈夫ですよ、と言いながら、彼に新しいカップを差し出した。礼を言ってそれを受け取った彼は、湯気の立つ紅茶にそっと口をつける。そのまま、吐息とともに言葉を落とした。

 

「……ちょっと、最近、身辺が落ち着いたというか、心情的に一区切りつきまして」

「ほう?」

「警察官という職務については、まあそれはそれとして、今後も考え続けるんですけど。……少し、別のものにも目を向けてみたくなって」

 

 ちょっと息をついたら、ずいぶんとまあ、取りこぼしてきたことに気づきまして。

 そういった彼は、何故だかひどく幼い子どものように見えた。幼い子どもが、世界の広さを知ったような顔をしていた。

 

「俺、今までとにかく警察官になることと生きていくことに必要なもの以外は触れてこなかったんですよ。趣味といえる読書も、そもそも知識の吸収と読解力の向上、……あとコミュニケーションの参考にとか……とにかく、そういう理由で始めたものなので」

 

 好きとか嫌いとか、楽しいとか楽しくないとか、そういうことを考えないまま生きてきたのだと、彼は言う。

 

「だから俺、たとえば食事の好みとかないんですよ。栄養バランスさえ整って、食べれる程度にまずくなければいいというか……今までそれで別に不便はなかったんですけど、……もうちょっといろいろ目を向けてもいいんじゃないかって」

 

 とりあえず手近なものから挑戦してみることにしたのだ、と。少し照れくさそうに言う彼は、再会したときよりもずいぶんと肩の力が抜けたようだ。しばらく前の《出向》を際に雰囲気が変わったような気はしていたが、理由は尋ねまい。どんな理由であろうと、ようやく彼が彼自身のために生きることを考え始めたのだ。それは彼にとって、ひどく喜ばしいことであるように思う。

 ひとつ頷いて、改めて彼に問うた。

 

「まだゲームの途中ですが、どうですか? チェスは」

 

 君にとって好ましいものになりそうですか、と尋ねると、彼は笑って大きく頷く。

 

「将棋もそうですが、頭を使うゲームは好きみたいです。良さそうな手を見つけられたらうれしいですし」

「それは何よりです」

 

 好ましいものと、そうではないもの。楽しいと感じるものと、そうでないもの。そして、大切だと思うこと、そうでないこと。人生を歩んでいれば、おのずとそういうものを見つけ、他者と比較し、《自分》を見つけていく。自分が出逢うものすべて、そこから得た経験や感情は、自己を映し出す鏡のようなものだ。

 ひとつの目的のみを見つめ、脇目もふらずに人生を走ってきた彼は、今まさにようやく、《鏡》に触れて自己を見つめようとしている。

 

「……チェスや将棋のほかにも、何か始めるご予定が?」

「うーん、まあ、いろいろ考えてはいるんですけど。……何がいいかなと思って同期たちに話してみたら、そりゃもうろくでもない案ばかり出されまして」

 

 爆弾処理とか……と小声で柊木君が零したのを聞き、僕としたことが思わず笑いそうになったので、咳き込んだふりをしてごまかした。それを言ったのは松田刑事か、それとも萩原刑事か。ある意味いざというときに役立つ技術ではあるのだが、せめて機械いじりくらいの言い方は出来なかったものか。

 

「とりあえずまだましな案だったお菓子作りを、次にやってみようかと。仲間内にそういうのが得意なやつがいるので、今度ケーキの作り方を教わることになりました」

「嗚呼、それはいいですね。……では、柊木君」

 

 次に特命係に来たときには、紅茶の入れ方を教えてあげましょうか。

 え、とひとつ瞬きをした彼に、小さく笑いかける。

 

「手作りのケーキに、紅茶を添えてみるのはどうでしょう。紅茶も茶葉の種類から入れ方、もちろん茶器も含めて非常に奥が深いものです。試しに嗜んでみるのも、面白いかもしれませんよ」

 

 ぱあっと顔を輝かせた彼は、是非、と明るく声を上げた。僕もひとつ頷き、しかしその前にチェスですね、と言葉を付け加えると、柊木君はにやりと笑って自陣のポーンを手に取る。

 

「これでどうです?」

「……おや、」

 

 良い手ですね、と思わず零すと、また彼は自慢げに笑う。しかし、と僕はひとつ指を振って、駒を手に取った。

 

「まだ、詰めが甘い」

 

 チェック、と駒を進めると、あっと声をあげた柊木君は、拗ねたように口元を歪める。

 杉下さんに勝つまではチェスにハマりそうです、と悔しげに呟いた彼に、思わず吹き出した。

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